28.湖水の村
湖の村が見えたのは、午後の光が傾きはじめたころだった。
街道はゆるい丘を越えたあと、湖へ向かって下っていた。遠くには青い水面が見えた。
道の両側には低い石垣と草地が続き、ところどころに白い花が咲いていた。
王都とも、運河都市とも違っていた。人の声は少なく、道を急ぐ者もいない。
家々は大きくなく、屋根は低かった。
「湖の村だ」
ラモンが言った。
ビリエラは返事をしなかった。
いつもなら、白鐘大聖堂が近いのですね、と言いそうなところだった。
昨日の野営地で巡礼者たちと別れてから、ビリエラの口数は少なくなっていた。
シエラはギラの上から、ダンに乗っているビリエラを見た。
「ビリエラ」
「どうしました」
ビリエラは顔を上げたが、返事の声は少しかすれていた。
「顔が赤い」
「少し、日差しが強かったのでしょう」
シエラが言うと、ビリエラは困ったように笑った。
「白鐘大聖堂が近いので、気持ちが高ぶっているのかもしれません」
ビリエラはそう言ったが、言い終える前に小さく咳をした。
村の入口には近い教会があって弔いの鐘がなり、人が集まっていた。
黒や灰色の上着を着た村人たちが教会には大勢静かに立っていた。ちょうど葬式が終わるところらしかった。
教会の扉が開き、司祭がゆっくりと外へ出てきた。
続いて、村人たちが静かに頭を下げた。
男たちが担ぎ台を支え、白い布をかけた棺を教会の脇へ運んでいく。
誰かが帽子を胸に当て、誰かが小さく頭を下げた。
ビリエラはダンから降り、教会のほうを見ていた。
「少し待ちましょう」
助祭として、司祭に挨拶をしたいのだろうと、シエラにもわかった。
ラモンはギラを道端へ寄せると、先に降りて、シエラを地面に下ろした。
やがて、教会の前にいた村人たちは少しずつ散りはじめた。
司祭は扉の前に残り、帰っていく村人たちに短く声をかけていた。
ビリエラは一歩前に出た。
「では、ご挨拶を――」
そこまで言って、ビリエラの足が止まった。
ビリエラは片手で口元を押さえ、もう片方の手を胸元に当てた。
「ビリエラ」
シエラが声をかけた。
次の瞬間、ビリエラの膝が崩れた。
ラモンはすぐに手綱を離し、倒れる前にビリエラの肩を支えた。
ビリエラはその場にうずくまった。
額には汗が浮き、息も少し荒かった。
「聞こえるか」
ラモンが低く言った。
「聞こえます……少し、目が回っただけです」
ラモンはビリエラの額に手を当てた。
その顔が、すぐに険しくなった。
教会の前にいた何人かが、こちらを振り向いた。
黒い服に薄い肩掛けを羽織った老婦人が近づいてきた。
灰色の髪はベレー帽の中に収められていた。
顔には皺が多かったが、その目は皺には似合わないほど、若々しい輝きがあった。
老婦人はビリエラの前に来ると、ゆっくり膝を折った。
「助祭様、どうしました。あら、まぁ。熱がありますね。ええ、朝からでしょう。いえ、昨日の晩からかもしれないですね。目の下がずいぶん赤いですもの。白鐘大聖堂への巡礼でしょうか」
ビリエラはぼんやりと老婦人を見た。
「いえ、巡礼では……」
「まったく、敬虔な巡礼者に白鐘熱とは。女神さまも時々ひどい冗談をなさりますね」
ビリエラは返事をしようとしたが、言葉のかわりに小さく咳をした。
老婦人は少し首を傾け、ビリエラの顔をじっと見た。
「私は医者ではありませんけれど、この村で長く人を見ておりますからね。顔つきで、だいたいわかることもあるのですよ」
老婦人はそこで、教会のほうへ顔を向けた。
「司祭さま。先生はまだ中にいらっしゃるでしょう。呼んでいただけませんか」
司祭は教会の前からこちらへ歩いてきた。
「ロザ夫人、また先に診立てをなさっているのですか」
「倒れた方を放ってはおけないでしょう」
老婦人はのんびりと言った。
司祭はうずくまっているビリエラを見て、すぐに表情を変えた。
「助祭どの。これはおつらいでしょう」
「申し訳ありません。ご挨拶をと、思ったのですが……」
ビリエラは言い終える前に、また咳をした。
ロザ夫人はうなずいた。
「挨拶は、熱が下がってからで十分です。司祭さまも、逃げたりなさいませんからね。いま立っているほうが、よほどいけませんよ」
司祭はロザ夫人を見た。
「その点は、まったくその通りです」
司祭は教会のほうへ振り返った。
「先生、こちらへお願いします」
