仕立てのいいスーツ
お似合いですよ。
就職活動を始めて三か月が経った頃には、スーツを着ることそのものが嫌になっていた。
嫌いというほどではない。
大学に入ってから何度か着る機会はあったし、入学式のときにも着た。成人式のときにも着た。アルバイトの面接で一度だけ使ったこともある。
だから、スーツという服に特別な抵抗があったわけではない。
ただ、就職活動で毎日のように着るようになってから、どうにも自分には似合っていないような気がしていた。
鏡を見るたびにそう思った。
黒いジャケット。
白いシャツ。
紺色のネクタイ。
黒い革靴。
どれも普通だった。
普通なのに、自分だけがそこから浮いている。
肩の線が合っていない。
袖が少し長い。
パンツの裾も微妙に余っている。
母親に言わせれば、
「そんなもんじゃない?」
という程度の違いだった。
自分でも、たぶんその程度なのだろうと思っていた。
けれど、面接会場に行くと気になった。
待合室には、自分と同じ年齢くらいの学生が何人もいる。
みんな似たような格好をしているのに、なぜか自分だけが頼りなく見える。
受付の前に立つ。
「本日、■時から面接のお約束をしております、■■大学の佐々木です」
そう言うだけなのに、声が少し小さくなる。
受付の女性が、
「はい、お待ちください」
と言う。
その瞬間、自分の袖口が目に入る。
少しだけ余っている。
たったそれだけのことなのに、急に落ち着かなくなる。
面接室に入って、
「失礼します」
と言う。
椅子に座る。
面接官を見る。
質問に答える。
準備してきたことを話す。
大学で何をしてきたか。
なぜこの業界なのか。
なぜこの会社なのか。
入社したら何をしたいのか。
何度も練習した。
想定質問も作った。
大学のキャリアセンターにも通った。
友人にも面接練習を頼んだ。
それでも落ちた。
一社。
二社。
三社。
四社。
五社。
六社。
不合格通知がメールボックスに増えていく。
文章はどれも似ていた。
この度は弊社の採用選考にご参加いただき、誠にありがとうございました。
慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ではございますが――。
そこから先は、読まなくても分かった。
スマートフォンの画面を閉じる。
机の上に置く。
また別の企業のエントリーシートを書く。
そういう生活だった。
大学四年の五月。
周囲では、少しずつ内定を取った人間が出始めていた。
ゼミのグループチャットにも、
《内定もらった!》
《おめでとう》
《どこ?》
《○○の営業》
というやり取りが増えていた。
佐々木は、その通知を見るたびにスマートフォンを伏せた。
自分だけが遅れているような気がした。
焦っている。
それは分かっていた。
でも、焦れば焦るほど面接ではうまく話せなくなった。
その日も、一次面接に落ちた。
大学の食堂で昼食を食べていると、向かいに座っていた同期が言った。
「また落ちた?」
「なんで分かった」
「顔」
「そんなに分かりやすい?」
「分かるよ」
同期の名前は高橋だった。
同じ学部で、ゼミも同じ。
大学一年の頃から付き合いがあり、特別親しいというわけではないが、二人で昼飯を食べたり、帰りに駅まで歩いたりする程度には仲がよかった。
高橋は、佐々木より就職活動がうまくいっていた。
すでに二社から最終面接の案内をもらっている。
選考途中の企業もいくつかある。
「高橋はどうなの」
「一社、最終」
「すごいな」
「いや、まだ分かんないって」
「でも俺なんかより全然いいじゃん」
「比べるなって」
高橋はそう言って、定食の味噌汁を飲んだ。
「佐々木、面接で何言ってる?」
「普通に答えてるけど」
「普通って?」
「普通に志望動機とか」
「緊張してる?」
「まあ」
「一回、俺が面接官やろうか」
「いいよ」
「なんで」
「恥ずかしい」
「今さら?」
高橋が笑った。
佐々木も笑った。
そういう会話ができるうちは、まだ大丈夫だと思っていた。
就活なんて、そのうち決まる。
誰かがそう言っていた。
大学のキャリアセンターでも言われた。
母親にも言われた。
でも、不合格通知が一通増えるたびに、その「そのうち」が少しずつ遠ざかっているように感じた。
六月に入っても、状況は変わらなかった。
ある日の帰り、高橋と駅まで歩いていた。
「そういえば、スーツどうしてる?」
高橋が言った。
「何が?」
「もう一着くらい買ったほうがいいんじゃない?」
「今のやつで十分だろ」
「でも、結構くたびれてるじゃん」
佐々木は自分のジャケットを見た。
「そう?」
「うん」
「まだ買って三か月だぞ」
「毎日着てるからだろ」
高橋は笑った。
「安いやつ?」
「そう」
「いくら?」
「上下で二万くらい」
「そりゃ疲れるわ」
「スーツに疲れるとかあるの?」
「あるだろ」
駅前の交差点で信号が赤になった。
二人で立ち止まる。
そのとき、高橋が佐々木の肩を見た。
「やっぱり」
「何?」
「いや、なんでもない」
「気になるんだけど」
「肩」
「肩?」
「ちょっと落ちてる」
佐々木はジャケットの肩を触った。
「サイズが合ってないってこと?」
「たぶん」
「買い直すかな」
「うん。そのほうがいいと思う」
信号が青になった。
二人で歩き出す。
駅前にはスーツ姿の学生が何人もいた。
