第20話 はにかむ告白、二月のベンチ
二月の終わり。放課後の校舎は、卒業式の準備でいつもより声が多かった。廊下の壁には白い紙の花が並び、ガムテープの切れ端が床に落ちている。
「芽依、テープ! そっち、裏返ってる!」
菜稀が脚立の上で叫ぶ。芽依は反射で「はい!」と返事をして、テープの端を整えた。整えて、貼って、もう一度角を撫でる。綺麗に貼れたことに満足しそうになって、芽依は自分の手を止めた。
(机だけ綺麗、の次は、壁だけ綺麗……じゃない)
今日、やる。今日、言う。胸の奥で、去年の二文字が鳴る。
廊下の先、窓の外に校舎裏のベンチが見えた。凜太郎がそこにいるのを、芽依は知っている。放課後の時間がずれる日でも、あのベンチだけは、いつも同じ場所にある。
「菜稀、私、ちょっと……」
「行け。逃げるな。戻ってこい」
菜稀は脚立の上から親指を立てた。言い方は乱暴なのに、背中を押す力がちゃんとある。
芽依は階段を下り、校舎裏へ回った。冬の空気が頬を切り、息が白くなる。ベンチは乾いている。凜太郎はいつものように先に座っていて、マフラーを座面に敷き、端をぴしっと揃えていた。横に、メモ帳とボールペンが置かれている。
「来た」
凜太郎が言う。
「……来た」
芽依も同じ言葉を返す。今日は震えなかった。震えない代わりに、胸の中で心臓が跳ねている。
芽依はポケットから、折り目のついた紙を一枚出した。模試の答案用紙。表は採点済みで赤い丸が並び、裏は真っ白だ。
「それ、捨てないの?」
「捨てる前に、使う」
芽依は裏側を凜太郎に向けた。そこに、小さな字で短い言葉が書いてある。
『友達以上 恋人未満 卒業』
凜太郎の視線が止まる。止まって、それから芽依の顔に戻る。芽依は頬が熱くなって、いつもの癖で視線を落としそうになった。落としてしまえば楽だ。けれど今日は、落としたままにしない。
「……私さ」
芽依は息を吸い、笑ってしまいそうになる口を押さえた。笑うと、逃げたみたいになる。
「友達以上 恋人未満、もうやめたい」
言い終えた瞬間、芽依の頬が勝手に緩んで、はにかむ。恥ずかしくて、でも、言えたことが嬉しくて。目の奥がじんと熱い。
凜太郎は答案用紙を受け取り、端を揃えるみたいに指でなぞった。いつもの癖のはずなのに、今日はそれが落ち着きの呼吸みたいに見えた。
そして、凜太郎は短く息を吐いた。
「じゃあ、恋人になろう」
言い方が、あまりに普段のままで、芽依は一瞬だけ笑った。笑って、次の瞬間、涙が出た。
「……なんで、そんなに普通に言うの」
「普通に言えないと、また先延ばしするだろ」
凜太郎の返しが、妙に的確で、芽依は泣きながら笑う。涙と笑いが渋滞して、呼吸が忙しい。
芽依は何度も頷いた。頷きすぎて首が痛くなりそうなくらい。
「うん。うん……恋人、なる」
凜太郎は少しだけ目を細めた。口元が、ほんの一瞬だけ崩れる。芽依はそれを見て、また頬が熱くなる。
凜太郎がメモ帳を開いた。前に芽依が書いた帯の切れ端が、まだ表紙の角に貼ってある。
「具体的に、決めよう」
「……また、日付と行動?」
「うん。言葉だけだと、俺が勝手に背負う」
凜太郎はそう言って、ペンを芽依に渡した。渡し方が、『助けて』の代わりの動きだと、芽依はもう分かる。
芽依はメモの一行目に書いた。
「三月八日(日) 駅前の喫茶店 十時」
凜太郎が二行目を書き足す。
「進路の書類を一緒に書く」
芽依が三行目。
「奨学金の資料、二人で読む」
凜太郎が四行目。
「帰りに、文具店でファイルを買う」
「そこ、急に生活」
芽依が突っ込むと、凜太郎は真顔で頷いた。
「生活は大事」
「うん……大事」
そのとき、背後で「ぐえっ」と変な声がした。二人が振り向くと、校舎裏の植え込みの向こうから、菜稀と拳悟が半分だけ顔を出している。菜稀の頭には紙の花が一輪、くっついたままだった。
「見てない! 聞いてない!」
菜稀が早口で言う。
「いや、聞いてたでしょ」
拳悟が小声で突っ込む。
「聞いてないって言ったら聞いてないの! ……でも、よかった!」
菜稀は結局叫んで、口を両手で塞いだ。拳悟は肩をすくめる。
「まあまあ。……おめでと。凜太郎、ちゃんと『助けて』言えた?」
「まだ言ってない」
凜太郎が淡々と返すと、拳悟は妙に感心した顔になる。
「言ってないのに、ここまで来たのすごいな」
「芽依が言った」
「芽依、えらい」
拳悟が珍しく真面目に言うので、芽依は照れて、また視線を落とした。はにかむ癖が戻ってくる。けれど、落とした視線の先には、凜太郎の手がある。手は逃げない場所に置かれている。
菜稀がベンチの背もたれに一枚の細長い紙を貼った。文化祭のときみたいな帯の形だ。乱暴な字で書かれている。
『今日言ったら、明日が来る』
「合言葉、もう一個増えた」
菜稀はそう言って、さっと走り去った。拳悟も追いかける途中で振り返り、片手を上げた。
「三月八日、俺らも忘れないからな。逃げたら捕まえる」
「捕まえるの、楽しそうに言うな」
芽依が言うと、拳悟は笑って消えた。
静かになった校舎裏で、芽依はベンチの帯を指でなぞった。紙の端が少し浮いている。凜太郎がその端を押さえ、ぴしっと貼り直した。
「……ありがとう」
凜太郎が小さく言う。
芽依は頷いて、今度は自分から言った。
「私も。……ありがとう。私の『明日』、止めてくれて」
「止めてない。芽依が、自分で止めた」
凜太郎の言葉は短いのに、芽依の胸の奥に長く残る。
帰り道、二人は商店街の灯りの中を歩いた。寒いのに、足の裏が温かい。芽依はポケットの中のメモ帳を触る。紙の角が指に当たって痛い。痛いのに、笑ってしまう。
芽依は空を見上げた。明日が怖くないわけじゃない。でも、明日は逃げ道じゃない。
明日を迎えるのは、今日の一行だ。




