26.マッテオ家の食卓 3日目の夕食
マッテオ家では、三日目の夕食にも、豆と燻製肉の濃いスープが出た。
大鍋の中で三日目を迎えたスープは、昨日よりさらに濃くなっていて、豆はほとんど形をがなくなった。燻製肉の香りもさらに強くなり、食欲を誘った。
長テーブルには、黒パンとチーズ、赤キャベツの甘酢漬けが並んでいた。
マチルダが焼いた焼き目のついた昨日とは魚からは、バターと香草の匂いが香ばしかった。
マチルダは魚の皿を置きながら、息をついた。
「今日はこれで勘弁してね。朝から見物に出て、帰ってきて、それから何品も作る元気はなかったわ」
「これで十分だ」
ラモンはそう言って、黒パンを手に取った。
マッテオはラモンの土産の赤ワインを杯に注いでいた。
瓶の中身はだいぶ減っていたが、まだ今夜の分は残っていた。
「今日は飲む理由があるね。マチルダの料理と」
マッテオは杯を持ち上げた。
「白の勝ちに」
クリスはすぐに言い返した。
「父さん、赤の健闘にも、よ!」
テオは椅子の上で少し前に出た。
「でも勝ったのは白だよ」
クリスは悔しそうに言った。
「それは知ってる!知ってるけど、ダンジュのほうがすごかったの!」
ビリエラはスープの匙を持ったまま、少し疲れた顔をしていた。見ていただけなのに、水上の押し合いが目に焼きついているらしかった。
「私は、途中でどちらがどうなっているのか、ほとんどわかりませんでした。あちらで赤が押したと思えば、別の船では白が倒れそうになっていて……あれを皆さん、よく見分けられますね」
マチルダは赤キャベツの皿を回しながら言った。
「慣れでしょうね」
「きっと人ではなく、色を追って見ているのでしょうね。上から見ると、どちらがどこへ動いたかは案外わかるものよ」
「私には、人の波にしか見えませんでした」
ビリエラは真面目に答えた。
「女神よ……あれが武器なしでよかったです」
マッテオは笑いながら、ビリエラのコップにワインを注いだ。
「武器を持ったら、祭りじゃ済みませんよ」
コップを受けながら、ビリエラは言った。
「素手でも、十分に戦に見えました」
テオは魚を切り分けてもらいながら、目を輝かせた。
「アーサー、すごかったよね。最初は後ろの船にいたのに、いつのまにか、一番前にいて。どうやって行ったのかわからなかった。船の横から突然現れたよね」
クリスが言った。
「違うわよ。横じゃなくて、赤の後ろから来たのよ」
「でも見えたのは横だったよ」
「それはテオが途中でダンジュを見てなかったからよ」
「クリスはダンジュしか見てなかったから、わかんないでしょ」
「アーサーだって見てたわよ!」
クリスは言い返し、口を尖らせた。
「ダンジュの頭船に現れたと思ったら、赤旗をあっという間に取ってちゃったわよね。」
マチルダは魚をそれぞれの皿に取り分けながら加勢した。
「ダンジュは本当に見栄えがしたわね」
クリスの顔がぱっと明るくなった。
「でしょ!」
マチルダは続けた。
「赤い短上着が、川の上でよく映えていたわ。袖口の白い返しもよかった。腕を振るたびに白がぱっと見えるから、遠くからでも動きがわかるのよ」
ビリエラは目を丸くした。
「ずいぶん細かいところまで気がつくのですね!」
マチルダは当然のように答えた。
「そりゃ、彼の男ぶりはとても目立ちますもの」
マッテオは杯を揺らして笑った。
「舞台の人間は、船の上も舞台にするんだな」
クリスは椅子から腰を浮かせた。
「だからダンジュはすごいの!」
マチルダはすぐに言った。
「クリス、座って」
クリスは座ったが、興奮はまったく収まっていなかった。
「だって、最初のところ見た? 赤の船がぐっと前に出て、白の船を押し返して、その真ん中でダンジュが手を上げたのよ。そうしたら、みんながわあって言って!」
テオも負けずに言った。
「でもアーサーは、そこで前に出なかったんだよ。白の船が一回下がって、赤が追いかけて、それで横から来たんだ」
「アーサーの話ばかりしないで」
「だって勝ったのはアーサーだもん」
「勝ったのは白組よ。アーサーだけじゃないわ」