佐々木は、その中にいる自分を見ているような気がした。
みんな同じような服を着ている。
なのに、自分だけが場違いだった。
その週末、佐々木はスーツを探し始めた。
新品を買うつもりはなかった。
就職活動で何度も交通費を使っていたし、大学の授業も残っている。
アルバイトのシフトも減らしていた。
新しいスーツに三万円、四万円と出す余裕はなかった。
だから、最初は中古でもいいと思っていた。
フリマアプリを開く。
検索欄に「メンズ スーツ」と入力する。
大量の商品が出てきた。
量販店のもの。
ノーブランド。
セットアップ。
新品同様。
裾上げ済み。
サイズを確認していく。
自分の身長。
肩幅。
ウエスト。
股下。
いくつか候補を保存した。
その中に、少しだけ気になるものがあった。
高級ブランドのスーツだった。
新品なら、とても手が出ない価格の商品だった。
それが中古で、かなり安く出ている。
商品写真も綺麗だった。
黒に近い濃紺。
細いストライプが入っている。
ジャケットの襟は細め。
パンツも細身。
全体的に今の自分のスーツよりもすっきりして見えた。
商品説明には、
《以前の持ち主が大事に着ていました。》
と書かれていた。
それだけだった。
写真は何枚かある。
ハンガーに掛けられたジャケット。
パンツ。
袖口。
ブランドタグ。
裏地。
目立った傷はない。
出品者の名前は、yuki_02。
評価は少なかった。
悪い評価はない。
佐々木は商品ページを閉じた。
しばらくして、また開いた。
値段を確認する。
買えない金額ではない。
ただ、今の自分にとっては安くない。
お気に入りに入れて、その日は寝た。
翌朝も気になった。
大学へ行く電車の中で、商品ページを開いた。
まだ売れていない。
写真を見る。
やはり、格好いいと思った。
これを着れば、自分も少しくらいまともに見えるだろうか。
そんなことを考えた。
馬鹿らしい。
スーツを変えたくらいで就活がうまくいくわけではない。
分かっている。
それでも、買った。
購入ボタンを押した直後、少しだけ後悔した。
数分後、出品者からメッセージが届いた。
《ご購入ありがとうございます。大事に着てくださる方にお譲りできてよかったです。》
丁寧な文章だった。
佐々木も、
《こちらこそありがとうございます。届くのを楽しみにしています。》
と返した。
出品者からすぐに返信が来た。
《サイズが合うといいですね。最初は少し硬く感じるかもしれませんが、着ているうちに馴染みます。》
佐々木はその文章を見て、
高級スーツだからかな。
と思った。
翌々日、商品が届いた。
箱を開ける。
ビニールに包まれていた。
まず、匂いがした。
少し古い。
衣類特有の匂いとは違う。
湿った布を長く閉じた場所に置いていたような、少し重い匂いだった。
佐々木は顔をしかめた。
「……まあ、中古だしな」
箱から出す。
ジャケットは写真で見るよりも綺麗だった。
皺も少ない。
生地もしっかりしている。
肩の形も崩れていない。
袖を通してみる。
腕を入れた瞬間、不思議な感じがした。
少し冷たい。
でも、すぐに温度が馴染んだ。
肩を通す。
背中に生地が沿う。
鏡を見る。
「……」
悪くない。
むしろ、かなり良い。
肩の位置がぴったりだった。
袖の長さもちょうどいい。
胸のあたりも余っていない。
パンツを履く。
こちらも合っている。
裾がちょうど靴の上に乗る。
佐々木は鏡の前で身体を横に向けた。
今までのスーツよりも、ずっと身体が細く見えた。
背筋も伸びている。
肩幅もあるように見える。
何より、ちゃんとしている。
社会人になる人間の格好をしている。
それが嬉しかった。
スマートフォンで写真を撮った。
誰かに送るつもりはなかった。
ただ、記録しておきたかった。
その日の夜、高橋に見せた。
「スーツ買った」
「お、珍しい」
「どう?」
高橋は写真を見る。
「……あれ?」
「何?」
「なんか、いいじゃん」
「だろ?」
「サイズも合ってる」
「実際、すごいぴったり」
「どこの?」
ブランド名を言うと、高橋が少し驚いた。
「それ中古?」
「そう」
「安かった?」
「まあ」
「いいじゃん」
高橋はそう言った。
ただ、そのあと少し黙った。
「何?」
「いや」
「また?」
「……なんでもない」
「気になるって」
「なんか、前より肩広く見える」
「スーツがいいんじゃない?」
「そうかな」
高橋は笑った。
「似合ってるよ」
その言葉が嬉しかった。
次の面接から、佐々木はそのスーツを着ることにした。
朝、ジャケットに袖を通す。
以前のスーツより身体に馴染んでいる。
袖口が手首にぴったり合う。
襟も首に沿う。
鏡を見る。
少しだけ自信が出る。
駅まで歩く。
電車に乗る。
いつもなら座席に座ってからスマートフォンで面接対策を見るのだが、その日はあまり見なかった。
自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
面接会場に着く。
受付で名前を言う。
声がいつもより大きかった。
待合室に座る。
周囲の学生を見る。
以前なら、みんな自分より立派に見えていた。
今日はそうでもなかった。
自分も同じだと思えた。
面接室に入る。
「失礼します」
椅子に座る。
質問を受ける。
志望動機。
学生時代に力を入れたこと。
失敗した経験。
入社後にしたいこと。
