第18話 答案用紙の裏、書けない一行
十二月の冷たい雨が窓を細く叩いていた。芽依は机の上に、色ペンで塗り分けた「期末テスト計画表」を広げている。月曜は英語、火曜は数学――と、矢印が綺麗に並んでいるのに、肝心の教科書は閉じたままだった。
芽依はペンを置き、代わりに筆箱を開けた。芯の短いシャーペンを並べ直し、消しゴムの角を立てる。机の上だけが、どんどん“勉強している人”に近づいていく。
スマホが震えた。菜稀からのメッセージが一行だけ届く。
「今日、放課後、図書室。逃げるな」
芽依は「了解」と打ちかけて、指が止まった。昨日、凜太郎の袖をつまんで言ったのに――“逃げない”。自分で書いた約束の文字が、急に重い。
結局、芽依は「行く」とだけ送った。短くても、嘘じゃないほうがいい。
放課後の図書室は、暖房の匂いと古い紙の匂いが混ざっていた。返却台の前で、凜太郎がプリントを揃えている。端が一枚ずつ綺麗にそろい、逆さの表紙もない。
芽依が近づくと、凜太郎は顔を上げ、いつもより少しだけ早く視線を戻した。
「来た」
「……来た」
同じ言葉なのに、芽依のほうだけ小さく震える。
菜稀が遅れて入ってきて、芽依の肩をぱん、と叩いた。
「よし。座れ。芽依は英語の長文を先にやれ。先に泣くな」
「泣かないし」
言い返しながら芽依が椅子を引くと、凜太郎が芽依の前に薄い束を置いた。コピー用紙が三枚分、ホチキスで留めてある。
「なに、これ」
「芽依の弱いところ。前の小テスト、間違えたやつだけ」
凜太郎はさらっと言って、ペン先で丸をつけた箇所を指した。小さな丸が、逃げ道をふさいでいるみたいにきっちり並ぶ。
芽依は喉の奥が熱くなって、視線を落とした。落とした先のプリントには、芽依の字じゃないのに、芽依の癖が書かれている。
(ここ、単語を見て安心して、本文を読まない)
(ここ、最後の一文で焦って主語を落とす)
「……ごめん、頼ってばっか」
芽依が先に言うと、凜太郎はプリントの角を指で押さえた。押さえ方が強くないのに、ずれない。
「頼るのはいい。置いていくのが嫌」
芽依は息を吸った。胸に入った空気が、すぐ熱くなる。
「置いていく……って、私が?」
「芽依が、テスト前にいなくなる。机だけ綺麗にして」
凜太郎は責める声じゃない。事実を、まっすぐ置くだけの声だ。芽依は反射で笑おうとして、笑えなかった。
菜稀が横から顔を出す。
「ほら言われた。机だけ綺麗は卒業しろ」
「菜稀、なんでそれ知って……」
「芽依の机、文化祭のときも綺麗だったから」
「やめて」
芽依が耳まで赤くなると、凜太郎が小さく咳払いをして、ペンを渡してきた。
「今日、ここだけ埋めよう。三問でいい」
「三問……」
「三問なら、逃げない」
芽依はペンを受け取り、プリントに最初の丸をつけた。つけた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。丸は、檻じゃなくて柵だ。飛び出さないための。
夕方になり、図書室の外が青く沈んできたころ、拳悟が息を切らして入ってきた。手ぶらで。
「ごめん、教科書忘れた」
「忘れるな」
菜稀が即答すると、拳悟は「まあまあ」と笑って、芽依のプリントを覗き込んだ。
「お、芽依、今日めっちゃ埋まってる。……逆に怖い」
「怖いって言うな」
「だって芽依、白いの守護神だもん」
「守ってない。白いのに負けてる」
芽依がむっとすると、凜太郎が拳悟にもう一枚プリントを差し出した。
「拳悟はこれ。持ち物の確認表」
「それは勉強じゃないじゃん」
「必要」
凜太郎の一言で、拳悟は「はい」と素直に受け取った。受け取ってから、プリントの上にペンを置き、すぐにぼんやり窓の外を見た。
芽依はその横顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。凜太郎が、誰の分も作ってしまう理由が見える気がする。必要なものを、先に揃えてしまう癖。
帰り道、雨は雪に変わりそうな細かさになっていた。校舎裏のベンチは濡れていて、凜太郎は自分のマフラーを外し、座面にふわりと敷いた。
「座る?」
「……いいの?」
「濡れるよりは」
芽依がそっと座ると、マフラーの端がふくらんで、少しだけ凜太郎の匂いがした。洗剤と、紙の匂い。芽依は息を飲んで、目線を正面に固定した。顔を上げたら、ばれそうだった。
「今日、助かった」
凜太郎が言った。
「え、私が?」
「芽依が来たから。……俺、作りすぎる」
凜太郎は言い切る前に、息を吐いた。白い息が暗い空に溶ける。
「自分の分の勉強、後回しにしてた」
芽依は胸がきゅっとなった。凜太郎の“後回し”は、芽依の“後回し”と違う。芽依は逃げるために後回しにする。凜太郎は誰かを先にするために後回しにする。
「ごめん」
芽依はまた先に言いそうになって、唇を噛んだ。今日は、“先に謝る”じゃなくて――。
「……私、言う。次から、頼るとき、ちゃんと頼る。あと、私も、凜太郎の分、返す」
凜太郎は、芽依の言葉を途中で切らないで聞いた。それから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「返すって、何を」
「うー……えっと……」
芽依はポケットの中を探り、テスト対策用の小さなメモ帳を取り出した。そこには、今日やるはずだったのにやっていない計画の空白が残っている。
芽依はメモ帳を開き、白いページを見つめた。白いのは、逃げ道じゃない。書く場所だ。そう思っても、ペン先が震える。
芽依は、ふと、今日返された小テストの答案用紙を思い出した。裏が白い。そこに書ける。書けるはずだ。
けれど芽依が思い浮かべた一行は、勉強のことじゃなかった。
(凜太郎の隣が、落ち着く)
(もっと、一緒にいたい)
(友達以上……って、もう嫌だ)
どれも、答案用紙の裏に書いたら、消しゴムで消しても跡が残りそうな言葉だった。
「……何、書こうとしてる?」
凜太郎の声が近い。芽依は慌ててメモ帳を閉じた。
「え、な、なんでもない。英単語! 英単語の……」
「それ、メモ帳」
「……うん」
凜太郎が笑いそうになって、笑い切れずに口元を押さえた。短い笑いが漏れる。
芽依はその笑いに救われて、でも同時に悔しくて、足先で地面を軽く蹴った。水たまりが小さく跳ねる。
芽依はもう一度メモ帳を開き、白いページの端に、たった一行だけ書いた。
「明日も、図書室に行く」
凜太郎がそれを見て、頷いた。
「うん。待ってる」
「待ってる、じゃなくて……一緒に、勉強しよう」
芽依が言うと、凜太郎の目が少しだけ丸くなった。それから、いつものように短く頷く。
「一緒に」
芽依ははにかみそうになって、視線を落とした。落とした先で、凜太郎の指がマフラーの端を整えている。端が揃うと、明日も来られる気がした。
答案用紙の裏に書けない一行は、まだ胸の中に残っている。
でも今日の一行は、確かに書けた。




