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3/3

ウェディングドレス

素敵ですよ。


「いいと思う」

 二人で決めた。

 その日、帰宅してから志乃は式場のパンフレットを何度も見返した。

 写真を見る。

 チャペル。

 披露宴会場。

 テーブル。

 花。

 ケーキ。

 そして、そこに写っている花嫁。

 白いドレス。

 長いベール。

 顔は笑っている。

 志乃も、その写真の中に自分を重ねた。

 いつか、自分もこうなる。

 そう思うだけで少し嬉しかった。

 結婚式まで、まだ時間がある。

 だから、ゆっくり決めればいい。

 そう思っていた。

 問題は、そのあとだった。

 結婚式は、二人だけのものではなかった。

 少なくとも、周囲はそう思っている。

 最初にそれを感じたのは、料理を決めるときだった。

 式場からいくつかコースを提示された。

 洋食中心のコース。

 和洋折衷。

 少し高いけれど品数の多いコース。

 志乃は二人で相談して、和洋折衷にしようと考えていた。

 ところが、健吾の母親から電話が来た。

「志乃さん、料理はもう決めたの?」

「いえ、まだです」

「そう」

 声は優しかった。

 いつもそうだった。

 健吾の母親は、怒鳴ったりしない。

 命令もしない。

 何かを強く要求することもない。

 だからこそ、志乃は最初、自分が気にしすぎているのだと思っていた。

「お料理なんだけどね」

「はい」

「親戚の方は年配の方が多いでしょう?」

「そうですね」

「洋食より、和食のほうが食べやすいんじゃないかしら」

「そうかもしれません」

「もちろん、二人の好きなようにしたらいいのよ」

 そこで一度、話が終わる。

 志乃が、

「分かりました」

 と言おうとすると、

「ただ、健吾のおじさんなんかは、洋食が続くと胃がもたれるって言ってたから」

 と続く。

「ああ…」

「だから、和食が少し入っているほうがいいかなと思って」

「分かりました」

「もちろん、私が決めることじゃないけど」

「はい」

「二人で相談してみて」

 電話を切る。

 志乃はスマートフォンをテーブルに置いた。

 数秒後、健吾からメッセージが来た。

『母さんから聞いた』

『料理のこと?』

『うん』

『和食にしたほうがいいかな』

『俺はどっちでもいいよ』

 志乃は画面を見つめた。

『じゃあ和洋折衷でいい?』

『いいよ』

 そこまではよかった。

 しかし、翌日。

 健吾から電話が来た。

「母さんが、和洋折衷ならもう少し和食寄りのほうがいいんじゃないかって」

「…そう」

「どうする?」

「健吾は?」

「俺は志乃が決めていいと思う」

「じゃあ和洋折衷のままでいいじゃん」

「うん」

「じゃあそうしよう」

「うん」

 電話を切った。

 志乃はため息をついた。

 まだ料理一つだ。

 これから、もっと決めることがある。

 席次。

 引き出物。

 花。

 写真。

 そして衣装。

 そう考えると、少しだけ疲れた。

 それでも、衣装だけは楽しみだった。

 白いドレス。

 それだけは、自分が好きなものを選びたかった。

 衣装の試着の日。

 志乃は朝から少し浮かれていた。

 予約時間より少し早く着いてしまった。

 店内には、何着ものドレスが並んでいた。

 白。

 アイボリー。

 少し青みがかった白。

 レースの多いもの。

 シンプルなもの。

 胸元が広く開いたもの。

 首元まで覆われたもの。

 スタッフが何着か候補を出してくれた。

「こちらは人気があります」

「これも可愛いですね」

「こちらはラインが綺麗です」

 志乃は一着ずつ試した。

 ドレスを着るたび、鏡を見る。

 普段の自分とは違う。

 髪をまとめてもらう。

 ベールをつけてもらう。

 鏡の中を見る。

 少し恥ずかしい。

 でも、嬉しい。

「こちら、とてもお似合いですね」

「ありがとうございます」

「写真撮りますか?」

「お願いします」

 スタッフがスマートフォンを受け取る。

 志乃は鏡の前で笑った。

 写真を撮る。

 正面。

 横。

 少し身体を斜めにする。

 撮影が終わる。

 志乃は写真を確認した。

 思ったより綺麗に写っていた。

 健吾に送る。

『どう?』

 しばらくして返信が来る。

『いいじゃん』

 そのあと。

『母さんも好きそう』

 志乃の指が止まった。

 さっきまで嬉しかった。

 なのに、少しだけ気持ちが冷めた。

『そうだね』

 それだけ返信した。

 スマートフォンを鞄に入れる。

 鏡を見る。

 自分が着たいと思ったドレス。

 なのに、誰かにどう思われるかを考えてしまう。

 志乃は小さく息を吐いた。

 その夜。

 志乃はなかなか眠れなかった。

 ベッドの中でスマートフォンを触る。

 結婚式の写真。

 ドレス。

 花嫁。

 検索しているうちに、フリマアプリを開いた。

 中古のウェディングドレスが並んでいる。

 買うつもりはなかった。

 ただ、どんなものが出ているのか見たかっただけだ。

 スクロールする。

 またスクロールする。

 何着も見る。

 価格。

 サイズ。

 状態。