「ダンジュだけが赤組なわけでもないじゃん」
クリスは一瞬詰まった。
マッテオは楽しそうに二人を眺めていた。
「今日のテオは、なかなか言う」
テオは少し得意げに胸を張った。
「僕も将来、白組に入りたい」
クリスは即座に言った。
「だめ!」
「うちの地区は赤だから、ダンジュと一緒よ!」
「でも白は勝つよ」
「今年はたまたまよ!」
「去年も白だった」
「去年のことはいいの!」
クリスは魚の皿を見ながら、悔しそうに黒パンをちぎった。
マチルダは二人の皿を見てから、落ち着いた声で言った。
「白でも赤でもいいけれど、まず夕食を食べなさい。冷めるわよ」
ビリエラは少しだけ赤ワインに口をつけ、ほっと息をついた。
「しかし、最後は本当にあっという間でしたね。赤が白の旗を取るのかと思ったら、赤の旗のほうが先に取られていて……」
クリスが言った。
「取られたんじゃないわ」
「ちょっと、手が届いただけよ」
テオはすぐに訂正した。
「旗、持っていかれてたよ」
「見えてたわよ!」
「じゃあ取られたんじゃん」
クリスは答えに困り、助けを求めるようにマッテオを見た。
ラモンは杯を置いた。
「まあ、ダンジュも悪くなかった。あれだけ人を引きつけて、白の攻めを二度も押し返した。赤の本船旗頭は、最後まで崩れなかった」
クリスはうれしそうにうなずいた。
「そうよ! ダンジュは負けてないの!」
マッテオは容赦なく言った。
「だが、試合には負けたね」
クリスはむっとした。
「お父さん、そこは言わなくてもいいの」
「言わないと、明日も同じ話をするだろう」
「明日もするわよ」
「するのかぁ」
マッテオは声を出して笑った。
シエラはほとんど黙っていた。スープを静かにすすり、黒パンを少しだけちぎり、魚の白い身を小さく分けていた。周りの話に入っていないように見えたが、目だけは時々、話す者へ向いていた。
ラモンはそれに気づき、シエラを見た。
「どうだった?ずいぶん楽しみにしてたろう」
シエラは魚をフォークで刺しながら答えた。
「赤は、本船旗頭に戦力を集めすぎたと思う」
食卓の声が、少しだけ静かになった。
クリスはすぐに顔を上げた。
「集めすぎた?」
「ダンジュの船を守りすぎた」
シエラは短く言った。
テオは身を乗り出した。
「守りすぎたら、だめなの?」
「守る者が多ければ、攻める者が減る」
だが、ラモンが杯を置いた。
「最初はたしかにそうだったな。でもいつのまにか、アーサーが横から船に近づけるほど、
手薄になっていたな」
シエラはフォークの魚を口に放り込もうとした手を止めた。
「二度目に白を押し返したあとだ」
マッテオは少し身を乗り出した。
「うん、たしかにな」
「赤は追ってしまった。本船旗頭を守る船まで前に出た」
マッテオは目を細めた。
「ああ、一番歓声が上がったところだ。赤が一気に押したように見えた」
シエラは言った。
「あれは、どうなのだろう?なぜ一気に前にでたのだろう?」
ラモンの口元が少し動いた。
「白は、正面で勝つつもりではなかった。後半に横へ回るつもりだったんだろう」
テオは目を丸くした。
「最初から?」
ラモンは赤ワインの杯に指を添えたまま、川面を思い出すように目を細めた。
「白は最初、ずいぶん大人しかった。正面で押されても、崩れたようには見えなかった。あれはわざと下がったんじゃないか。下がる場所を決めていたんだな」
シエラはうなずいた。
「赤に勝っていると思わせた」
マッテオは感心したように息を吐いた。
「なるほど。赤はそこで気持ちよく前に出た。本船の周りまで前へ寄った。客席も沸いた」
マチルダも皿を重ねる手を止めた。
「あの時、みんなダンジュを見ていたわ。赤い上着が前へ出たから、見物している人たちもそちらへ目が行ったもの」
「人も寄った」
シエラは言った。
「見る者も、守る者も」
ビリエラは眉を寄せた。
「つまり、目立つところを守ったために、目立たないところを取られたのですか」
マッテオはビリエラを見て感心したように言った。
「助祭さん、わかりやすいまとめをしましたね」
