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制服

素敵な制服です。よくおにあいですよ。

六月の終わりだった。

梅雨らしい雨が三日続いたあと、久しぶりに晴れた夜だった。

窓を閉め切った部屋には、昼間に溜まった熱がまだ残っていた。

エアコンをつけるほどではないと思って、扇風機だけを回していた。

机の上には、コンビニで買ってきた炭酸水と、食べかけの菓子があった。

女はベッドに横になりながら、スマートフォンでフリマアプリを眺めていた。

特に何かを探していたわけではない。

眠る前に、いつものように出品されたものを眺めていた。

服。

食器。

古いゲーム機。

使いかけの化粧品。

誰かがいらなくなったものが、写真を撮られて、説明文をつけられて、別の誰かに渡っていく。

そういうものを見るのが好きだった。

自分には必要のないものでも、知らない人にとっては必要だったりする。

反対に、自分が捨てるのをためらったものを、他人が何の迷いもなく買っていくこともある。

そういうところが面白かった。

その夜、何気なく検索欄に「制服」と入れた。

深い意味はなかった。

昔から、セーラー服が好きだった。

自分が着たことがないから、というだけだった。

高校はブレザーだった。

中学も普通のブレザーだった。

テレビや漫画で見るセーラー服に、特別な思い入れがあったわけではない。

ただ、街でセーラー服の女子高生を見かけると、少しだけ目で追ってしまうことがあった。

白い襟。

濃紺の布。

胸元のリボン。

同じような形をしていても、学校によって微妙に違う。

襟の線。

スカートの長さ。

リボンの色。

ボタンの形。

そういう細かい違いを見るのが好きだった。

検索結果を何ページか進めたところで、その商品が出てきた。

『私立■■女子高校 冬服制服 セーラー服・スカート』

価格は、相場より少し安かった。

写真には、濃紺のセーラー服とスカートが写っていた。

背景は白い壁だった。

ハンガーにかけられている。

写真の撮り方は上手くなかった。

照明も暗い。

制服の色も、実際より少し黒っぽく見える。

それでも、妙に目に残った。

商品説明は短かった。

『もう着なくなったので出品します。』

その下に、

『伝統のある可愛い制服です。』

さらに、

『大事に着てくださる方にお譲りしたいです。』

と書かれていた。

出品者の名前は、

yuki_02。

評価はゼロだった。

本人確認の表示もなかった。

女は一度プロフィールを開いた。

他の出品物はない。

それだけだった。

「怪しいかな」

独り言を言った。

けれど、別に高額商品ではない。

偽物だったとしても、諦められる金額だった。

制服そのものに興味があった。

それに、写真を見る限り状態は悪くない。

説明欄には、目立った傷や汚れはないと書かれていた。

女はサイズを確認した。

肩幅。

袖丈。

スカートのウエスト。

数字だけなら、自分に合っている。

ただ、制服は普通の洋服よりサイズ選びが難しい。

女は少し迷った。

それから購入ボタンを押した。

購入手続きが終わる。

画面に、

『購入ありがとうございます』

と表示された。

すぐに出品者からメッセージが来た。

『このたびはありがとうございます。』

丁寧な文章だった。

『大事に着てくださる方にお譲りできて嬉しいです。』

女は、

『こちらこそありがとうございます。届くのを楽しみにしています』

と返した。

すると、すぐに返信があった。

『こちらの制服は、着ると身体にぴったり馴染むと思います。』

女は少しだけ笑った。

服の説明としては、変な言い方だった。

普通なら、

「サイズが合うと思います」

とか、

「伸縮性があります」

とか書く。

「身体に馴染む」という言い方もないわけではない。

革製品なら、使ううちに身体に馴染むということはある。

制服ではあまり聞かない。

けれど、古着なのだからそういう意味だろうと思った。

『楽しみです』

そう返した。

少し間があって、

『はい。前の持ち主も大事に着ていました。』

と返ってきた。

それ以上は続かなかった。

女はスマートフォンを伏せた。

その日はそれで終わった。

二日後。

制服が届いた。

仕事から帰ってきたところだった。

玄関を開けると、宅配ボックスから出してきた薄い段ボールが置かれている。

思っていたより小さい。

制服一着なら、こんなものかもしれない。

女は靴を脱いで、荷物を部屋まで持っていった。

ハサミでテープを切る。

段ボールを開けた。

最初に見えたのは、透明なビニール袋だった。

その中に制服が入っている。

きちんと畳まれていた。

濃紺の布。

白い襟。

リボン。

スカート。

写真で見たものと同じだった。

女は袋を持ち上げた。

そのときだった。

かすかな匂いがした。

魚のような匂い。

腐っているわけではない。

生臭いというほど強くもない。

ただ、雨上がりの川辺のような、湿った土のような匂いが混じっていた。

女は鼻を近づけた。

「……なんだろ」

袋の外からでも分かる。

もう一度嗅いだ。

やっぱりする。

女は商品ページを開いた。

説明には、匂いについて何も書かれていなかった。

古着なのだから、多少の匂いは仕方ない。

洗えばいい。

そう思った。

ところが、洗濯表示を確認すると、家庭で普通に洗えるものではなかった。

クリーニングに出したほうがよさそうだった。

女は一度制服を袋から出した。

部屋のハンガーにかける。

広げると、思ったよりきれいだった。

傷もない。

汚れもほとんどない。