教会の中から、細身の男が出てきた。
黒い上着の上に医者の革鞄を提げている。
医者はビリエラを一目見ると、すぐにシエラとラモンを順に見た。
「診よう。診料は銀貨一枚。診石を使うなら、別に銅貨三枚いただく」
司祭は額に手を当てた。
「先生。まず容態を見てからにしていただけませんか」
「もう見ている」
医者は静かに答えた。
「熱、咳、めまい。白鐘熱の疑いがある。診石を使えば確定できる。確定すれば、隔離の判断ができる。先に値段を言っただけだ」
司祭はあきれた顔をした。
「言い方というものがあります」
ロザ夫人は困ったように、けれど少し楽しそうに笑った。
「ねえ、腹は立つでしょう。でも腕はいいんですよ。村で一番です。もっとも、村に医者は先生しかおりませんから腕がよくなくても1番ですけどね。それでも腕はいいの。金の話をする口と、病を見る目が別々の生き物みたいな方でね」
ラモンが聞いた。
「褒めているのか」
「かなり褒めていますよ」
ロザ夫人はのんびり答えた。
シエラは服の内側から小さな布袋を取り出した。銀貨一枚と銅貨三枚を数え、医者に差し出した。
「診よ」
医者はシエラを見た。
「お前が払うのか」
「必要な支払いであろう」
「そうだ」
医者は銀貨と銅貨を受け取った。
受け取り方には遠慮がなかったが、そのあとの動きは早かった。
医者は膝をつき、ビリエラの顔色を見て、喉元に手を当て、咳の音を聞いた。それから革鞄を開け、小さな銀の輪と、青く透ける石を取り出した。
「指を出せ」
ビリエラは言われた通りにしようとしたが、手が少し震えた。医者は無駄口を言わずに手首を支え、銀の輪を指につけた。
青い石をビリエラの額に近づけると、石の中の細い線が白く濁った。
医者の顔がわずかに厳しくなった。
「白鐘熱だ」
ビリエラはかすれた声を出した。
「白鐘……熱」
「巡礼の季節に増える風土病だ。咳、だるさ、めまい。移りやすい。昨日か一昨日、近くに熱のある者がいたはずだ」
シエラは昨日の野営地を思い出した。
火のそばで咳き込んでいた子ども。水筒を外して近づいたビリエラ。母親に声をかけ、額に手を当てていた姿。
「いた」
医者はシエラを見た。
「近づいたのは?」
「ビリエラだ」
医者は銀の輪を外し、青い石をしまった。
「五日は寝ているように。熱が下がっても、すぐ歩かせればぶり返す。後で渡す薬を飲ませろ。」
「白鐘大聖堂は……」
ビリエラが弱々しく言った。
「熱が下がっていれば早くて五日後だ。」
医者は鞄を閉じた。
「薬を後で届ける。夜までに飲ませなさい。届け先は?」
ラモンは短く答えた。
「まだ宿は決まっていない」
医者はロザ夫人を見た。
「ロザ夫人、ちょうどあんたのところで部屋が空いただろう」
ロザ夫人は少しだけ眉を上げた。
「あら、先生。『ちょうど』なんていうのは、あまり良い言い方ではないわ。もちろん、空いておりますけどね。まったく、間が良いのだか悪いのだか」
医者は気にした様子もなく続けた。
「薬も届けやすい。それにあの家は人を隔離するのになかなか適しているからな。」
ロザ夫人はゆっくりうなずいた。
「まあ、先生からお褒め言葉だと受け取っておきます」
シエラはロザ夫人を見上げた。
「泊まれるのか」
「ええ、泊まれますよ。うちは宿屋ではなく、下宿ですけれどね」
ロザ夫人はゆっくりとうなずいた。
「長くいるここに逗留するための家です。部屋は三つ。ひと部屋には先客がいます。あとの二つは空いておりますから、助祭さまに一つ、あなた方に一つ。ちょうど……いえ、こういう時にちょうどと言うのは、やっぱりよくありませんね」
司祭は小さく息を吐いた。
「ロザ夫人の下宿なら安心です。看病にも慣れています」
「慣れているというほど、病人ばかり出しているわけではありませんよ」
ロザ夫人はちょっとむっとしたらしかった。
ロザ夫人はビリエラの顔をもう一度見て、ゆっくり立ち上がった。
「では、決まりですね。では、案内しましょう。」
「ロザ夫人、お願いします」
司祭が言った。
「ええ。さてと、あとで、マルタに湯を沸かさせなくちゃだわね。ノワールには吠えないように言っておきましょう。あの子は賢いけれど、雷駝鳥なんて初めてみるでしょうから」
医者は鞄を持ち直した。
「薬はあとで届ける。夜までに飲ませなさい」
「代金は...届けた時でいい」