 ブランド。

 そして、一つの商品で指が止まった。

 白いドレスだった。

 写真は少し暗い。

 新品ではない。

 少しくすんでいる。

 胸元に細いレース。

 腰に小さな装飾。

 裾に擦れた跡。

 それなのに、妙に綺麗だった。

 写真の背景も、あまり綺麗ではない。

 白い壁。

 古い床。

 どこか暗い部屋。

 それでも、ドレスだけが目についた。

 商品説明は短かった。

『以前の持ち主が大事に着ていました』

『大切な場面で着ていただける方にお譲りします』

『少し古いものですが、着ているうちに身体に馴染みます』

 志乃は眉をひそめた。

「身体に馴染む…」

 変な表現ではない。

 革靴や革製品なら普通に使う。

 新品の服だって、何度か着れば身体に馴染む。

 だから、それだけで怪しいとは思わなかった。

 価格を見る。

 安い。

 式場のレンタル料金と比べれば、かなり安い。

 志乃は商品ページを閉じた。

 必要ない。

 すでに式場で選ぶ予定なのだから。

 そう思った。

 それでも、五分後にはまた開いていた。

 写真を見る。

 もう一度、見る。

 そのドレスを着た自分を想像する。

 チャペル。

 バージンロード。

 ベール。

 白いドレス。

 鏡の中の自分。

 その想像が、不思議なくらい自然だった。

 志乃は眉をひそめた。

「…似合いそう」

 そう呟いた。

 出品者はyuki_02。

 評価は少ない。

 悪い評価はない。

 プロフィールも簡素だった。

 志乃は一度、出品者に質問した。

『サイズについて教えていただけますか?』

 翌朝、返事が来た。

『以前の持ち主に合わせて作られたものなので、一般的なサイズとは少し違います。ただ、着ているうちに身体に馴染みます。』

 志乃は少し考えた。

 もう一度質問する。

『試着して合わなかった場合、返品できますか?』

 返事は数時間後だった。

『古いものなので、返品はご遠慮ください。大事に着てくださる方にお譲りしたいと思っています。』

 志乃は画面を閉じた。

 ここでやめるべきだった。

 そう思った。

 だが、その日の夕方。

 健吾からメッセージが来た。

『母さんがドレスのことまた言ってる』

『何て?』

『あまり派手じゃないほうがいいって』

 志乃はスマートフォンを見た。

 それから、もう一度フリマアプリを開いた。

 白いドレス。

 写真の中で、誰かが着ているわけではない。

 ただ、床に置かれている。

 なのに。

 自分が着た姿だけは、妙にはっきり想像できる。

 志乃は購入した。

 購入ボタンを押したあと、少し後悔した。

 でも、取り消すほどではなかった。

 価格も高くない。

 結婚式まで時間もある。

 試着して、気に入らなければ別のドレスを使えばいい。

 そう考えた。

 三日後。

 段ボールが届いた。

 箱は普通だった。

 送り状にも不自然なところはない。

 志乃は写真を撮ってから開封した。

 なぜ写真を撮ったのか。

 自分でもよく分からなかった。

 中古品なので、到着時の状態を残しておこうと思った。

 箱を開ける。

 臭い。

 最初に、それを感じた。

 魚のような臭い。

 生臭いというほどではない。

 湿った場所に長い間置かれていた布の臭い。

 志乃は顔をしかめた。

「洗えば取れるかな」

 そう思った。

 ドレスを取り出す。

 写真で見るより柔らかい。

 そして、重い。

 見た目よりずっと重かった。

 志乃は床に広げた。

 白い。

 少しくすんでいる。

 レース。

 装飾。

 裾の擦れ。

 写真と同じだった。

「かわいい」

 思わず言った。

 臭いさえなければ、かなり好みだった。

 その日の夜。

 志乃は試着した。

 本番で使うつもりはなかった。

 ただの試着。

 写真を撮るだけ。

 そう思っていた。

 ドレスを着る。

 足を通す。

 腰を合わせる。

 肩を入れる。

 ファスナーを上げる。

 少しきつい。

 でも、入った。

 鏡を見る。

 志乃は黙った。

 似合っている。

 それどころか。

 今まで試着したどのドレスよりも、自分に合っていた。

 肩。

 胸元。

 腰。

 全部がちょうどいい。

 裾の長さまでぴったりだった。

「すごい…」

 志乃は鏡の前で一回転した。

 裾が遅れてついてくる。

 白い布が床の上を滑る。

 レースが光を受ける。

 写真を撮る。

 正面。

 横。

 後ろ。

 笑う。

 少し恥ずかしい。

 でも、嬉しい。

 結婚式が楽しみになった。

 久しぶりに、純粋にそう思った。

 数分。

 志乃は鏡の前に立っていた。

 そして、ふと我に返った。

「そろそろ脱ごう」

 ファスナーを下げる。

 動かない。

「ん?」

 もう一度。

 動かない。

 志乃は眉をひそめた。

 ファスナーの歯を見る。

 壊れていない。

 生地も巻き込んでいない。

 それでも動かない。

 少し力を入れる。

 背中が痛い。

「痛っ」

 志乃は手を離した。

 無理にやらない。

 服を壊すだけならまだしも、身体を傷つける可能性がある。

 志乃はスマートフォンを持った。

 背中を撮影する。