襟も崩れていない。

スカートのプリーツも残っている。

古着としてはかなり状態がいい。

匂いだけが気になった。

スマートフォンに通知が入った。

出品者からだった。

『無事に届きましたでしょうか。』

女は、

『届きました。状態もすごく綺麗です』

と返した。

少しして、

『それはよかったです。』

そして、

『最初は少し匂いが気になるかもしれません。』

と続いた。

女は驚いた。

『分かりました。洗ってから着ようと思います』

と送った。

返信はすぐだった。

『洗わなくても大丈夫です。』

女は画面を見た。

『暗いところで長く保管していたので、その匂いだと思います。』

そのあとに、

『着ているうちに身体の匂いと混ざって、自然に馴染みます。』

とあった。

女は少し眉を寄せた。

変な言い方だ。

でも、古着好きの人なら、こういう表現をすることもあるのかもしれない。

『分かりました』

と返した。

すると、

『できれば届いた日に一度、袖を通してみてください。』

と来た。

女は笑った。

『今から着てみます』

と送った。

そのつもりだった。

本当に、ただ着てみるつもりだった。

ハンガーから制服を外した。

シャツを脱いだ。

セーラー服を頭からかぶる。

その瞬間、少しだけ冷たかった。

六月の夜だったから、服が冷えているのだろう。

肩を通す。

腕を通す。

リボンを結ぶ。

鏡の前に立った。

「……あ」

思わず声が出た。

似合っていた。

少なくとも、自分で思っていたよりは。

サイズもぴったりだった。

肩がきつくない。

袖も長すぎない。

胸元も苦しくない。

スカートのウエストも、ちょうどよかった。

古着なのだから多少の違和感があると思っていた。

けれど、なかった。

むしろ、自分のために仕立てたようだった。

女は鏡の前で少し横を向いた。

後ろも見る。

やはり合っている。

セーラー服というだけで、いつもより幼く見える。

それが少し面白かった。

写真を撮ろうかと思った。

けれど、やめた。

誰かに見せるつもりもない。

ただ着てみただけだ。

スマートフォンを見る。

出品者からメッセージが来ていた。

『どうでしょうか。』

女は、

『びっくりするくらいサイズぴったりです』

と返した。

少しして、

『よかったです。』

そして、

『やっぱり馴染むと思います。』

と返ってきた。

女はその言葉を見て、少しだけ違和感を覚えた。

「やっぱり」

というのが、妙だった。

まるで最初からサイズが分かっていたようだった。

けれど、出品ページにはサイズ表記がある。

それを見れば分かる。

そう考えれば、何もおかしくない。

女はそのまま夕食を食べた。

着替えるのを忘れていた。

食事を終えても、そのままテレビを見た。

風呂に入る前に脱ごうとした。

そのとき、初めて気づいた。

脱ぎにくい。

正確には、脱げないわけではない。

襟元を持って引っ張る。

布が少しだけ肌に張り付いている。

汗をかいたからだろう。

女は腕を抜いた。

問題なく抜けた。

セーラー服を脱いで、ベッドの上に置いた。

ただ、首の後ろが少し痛かった。

鏡を見る。

赤くなっていた。

服の襟が当たっていたのだろう。

「古着だからかな」

女はそう思った。

風呂に入った。

出てきて、髪を乾かす。

ベッドを見る。

脱いだ制服が置いてある。

さっきより少し匂いが強くなった気がした。

女は窓を開けた。

風が入ってくる。

それで匂いは気にならなくなった。

制服は翌日、クリーニングに出そうと思った。

その夜は普通の部屋着で寝た。

翌朝。

起きて、顔を洗う。

仕事に行く準備をする。

玄関を出る直前になって、制服のことを思い出した。

クリーニング店に持っていくつもりだった。

けれど、時間がなかった。

帰りでいいか。

そう思って家を出た。

仕事から帰る。

制服がハンガーにかかっている。

昨日のことを思い出した。

少しだけ着てみる。

それくらいならいいだろう。

女はまた着た。

やはり、ぴったりだった。

昨日よりも自然だった。

肩に布が乗っている感覚が薄い。

首元も昨日ほど気にならない。

むしろ、落ち着く。

「これ、意外といいな」

そう思った。

それから、テレビを見た。

そのまま夕食を食べた。

気づけば夜の十一時だった。

風呂に入るために脱ぐ。

昨日より、さらに脱ぎやすかった。

それなら問題ない。

クリーニングに出す必要もないかもしれない。

ただ、匂いは少し気になった。

湿ったような匂い。

魚のような匂い。

古い布の匂い。

女は消臭スプレーをかけた。

ところが、翌日にはまた戻っていた。

三日目。

四日目。

一週間。

女は制服を着る時間が少しずつ長くなった。

最初は帰宅後だけだった。

次第に、休日の昼間にも着るようになった。

出かけることはない。

家の中だけ。

鏡を見る。

セーラー服を着た自分が映っている。

二十代後半の自分には、当然似合わない。

そう思っていた。

けれど、なぜか違和感が少ない。

顔だけは大人なのに、服だけが昔の女子高生のものだ。

そのアンバランスさが、最初は面白かった。

そのうち、それも気にならなくなった。

制服を着ている状態が普通になっていった。

ある日、出品者からメッセージが来た。

『その後、いかがでしょうか。』

女は、

『すごく気に入っています』

と返した。

『毎日着ています』

少しして、

『それなら安心しました。』

『大事に着ていただける方にお譲りできてよかったです。』

女はその文章を読んで、少し嬉しくなった。