いつもと同じ質問だった。
でも、答えやすかった。
言葉が自然に出てくる。
面接官の目を見て話せる。
最後に、
「本日はありがとうございました」
と言って部屋を出た。
廊下に出たあと、初めて気がついた。
汗をかいていない。
いつもなら背中が汗で湿っている。
手のひらも汗ばんでいる。
今日は違った。
ジャケットの内側も乾いている。
駅に戻る途中、佐々木は何度も自分の袖を見た。
生地は落ち着いていた。
身体にぴったり沿っている。
その日の夜、結果が届いた。
《一次面接通過のお知らせ》
佐々木は何度も画面を見た。
「……通った」
声に出した。
もちろん、スーツのおかげだとは思わなかった。
準備してきたからだ。
たまたま相性のいい面接官だったのかもしれない。
それでも、翌日の朝、最初に考えたのはスーツのことだった。
クローゼットを開ける。
ジャケットを見る。
昨日着たまま、ハンガーに掛かっている。
少しだけ匂いがする。
湿ったような、古い布のような匂い。
佐々木は消臭スプレーを手に取った。
でも、やめた。
高い服だし、余計なものをかけないほうがいいかもしれない。
そのままにした。
次の面接も、その次も、そのスーツを着た。
一社通過。
また通過。
最終面接。
今までなら、一次で落ちていたような企業からも次の案内が来る。
高橋が言った。
「最近どうした?」
「何が?」
「急に通るようになったじゃん」
「まあ、たまたまだろ」
「何着てる?」
佐々木は笑った。
「これ」
「それ?」
「中古で買った」
「……やっぱり」
「何が?」
高橋は佐々木のジャケットを見た。
「いや、なんか変だと思ったんだよ」
「変?」
「前から思ってたけど、最近もっと変」
「だから何が」
「説明しにくい」
高橋は腕を組んだ。
「似合ってるんだけど」
「うん」
「似合いすぎてる」
佐々木は笑った。
「何それ」
「分かんないけど」
高橋はそこで話をやめた。
佐々木は気にしなかった。
就活がうまくいっている。
それだけで気分が良かった。
六月末。
佐々木は三社目の最終面接を受けた。
その日も同じスーツだった。
面接が終わり、駅前で高橋と合流した。
「どうだった?」
「まあまあ」
「受かりそう?」
「分からない」
高橋は佐々木の肩を見た。
「なあ」
「何?」
「そのスーツ、毎日着てる?」
「ほぼ」
「洗ってる?」
「スーツって毎日洗わないだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「クリーニングはまだ」
「匂い、分かる?」
佐々木は少し黙った。
「……何が?」
「いや」
「またそれ?」
高橋は少し困った顔をした。
「俺にはちょっと分かる」
「何が?」
「変な匂い」
佐々木は自分の袖を嗅いだ。
特に分からない。
確かに古着っぽい匂いはする。
でも、それだけだった。
「中古だからじゃない?」
「そうかな」
「そうだろ」
「……ならいいけど」
そのとき、風が吹いた。
高橋が一歩離れた。
ほんの少しだった。
でも佐々木は気づいた。
「今、避けた?」
「え?」
「俺から」
「いや」
「避けたじゃん」
「違うって」
高橋は笑った。
それ以上は言わなかった。
その夜、佐々木はジャケットを脱いだ。
ハンガーに掛けようとして、袖口を見た。
黒い糸のようなものが一本、出ている。
「……なんだこれ」
指でつまんだ。
引っ張る。
少し抵抗があった。
布に引っかかっているのだと思った。
もう一度引っ張る。
痛い。
指先ではなく、手首のあたりが。
「……?」
手を止めた。
糸は袖口の内側に消えている。
佐々木はジャケットを裏返した。
何もない。
糸もない。
もう一度袖を見る。
さっきの糸も消えていた。
気のせいだったのだろう。
そう思って、ジャケットをクローゼットに掛けた。
翌朝。
袖を通す。
昨日よりも、さらにぴったりしていた。
肩も。
袖も。
胸も。
まるで自分の身体に合わせて作り直したようだった。
鏡を見る。
以前よりも、背筋が伸びている。
髪を整える。
ネクタイを結ぶ。
その姿は、自分が想像していた社会人に近かった。
大学生らしさが薄くなっている。
それが嬉しかった。
その日、高橋は会ってすぐに言った。
「……やっぱり変だ」
「また?」
「うん」
「何が」
「昨日より変」
「どこが?」
高橋は答えなかった。
代わりに、佐々木の袖口を見ていた。
「触っていい?」
「いいけど」
高橋が袖を指でつまむ。
ほんの一瞬。
そして手を離した。
「何?」
「……なんか」
「うん」
「生地、変じゃない?」
「普通だろ」
「いや」
高橋は眉を寄せた。
「普通のスーツって、こんなにあったかい?」
佐々木は笑った。
「手が冷たいだけじゃない?」
「そうかな」
高橋はもう一度触ろうとした。
しかし、途中で手を止めた。
「やっぱいい」
「何だよ」
「ごめん」
高橋はそれ以上言わなかった。
その日の夕方、佐々木に内定通知が届いた。
初めてだった。
正式な内定。
画面を見たまま、しばらく動けなかった。
嬉しかった。
ようやく決まった。
ようやく、自分も普通に就職できる。
母親に電話した。
「決まった」
母親は電話の向こうで何度も喜んだ。
「よかったね」
「うん」
「どこの会社?」
会社名を伝える。
母親は、
「よく頑張ったね」
と言った。
その言葉を聞いて、少し泣きそうになった。