 鏡越しに何枚か撮る。

 拡大する。

 黒いものが一本見える。

 糸。

 髪の毛。

 どちらにも見える。

 志乃は鏡の前で身体をひねった。

 指でつまむ。

 軽く引く。

 痛い。

「…何これ」

 すぐに手を離した。

 ファスナーの不具合。

 特殊な縫製。

 皮膚への刺激。

 その程度だと思った。

 写真を保存する。

 購入履歴を保存する。

 出品者とのメッセージも保存する。

 それから健吾に電話した。

「ドレスが脱げない」

「え?」

「ファスナーが動かない」

「壊れた?」

「たぶん」

「今から行こうか?」

「大丈夫」

「本当に?」

「うん」

「無理に引っ張らないほうがいいよ」

「分かってる」

「明日、店に持っていこう」

「うん」

 電話を切った。

 志乃はそのまま寝なかった。

 ドレスを着たまま寝るという発想自体がなかった。

 そもそもウェディングドレスは寝間着ではない。

 だから、どうにか脱ぐ方法を考えた。

 ファスナーを少しずつ動かす。

 駄目。

 肩の部分を緩める。

 駄目。

 裏側を確認する。

 うまく手が届かない。

 黒いものを切ろうとする。

 ハサミを入れる。

 少しだけ切る。

 その瞬間。

 背中に鋭い痛みが走った。

「痛い!」

 志乃はハサミを落とした。

 背中を見る。

 血が少し滲んでいる。

 黒いものは切れていなかった。

 志乃はそこで初めて、少しだけ怖くなった。

 だが、取り乱さなかった。

 まず写真を撮る。

 血の量。

 位置。

 傷。

 全部記録する。

 スマートフォンのメモを開いた。

『23:47 黒い線状物を切断しようとしたところ疼痛あり。出血少量。切断できず。』

 入力する。

『23:50 無理に脱衣しないことにする。』

 さらに書く。

 それから、ドレスの上に薄い部屋着を重ねた。

 寝る。

 できるだけ普段通りに。

 志乃はそう決めた。

 怪異だと思えば、何でも怪異に見えてしまう。

 まずは普通に対処する。

 そういう性格だった。

 翌朝。

 皮膚科へ行った。

 医師に写真を見せる。

 実際のドレスも見せる。

「ファスナーが動かなくなったんです」

 医師は背中を見る。

「少し引っかかっているのかもしれませんね」

「それと、これ」

 黒いものを指す。

「何でしょう?」

「糸のように見えますが」

「引っ張ると痛いです」

 医師がピンセットで触る。

 軽く引く。

 志乃が顔をしかめる。

「痛いです」

 医師はすぐに手を離した。

「皮膚と繋がっているように感じますね」

「服を切れば取れますか?」

「分かりません」

「そうですか」

「無理に切ったり引っ張ったりしないほうがいいでしょう」

 志乃は頷いた。

「こういうことって、ありますか?」

 医師は少し考えた。

「普通の衣類では、あまり聞きませんね」

「そうですよね」

「ただ、私は衣服の専門家ではないので」

「はい」

「皮膚の状態としては、今すぐ危険という感じではありません」

「分かりました」

「痛みが強くなったら、また来てください」

 診察を終える。

 帰り道。

 志乃はスマートフォンにメモを追加した。

『医師:異常な衣類の状態については判断できず。無理に切断・牽引しないよう指示。』

 そして、出品者に連絡した。

『着用後、ファスナーが動かなくなりました。また、黒い糸のようなものが皮膚から出ています。』

 送信。

 返事は早かった。

『以前の持ち主にもありました。』

 志乃は画面を見た。

『そのことは商品説明に書いてありませんでしたよね?』

 送信。

『申し訳ありません。』

『以前の持ち主はどうなったんですか?』

 少し間があった。

『問題なく着ていました。』

 志乃は眉をひそめた。

『脱げなくなったのでは?』

『はい。』

『それを問題ないと言っているんですか?』

 返信はなかった。

 しばらくして。

『着ているうちに身体に馴染みます。』

 志乃はその文章を保存した。

 この出品者はおかしい。

 そう判断した。

 怪異ではない。

 人間がおかしい。

 それが志乃の最初の結論だった。

 フリマアプリの運営に問い合わせる。

 商品説明。

 出品者とのやり取り。

 写真。

 全部送る。

 返信は翌日だった。

『出品者とのトラブルについては、双方での話し合いをお願いします。』

 志乃はため息をついた。

 問い合わせフォームを閉じる。

 次に消費生活センターについて調べる。

 衣類の購入トラブル。

 中古品。

 身体への危害。

 返金。

 いくつか情報を読む。

 そして、またメモする。

『現状、相手が故意に危険物を販売したことを証明できない。』

『商品説明に「身体に馴染む」と記載あり。ただし脱衣不能になることは記載なし。』

『写真保存済み。』

 志乃は、自分でも少し可笑しくなった。

 結婚式の準備をしているはずなのに。

 まるで事件の証拠を集めている。

 でも。

 これくらいしなければならないと思った。

 自分の身体に起きていることなのだから。

 健吾に話す。

「前の人にも同じ症状があったって」

「え?」

「脱げなくなったって」

「それ、返品できないの?」