自分が買ったものを、大事にしている。

それだけのことだった。

『大切にします』

と送った。

出品者から、

『ありがとうございます。』

と返ってきた。

そのあと、

『前の持ち主も、毎日のように着ていました。』

と書かれていた。

女は、

『そうなんですね』

とだけ返した。

それ以上、聞かなかった。

誰だったのか。

何歳だったのか。

なぜ手放したのか。

聞いても仕方ないと思った。

ただ、その日から少しだけ、制服を見る目が変わった。

前の持ち主。

この制服を着ていた人がいる。

自分より前に。

その人も、鏡の前で同じように襟を直したのだろうか。

同じ匂いを嗅いだのだろうか。

同じように、サイズがぴったりだと思ったのだろうか。

そんなことを考えた。

けれど、考えただけだった。

怖いとは思わなかった。

むしろ、少し面白かった。

誰かの生活の一部だったものを、自分が引き継いでいる。

それだけのことだ。

二週間ほど経った頃。

女は制服を脱いだ。

そのとき、首の後ろに何かが触れた。

髪の毛だと思った。

手で払う。

何もない。

もう一度触る。

指先に、細いものが引っかかった。

女は鏡を見た。

黒い糸のようなものが、襟の内側から一本だけ出ていた。

「糸?」

引っ張る。

抜けなかった。

制服の縫い目に引っかかっているのだろう。

女は爪でつまんだ。

少し強く引いた。

その瞬間、首の後ろに小さな痛みが走った。

「痛っ」

手を離した。

糸は消えていた。

女は鏡を見た。

何もない。

赤くなっている。

それだけだった。

「皮膚に引っかかったのかな」

そう思った。

古い服なのだから、糸が出ていることくらいある。

翌日。

袖口から同じようなものが出ていた。

黒い。

髪の毛より少し細い。

女はハサミで切った。

切れた。

それだけだった。

何も起きない。

切った糸をゴミ箱に捨てる。

それで終わり。

ただ、数日すると、また出てくる。

一度。

二度。

三度。

そのたびに切った。

糸はいつも、制服の内側から出ていた。

縫い目ではない。

少なくとも、普通の縫い目の場所ではなかった。

襟の裏。

袖の内側。

脇のあたり。

スカートのウエスト。

女は最初、それを古着の劣化だと思っていた。

けれど、少しずつ気になってきた。

糸を引っ張ると、痛い。

服を引っ張っているのに、皮膚が引かれているような感覚がある。

最初は気のせいだと思った。

乾燥しているのかもしれない。

肌が敏感になっているだけかもしれない。

女は保湿クリームを塗った。

それでも変わらなかった。

ある夜。

制服を着たままベッドに横になった。

テレビを見ていた。

眠くなってきた。

立ち上がって着替えようと思った。

けれど、面倒だった。

そのまま寝た。

朝。

目が覚めた。

制服を着たままだった。

少し汗をかいていた。

「最悪」

女は苦笑した。

制服を脱ごうとした。

襟を持つ。

引っ張る。

脱げない。

正確には、頭を抜くことができない。

布が首に引っかかっている。

女は少し力を入れた。

首が痛い。

「なんで……」

もう一度。

今度は強く引っ張った。

その瞬間、首の後ろから肩にかけて、細い痛みが走った。

女は手を離した。

しばらく動かなかった。

心臓が少し速くなっている。

制服を見る。

何も変わっていない。

セーラー服だ。

濃紺の布。

白い襟。

赤いリボン。

普通の制服。

女は鏡の前に立った。

自分の首を確認する。

赤い線が一本ついていた。

襟が食い込んだ跡。

それだけ。

「寝てる間に変なところに引っかかったんだ」

そう考えた。

一度着替えることを諦めた。

仕事の時間が迫っていた。

その日は制服のまま出勤するわけにはいかない。

結局、十五分ほどかけて、少しずつ脱いだ。

襟を左右に広げる。

頭を抜く。

痛い。

けれど、できた。

脱げた。

女は制服をベッドに置いた。

「……普通に脱げるじゃん」

自分に言い聞かせるように呟いた。

その日の夜。

帰宅すると、制服を見た。

少し迷った。

もう着るのはやめようかと思った。

クリーニングに出して、そのまま売り直す。

それが一番いい。

そう考えた。

けれど。

手に取った。

布が柔らかかった。

妙に手に馴染む。

女はその感触を確かめるように指を滑らせた。

「一回着るだけ」

そう言った。

また着た。

それから、毎日着た。

制服を着ていると落ち着いた。

仕事から帰ってきて着替える。

普通なら部屋着にする。

けれど、女は制服を着た。

理由は自分でも分からなかった。

締め付けが強いわけではない。

むしろ楽だった。

肩の位置。

袖の長さ。

首元。

全部がちょうどいい。

身体を包む布が、最初から自分の身体の形を知っているようだった。

そんな表現が、一番近かった。

ある日、スマートフォンを見ていると、出品者からまたメッセージが来た。

『よく着てくださっていますか。』

女は、

『はい。毎日着ています』

と返した。

『とても着やすいです』

そう送ると、

『よかったです。』

『馴染んできた頃だと思います。』

女は少し考えた。

『最初より匂いも気にならなくなりました』

と返した。

返信は、

『それも馴染んだということです。』

だった。

女は笑った。

なんだか変な言い方だ。

けれど、嫌ではなかった。

その日から、匂いを気にしなくなった。

最初は魚のようだった。

湿った土のようだった。

今では、自分の部屋の匂いと区別がつかなかった。

むしろ、帰宅して制服を着たとき、その匂いがすると安心した。