電話を切ったあと、鏡を見た。
スーツ姿の自分がいる。
ちゃんとしている。
もう、就活に失敗する人間には見えない。
その夜、フリマアプリを開いた。
購入履歴を見る。
yuki_02の商品ページを開く。
評価を書く。
《とても良い商品でした。ありがとうございました。》
少し考えてから、出品者にメッセージを送った。
《このスーツ、本当にすごいですね。これを着てから全部うまくいきました。》
しばらくして返信が来た。
《よかったです。大事な場面で着ていただけて嬉しいです。》
続けて、
《もう十分馴染んだと思います。》
とあった。
佐々木は、その文章をしばらく見ていた。
馴染んだ。
確かに、そうだった。
このスーツはもう、自分の身体の一部みたいに感じる。
着ていることを意識しなくなっていた。
その日から、スーツを着ない日が少なくなった。
大学へ行くときも着た。
別に必要はない。
講義を受けるだけなら私服でいい。
それでも、スーツを着た。
着ていると落ち着いた。
鏡を見ると、自分がちゃんとしている。
それが好きだった。
高橋は、それを嫌がった。
「今日もそれ?」
「うん」
「大学だぞ」
「いいじゃん」
「暑くない?」
「別に」
「毎日着てるじゃん」
「気に入ってるんだよ」
高橋は黙った。
その日、二人で講義を受けた。
講義が終わる。
高橋が、
「ちょっと待って」
と言った。
「何?」
「袖」
佐々木は自分の袖を見る。
「何?」
「そこ」
高橋が指差した。
袖口。
黒い生地の端から、細い黒い線が出ている。
糸に見えた。
「糸?」
「……そう見える?」
「何が?」
「いや」
高橋が近づく。
「ちょっと触るぞ」
「うん」
指先が袖口に触れた。
その瞬間、高橋が手を引っ込めた。
「熱っ」
「え?」
「なんだこれ」
「何が?」
「今、熱かった」
「布が?」
「いや……」
高橋は手のひらを見た。
赤くなっている。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「火傷?」
「違うと思う」
高橋は笑おうとした。
でも笑えていなかった。
「なあ」
「うん」
「本当に、それ普通のスーツ?」
佐々木は少しだけ苛立った。
「何回聞くんだよ」
「だって」
「中古のスーツだよ」
「出品者、誰?」
「yuki_02」
「評価は?」
「普通」
「他にも出してる?」
「知らない」
高橋はスマートフォンを取り出した。
「見せて」
「何を?」
「商品ページ」
佐々木はフリマアプリを開いた。
商品ページは、もう消えていた。
「売れたから消えたんじゃない?」
「……そうか」
高橋は画面を見ていた。
「出品者のプロフィールは?」
「知らない」
「一回連絡してみたら?」
「何で?」
「いや……」
高橋はそこで言葉を止めた。
「なんか嫌なんだよ」
「何が?」
「それ」
高橋はスーツを指差した。
「見てると、変な感じがする」
佐々木は笑った。
「考えすぎ」
「そうかな」
「内定も取れたし、俺は気に入ってる」
「……そう」
高橋はそれ以上言わなかった。
九月。
大学の夏休みが終わる頃には、佐々木はスーツを着ることが完全に習慣になっていた。
私服を着ると落ち着かなかった。
シャツを着ても、何か足りない。
ジャケットを羽織る。
ネクタイを結ぶ。
それでようやく安心できた。
ある朝、佐々木は私服のシャツを着ようとした。
袖を通す。
違和感がある。
腕が動かしにくい。
首元が気になる。
鏡を見る。
変だ。
身体が大きく見える。
シャツが似合わない。
結局、脱いだ。
クローゼットからスーツを取り出す。
袖を通す。
安心する。
ぴったりだった。
以前よりさらにぴったりしている。
肩から腰まで、身体に沿っている。
鏡を見る。
自分の身体と服の境界が、少し分かりにくくなっているように見えた。
でも、照明のせいだと思った。
その日、高橋と駅で会った。
「おはよう」
「……おはよう」
高橋が佐々木を見た。
顔が固まる。
「どうした?」
「いや」
「また?」
「……そのスーツ」
「うん」
「本当にそれ、毎日着てる?」
「そうだけど」
「昨日も?」
「昨日も」
「一昨日も?」
「そう」
高橋は少し黙った。
「クリーニングは?」
「してない」
「なんで?」
「必要ないだろ」
「いや、必要だろ」
「別に汚れてないし」
「そういう問題じゃない」
高橋が近づいた。
「匂い、分からない?」
佐々木は自分の袖を嗅いだ。
古い布の匂い。
少し湿った匂い。
でも、不快ではない。
「分からない」
「……俺には分かる」
「そんなに?」
「うん」
高橋は少し離れた。
「魚みたいな匂い」
佐々木は笑った。
「それはさすがにない」
「ある」
「ないって」
「……まあいい」
電車が来た。
二人で乗る。
高橋は向かいの席に座った。
いつもなら隣に座る。
佐々木は少しだけ気になった。
「何で向かい?」
「なんとなく」
「ふーん」
電車が走り出す。
窓に二人の姿が映る。
佐々木は自分を見る。
高橋を見る。
高橋は普通の服を着ている。
自分はスーツ。
それだけだった。
でも、窓に映った自分の袖口が、妙に黒く見えた。
濡れているようにも見えた。
佐々木は手で触った。
乾いている。
何もない。
気のせいだった。
十月。
内定式の案内が届いた。
佐々木は嬉しかった。
その会社に行くのが楽しみだった。
