27. マッテオ家を辞す
マチルダは布袋を二つ持って、家の前へ出てきた。
「助祭さま、これを道中で召し上がってください。固めの焼き菓子と、干した果物です。多くはありませんが、日持ちはしますので。」
ビリエラは布袋を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
シエラはそのやりとりを、ダンのそばで見上げていた。
マチルダは続けて、シエラの上着の前を見た。少しだけ襟元を直し、袖口も軽く引いた。
「朝は冷えます。昼になったら脱いでもいいけれど、いまは着ていなさい」
シエラはマチルダの手元を見たあと、短くうなずいた。
「承知した」
マッテオはその横で、まだ納得していない顔をしていた。
「本当に、もう出るんかい」
「出る」
ラモンは短く答えた。
「あと一日だけ。いや、半日でもいいからさ。せめて一枚、下描きだけでも取らせてほしいな」
ビリエラは困ったようにマッテオを見た。
「下描き、ですか」
「ビリエラさんの顔、いいんです。気弱そうなのに、妙にきちんとしている。教会の絵に使えそうだ」
「それは褒めているのでしょうか」
「もちろんです」
マッテオは真面目な顔で言った。
ビリエラは返答に困り、視線を少し下げた。
マッテオはすぐにシエラへ目を移した。
「それに、シエラちゃんも描きたいんだよ。黒い髪と目が、いいよね。これは描かないともったいない」
シエラは少し考えた。
「描かれると、何か減るのか」
「減らないねぇ」
「ならば構わぬ」
ラモンが横から言った。
「構う。半日かかる」
マッテオは残念そうに肩を落とした。
「二人を並べると、かなりいい絵になると思うだ。惜しいな」
「ならん。出る」
ラモンはダンとギラの手綱を取る。
クリスはまだ少し眠そうな顔で立っていたが、シエラを見ると急に目を覚ましたように背筋を伸ばした。
「シエラ、昨日のダンジュ、すごかったでしょう」
「すごかった」
シエラは短く答えた。
クリスの顔がぱっと明るくなった。
「そうでしょう! あそこで赤の旗を守ったの、絶対にダンジュが一番よかったの。白の人たちが寄ってきたときも、全然あわててなかったし」
「姉ちゃん、昨日から三回目だよ」
テオが横でぼそっと言った。
クリスはテオをにらんだ。
「三回じゃないわ。まだ二回半よ」
「半ってなに」
「途中で母さんに止められた分」
シエラは少し考えた。
「ならば、続きがあるのだな」
「あるわ!」
クリスは勢いよくうなずいた。
ラモンがまた、口を挟んだ。
「続きは次に来た時に聞く」
「ええっ、今じゃだめ?」
「出る」
ラモンが短く言うと、クリスは残念そうに口を尖らせた。
マチルダはその肩に手を置いた。
「クリス、旅立つ人を朝から引き止めないの」
「マッテオ父さんも引き止めてる」
「お父さんはもっと悪いです」
マッテオは横で、聞こえないふりをしていた。
ビリエラは家の前で深く頭を下げた。
「お世話になりました。女神の加護がありますように」
「こちらこそ。助祭さまも、お体には気をつけて」
マチルダがそう言うと、ビリエラはなぜか少し誇らしげに胸を張った。
「はい。私は意外と丈夫ですので」
マッテオはまだ未練があるように、シエラとビリエラを交互に見ていた。
「次に寄ったときは、必ず描かせてください」
「約束はせん」
ラモンが答えると、マッテオはラモンを見た。
「お前じゃない」
「俺が止める」
マッテオはため息をついたが、顔は笑っていた。
ラモンがダンの手綱を取り、マッテオの庭を出た。
角を曲がる前にシエラは振り返った。
マチルダは片手を上げ、マッテオはその隣でまだ何か言いたそうに立っていた。クリスは両手を振り、テオは途中からそれをまねた。
そこには絵具の匂いと、朝の水を撒いた石畳の匂いが残っていた。
運河都市の橋を出るころには、祭りの声は背後へ遠ざかっていた。
街道には、同じように街を出る者たちがいた。商人は荷を背負い直し、職人らしい男たちは道具袋を肩にかけて歩いていた。巡礼者らしい姿も少し混じっていたが、まだ数は多くなかった。
ビリエラは歩きながら、何度も東の空を見た。
「この先に、湖の村があるのですね」
「今日は宿場町までだ。明日は野営になる。湖の村は、その次の日の午後だろう」
ラモンは前を見たまま答えた。
「そこから白鐘大聖堂も近いのでしょうか」
「近いと言っても、歩けばそれなりにかかる」
「それでも近いですよね」