自分の匂いだと思っていた。

いつからそう思うようになったのかは、分からなかった。

一か月が経った。

女は制服を着たまま眠ることが増えた。

朝、起きて、そのまま着ている。

仕事に行く日は脱ぐ。

帰宅したら、また着る。

休日は一日中着ている。

風呂に入るときだけ脱ぐ。

その風呂さえ、面倒になってきた。

服を脱ぐのに時間がかかるからだ。

脱ぐと、皮膚が少し痛む。

特に襟の周辺。

肩。

脇。

腕。

制服が身体から離れると、そこだけ妙に寒い。

最初は汗が冷えたのだと思っていた。

しかし、違った。

服を脱いだ状態そのものが、落ち着かなかった。

裸の皮膚が外気に触れる。

それが嫌だった。

女は次第に、制服を着たままシャワーを浴びるようになった。

最初は裾が濡れないように気をつけていた。

それでも一度、スカートまで濡らしてしまった。

水を止めて、制服を見る。

びしょ濡れになった濃紺の布。

「乾かさないと」

そう思った。

タオルで拭く。

ドライヤーを当てる。

布はなかなか乾かなかった。

けれど、翌朝には乾いていた。

少し湿っている気がしたが、着られないほどではない。

女はそのまま仕事へ行った。

それからは、風呂でも脱がなくなった。

髪を洗う。

身体を洗う。

制服はそのまま。

さすがにスカートは邪魔だった。

けれど、それも慣れた。

誰にも見られないのだから問題ない。

自分の家なのだから。

そう考えていた。

ある朝。

鏡の前で、女は少しだけ違和感を覚えた。

制服を着ている自分を見る。

以前より、制服が身体に近く見える。

布が肌に張り付いている。

というより。

肌と布の境目が、以前ほどはっきりしない。

女は鏡に近づいた。

襟の内側を見る。

皮膚が見えている。

当然だ。

白い襟と首の皮膚。

境目はある。

指で触る。

布。

その下に皮膚。

普通だった。

女は気にしなかった。

仕事に行った。

その日の夜。

帰宅すると、玄関で靴を脱いだ。

そのまま部屋へ入る。

いつものように制服を着ている。

鞄を置く。

テレビをつける。

ソファに座る。

何も変わらない。

ただ。

スマートフォンを見ていると、右手の人差し指が少し動かしにくかった。

曲げる。

伸ばす。

問題ない。

もう一度。

少しだけ遅い。

「疲れたかな」

そう思った。

仕事ではパソコンを使う。

肩も凝っている。

それだけだ。

翌日には戻った。

その翌日。

また少し動かしにくかった。

女は指を見た。

爪の横に黒いものがあった。

糸だった。

細い黒い糸。

爪の脇から出ている。

「え……」

女は指でつまんだ。

引っ張る。

痛い。

指の奥が引かれる。

「痛っ」

すぐに離した。

糸は皮膚の中に戻った。

見間違いかと思った。

女は指を洗った。

石鹸をつける。

爪の周りを擦る。

何もない。

それで終わりにした。

その夜。

寝る前に、また見た。

黒い糸が一本。

今度は左手の爪の脇から出ている。

女はハサミを持った。

小さな眉毛用のハサミ。

先端で糸を切る。

パチン。

切れた。

痛みはなかった。

安心した。

切った糸は、床に落ちた。

拾おうとした。

しかし。

見つからなかった。

小さいからだろう。

女は探すのをやめた。

ベッドに入る。

眠る。

翌朝。

右手の指先が少し赤くなっていた。

絆創膏を貼った。

それだけだった。

仕事に行く。

帰宅する。

制服を着る。

毎日同じだった。

変わったことは何もない。

そう思っていた。

九月。

朝晩が少し涼しくなった。

女は制服を着ている時間がさらに長くなった。

季節的にもおかしくない。

そう自分では思っていた。

冬服なのだから、今くらいの時期から着てもいい。

そういう理由をつけることができた。

けれど、実際には違った。

制服を脱ぐことが嫌だった。

着ているほうが楽だった。

肌が隠れていると安心する。

服が身体に沿っていると、身体の輪郭が分かる。

何も着ていないと、自分の身体が妙に大きく感じる。

制服を着ていると、それがなくなる。

ぴったりと収まる。

女はそれを気に入っていた。

ある夜。

寝る前に鏡を見た。

制服姿の自分。

白い襟。

赤いリボン。

濃紺の布。

髪を下ろしている。

自分ではない誰かのように見えた。

それなのに。

以前より自分らしく見えた。

そのことに、女は気づかなかった。

ただ、鏡を見ながら、

「この制服、ほんとに合うな」

と思った。

翌日。

出品者からメッセージが来た。

『長く着てくださってありがとうございます。』

女は少し驚いた。

『こちらこそ、いいものをありがとうございました』

と返した。

すると、

『制服も喜んでいると思います。』

と返ってきた。

女は少し笑った。

冗談だろう。

そう思った。

『大切にします』

と送った。

返事は、

『ありがとうございます。』

それだけだった。

その数日後。

女は久しぶりに制服を脱ごうとした。

理由は、洗濯だった。

さすがに何日も洗っていない。

風呂には入っている。

制服も濡らしている。

それでも、ちゃんと洗ったことはなかった。

女は脱衣所で襟を持った。

引っ張る。

動かない。

「……あれ」

もう一度。

少し強く。

首の皮膚が引っ張られる。

痛い。

女は手を離した。

しばらく制服を見た。

「これ、どうなってるの」

今度は袖を引っ張った。

抜けない。

布と腕の間に指を入れる。

隙間はある。

なのに、抜けない。

指先を滑らせる。

そのとき、何かに触れた。