「出品者は返す気ないみたい」

「警察は?」

「まだ」

「相談したほうがいいんじゃない?」

 志乃は頷いた。

 その日の夜。

 健吾が家に来た。

 ドレスを見る。

「…確かに普通に見えるけど」

「そうでしょ」

「でも、脱げないんだよね」

「うん」

 健吾がファスナーを触る。

 動かない。

 少し引く。

 志乃の身体が引っ張られる。

「痛い?」

「うん」

 健吾は手を離した。

「無理しないほうがいいな」

「そう思う」

「母さんに相談する?」

「嫌」

 即答だった。

「なんで?」

「絶対、私が悪いって言われる」

「そんなことないよ」

「言うよ」

「言わないって」

「じゃあ、なんで前からドレスに口出してくるの?」

 健吾は黙った。

「私、この状態を見られたくない」

「…分かった」

 その日は、それ以上話さなかった。

 結婚式まで二十日。

 準備は続く。

 招待客。

 席次。

 料理。

 健吾の母親からメッセージが届く。

『ドレスは決まった?』

 志乃は画面を見つめた。

『決まりました』

『どんなドレス?』

 写真を送るか迷った。

 送らなかった。

『当日のお楽しみでお願いします』

 送信。

 すぐに返事。

『楽しみにしているわね』

 その文章を見て、志乃は少しだけ嫌な気持ちになった。

 このドレスを見られたくない。

 そんな気持ちがあった。

 一方で。

 鏡を見ると、嬉しくなる。

 自分に似合っている。

 本当に。

 その感覚だけは嘘ではなかった。

 それが、志乃には怖かった。

 ドレスは脱げない。

 身体と繋がっている。

 なのに。

 着ている自分が好きになっている。

「馬鹿みたい」

 そう言った。

 そして写真を撮る。

 日付を記録する。

 毎日。

 少しずつ。

 黒い線が増えている。

 肩。

 背中。

 首。

 まるで細い糸が皮膚の下へ入り込んでいるようだった。

 医師に言われた通り、無理に引っ張らない。

 切らない。

 触りすぎない。

 ただ、観察する。

 志乃はそうした。

 結婚式まで十七日。

 ある日。

 鏡の中の自分が、いつもより綺麗に見えた。

 顔色がいい。

 肌が明るい。

 姿勢がいい。

 腰の線がきれい。

 ドレスが身体にぴったり沿っている。

「…写真写りがいいだけ」

 そう考えた。

 スマートフォンで撮る。

 写真も綺麗だった。

 志乃は少し嬉しくなった。

 そして、気づく。

 最近、鏡を見る時間が増えている。

 ドレスを見る。

 自分を見る。

 写真を見る。

 それを繰り返している。

 志乃は意識的に鏡を見ないようにした。

 仕事をする。

 食事をする。

 結婚式の準備をする。

 普通の生活を続ける。

 そうすればいい。

 怪異など信じない。

 自分はただ、変な服を買ってしまっただけ。

 そう思う。

 それでも、夜になると気になる。

 身体の境界。

 黒い線。

 そして、臭い。

 最初は魚のようだった。

 今は、ほとんど気にならない。

 鼻を近づければ分かる。

 でも、普段は気づかない。

 慣れてしまった。

 それが嫌だった。

 結婚式まで十四日。

 健吾の母親から電話。

「志乃さん、少し話してもいい?」

「はい」

「ドレスのことなんだけど」

 志乃は黙った。

「健吾から聞いたの。中古のものを買ったんですって?」

「はい」

「そう」

 声は優しかった。

「どうしてそんなものを?」

 志乃は言葉を失った。

 やっぱり。

「安かったので」

「でも、結婚式のドレスでしょう?」

「はい」

「一生に一度のことだから、もう少しきちんとしたものを選んだほうがいいと思うの」

 志乃は黙った。

「もちろん、志乃さんの好きなものを選ぶのはいいのよ」

 また。

「ただ、結婚式って本人だけのものじゃないから」

 志乃はゆっくり息を吐いた。

「分かっています」

「それならいいんだけど」

 電話を切る。

 志乃はしばらく動かなかった。

 そして、鏡を見る。

 白いドレス。

「私が悪いのかな」

 呟く。

 返事はない。

 当たり前だ。

 ただ、鏡の中の自分だけが笑っていた。

 志乃は笑っていない。

 一瞬。

 そう見えた。

 目をこする。

 普通。

 自分。

 白いドレス。

 何も変わっていない。

「疲れてるだけ」

 そう言った。

 翌日。

 医師にもう一度相談した。

「やはり、無理に脱がないほうがいいでしょう」

「はい」

「痛みは?」

「あります」

「広がっていますか?」

「少し」

 医師は考えた。

「精神的にも負担が大きいと思います」

「そうですね」

「結婚式を延期することも考えていいと思いますよ」

 志乃は頷いた。

 帰宅する。

 健吾に話す。

「延期したい」

 健吾は黙った。

「どうして?」

「今の状態で式をするのは無理」

「でも」

「私、ドレス脱げないんだよ」

「式が終わってから考えればいいんじゃない?」

「それが嫌なの」

「何で?」

 志乃は答えられなかった。

 怖い。

 自分でも分からない。

 このまま式をしたら。

 何かが決定的に変わってしまう気がする。

