05. 裏
冒険者ギルドの受付嬢視点
冒険者ギルドの朝は忙しい。
忙しい、という言葉で足りるかどうか怪しい。
扉が開けば依頼は来る。冒険者は騒ぐ。掲示板の前では毎朝のように小競り合いが起こる。誰それが先に見ただの、紙の端を先に触ったのは自分だの、受付から見ればだいたい全部どうでもいい。
それでも受付嬢は顔に出さなかった。
それが仕事だった。
朝いちばんの打ち合わせで、上司は帳面を見ながら言った。
「今日はひとつ、アルバトス侯爵家からの依頼が入っている」
受付嬢は姿勢を正した。
侯爵家の名が出た時点で、雑に扱ってよい案件ではない。
上司はそこで一度だけ受付嬢を見た。
「相手は助祭と子どもだそうだ。粗相のないように」
「承知しました」
「頑張れ」
頑張れ。
上司は軽く言ったが、その一言に含まれる意味は軽くなかった。
丁寧にやれ。揉めるな。しくじるな。面倒でも顔に出すな。あと、たぶん何かある。
だいたいそういう意味である。
受付嬢は、帳面を開き、依頼の控えを確認した。
マリア・セシリア・エレオノーラ・モンタルボ。
長い。
受付嬢は思った。
思ったが、口には出さなかった。
それも仕事だった。
そのとき、扉が開いた。
入ってきたのは、少女と助祭だった。
少女は無表情。助祭は入った瞬間に怯んだ。
ああ、この助祭はたぶん駄目なほうだ、と受付嬢は一目で理解した。
「……精霊よ、ご加護を」
しかも入ってすぐ祈った。
なお駄目だった。
少女のほうは止まらず、まっすぐこちらへ歩いてくる。
助祭だけが入口で一瞬置いていかれ、それから慌ててついてきた。
この時点で、受付嬢は理解した。
上司の「頑張れ」は、侯爵家案件だからというだけではなかったのかもしれない。
「お待ちしていました」
受付嬢は事務的に言った。
助祭が予想以上に素直な顔で驚いた。
「え?」
そこで驚かれても困る。
来る予定だから待っていたのだ。
予約の客に「来ると思っていませんでした」と言う受付はいない。
受付嬢は帳面をなぞった。
「依頼人――マリア・セシリア・エレオノーラ・モンタルボ様」
すると助祭が言った。
「長い!」
受付嬢は顔を上げなかった。
知っている。
こちらもちょうど思ったところだった。
だが、おそらく今それを共有する必要はない。
「愛称はシーラ様でよろしかったでしょうか」
すると小さな少女が助祭を見上げた。
「……わらわか?」
いや、あなたでしょう。
自分の名前を、この頼りなさそうな助祭に確認する必要ある?
この突っ込みを受付嬢は心の中で思うだけで、口には出さなかった。
助祭は帳面をのぞき込みながら、長い名前を読もうとしていた。
「ええと……マリア……セシ……」
「セシリアです」
「それです」
「マリア・セシリア・エレ……」
「エレオノーラです」
「それです」
受付嬢は、これをどこまで続けるつもりなのか少しだけ考えた。
考えたが、ここは、受付の忍耐力が試されるとき、と考え直した。
少女がまた聞いた。
「……わらわで間違いないのか」
助祭は帳面と少女を見比べた。
「たぶんそうです」
受付嬢は心の中だけでその言葉を繰り返した。
たぶん。
この二人はいったい誰の話をしているのだろう、と受付嬢は思った。
少女が言う。
「たぶんなのか」
その通りである。
そもそも、少女本人が自分の名前をその場で確認している時点で、だいぶおかしい。
受付嬢は長くこの仕事をしていたが、こんな確認のされ方は初めて見た。
助祭は妙にきちんとした顔で答えた。
「ほかに該当しそうな方がいませんので」
受付嬢は帳面を軽く叩いた。
その理屈はわかる。
わかるが、依頼人確認の場で、そんなに霧の向こうみたいな返答をしなくてもよいのではないか。
「依頼人はシーラ様で間違いありません」
そこで話を戻した。
戻したつもりだった。
「依頼は、アルバトス侯爵家から精霊教会都市領の養育院までの護衛でお間違いありませんか」
「はい、その通りです」
「同行者は助祭お一人、依頼人はお一人ですね」
「はい」
「行き先は精霊教会都市領の養育院で承っております」
「その通りです」
よし。
受付嬢は少しだけ安心した。
本当に少しだけだった。
このときの安心は、あとで思えば油断と呼ぶべきものだった。
その瞬間、助祭が顔を上げた。
「あ、では」
受付嬢も顔を上げた。
助祭は言った。
「いっそシエラにしたらどうでしょう」