糸。

黒い。

何本もある。

女は息を止めた。

襟の内側。

袖の内側。

脇。

どこからともなく、黒い細いものが伸びている。

糸に見える。

髪の毛にも見える。

しかし、どれも服の縫い目にはつながっていなかった。

皮膚のほうに入っている。

女は一瞬、それを見つめた。

頭が理解するまでに時間がかかった。

「……皮膚?」

声が小さくなる。

指で触る。

痛い。

確かに皮膚から出ている。

女は爪で一本つまんだ。

引っ張る。

痛みが走った。

今度は、切ることができなかった。

糸が途中で揺れた。

その揺れが、皮膚の中に続いているように見えた。

女はハサミを置いた。

怖かった。

でも、救急車を呼ぶほどではない。

そう思った。

病院に行くべきか。

皮膚科。

それとも外科。

いや。

こんなことで病院に行ったら、何と言えばいい。

「服を脱ごうとしたら、糸が皮膚に入っています」

そんな説明をして、信じてもらえるだろうか。

服を見せればいい。

そう考えた。

けれど。

脱げない。

その事実だけが、急に現実味を持った。

女はスマートフォンを手に取った。

検索する。

『服 脱げない 皮膚』

『服 糸 皮膚 刺さる』

『古着 皮膚 痛い』

いろいろ検索した。

当然、求めている答えは出てこない。

汗。

アレルギー。

接触皮膚炎。

静電気。

乾燥。

縫い目。

そういう話ばかりだった。

女は画面を閉じた。

その夜は制服を着たまま寝た。

翌朝。

少し楽になっていた。

痛みはない。

女は安心した。

寝ている間に皮膚が戻ったのだろう。

そう考えた。

制服も、昨日ほど脱ぎにくくなかった。

少しだけ襟を広げる。

頭を抜く。

抜けた。

「ほら」

女は独り言を言った。

やっぱり、昨日は何かの拍子に引っかかっていただけだ。

そう思った。

それからしばらく、何も起こらなかった。

十月。

女は仕事を辞めた。

理由は体調だった。

制服とは関係ない。

そう思っていた。

朝起きるのがつらい。

仕事に行く準備が面倒。

人と話すのも疲れる。

家に帰ってくると、何もしたくない。

だから辞めた。

辞めてからは、家にいる時間が増えた。

当然、制服を着る時間も増えた。

朝起きる。

制服を着る。

食事をする。

テレビを見る。

昼寝をする。

起きる。

制服を着ている。

夜もそのまま。

生活のほとんどが制服になった。

女はそれを変だと思わなくなっていた。

むしろ、服を着替えることのほうが変だった。

ある日。

クローゼットを整理していた。

古い服を捨てようと思った。

シャツ。

ワンピース。

冬物のコート。

いらないものを袋に入れる。

そして、制服を見る。

ハンガーにかかっている。

女は少し迷った。

「これも、いらないかな」

そう言った。

すると。

制服の袖が、ほんの少し揺れた。

窓は閉まっていた。

女は動きを止めた。

しばらく見る。

何もない。

「気のせい」

そう言って、作業を続けた。

制服には触れなかった。

その日の夜。

ベッドに入る。

スマートフォンを見る。

出品者とのメッセージ履歴を開いた。

一番最初の、

『大事に着てくださる方にお譲りしたいです。』

という文章。

女はそれを読み返した。

その下に、

『前の持ち主も大事に着ていました。』

そのさらに下。

『着ているうちに身体の匂いと混ざって、自然に馴染みます。』

女は指を止めた。

自分の身体の匂い。

制服。

前の持ち主。

それらが頭の中でつながった。

けれど、怖くはなかった。

むしろ、自分もこの制服を大事にしている。

そう思った。

『大事に着ています』

女は出品者に送った。

すぐに既読がついた。

返信はなかった。

しばらくして、

『ありがとうございます。』

だけ届いた。

その下に、

『もう十分馴染んでいると思います。』

とあった。

女は、

『そうですね』

と返した。

そのあと、

『最近は脱ぐほうが落ち着かないです』

と書いた。

送信してから、少し後悔した。

変なことを書いたかもしれない。

しかし、出品者は何も言わなかった。

数分後。

『それなら、そのままで大丈夫です。』

と返ってきた。

女は画面を見つめた。

『そのまま』

その言葉が、少しだけ引っかかった。

けれど、それ以上考えなかった。

十一月。

寒くなった。

暖房をつける。

女は制服を着ている。

暖房をつけていると、少し暑い。

けれど、脱ぐ気にはならない。

汗をかく。

匂いが強くなる。

それでも、嫌ではない。

むしろ、その匂いを嗅ぐと安心した。

それが自分の匂いだと思っていた。

ある日。

鏡の前で、女は首元を見た。

皮膚が少し濃くなっている。

襟の形に沿って、線がある。

日焼けではない。

赤みでもない。

濃紺の布の境目が、皮膚に残っているようだった。

女は指で触った。

ざらざらしている。

乾燥しているのだろう。

保湿剤を塗った。

翌日には、少し薄くなった。

それだけだった。

十二月。

女はほとんど外に出なくなった。

必要なものは通販で買う。

食事も家で済ませる。

誰かと会うこともない。

一人でいることが苦ではなかった。

むしろ楽だった。

制服を着ている。

それだけで、生活がまとまっているように感じた。

朝。

目を覚ます。

制服を見る。

着ている。

それが普通。

いつからか、自分が制服を着ていることを確認することさえなくなった。

ある朝。

女は目を覚ました。

窓から薄い光が入っている。

布団をめくる。

制服を着ている。