 でも、それを説明できない。

 だから健吾も納得しない。

「ここまで準備したのに」

 と言う。

 志乃は黙った。

 結局、延期の話は保留になった。

 その日の夜、志乃は一人で紙に書き出した。

『延期した場合』

 式場への連絡。

 親族への連絡。

 キャンセル料。

 再予約。

 健吾との話し合い。

『続行した場合』

 ドレスを脱げないまま式をする。

 身体の状態が悪化する可能性。

 式の後に対応する。

 紙の真ん中に線を引く。

 どちらにも問題がある。

 志乃はペンを置いた。

 自分が一番怖いのは何なのか。

 しばらく考えた。

 ドレスそのものなのか。

 健吾の母親なのか。

 結婚式なのか。

 それとも。

 このドレスを着ている自分が、あまりにも幸せそうに見えることなのか。

 答えは出なかった。

 翌日。

 健吾の母親が家に来た。

「具合が悪いんですって?」

「少し」

「大丈夫?」

「はい」

 母親はドレスを見る。

 しばらく黙る。

「これが、買ったもの?」

「はい」

 近づく。

 触ろうとする。

 志乃は反射的に一歩下がった。

 母親が止まる。

「ごめんなさい」

「すみません」

「そんなに大事なの?」

 志乃は答えなかった。

 母親は笑った。

「まあ、本人が気に入っているならいいけど」

 その言葉の奥に、別の意味がある気がした。

「ただね」

 母親は言った。

「健吾が困らないようにしてあげてね」

 志乃は顔を上げた。

「…はい」

 母親は帰った。

 ドアが閉まる。

 志乃はしばらく玄関を見ていた。

 それから、鏡を見る。

 白いドレス。

「私が悪いのかな」

 また同じ言葉が出た。

 だが、今度はすぐに首を振った。

「違う」

 自分に言い聞かせる。

「私が悪いわけじゃない」

 その言葉をメモする。

『義母から「健吾が一番困らないように」と言われた。』

 さらに。

『自分の判断に影響を与えられている可能性があるため、今後の決定は一度時間を置いてから行う。』

 書き終えて。

 志乃は少し安心した。

 こうして記録しておけば、自分が何を考えていたのか分かる。

 少なくとも。

 自分まで、自分のことを信用できなくなるのは避けられる。

 結婚式まで十日。

 ドレスは、さらに身体に馴染んだ。

 黒い線はほとんど見えなくなった。

 痛みも減った。

 その代わり。

 身体を動かすと、ドレスのほうが先に動くような感覚が出てきた。

 腕を上げようとすると、肩の線が自然に伸びる。

 歩くと、裾が身体に合わせて揺れる。

 それは普通のことだった。

 ドレスを着ていれば、そうなる。

 そう考えれば説明できる。

 だから、志乃は気にしなかった。

 ただ。

 ある朝。

 顔を洗おうとして、洗面所の鏡を見た。

 自分が映っている。

 白いドレス。

 少し疲れた顔。

 髪は乱れている。

 それでも。

 綺麗だった。

 以前よりも。

 ずっと。

 志乃は、自分の顔を見た。

「…私、こんな顔だったっけ」

 呟く。

 返事はない。

 顔に触れる。

 頬。

 顎。

 首。

 普通の皮膚。

 指先を動かす。

 ドレスとの境界を見る。

 首元。

 白い布。

 肌。

 境界はある。

 ちゃんとある。

 そう思う。

 写真を撮る。

 拡大。

 普通。

 何もない。

 志乃はスマートフォンを置いた。

 その日から。

 鏡を見る回数は、さらに増えた。

 自分がどう見えるのか。

 気になって仕方がない。

 それを自覚すると、今度は逆に鏡を避ける。

 見ない。

 見ないようにする。

 でも。

 通り過ぎるときに見てしまう。

 白い。

 綺麗。

 似合っている。

 その感覚が嬉しい。

 それが怖い。

 結婚式まで七日。

 健吾が来た。

「明日、打ち合わせだよね」

「うん」

「料理、最終確認」

「うん」

「席次も」

「うん」

「大丈夫?」

「何が?」

「疲れてない?」

 志乃は少し考えた。

「疲れてる」

「やっぱり?」

「でも、結婚式ってこんなものじゃない?」

 健吾は笑った。

「そうかも」

「そうだよ」

 健吾はドレスを見る。

「やっぱり綺麗だな」

「そう?」

「うん」

「どんなふうに見える?」

「どんなふうって?」

「私に似合ってる?」

「似合ってる」

「ドレスは?」

「普通にドレス」

 志乃は安心した。

「そう」

 健吾が言う。

「何?」

「ううん」

 志乃は首を振った。

「なんでもない」

 健吾が帰ったあと。

 志乃はスマートフォンを開いた。

 検索履歴を見る。

『中古 ウェディングドレス 脱げない』

『ファスナー 皮膚 痛い』

『衣服 皮膚 癒着』

『異常感覚 服』

 検索している自分を見て。

 少し笑った。

「何やってるんだろ」

 でも、検索をやめなかった。

 医学論文。

 衣料品トラブル。

 皮膚疾患。

 アレルギー。

 接触性皮膚炎。

 どれもしっくりこない。

 なら。

 別の可能性。

 詐欺。

 盗難品。

 違法な加工。

 中古品の出所。

 出品者の過去の評価。

 いくら調べても、何も出ない。

