第19話 共に描く未来、って具体的に言えたら
冬休み明けの教室は、暖房の匂いと、濡れた上着の匂いが混ざっていた。窓の外では体育館の屋根に残った雪が、日差しでゆっくり溶けている。
芽依の机の上には、進路希望調査票が一枚。四角い枠がいくつも並んでいて、見れば見るほど、空白が増えていく気がした。
「まだ白いまま?」
斜め後ろから覗き込んだ菜稀が、鉛筆の先で空欄の端をちょんと突いた。
芽依は慌てて紙を押さえる。押さえたところで、白いのは隠れない。
「……書く。あとで」
「あとで、って言った人から消えるやつ」
「消えない」
「じゃあ今。三文字でもいい」
菜稀はそう言って、芽依の消しゴムを勝手に引っくり返し、角を整えた。机の上だけ整える癖を、先に潰してくる。
前の席の凜太郎は、椅子を少しだけ引いて、調査票を二枚並べていた。自分のと、部の会計ノートを開いたままのやつ。ノートの端には、文化祭の部誌の「帯」の原稿が挟まっている。折れ目ひとつない。
凜太郎はペンで数字を書き込み、数えて、また書く。途中で止まらない。止まらないのに、顔色だけが少し薄い。
「凜太郎、また寝てないでしょ」
菜稀が小声で言うと、凜太郎は頷かずに、ノートの端を揃え直した。
「寝た。四時間」
「それは寝てない」
「寝た、の範囲」
芽依が思わず口を挟むと、凜太郎はようやく目を上げ、短く息を吐いた。
「芽依は?」
「……書く」
「書く、の範囲?」
「いま……」
芽依はペンを持ち直した。進路希望欄の上に、手が止まる。書いたら、引き返せなくなる気がする。でも、書かないと、ずっと同じ場所に立ったままだ。
教室の前方では担任が、「面談は来週から」と言っている。来週、という言葉が、芽依の胸の中で妙に重くなる。
昼休み、芽依は調査票を教科書の間に挟んで図書室に逃げかけた。ところが廊下の角で、拳悟が壁に背中をつけたまま、手ぶらで立っていた。
「拳悟、なんでそこで固まってるの」
「面談の順番表、貼られてたから……見なかったことにしようかなって」
「見なかったことにしたら、順番は消えないよ」
芽依が言うと、拳悟は笑って誤魔化すように肩をすくめた。
「まあまあ。未来はそのうち来るっしょ」
「そのうち、じゃなくて今日」
凜太郎の声が、後ろから落ちた。振り返ると、凜太郎は進路資料のファイルを抱えている。紙の角が揃っていて、重そうだった。
凜太郎は拳悟の前に立ち、ファイルの一番上を一枚だけ抜き取って差し出した。
「これだけ読む。五分」
「五分……」
「五分なら逃げない」
凜太郎の言い方が、去年の芽依に向けた言い方と同じで、芽依は喉の奥が熱くなった。凜太郎は、誰に対しても同じ場所まで手を伸ばす。自分の分を後ろに回してでも。
放課後、芽依は調査票を握りしめたまま、校舎裏へ回った。ベンチは冬の雨でまだ少し湿っている。凜太郎がいつものようにマフラーを外し、座面に敷いた。慣れた手つきで、端をきちんと揃える。
芽依はその端を見つめて、言うべき言葉を喉の上まで運んだ。運んで、飲み込みそうになって、飲み込まなかった。
「凜太郎」
呼ぶと、凜太郎は顔を上げる。逃げ道を作らない目だ。
芽依は調査票をひらいて見せた。進路希望欄は、まだ白い。でも、ペン先が紙に触れる距離まで近い。
「私、空欄にするところだった」
「うん」
「……でも、やめる」
芽依は息を吸い、吐いて、胸の奥の言葉をそのまま出した。
「私、あなたと一緒に歩く道を選びたい。『いつか』じゃなくて」
凜太郎の指が、マフラーの端を押さえたまま止まった。止まって、それから、ゆっくりと手を離す。
「一緒に、って……」
芽依は頷いた。頷いた拍子に、頬が熱くなって、視線が落ちる。はにかむ癖が勝ちそうになる。
けれど今日は落としっぱなしにしない。芽依はもう一度、凜太郎の目を見た。
凜太郎は小さく笑った。笑い方は控えめなのに、芽依の胸の中で音が鳴る。
「じゃあ、共に描く未来を、紙に書こう」
凜太郎はポケットから、文化祭のときに使った小さなメモ帳を出した。表紙の角に、帯の切れ端がまだ貼ってある。芽依が書いた短い言葉の紙。
凜太郎はそれを剥がさずに、次のページを開いた。
「具体的に、ってやつ?」
芽依が聞くと、凜太郎は頷いた。
「日付と、行動。俺、そこがないと……勝手に背負う」
凜太郎は言い切って、芽依の方へペンを差し出した。『助けて』の代わりの、静かな動きだった。
芽依はペンを受け取り、メモに一行目を書いた。
「一月中に、面談で言う言葉を決める」
凜太郎が続けて書く。
「奨学金の資料、今週取り寄せる」
芽依はもう一つ書く。手が震えない。
「土曜、駅前の喫茶店で、資料を一緒に読む」
凜太郎が短く頷き、ページの端に小さく丸をつけた。丸は、檻じゃなくて柵だと、芽依はもう知っている。
「……凜太郎、家のこと、聞いていい?」
芽依が言うと、凜太郎は少しだけ視線をずらした。ずらして、すぐ戻した。
「父さんが、残業減った。だから……学費は、厳しいかもしれない」
言い終わったあと、凜太郎は自分で自分の肩を軽く叩くように、マフラーの端をまた整えた。整えないと、何かが崩れそうな手つき。
芽依は反射で「ごめん」と言いそうになって、飲み込んだ。謝っても、凜太郎の財布は増えない。
代わりに、芽依はメモの四行目に、もう一つ書いた。
「芽依は、凜太郎に『助けて』と言わせる練習をする」
書いてから、芽依は自分の字を見て、吹き出しそうになった。真面目な紙に、妙に変な決意だ。
凜太郎も、目を細めた。
「それ、誰が採点する」
「私。……あと、菜稀が笑いながら採点する」
「うん。菜稀、厳しい」
短い会話なのに、肩の重みが少しだけほどける。
そのとき、校舎裏の道の向こうから、拳悟の声が飛んできた。
「おーい! 面談、俺、来週だった! 見なかったことにしても消えなかった!」
「当たり前!」と菜稀の声が追いかけてくる。
芽依は笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。笑ったまま、逃げたくない。
「凜太郎」
「うん」
芽依は調査票を開き、進路希望欄の一つ目に、ゆっくり文字を書いた。消せないように、丁寧に。
凜太郎は隣で、何も言わずに見ていた。急かさない。横にいる。
書き終えたとき、芽依の胸の中の空白が、一つだけ埋まった。
帰り道、空は早く暗くなっていた。駅へ向かう商店街の灯りが、点々と並ぶ。
芽依はポケットの中でメモ帳を握りしめる。紙の角が、指先に当たって痛い。痛いのに、嬉しい。
「明日、忘れない?」
芽依が聞くと、凜太郎はメモ帳を指で軽く叩いた。
「忘れない。書いたから」
「……私も。書いたから」
芽依ははにかみそうになって、視線を落とした。けれど落とした先に、二人の足が同じ速さで進んでいるのが見えた。
空白を埋めるのは、明日じゃない。
今日の一行だ。