いつものことだった。

起き上がる。

鏡を見る。

自分が映っている。

女は少しだけ首を傾げた。

何かがおかしい。

けれど、何がおかしいのか分からない。

顔。

髪。

制服。

全部いつも通り。

ただ。

制服の白い襟が、首から生えているように見えた。

女は鏡に近づいた。

触る。

襟。

布だ。

指でつまむ。

布の感触。

その下には皮膚。

普通。

女は手を離した。

「疲れてるな」

そう言った。

その日は一日中、鏡を見ることができなかった。

夜。

スマートフォンに通知が来た。

yuki_02。

女は画面を開いた。

『お元気でしょうか。』

女は、

『元気です』

と返した。

『制服も大切にしています』

と送る。

少しして、

『それならよかったです。』

『もう、かなり馴染んでいると思います。』

女は、

『はい』

と返した。

そのあと、少し迷ってから、

『これ、ずっと着ていても大丈夫ですか?』

と送った。

既読がついた。

しばらく返事がなかった。

五分。

十分。

二十分。

女はスマートフォンを置いた。

やっぱり変な質問だった。

そう思った。

翌朝になっても返信はなかった。

昼頃。

スマートフォンが鳴った。

『大丈夫です。』

その一文だけだった。

女は、

『よかった』

と返した。

すると、

『ただ、もう脱がないほうがいいと思います。』

と続いた。

女は画面を見つめた。

『どうしてですか?』

返事は、

『せっかく馴染んだので。』

だった。

女は少し笑った。

意味が分からない。

けれど、なぜか怒る気にもならなかった。

『分かりました』

と送った。

それで会話は終わった。

その夜。

女は制服を着たまま眠った。

夢を見た。

暗い部屋。

クローゼットが開いている。

中には制服が何着も並んでいる。

同じ制服。

濃紺。

白い襟。

赤いリボン。

どれも自分の身体に合うように見えた。

女はその中から一着を取ろうとした。

すると、クローゼットの奥から何かが見えた。

人の皮膚のようなもの。

薄い。

白い。

服の形をしている。

女はそれを手に取った。

柔らかい。

温かい。

自分の腕に当ててみる。

ぴったりだった。

そこで目が覚めた。

午前二時。

部屋は暗かった。

女は布団の中にいた。

制服を着ている。

喉が渇いていた。

水を飲もうと、ベッドから出る。

そのとき。

足が止まった。

クローゼットの前に立っていた。

自分で歩いた覚えがない。

「……あれ」

女は振り返った。

ベッドがある。

今までそこにいた。

なぜクローゼットの前にいるのか。

分からなかった。

女は戻ろうとした。

一歩。

足を動かす。

動いた。

もう一歩。

ベッドに戻る。

それで終わった。

翌朝。

何も覚えていない。

夢のせいだと思った。

その夜。

また午前二時頃に目が覚めた。

今度は、最初からクローゼットの前にいた。

女は動かなかった。

暗い。

クローゼットは閉じている。

取っ手を見る。

手が伸びた。

「やめて」

自分で言った。

けれど、手は止まらない。

取っ手をつかむ。

開ける。

中には服がある。

自分の服。

コート。

ワンピース。

シャツ。

その奥。

濃紺の布が見えた。

女は息を止めた。

制服だった。

一着。

二着。

三着。

数えてみる。

少なくとも五着ある。

そんなはずはなかった。

この部屋にある制服は一着だけだった。

買ったのも一着。

女はクローゼットの中に手を入れた。

一着を引っ張り出す。

同じ制服。

タグを確認する。

何も書いていない。

内側を見る。

縫い目。

布。

そして。

小さな黒い糸。

女はそれを見つめた。

糸をつまむ。

引っ張らない。

ただ触る。

指先に、妙な温かさが伝わってきた。

服が温かい。

クローゼットの中にあっただけなのに。

女は手を離した。

そのとき。

スマートフォンが鳴った。

ベッドの上に置いていた。

画面を見る。

yuki_02からだった。

『まだ起きていますか?』

女は返さなかった。

もう一度、通知が来た。

『クローゼットを開けましたか?』

女の指が止まった。

しばらく画面を見ていた。

『どうして分かるんですか』

送った。

既読。

返信。

『分かるわけではありません。』

『ただ、そろそろだと思ったので。』

女は何度も文章を読み返した。

『そろそろって何ですか?』

返信はすぐだった。

『完成する頃です。』

女はスマートフォンを落としそうになった。

完成。

何が。

そう聞こうとした。

けれど、指が動かなかった。

制服を見る。

濃紺の布。

白い襟。

赤いリボン。

普通の制服。

何も変わっていない。

女は、

『何が完成するんですか』

と送った。

返信は来なかった。

翌朝。

クローゼットを開けると、制服は一着しかなかった。

昨夜の五着は消えていた。

女はしばらく立ち尽くした。

夢だったのだろうか。

寝ぼけていたのだろうか。

そう考えた。

そう考えるしかなかった。

けれど。

床を見る。

黒い糸が一本落ちていた。

女は拾った。

指先で触る。

柔らかい。

髪の毛より細い。

けれど、妙に弾力がある。

女はゴミ箱に捨てた。

その瞬間。

右手の指が、勝手に動いた。

指先が伸びる。

ゴミ箱に向かう。

女は止めようとした。

「やめて」

手首を左手で押さえる。

それでも右手が動く。

ゴミ箱の中から、黒い糸を拾った。

「なんで……」

女は右手を見た。

指が糸を握っている。