 yuki_02。

 それだけ。

 プロフィール写真もない。

 自己紹介もほとんどない。

 他の商品も少ない。

 志乃は出品者のページを何度も開いた。

 そして、あることに気づいた。

 以前見たときより。

 評価が一つ増えている。

 新しい取引。

 相手の名前は表示されない。

 ただ、評価だけ。

『ありがとうございました』

 それだけ。

 志乃はスクリーンショットを撮った。

 何となく。

 本当に何となく。

 嫌な感じがした。

 結婚式まで五日。

 健吾の母親から、また電話が来た。

「志乃さん」

「はい」

「準備、大丈夫?」

「はい」

「健吾が最近少し疲れているみたいで」

「そうですか」

「仕事もあるでしょう?」

「はい」

「結婚式のことも色々やっているし」

「はい」

「だから、あまり無理させないであげてね」

 志乃は黙った。

「分かっています」

「ありがとう」

 電話が切れる。

 志乃はスマートフォンを置いた。

 今度は、怒りよりも疲れが先に来た。

 健吾は何も言っていない。

 でも。

 母親から伝えられるたびに。

 健吾を大切にしなければならない。

 健吾を困らせてはいけない。

 健吾の母親を怒らせてはいけない。

 そう思う。

 結婚するのだから。

 家族になるのだから。

 そういうものなのかもしれない。

 志乃はそう考えた。

 そして、その考え方が自分のものなのか分からなくなった。

 だから。

 メモを開いた。

『今日は義母から「健吾を無理させないように」と言われた。』

『自分が過剰反応している可能性もあるので、一晩置いて判断する。』

 記録する。

 そして。

 ドレスを見る。

 白い。

 綺麗。

 自分に似合っている。

 その瞬間だけ。

 全部どうでもよくなった。

 結婚式をする。

 健吾と結婚する。

 自分は花嫁になる。

 それでいい。

 そう思った。

 その考えが。

 自分のものなのか。

 志乃には分からなかった。

 結婚式まで三日。

 身体に異変が増えた。

 まず、指だった。

 朝、指輪を外そうとして。

 指が少し動かしにくいことに気づいた。

「…あれ?」

 曲げる。

 伸ばす。

 動く。

 でも。

 少し遅れる。

 志乃は手を見た。

 爪の下に。

 黒いものが見えた。

 細い線。

 髪の毛のような。

 志乃は息を止めた。

 ピンセットを取る。

 少しだけ触れる。

 痛い。

 やめる。

 写真を撮る。

 拡大。

 爪の下。

 皮膚。

 黒い線。

 また増えた。

 志乃は病院に電話した。

 予約を取る。

 その日、医師に見せる。

「以前より広がっていますね」

「はい」

「痛みは?」

「少し」

「この線状のものは、やはり切ったり引っ張ったりしないでください」

「分かりました」

「皮膚の状態だけ見ると、炎症はそこまで強くないんですが」

「はい」

「何か特殊な素材なんでしょうか」

「分かりません」

「衣類店などで見てもらったほうがいいかもしれませんね」

「服のお直しですか?」

「はい。専門の方なら、構造が分かるかもしれません」

 志乃は頷いた。

 その足で衣類修理店へ行く。

 店員に事情を説明する。

「ファスナーが動かなくなってしまって」

「見せてもらえますか?」

 店員が確認する。

「確かに固いですね」

「壊れていますか?」

「いや、ファスナーそのものは壊れてないです」

「じゃあ、なぜ?」

「…分からないですね」

 店員が裏側を見る。

 そして。

「この黒い糸みたいなのは?」

「それが分からなくて」

「縫い糸じゃないですね」

「そうですよね」

「ちょっと変わってますね」

 店員は触ろうとした。

 志乃が止める。

「触ると痛いんです」

「ああ……」

 店員が手を引っ込める。

「それなら、無理にいじらないほうがいいですね」

「そうですか」

「皮膚科では何て?」

「切ったり引っ張ったりしないように、と」

「それなら、そのほうがいいと思います」

 志乃は礼を言って店を出た。

 何も分からない。

 それが一番怖かった。

 結婚式まで二日。

 志乃は一人で考えた。

 延期する。

 それが一番安全だ。

 でも。

 延期したら。

 健吾は困る。

 家族も困る。

 式場も困る。

 親戚も。

 全部。

 でも、自分の身体がどうなるか分からない。

 なら。

 延期するべきだ。

 志乃はそう思った。

 健吾に電話する。

「やっぱり、延期したい」

「…今?」

「今」

「もう二日前だよ」

「分かってる」

「キャンセル料も」

「分かってる」

「親にも説明しないと」

「分かってる」

「志乃」

「何?」

「本当にそこまで?」

 その言葉に。

 志乃は黙った。

「俺には普通のドレスに見える」

「でも、私には普通じゃない」

「それは分かるけど」

「脱げないんだよ」

「終わったら病院で」

「その保証は?」

 健吾が黙る。

「誰にも分からないんだよ」

 志乃は言った。

「医者も。服屋さんも。私も」

「……」

「なのに、二日後には結婚式をする」

 健吾は何も言わなかった。

 その夜。

 健吾の母親から電話が来た。