内定式には当然スーツで行く。
高橋にも別の会社から内定が出ていた。
二人とも就職先が決まった。
久しぶりに飲みに行った。
「おめでとう」
「高橋も」
「乾杯」
グラスを合わせる。
就活の話をする。
大変だったこと。
落ちた会社。
面接官の変な質問。
説明会で寝そうになったこと。
全部、今となっては笑えた。
酒が少し入った頃、高橋が言った。
「なあ」
「ん?」
「まだそれ着てる?」
「着てる」
「なんで?」
「好きだから」
「……そう」
「何だよ」
「いや」
高橋は笑った。
でも、少しだけ目を伏せた。
「俺さ」
「うん」
「最初に見たときから、なんか嫌だったんだよ」
「このスーツ?」
「うん」
「でも、似合ってるって言ってたじゃん」
「似合ってる」
「じゃあいいだろ」
「そうなんだけど」
高橋はグラスを置いた。
「似合いすぎてるんだよ」
佐々木は笑った。
「またそれ?」
「だって、本当にそうなんだよ」
「俺が就活始めた頃の写真、覚えてる?」
「覚えてる」
「見せて」
佐々木はスマートフォンを取り出した。
就活を始めたばかりの頃の写真。
今のスーツを買う前。
駅の証明写真機で撮った写真だった。
高橋が見た。
「ほら」
「うん」
「普通だろ?」
「普通」
「今と全然違う」
「スーツが違うだけ」
「顔も」
佐々木は笑った。
「顔は同じだろ」
「……そうかな」
高橋が写真と佐々木を交互に見る。
「なんか、別人みたい」
その言葉に、佐々木は少しだけ嫌な感じがした。
「飲みすぎじゃない?」
「かも」
「もう帰る?」
「そうする」
店を出た。
駅まで歩く。
夜風が冷たい。
高橋が、
「佐々木」
と呼んだ。
「何?」
「そのスーツ、一回脱いだほうがいい」
佐々木は足を止めた。
「……なんで?」
「分からない」
「じゃあ何で言うの」
「分からないけど、そう思う」
「俺、これ気に入ってるんだけど」
「知ってる」
「仕事始まったら毎日着るつもりだよ」
「……そう」
高橋はそれ以上言わなかった。
翌朝。
佐々木はスーツを脱ごうとした。
理由はなかった。
ただ、昨日の高橋の言葉が少し気になった。
ジャケットの前を開ける。
襟を持つ。
肩から外そうとする。
動かない。
「……あれ?」
引っ張る。
痛い。
肩が引かれる。
ジャケットの裏地が身体に貼り付いているような感覚。
佐々木はもう一度引いた。
痛みが強くなる。
「……何だよ」
鏡を見る。
ジャケットは普通に見える。
ボタンも開いている。
なのに、脱げない。
腕を抜こうとする。
右腕は抜けた。
左腕が抜けない。
袖の内側が手首に引っかかっている。
指を入れる。
生地と皮膚の間に隙間がない。
「……狭いな」
昨日まで普通だった。
少なくとも、そう思っていた。
少し力を入れる。
痛い。
皮膚が引っ張られる。
佐々木は慌てて手を離した。
しばらく鏡の前に立っていた。
おかしい。
でも、何がおかしいのか分からない。
ジャケットが身体に合っているだけ。
サイズがぴったりすぎる。
それだけ。
そう考えた。
その日はスーツのまま大学へ行った。
高橋に会う。
「おはよう」
「……おはよう」
高橋の視線が、すぐに佐々木の肩へ行った。
「どうした?」
「何も」
「顔、変だぞ」
「昨日、ちょっと飲んだから」
「違う」
「じゃあ何?」
高橋は少し迷った。
「……脱げる?」
佐々木の心臓が一瞬だけ速くなった。
「何が?」
「スーツ」
「もちろん」
「じゃあ、脱いでみて」
佐々木は笑った。
「今?」
「うん」
「ここで?」
「トイレでもいい」
「何で」
「確認したい」
佐々木は少し苛立った。
「大丈夫だって」
「佐々木」
「何?」
「一回だけ」
高橋の顔が真剣だった。
佐々木は黙った。
そして、
「……分かった」
と言った。
二人で大学のトイレへ向かった。
個室に入る。
佐々木はジャケットを脱ごうとした。
肩を抜く。
痛い。
もう一度。
痛い。
左腕。
抜けない。
「どう?」
外から高橋の声。
「……ちょっと待って」
「やっぱり?」
「いや」
佐々木は力を入れた。
ジャケットが皮膚を引っ張る。
痛みが腕から肩へ走る。
「……脱げない」
言葉にした瞬間、自分でも怖くなった。
外が静かになった。
「佐々木」
「うん」
「開けて」
「何で」
「いいから」
扉を開ける。
高橋が入ってくる。
佐々木のジャケットを見る。
「……何これ」
「分からない」
高橋が袖を触る。
すぐに手を離した。
「熱い」
「そう?」
「お前、痛くない?」
「痛い」
「病院行こう」
「いや」
「行けって」
「でも」
「何?」
佐々木は言葉に詰まった。
病院へ行ったら、このスーツを脱がされるかもしれない。
そう思った。
その瞬間、自分でも驚くほど強い嫌悪感が湧いた。
「……脱ぎたくない」
高橋が黙った。
「何?」
「今、自分で何て言った?」
「だから、脱ぎたくないって」
「……なんで?」
分からない。
でも、分からないままでは嫌だった。
「これ着てると、ちゃんとしていられるから」
「スーツだろ」
「そうだけど」
「脱いでも、お前はお前だろ」
「……そうかな」
その言葉を口にしたとき、佐々木は自分が少し変になっていることに気づいた。
高橋は何も言わなかった。
ただ、佐々木を見ていた。
その目には、友人を見るときとは違うものが混じっていた。
心配。
困惑。