自分の意思ではない。

そう思った。

しかし。

右手を動かしている感覚は、確かに自分のものだった。

指先の感覚もある。

痛みもある。

ただ。

動かす理由だけが、自分のものではなかった。

右手は糸を制服の襟へ持っていった。

女は抵抗した。

腕を引く。

肩が痛い。

それでも手は動いた。

黒い糸が襟に触れる。

その瞬間。

指先から、何かが戻ってきたような感覚がした。

女は手を離した。

糸は消えていた。

床にもない。

女はその場に座り込んだ。

しばらく動けなかった。

怖かった。

けれど。

それ以上に。

制服を脱ぐことを考えると、身体の奥が落ち着かなかった。

女は自分の胸元を見た。

濃紺。

白。

赤。

きれいだった。

よく似合っている。

そう思った。

それから、出品者とのメッセージを開いた。

『脱げません』

送信。

すぐに既読。

返信。

『最初にお伝えしたと思います。』

女は画面を見た。

確かに、最初のメッセージには、

『着ているうちに身体に馴染む』

と書いてあった。

『どうしたらいいですか』

送る。

少しして、

『そのままで大丈夫です。』

『もう十分馴染んでいますから。』

女は、

『何にですか』

と送った。

しばらく返事がなかった。

やがて、

『身体にです。』

と届いた。

女は画面を見つめた。

身体。

制服。

その二つの言葉が頭の中で並んだ。

何度考えても意味が分からない。

『脱ぎたいです』

そう送った。

返信は、

『どうしてですか?』

だった。

女は答えられなかった。

脱ぎたい。

そう思ったはずなのに。

なぜ脱ぎたいのか、説明できなかった。

普通の服なら、脱ぎたい理由はいくらでもある。

暑い。

汚れた。

洗濯したい。

着替えたい。

でも、この制服は違った。

脱ぐことそのものが嫌だった。

服がなくなることが怖い。

肌がむき出しになることが怖い。

何かが足りなくなるような気がする。

女はしばらく考えてから、

『寒いから』

と送った。

出品者から、

『そうですか。』

と返ってきた。

それ以上は何もなかった。

翌月。

女の部屋には、制服が増えていた。

正確には、増えたように見えた。

クローゼットを開けると、同じ制服が二着ある。

閉じて、もう一度開ける。

一着。

翌日には二着。

次の日には一着。

女は数えることをやめた。

ある日。

ベッドの上に制服が置いてあった。

自分が置いた覚えはない。

ハンガーもない。

きれいに畳まれている。

女は触らなかった。

けれど、夜になると、その制服がなくなっていた。

代わりに、着ている制服の袖口が少し厚くなっていた。

女はそれを見ても、何も言わなかった。

もう驚くことに疲れていた。

それより。

最近は、制服を着ていると身体の輪郭が安定する。

そう感じていた。

肩。

腕。

腰。

脚。

服に包まれている部分だけが、自分のものだと分かる。

裸になると、どこまでが自分なのか分からなくなる。

だから、脱がない。

そうしているうちに、女はそれを当然だと思うようになった。

ある夜。

スマートフォンを開いた。

yuki_02の出品ページを見た。

商品は削除されていた。

女は少し不安になった。

メッセージを送る。

『まだ連絡できますか?』

しばらくして、

『はい』

と返ってきた。

『制服、どうすればいいですか』

『そのままで大丈夫です。』

『もう脱げないんです』

『はい。』

『どうしてですか』

しばらく間があった。

『中身が決まってきたからです。』

女はその言葉を見て、初めて怖いと思った。

中身。

何のことか分からない。

『中身って何ですか』

送る。

返信はなかった。

翌朝。

女は鏡の前に立った。

制服を着ている。

昨日と同じ。

けれど。

鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた。

顔は自分。

髪も自分。

けれど、首から下が妙に平らだった。

身体の凹凸が、制服の形に合わせて整えられている。

女は胸元を触った。

硬い。

布ではないような感触が一瞬した。

指で押す。

柔らかい。

いつもの感触。

「……疲れてる」

そう呟いた。

鏡から目を逸らした。

その日は何も食べずに過ごした。

水だけ飲んだ。

夜。

ベッドに入る。

眠れない。

制服の襟が首に触れている。

その感触が安心する。

女は目を閉じた。

暗闇の中で、出品者の文章を思い出した。

大事に着てください。

前の持ち主も大事に着ていました。

身体に馴染みます。

そのままで大丈夫です。

中身。

女は目を開けた。

部屋は暗い。

クローゼットの前に、誰かが立っているように見えた。

人の形。

濃紺。

白。

赤。

女は起き上がった。

誰もいない。

クローゼットは閉じている。

女は安心した。

そのとき。

自分の右足が床についた。

立ち上がろうとしている。

「やめて」

女は言った。

足が動く。

ベッドから降りる。

一歩。

二歩。

クローゼットへ向かう。

女は戻ろうとした。

けれど、身体が戻らない。

足だけではない。

腰。

肩。

腕。

全部が少しずつ、同じ方向へ向かっていく。

女はクローゼットの前に立った。

右手が伸びる。

取っ手をつかむ。

開ける。

中には、制服が並んでいた。

何着あるのか分からない。

濃紺の布が、奥まで続いている。

女はその中を見た。

どの制服も、自分に合うように見えた。

いや。

自分が、その形に合わせられているようだった。