 志乃は出なかった。

 しばらくして。

 メッセージが届いた。

『健吾から少し聞きました。』

『志乃さんも不安なのね。』

『でも、ここまで準備してきたことを考えてみて。』

『健吾も楽しみにしています。』

『私も、あなたの花嫁姿を楽しみにしています。』

 最後に。

『家族になるのだから、支え合いましょうね。』

 志乃は、その文章を長い間見ていた。

 嫌だと思った。

 でも。

 何が嫌なのか。

 説明できない。

 母親は悪いことを言っていない。

 どの言葉も普通だった。

 心配している。

 祝福している。

 家族になろうと言っている。

 なのに。

 胸の奥が重い。

 志乃はスマートフォンを伏せた。

 鏡を見る。

 白いドレス。

 綺麗。

 自分が一番綺麗に見える。

 志乃は鏡に向かって言った。

「明日、どうするの」

 もちろん。

 鏡は答えない。

 ただ。

 白いドレスを着た自分が。

 こちらを見ている。

 結婚式前日。

 健吾が来た。

「明日だね」

「うん」

「緊張する?」

「ちょっと」

「俺も」

 志乃は笑った。

「眠れそう?」

「たぶん」

 健吾はドレスを見る。

「やっぱり綺麗だな」

「そう?」

「うん」

「どんなふうに見える?」

「だから、普通にドレスだって」

「そっか」

 健吾は志乃の顔を見る。

「何?」

「いや」

「何?」

「最近、志乃、鏡よく見てるなって」

 志乃は少し黙った。

「そうかな」

「うん」

「……そうかも」

「気に入ってる?」

「うん」

 それは本当だった。

 健吾は笑った。

「じゃあ、よかった」

 帰り際。

「明日、楽しもう」

 と言った。

「うん」

 ドアが閉まる。

 志乃は一人になった。

 鏡の前に立つ。

 白いドレス。

 もう、最初の頃のような魚の臭いはほとんどしない。

 身体にも、すっかり馴染んでいる。

 鏡の中の自分は、理想の花嫁だった。

 志乃は手を伸ばした。

 ドレスに触れる。

 柔らかい。

 温かい。

 皮膚のよう。

 でも。

 もう怖くなかった。

 それが一番怖かった。

 志乃は小さく笑った。

「明日、結婚する」

 言う。

「私は花嫁になる」

 その言葉を口にしたとき。

 ドレスの白い部分が、ほんの少しだけ身体に沈んだ。

 志乃は目を閉じた。

 怖い。

 そう思う。

 でも。

 逃げたいとは思わなかった。

 明日は結婚式。

 自分がずっと楽しみにしていた日。

 健吾と結婚する日。

 志乃はベッドへ行った。

 ドレスを着たまま眠ることはしなかった。

 いつものように、できるだけ身体を楽にする。

 上から薄い服を重ねる。

 布団に入る。

 眠れない。

 時計を見る。

 一時。

 二時。

 三時。

 それでも。

 明日が来る。

 朝。

 目が覚める。

 今日は結婚式。

 志乃は鏡を見た。

 白い。

 綺麗。

 完璧。

 身体にぴったり合っている。

 志乃は笑った。

 今までで一番、自然に笑えた。

 式場へ向かう。

 スタッフが迎える。

「おはようございます」

「おはようございます」

「本日はおめでとうございます」

「ありがとうございます」

 髪を整える。

 ベールをつける。

 写真を撮る。

 鏡を見る。

 そこには、志乃がずっとなりたかった姿があった。

 花嫁。

 完璧な花嫁。

 チャペルの扉が開く。

 音楽。

 光。

 バージンロード。

 健吾。

 志乃は歩く。

 一歩。

 また一歩。

 足は普通に動く。

 身体も普通に動く。

 だから大丈夫。

 そう思う。

 健吾の隣に立つ。

 笑う。

 誓う。

 指輪を交換する。

 拍手。

 写真。

 食事。

 祝福。

 健吾の母親も泣いている。

 志乃は笑った。

「ありがとうございます」

 その一言だけ。

 それでよかった。

 披露宴が終わる。

 写真撮影。

 友人たち。

 親族。

 健吾。

 何枚も撮る。

「志乃ちゃん、綺麗!」

「おめでとう!」

「幸せになってね!」

「ありがとう」

 何度も同じ言葉を言う。

 疲れている。

 でも。

 嬉しい。

 その日は。

 本当に。

 幸せだった。

 だから。

 その後に起きたことが。

 余計におかしかった。

 控室へ戻る。

 スタッフが言う。

「お疲れさまでした」

「ありがとうございました」

「では、お着替えを」

 スタッフが背中に回る。

 ファスナーを下げる。

 動かない。

「少し固いですね」

「はい」

 もう一人のスタッフが来る。

 二人で試す。

 動かない。

 志乃は痛みを感じた。

「…痛い」

 スタッフが手を止める。

「大丈夫ですか?」

「はい」

「無理にしないほうがいいですね」

 志乃は鏡を見る。

 白いドレス。

 白い皮膚。

 境界が分からない。

 スタッフには、ただのドレスに見えている。

 志乃にも、ドレスに見えている。

 でも。

 自分だけが知っている。

 これはもう。

 服ではない。

 それでも。

 どうしても。

 脱ぎたくない。

 その感情が。

 いつから自分のものではなくなったのか。