そして、少しの恐怖。
高橋は、
「今日はもう帰れ」
と言った。
「授業は?」
「俺が言っとく」
「でも」
「いいから」
佐々木は断った。
なぜか分からない。
ただ、スーツを着たまま帰りたかった。
その夜、鏡の前に立った。
ジャケットを見る。
綺麗だった。
高級感がある。
自分によく似合っている。
高橋は変だと言った。
でも、自分には何も変に見えない。
むしろ、これを脱いだ自分のほうが変だった。
スーツを脱ごうとすると、皮膚が引っ張られる。
痛い。
それなのに、脱ぐことを考えると不安になる。
クローゼットには以前のスーツもある。
取り出してみる。
袖を通す。
大きい。
肩が余る。
鏡を見る。
学生に戻ったように見える。
嫌だった。
すぐに脱いだ。
新しいスーツを着る。
安心する。
身体にぴったり合う。
肩も。
袖も。
首も。
腰も。
全部。
そのとき、鏡の中で袖口が少し動いた。
佐々木は目を凝らした。
黒い糸のようなものが一本、手首の内側に入っている。
いや。
糸ではない。
髪の毛のようにも見えた。
指で触る。
痛い。
すぐに手を離す。
鏡を見る。
何もない。
佐々木は笑った。
「疲れてるな」
そう呟いた。
その後も、普通の生活を続けた。
内定式。
卒業研究。
アルバイト。
大学の友人との食事。
そして、スーツ。
仕事が始まるまで、まだ時間がある。
でも、佐々木はすでに社会人になったような気持ちでいた。
スーツを着ていると、自分の未来が決まっているように思えた。
高橋だけが、何度も言った。
「一回、ちゃんと診てもらえ」
「大丈夫」
「その言葉、何回目?」
「本当に大丈夫だから」
「じゃあ脱げよ」
そう言われると、佐々木は黙った。
ある日の夕方、高橋が突然、
「俺、もう無理かもしれない」
と言った。
「何が?」
「お前見てるの」
佐々木は笑った。
「何だよそれ」
「笑うなよ」
高橋は真剣だった。
「お前、最近おかしい」
「具体的には?」
「具体的に説明できない」
「じゃあいいだろ」
「でも、おかしい」
高橋が一歩近づいた。
「そのスーツ、俺には服に見えないときがある」
佐々木は黙った。
「どういう意味?」
「分からない」
「じゃあ言うなよ」
「言わないと、お前が本当にそのままになりそうだから」
高橋の声が少し震えていた。
「何が?」
「……もう、服を着てるっていうより」
高橋は言葉を探した。
「服の中に、お前が入ってるみたいに見える」
佐々木は何も言えなかった。
高橋は続けた。
「いや、それも違う」
「じゃあ何」
「服のほうがお前みたいに見える」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木の背中に冷たいものが走った。
でも、すぐに否定した。
「意味分かんない」
「俺も分からない」
「疲れてるんだよ」
「お前が?」
「お前が」
高橋は黙った。
そして、
「……もういい」
と言った。
それから、二人は以前ほど話さなくなった。
佐々木は気にしなかった。
内定先から研修の案内が来る。
必要書類を準備する。
入社式の案内を確認する。
社会人になる。
そのことだけを考えていた。
冬になった。
寒くなっても、スーツを脱ぐことはなかった。
上にコートを羽織る。
家に帰る。
コートだけ脱ぐ。
スーツはそのまま。
寝るときも、最初は脱いでいた。
でも、脱ぐのに時間がかかるようになった。
痛いから。
だから、そのまま寝るようになった。
朝起きる。
スーツのまま。
鏡を見る。
それが普通になる。
いつの間にか、シャツを着替えなくなった。
ネクタイも外さない。
身体を洗うときも、スーツの上から水をかけるようになった。
最初は冗談だった。
面倒だから。
でも、何度か繰り返しているうちに、それが当たり前になった。
生地は濡れても、すぐ乾いた。
というより、濡れている感じがしなかった。
身体に貼り付いている。
皮膚のようだった。
ある朝、佐々木は鏡を見て、ふと思った。
この服は、いつから自分のものになったのだろう。
買ったときは中古だった。
前の持ち主がいた。
でも、今は自分の身体に合っている。
前の持ち主は、どんな人だったのだろう。
どんな体格だったのだろう。
なぜ手放したのだろう。
佐々木はフリマアプリを開いた。
出品者のページを探す。
yuki_02。
見つからない。
検索する。
ユーザー名が出ない。
購入履歴から商品ページを開こうとする。
エラー。
何度やっても同じだった。
諦めてスマートフォンを置く。
そのとき、通知が来た。
高橋からだった。
《久しぶり》
佐々木は、
《どうした?》
と返した。
しばらくして、
《元気?》
と来た。
《元気》
《スーツまだ着てる?》
佐々木は少し笑った。
《着てる》
既読がついた。
返事は来なかった。
数分後、
《そっか》
だけが届いた。
その二文字を見て、佐々木は妙な気分になった。
高橋は何か知っている。
でも、言わない。
それが気になった。
数日後、久しぶりに高橋と会った。
駅前だった。
高橋は以前より少し痩せていた。
「久しぶり」
「うん」
「仕事どう?」
「まだ始まってないから」
「ああ、そうか」
二人で歩く。
昔と同じ道。
でも、会話が続かない。
しばらくして、高橋が言った。
「佐々木」
「うん」
「そのスーツ」
「うん」
「やっぱり、変わった」