女は手を伸ばした。

一着の袖に触れる。

柔らかい。

温かい。

まるで人の皮膚のようだった。

女は手を引いた。

けれど、指先に何かが残った。

黒い細いもの。

糸。

女はそれを見つめた。

糸の先は、自分の指に入っているように見えた。

皮膚の境目が分からない。

女はもう一度引いた。

痛い。

それでも抜けない。

「助けて」

声が出た。

けれど。

誰に言えばいいのか分からなかった。

家には誰もいない。

電話をかける相手もいない。

女はスマートフォンを探した。

ベッドの上。

手を伸ばす。

届かない。

制服が身体を引いている。

そう思った。

でも。

本当にそうなのか。

分からなかった。

身体を動かしているのは自分だった。

足も。

腕も。

指も。

全部、自分のものだった。

ただ。

自分が動かしているという感覚だけが、少しずつ薄くなっていた。

スマートフォンが鳴った。

ベッドの上で画面が光る。

yuki_02。

女は画面を見た。

メッセージが一件。

『もうすぐです。』

女は、

『何が』

と送った。

既読。

すぐに返事。

『綺麗な形になります。』

女は画面を見た。

その意味を考えた。

自分が何になるのか。

制服が何になるのか。

考えているうちに、身体がクローゼットへ近づいた。

鏡が横にある。

その鏡に、自分が映っている。

女はそこで初めて気づいた。

首元。

襟。

境目がない。

白い襟の下にあるはずの皮膚が、どこから始まっているのか分からない。

女は指で触った。

布。

皮膚。

また布。

どこまでがどちらなのか分からない。

女は指を止めた。

その指先にも、黒い糸があった。

一本。

二本。

増えている。

けれど、痛くなかった。

もう痛いのかどうかも分からなかった。

スマートフォンがまた鳴った。

『大事に着てくださって、ありがとうございました。』

女はその文章を読んだ。

返信しようとした。

指が動かない。

画面に文字を入力する。

『脱』

そこまで打ったところで、文字が消えた。

女はもう一度入力した。

『たす』

消える。

また入力する。

『助』

消える。

最後に残ったのは、

『着』

という一文字だった。

女はそれを見つめた。

なぜその文字になったのか分からない。

クローゼットの奥から、湿った匂いがした。

最初に届いたときと同じ匂い。

雨の後の川底。

濡れた土。

古い水。

女はその匂いを嗅いだ。

嫌ではなかった。

むしろ。

懐かしい。

そう思った。

そのことに気づいてから、女はしばらく動かなかった。

懐かしい。

なぜ。

分からない。

それでも、知っている匂いだった。

女はクローゼットの中へ手を伸ばした。

一着。

もう一着。

服をかき分ける。

その奥に、何かがある。

白い。

薄い。

服の形をしている。

女はそれを持ち上げた。

柔らかい。

冷たい。

そして、手のひらに吸い付くような感触。

女はそれを胸元に当てた。

ぴったりだった。

その瞬間。

スマートフォンが鳴った。

最後のメッセージ。

『中身が詰まって、やっと綺麗な形に戻れました。』

女は画面を見た。

意味は分からなかった。

けれど、その文章を読んだ瞬間。

自分の身体が、何かに収まったような感覚がした。

肩の位置が決まる。

腕の位置が決まる。

首の位置が決まる。

脚の位置が決まる。

身体全体が、決められた形に収まっていく。

苦しくない。

むしろ、楽だった。

女は鏡を見た。

鏡の中には、女子高生が立っていた。

濃紺のセーラー服。

白い襟。

赤いリボン。

長い髪。

ただし。

顔だけは、女の顔だった。

女は鏡の中の自分を見つめた。

その顔が、少しだけ笑った。

自分で笑ったのか。

分からなかった。

翌朝。

部屋は静かだった。

ベッドには誰もいない。

クローゼットは閉じている。

床には何も落ちていない。

テーブルの上に、スマートフォンだけがあった。

画面には、フリマアプリが表示されていた。

出品者は、

yuki_02。

新しい商品が一件、出品されている。

タイトル。

『私立〇〇女子高校 冬服制服(セーラー服・スカート)』

写真は、以前とほとんど同じだった。

濃紺のセーラー服。

白い襟。

赤いリボン。

ハンガーにかけられている。

商品説明も、以前と同じだった。

『もう着なくなったので出品します。』

『伝統のある可愛い制服です。』

『大事に着てくださる方にお譲りしたいです。』

その下に、一文だけ追加されていた。

『購入された方は、届いたらすぐに袖を通してください。サイズがぴったりだと良いのですが。』

評価は、まだゼロだった。

その日の夜。

新しい購入者からメッセージが届いた。

『購入しました。』

『ずっと憧れていた学校の制服なので、届くのが楽しみです。』

出品者は返信した。

『ありがとうございます。』

『大事に着てくださる方にお譲りできて嬉しいです。』

少しして。

『この制服は、着ると身体にぴったり馴染みます。』

購入者から、

『本当ですか?』

と返ってきた。

出品者は、

『はい。』

『前の持ち主も、とても大事に着ていました。』

と送った。

購入者は、

『楽しみです』

と返した。

そのメッセージの横には、小さな「既読」の表示がついた。

そして。

部屋のどこかで。

布が擦れる音がした。

一度。

二度。

三度。

それから、静かになった。


ありがとう

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