 志乃には分からなかった。

 家に帰る。

 ドレスは脱げない。

 だから、できる範囲で普段着を着る。

 上から薄い服を重ねる。

 鏡を見る。

 少し滑稽だった。

「最悪」

 志乃は笑った。

 それでも。

 結婚式は終わった。

 健吾と結婚した。

 そう考えると。

 少し安心した。

 翌日。

 写真が届いた。

 結婚式の写真。

 志乃と健吾。

 チャペル。

 指輪。

 笑顔。

 そして。

 白いドレス。

 志乃は一枚ずつ確認した。

 どの写真も綺麗だった。

 とても幸せそうだった。

 志乃は、その中から一枚を保存した。

 バージンロードを歩いている写真。

 光の中で。

 白いドレスを着て。

 健吾のほうを見て笑っている。

 志乃は、その写真を見ながら思った。

 これでよかった。

 結婚した。

 式も終わった。

 自分が望んでいたものは、全部手に入った。

 なのに。

 ドレスは脱げない。

 翌日。

 志乃のスマートフォンから、最後の写真が送信された。

 宛先は健吾だった。

 本文はない。

 写真だけ。

 昨日の結婚式の写真。

 志乃が一人で写っている。

 鏡の前。

 白いドレス。

 笑っている。

 健吾は、その写真を見て返信した。

『綺麗だね』

 既読はつかなかった。

 翌日も。

 翌々日も。

 志乃から連絡はなかった。

 健吾は家へ行った。

 鍵は開かなかった。

 管理会社に連絡する。

 部屋に入る。

 誰もいない。

 家具はそのまま。

 スマートフォンもない。

 財布もある。

 靴もある。

 衣類もある。

 ただ。

 志乃だけがいない。

 健吾は警察に連絡した。

 捜索が始まった。

 だが、見つからなかった。

 事故の痕跡もない。

 遠くへ行った形跡もない。

 誰かと一緒に出ていった形跡もない。

 それでも。

 一つだけ。

 部屋に残っていたものがある。

 鏡。

 その前に、写真が一枚置かれていた。

 結婚式の日に撮った写真。

 志乃が笑っている。

 白いドレスを着ている。

 健吾は写真を手に取った。

 しばらく見つめる。

「…綺麗だな」

 そう呟く。

 それから、眉をひそめた。

 何かがおかしい。

 写真の中の志乃は、確かに白いものを身につけている。

 けれど。

 それが何だったのか。

 思い出せない。

 ウェディングドレスだったはずだ。

 そう思う。

 だが、どんな形だったか。

 レースだったか。

 裾はどうだったか。

 胸元は。

 袖は。

 何一つ思い出せない。

 ただ。

 白かった。

 それだけ。

 健吾は写真を裏返した。

 何も書いていない。

 もう一度表を見る。

 志乃が笑っている。

 幸せそうに。

 まるで、何も問題がなかったように。

 健吾は写真を机に置いた。

 そのとき。

 スマートフォンが鳴った。

 志乃の母親からだった。

「志乃さん、見つかった?」

 健吾は答えられなかった。

「まだ」

「そう…」

 母親の声が震えていた。

「結婚式の写真、届いたのよ」

「はい」

「綺麗だったわね」

「…はい」

「ドレスも素敵だった」

 健吾は少し黙った。

「母さん」

「何?」

「志乃が着てたドレスって」

「え?」

「どんなドレスだった?」

 電話の向こうが沈黙した。

「白かったでしょう?」

「うん」

「…それだけ?」

 母親も黙った。

「私も、よく覚えてないの」

 健吾は写真を見た。

 白い。

 それだけ。

 二人とも。

 ドレスの形を思い出せなかった。

 結婚式場にも確認した。

 衣装の記録が残っている。

 写真もある。

 しかし、担当したスタッフに聞いても、誰も具体的な形を説明できなかった。

「白いドレスだったと思います」

「レースは?」

「…あったような」

「どんな?」

「分かりません」

「ブランドは?」

「持ち込みだったと思います」

「どこから?」

「それが…」

 記録がない。

 志乃が購入したというフリマアプリの履歴も、なぜか確認できなかった。

 スマートフォンが見つからない以上、確認できない。

 ただ、結婚式の写真だけは残っている。

 その写真には。

 白いものを身につけた志乃が写っている。

 それだけだった。

 数週間後。

 志乃は見つからなかった。

 事件性があるのか。

 事故なのか。

 自発的な失踪なのか。

 何も分からない。

 健吾は時々、結婚式の写真を見る。

 そして毎回思う。

 志乃は綺麗だった。

 幸せそうだった。

 ただ。

 写真を何度見ても。

 ドレスのことだけは思い出せない。

 何を着ていたのか。

 なぜあんなに似合っていたのか。

 どんな布だったのか。

 どんな形だったのか。

 何も。

 何も思い出せない。

 それでも。

 写真の中の志乃は笑っている。

 白いものに包まれて。

 まるで。

 最初から。

 それが彼女の身体だったかのように。

 そして、その写真を最後に。

 志乃の姿を見た人はいない。


お幸せに

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