「どこが?」
「前より……」
高橋が言葉を止めた。
「何?」
「……大きくなった?」
佐々木は笑った。
「太った?」
「違う」
「じゃあ何」
「身体に合わせて変わってるように見える」
「スーツだから」
「そういうことじゃない」
高橋は立ち止まった。
「見て」
「何を?」
「袖」
佐々木が見る。
何もない。
「普通だろ」
「俺には、皮膚みたいに見える」
佐々木は高橋を見た。
「まだ言ってるの?」
「……うん」
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
高橋は笑わなかった。
「お前が行けよ」
「俺は何ともない」
「じゃあ脱いで」
また、その言葉だった。
佐々木は答えなかった。
「脱げる?」
「……」
「一回だけ」
佐々木はジャケットの前に手をかけた。
ボタンを外す。
襟を開く。
肩を動かす。
痛い。
高橋が見ている。
佐々木は力を入れた。
その瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走った。
「……っ」
手を止める。
「痛い?」
「うん」
「やっぱり」
高橋の顔が青くなった。
「もういい」
「何が?」
「もう脱がなくていい」
「何で」
「……怖いから」
その言葉に、佐々木は少し腹が立った。
「俺のほうが怖いんだけど」
「うん」
「じゃあ何とかしてくれよ」
「俺には無理だよ」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
高橋は黙った。
しばらくして、
「せめて、その服を着たまま一人にならないで」
と言った。
「意味分からない」
「俺も分からない」
「じゃあ」
「でも、嫌な感じがする」
高橋は佐々木の目を見た。
「ずっと着てると、戻れなくなる気がする」
その言葉を聞いて、佐々木は笑った。
「大げさだな」
高橋は笑わなかった。
その日を最後に、高橋から連絡は来なくなった。
佐々木も連絡しなかった。
大学を卒業した。
卒業式の日もスーツだった。
当然だと思った。
周囲の友人たちもスーツだった。
でも、佐々木だけは少し違っていた。
新しいスーツを着ているわけではない。
あのスーツだった。
買ってから一年近く経っている。
それなのに、古くなっていない。
むしろ綺麗になっていた。
生地は滑らかで、皺もない。
身体に沿っている。
写真を撮る。
卒業証書を持つ。
笑う。
その姿は、自分が思っていた以上に大人に見えた。
家に帰って、写真を見返す。
友人たち。
ゼミ。
高橋もいた。
少し離れた場所に立っている。
佐々木は写真を拡大した。
高橋の顔。
自分を見る目。
笑っていない。
その視線が、なぜか気になった。
写真を閉じる。
鏡を見る。
スーツ姿の自分。
肩。
襟。
袖。
完璧だった。
入社式の日。
佐々木は朝から機嫌がよかった。
会社へ向かう電車。
周囲にも新入社員らしい人間がいる。
みんな緊張している。
自分は違った。
落ち着いていた。
スーツが身体に馴染んでいる。
いや。
身体のほうが、スーツに馴染んでいる。
その表現のほうが近い気がした。
会社の受付に立つ。
名前を伝える。
案内される。
会議室に入る。
新入社員が並ぶ。
社長の話。
辞令。
写真撮影。
すべてが順調だった。
誰かが、
「そのスーツ、いいですね」
と言った。
「ありがとうございます」
そう答える。
褒められると嬉しい。
入社式が終わったあと、トイレの鏡を見る。
ネクタイを直す。
襟を整える。
袖口を見る。
黒い糸が一本出ている。
指で触れる。
糸ではない。
皮膚だった。
そう思った。
一瞬だけ。
でも、次に見ると普通の生地だった。
「……疲れてるな」
また同じ言葉を呟いた。
その夜、家に帰る。
スーツを脱ごうとする。
痛い。
もう、ほとんど脱げない。
それでも、以前ほど怖くなかった。
むしろ安心した。
これを着ていれば大丈夫。
仕事も。
生活も。
これから先も。
全部うまくいく。
クローゼットの中には、もう他の服がほとんど残っていなかった。
私服は奥に押し込んである。
スーツだけが手前にある。
毎朝、これを着る。
それでいい。
その日、フリマアプリから通知が来た。
以前の取引についてだった。
佐々木は開いた。
商品ページが一瞬だけ表示された。
高級ブランドのスーツ。
自分が買ったもの。
説明文。
《以前の持ち主が大事に着ていました。》
その下に、新しい文章が追加されていた。
《大事な場面で着ていただける方にお譲りします。》
佐々木は眉を寄せた。
そんな文章はなかったはずだ。
さらにその下。
《最初は少し違和感があるかもしれません。着ているうちに馴染みます。》
画面が暗くなった。
スマートフォンの電源が落ちた。
佐々木はしばらく黙っていた。
そして、鏡を見る。
スーツ姿の自分がいる。
いつも通りだった。
ただ、そのとき初めて気がついた。
鏡の中の自分には、シャツの襟が見えていなかった。
いつもなら、白いシャツが首元に見える。
でも、今日は見えない。
黒い生地が首まで続いている。
佐々木は指を入れようとした。
入らない。
隙間がない。
指先が皮膚に触れるはずの場所まで、生地が続いている。
「……あれ?」
もう一度触る。
冷たくない。
布の感触もしない。
少し柔らかい。
肌に近い。