ビリエラは少し照れたように首をすくめた。
ラモンは続けた。
「百人全員で押すと、勝っているように見える。だが、守る側まで攻めに回ったら、守りは薄くならざるをえまい」
「赤は本船旗頭に人を集めていたのに、つい、欲がでたんだろうな」
ラモンは低く言った。
マッテオは杯を持ち直した。
「赤は船乗りが多いから、押し合いは本当に強い。だが、白は船を渡る白のやつらの速いこと速いこと。今日のアーサーは、その中でも一番の素早さだったからね」
「神出鬼没だったな」
ラモンが言った。
テオも加わった。
「本当にどこから来たかわからなかった」
クリスは不満そうに頬をふくらませた。
「でも、ダンジュのほうがすごかったわ」
シエラは言った。
「ダンジュというものは声がとても通る人だな。リーダーとしてはとても良い素質だ」
クリスは少しだけ黙った後、尋ねた
「それはダンジュを褒めてるの?」
シエラは言った。
「褒めている」
マチルダは口元に笑みを浮かべた。
「ダンジュが目立ったから、赤は盛り上がったのよ。そこは間違いないわ。ダンジュがいなければ、あそこまで騒がなかったでしょうね」
「でしょう!」
クリスはすぐに復活した。
「だから、かっこよかったの!」
ラモンは苦笑した。
「今は勝ち方の話をしていたんだが」
クリスは真剣に言った。
「勝ち方より、かっこよさの話も大事なの!」
マッテオはうなずいた。
「それも紅白の戦だな。勝ったのは白。客を沸かせたのは赤。悔しいのは、赤を応援した家の夕食」
「うちは悔しくないわ」
クリスはすぐに言った。
「ダンジュがかっこよかったから」
「それなら何よりだ」
マッテオは笑った。
テオはまだ戦術のほうに興味を残していた。
「じゃあ僕、赤に入って、白みたいに動く」
クリスは目を丸くした。
「なにそれ」
「だって、うちの地区は赤なんでしょ。でも白みたいに動けば勝てるんでしょ」
クリスは少し考え、それから大きくうなずいた。
「それならいいわ!」
マッテオは声を出して笑った。
「それは赤の作戦会議で言ってやれ」
「子どもを本気にさせないの」
マチルダはそう言いながら、薄切りにしたりんごを小皿に並べた。
「今日は焼き菓子はないわよ。これで終わり」
「えー」
テオが残念そうに言った。
「朝早くから見物に出て、帰ってきて、夕食まで作った人に向かって言う言葉ではないわね」
マチルダは静かに言った。
テオはすぐに姿勢を正した。
「りんご、うれしいです」
「よろしい」
マチルダはテオの前に皿を置いた。
ラモンは杯を軽く持ち上げた。
「いい祭りだった」
「でしょう」
マッテオはうれしそうに言った。
「川の上で百人ずつ押し合って、岸ではもっと多い人間が歓声をあげて叫ぶ。あれを見ると、今年もいい年になる気がする」
ビリエラは正直に言った。
「私は、見物はもう少し遠くからでいいですね」
クリスは驚いてビリエラを見た。
「どうして? 近いほうがいいのに」
「心臓に近すぎました」
ビリエラは真面目に答えた。
マッテオはまた笑った。
マチルダも口元を押さえて笑い、ラモンは静かに赤ワインを飲んだ。
テオはりんごをかじりながら、まだ考えている顔をしていた。
「白みたいに動く赤って、かっこいいかな」
「かっこいいわよ」
クリスはすぐに答えた。
「でも、上着は赤よ。ダンジュみたいな」
「袖は白でもいい?」
「それは……」
クリスは少し悩んだ。
「ダンジュみたいなら、いいわ」
マチルダは二人を見ながら、空いた皿を重ねた。
「では、将来の紅白の戦の衣装は決まったわね。あとは、魚を残さず食べることから始めなさい」
テオは慌てて魚に手を伸ばした。
クリスも黒パンをスープに浸した。
シエラは小皿のりんごを一切れ取り、静かにかじった。甘酸っぱい味が口の中に広がった。
食卓ではまだ、白が勝った理由と、ダンジュがどれほど格好よかったかが、熱く語られていた。
運河都市の三日目の夜は、川での歓声や興奮をそのまま家の中へ持ち込んだようで、いつまでもにぎやかだった。