受付嬢のペン先がぴたりと止まった。
受付嬢は助祭を見た。
まじまじと見た。
この人物はいったい何をしに来たんだろう、と受付嬢は考えた。
依頼の確認は終わっていない。護衛の手配もまだである。
それなのにこの助祭は、受付で、いま、名前の相談を始めた。
朝のギルドで。
腰の剣に手をかけた冒険者たちが後ろで「その紙を離せ!」と怒鳴りあっているこの空間で。
助祭はその視線に気づいたらしく、少し肩をすくめた。
助祭は言い訳でもするように言い募った。
「前の孤児院のシーラと、侯爵家のシーラで紛らわしかったですし……少し変えたほうが、あとあと扱いやすいかと……」
受付嬢は助祭を見た。
少女を見た。
帳面を見た。
すると助祭が背筋を伸ばした。
「実務上の整理です」
受付嬢は思った。
その言葉で通るなら、世の中の大半の妙な話は通ってしまうのではないか。
明日から冒険者たちが酒場で椅子を投げ合っても、「実務上の整理です」と言えば済むのだろうか。
済むわけがない。
「……なるほど」
そう答えたのは、ひとまず続きを聞くためだった。
受付とは、時に何を聞かされているのかわからなくなっても、うなずく仕事でもある。
助祭はうなずいた。
「はい」
なぜそんなに自信があるのか。
「たぶん後で皆さま助かるかと」
「皆さま……」
受付嬢は思わず繰り返した。
「はい」
助祭は真顔だった。
ここで名前を変えることが広く世を救う方向の話だと、本気で思っている顔だった。
受付嬢は一度だけ目を伏せた。
そして決めた。
流そう。
肯定してしまったほうが早い。
「承知いたしました」
助祭の顔が明るくなった。
「シエラ、です」
受付嬢はその通りに帳面に書いた。
愛称――シエラ様
「いいですね」
助祭は満足そうに言った。
受付嬢は思った。
あなたが満足そうで何よりです。
助祭はまだ小さくつぶやいていた。
「マリア・セシリア・エレオノーラ……やはり長いですね」
受付嬢は反射で答えた。
「モンタルボです」
「それです」
それです、ではない。
そこはもう話がついたはずではないか。なぜ、蒸し返す。
受付嬢は帳面を閉じた。
「では、護衛の手配を――」
ようやく本題に戻れる。
そう思った、そのときだった。
奥のテーブルで椅子がきしんだ。
立ち上がったのは、さっきから黙って聞いていた年配の冒険者だった。
ああ、いたのか、ではなく、ずっといた。
いたが、朝の騒ぎに混ざらず、こちらを見ていた。
つまり、この一連の流れを最初から最後まで聞いていたのだ。
それはそれで、少し恥ずかしいような気した。
冒険者は言った。
「……で、お前さんらは何をしに来たんだ。護衛の依頼か、名付けの相談か、どっちだ」
受付嬢は心の中で強くうなずいた。
その通りだ。
いまこの場に必要だったのは、その確認だ。
できれば、もう少し前に言ってほしかったくらいである。
だが、言ってくれただけでもありがたい。
助祭は一瞬だけ口を閉じたあと、ようやく答えた。
「ご、護衛の依頼です」
男は小さくうなずいた。
「……精霊教会都市領の養育院か」
「ええ」
受付嬢は、ようやく普通の会話が通じる相手が登場したことに安堵した。
横から何か言っても、少なくとも話を名前方面へ折り曲げることは、たぶんもうない。
たぶん。
男は短く話し、無駄なことを言わず、しかも要点が早かった。
ありがたい。
「俺はアルバトス領に帰るところだ」
「途中ですね」
「まあな」
会話が早い。
短い。
進む。
素晴らしい。
受付嬢は一瞬だけ感動した。
冒険者とこんなに滑らかに話が進む朝もあるのだと。
男は少女を見た。
少女は静かに見返した。
男は受付嬢へ向き直った。
「護衛を引き受けよう」
そのひと言で、朝の受付はいっきに前に進んだ。
受付嬢はすぐに帳面を開いた。
「ありがとうございます」
受付嬢は、これが今日いちばん自分の心のこもった言葉かもしれないと思った。
受付嬢は奥の廊下を指した。
「それでは、契約の詳細打ち合わせと契約書の締結をいたします。奥の応接室でお待ちください」
男はうなずき、二人を連れて歩き出した。
受付嬢はその背を見送って、帳面に視線を落とす。
愛称――シエラ様
朝の受付で、人の名前が変わった。
今日も冒険者ギルドは平常運転だった。
こっちのほうが個人的には好き。この世界では「愛称」=通常の手続きに利用可で、現実よりちょっと格が上で、登録されるものなんです。