佐々木は手を離した。
鏡の中の自分を見る。
怖いと思うべきだった。
でも、そう思わなかった。
よく似合っている。
そう思った。
むしろ、これが本当の自分なのだと思った。
翌朝、高橋から久しぶりにメッセージが届いた。
《入社おめでとう》
佐々木は、
《ありがとう》
と返した。
すぐに、
《そのスーツ、まだ着てる?》
と来た。
《着てるよ》
既読。
しばらくして、
《そうなんだ》
だけ。
佐々木は、
《今度見せるよ》
と送った。
高橋から返信はなかった。
その日から数日後。
佐々木は会社へ向かった。
朝の電車。
駅のホーム。
改札。
会社までの道。
何も変わらない。
でも、身体は以前より軽かった。
仕事も順調だった。
電話対応。
資料作成。
上司からの指示。
同期との会話。
全部、自然にできる。
自分は社会人になった。
そう思った。
昼休み、会社のトイレで鏡を見る。
スーツを見る。
綺麗だ。
完璧だ。
袖口から、細い黒い線が伸びている。
手首に入っている。
でも、もう痛くなかった。
むしろ、それがあることに安心した。
これがある限り、脱がなくていい。
脱がなくていい。
そう思った。
その日の帰宅後、佐々木はクローゼットを開けた。
以前着ていた服が並んでいる。
大学時代のパーカー。
Tシャツ。
ジーンズ。
全部、もう必要ないと思った。
ゴミ袋を出す。
一枚ずつ入れる。
最後に、古いスーツを手に取った。
鏡を見る。
着てみる。
大きい。
肩が余る。
袖が長い。
胸元が浮く。
すぐに脱いだ。
新しいスーツを着る。
ぴったりだった。
鏡の中に、理想の自分がいる。
その姿を見ていると、以前の自分がどんな格好をしていたのか、少しずつ思い出せなくなってきた。
古いスーツ。
大学生らしい服。
柔らかいTシャツ。
パーカー。
そういう服を着ていた。
でも、それはもう自分ではないような気がした。
自分は、この格好でいるべきだ。
社会人だから。
ちゃんとした人間だから。
このスーツが似合う人間だから。
その夜、スマートフォンを開いた。
フリマアプリを起動する。
検索欄に、
「yuki_02」
と入力した。
何も出てこない。
もう一度。
何も出ない。
諦めて閉じようとしたとき、検索結果に一件だけ表示された。
商品写真。
セーラー服。
女子高生の制服。
商品説明。
《もう着なくなったので出品します。伝統のある可愛い制服です。大事に着てくださる方にお譲りしたいです。》
佐々木はしばらく画面を見ていた。
なぜか、その文章を知っている気がした。
以前、どこかで見た。
でも、思い出せない。
商品ページを閉じる。
鏡を見る。
スーツ姿の自分。
そのとき、鏡の中で、自分の肩が少しだけ動いた。
自分が動かしたのではない。
肩だけが、ほんの少し上がった。
佐々木は固まった。
もう一度見る。
何も起きない。
疲れている。
そう思った。
そのままベッドに入る。
スーツのまま眠る。
夢を見た。
誰かが言っている。
大事に着てください。
誰かが答える。
はい。
もう一度。
大事に着てください。
はい。
目を覚ました。
朝だった。
カーテンの隙間から光が入っている。
佐々木は起き上がった。
スーツのまま。
いつもの朝。
ベッドから降りる。
洗面所へ行く。
鏡を見る。
そこに映っているのは、社会人としての自分だった。
昨日と同じ。
今日も同じ。
これからも同じ。
佐々木はネクタイに触れた。
指が自然に動く。
結び目を整える。
袖口を直す。
襟を撫でる。
その動作があまりにも自然だったので、ふと、自分がいつからネクタイの結び方を意識しなくなったのか分からなくなった。
玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアを開ける。
外へ出る。
駅まで歩く。
電車に乗る。
会社へ向かう。
途中、スマートフォンを見る。
高橋からのメッセージは来ていない。
もう、気にならなかった。
会社のエントランスに入る。
受付に挨拶する。
エレベーターに乗る。
鏡張りの壁に、自分の姿が映る。
黒いスーツ。
整った襟。
ぴったりした袖。
身体に沿ったジャケット。
完璧だった。
佐々木は、自分の姿を見て微笑んだ。
そのとき、エレベーターの扉が開いた。
社員が一人、乗ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わす。
社員は佐々木の横に立った。
何気なく鏡を見る。
そして、一瞬だけ佐々木を見た。
視線が止まる。
「……?」
佐々木が振り向く。
「どうしました?」
「あ、いえ」
社員はすぐに目を逸らした。
エレベーターが上がっていく。
鏡の中に二人が映っている。
佐々木は何も気づいていない。
ただ、身体にぴったり馴染んだスーツを着ている。
その服の内側に、どこまでが自分の身体なのか。
もう本人には、確かめる必要がなかった。
それは、ずっと前から決まっていたことのように思えた。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
佐々木は降りる。
背筋を伸ばして歩く。
今日も仕事が始まる。
その後ろ姿を、社員はしばらく見ていた。
そして、小さな声で呟いた。
「……あの人、いつからあんな服着てたんだ?」
誰も答えなかった。
お役に立てましたか?