ビリエラの声は、いつもより少し明るかった。
「一度は行ってみたい場所でした。精霊教会に身を置く者なら、白鐘大聖堂の鐘の音を聞かずに終えるわけにはいきません」
その日は、街道沿いの宿場町に泊まった。
運河都市の祭り帰りの客は多かったが、前日までの熱気に比べれば静かなものだった。食堂では紅白戦の話がまだ続いていたものの、声を張る者は少なく、誰もが疲れた顔で湯気の立つ食事を口に運んでいた。
シエラは椅子に座り、豆と野菜の煮込みをゆっくり食べた。
ビリエラは宿の主人から白鐘大聖堂までの道を聞いていた。道の分かれ目、湖へ向かう街道、巡礼者がよく使う野営地、鐘の見える丘。主人が話すたびに、ビリエラは真剣な顔でうなずいた。
翌朝、三人は宿場町を出た。
道は運河都市からさらに離れ、少しずつ静かになっていった。午前のうちは、祭り帰りの人影がぽつぽつと続いていた。昼を過ぎると、それも少なくなった。
道幅はまだ十分にあったが、石畳の切れ目が増え、土の道が長く続くようになった。両側には低い草地と畑が広がり、遠くにはゆるい丘が見えた。
シエラはダンの上から、道の先を見ていた。
白い布を腕に巻いた集団が時々反対側から歩いてきた。布には、小さな鐘の印が刺繍されていた。
夕方近く、街道脇に開けた野営地が見えた。
小さな林を背にした場所で、風を避けられる低い石積みがいくつか残っていた。旅人がよく使う場所らしく、踏み固められた地面には古い灰の跡があった。
そこには、すでに十数人の巡礼者たちがいた。
彼らは小さな火を囲み、背負い籠や肩掛け袋を下ろして休んでいた。年寄りもいれば、子ども連れの女もいた。白い布を腕に巻いている者が何人かいて、その布には小さな鐘の印が刺繍されていた。
ビリエラはそれを見た瞬間、足を止めた。
「白鐘大聖堂への巡礼者ですね」
「そうらしいな」
ラモンは周囲を見回した。
巡礼者たちは、雷駝鳥を見て少し身を引いた。だが、ラモンが手綱を短く持ってダンとギラを落ち着かせると、すぐに警戒は薄れた。
ビリエラが教会関係者だと気づいたのか、年配の男が立ち上がり、ラモンたちへ頭を下げた。
「同じ野営地を使わせていただいております。火はあちらにも起こせます」
ビリエラは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。精霊教会の助祭、ビリエラと申します。白鐘大聖堂へ向かわれるのですか」
年配の男が明るく返した。
「ええ。村の者を連れて、年に一度の巡礼です。助祭さまがおられるとは、ありがたい」
その言葉で、巡礼者たちの間に小さなざわめきが広がった。
ビリエラは背筋を伸ばした。いつもより少しだけ、助祭らしい顔になっていた。
火のそばで子どもが激しく咳き込んでいた。
乾いた咳が何度か続き、母親らしい女が慌てて背中をさすった。子どもの頬は赤く、目元は少し潤んでいた。
ビリエラは迷わずそちらへ歩いた。
「大丈夫ですか」
ラモンは止めようとして、少しだけ手を上げた。だが、ビリエラはもう子どもの前に膝をついていた。
母親は恐縮したように頭を下げた。
「すみません。昼から少し熱っぽくて。白鐘さまの村まで行けば休ませられると思っていたのですが」
「無理はいけません。水はありますか」
「少しだけ」
ビリエラは母親に袋から出した生薬を渡した。
「こちらを。咳止めの生薬です。今夜は火の近くで休ませてください。汗をかいたら、布を替えて。明日、熱が上がるようなら、無理に歩かせないほうがよいです」
「ありがとうございます、助祭さま」
母親は深く頭を下げた。
ビリエラは少し照れたように首を振った。
「いえ。どうか、無事に白鐘大聖堂へ」
そのあと、三人は少し離れた場所に火を起こした。
ダンとギラには水を飲ませ、足元に敷物を置いた。ギラは巡礼者たちのほうを気にしていたが、ラモンが首筋を軽く叩くと、おとなしく座った。
夜が深くなるにつれ、巡礼者たちの話し声は少しずつ小さくなった。
しかし、白鐘大聖堂の話がぽつぽつと続いていた。鐘の音は湖を渡って聞こえること。大聖堂の壁は白い石でできていること。勇者の剣の前には、いつも挑戦する者が並んでいること。
ビリエラやシエラは自分たちの火のそばに座りながら、その話に耳を傾けていた。
いちおう、第一部は書き終えた。一機に書き上げたのでいろいろ矛盾や表現がわけわかんなくなっているため、修正しながら不定期にアップしていこうと思う。




