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02. 妖精の命令

侯爵夫人イサベラは、金色の髪の少女を抱きしめたまま離そうとしなかった。


「シーラ……シーラ……」


侯爵夫人は何度もその名を呼び、少女の髪に頬を寄せて涙をこぼしていた。抱きしめられている少女は戸惑っていたが、それでも遠慮がちに侯爵夫人の背に腕を回していた。


暖炉の火が小さく鳴った。


侯爵アレハンドロは深く椅子に腰掛けたまま、その様子を黙って見ていた。長男ディエゴも、次男フェルナンドも言葉を失っていた。司祭ロドリゴだけが、ようやく事が収まったとでも言いたげな顔で立っていた。


その部屋の隅で、黒髪の少女が静かに立ち上がった。

侯爵がそちらを見た。

少女はまっすぐに侯爵を見返した。

「お父様」


まだ幼い声だったが、言葉ははっきりしていた。

少女はそのまま続けた。


「では、わらわの本当の父上と母上は、いまどこにいるのですか」


侯爵は口を開かなかった。侯爵夫人も顔を上げなかった。長男も次男も、視線を動かしただけで何も言えなかった。誰も、その問いに答えられなかった。


少女は少しだけ首を傾けた。

それから侯爵夫人に抱きしめられている金髪の少女へ視線を向けた。相手もこちらを見た。二人は同じ年ごろだった。


だが、見た目はまるで違った。


片方は金の髪に青い瞳だった。

片方は黒い髪に黒い瞳だった。


黒髪の少女は、金髪の少女に歩み寄った。

「そなたは知っておるか」


金髪のシーラは目を見開いた。

黒髪のシーラは相手の目を見たまま、続けた。


「わらわの本当の父上と母上が、どうしておるのか」


「え……?」


金髪の少女は困ったように侯爵夫人を見た。だが、侯爵夫人は何も答えなかった。その場にいた誰も答えなかった。


そのときだった。


ふわり、と部屋の空気が揺れた。

甘い花の香りが流れ込み、暖炉の火が一瞬だけ大きく揺れた。次の瞬間、天井のあたりから小さな笑い声が降ってきた。


「ふふ」


人の声ではなかった。耳元でささやかれているようにも思えるのに、どこか遠くからの声のようにも思える。

部屋の中央の空間がきらりと光った。そこに、小さな人影が現れた。花びらのような衣をまとい、背に透ける羽を持つそれは、床に降りず宙に浮いていた。


妖精だった。


侯爵夫人は金髪のシーラをさらに抱き込んだ。長男と次男は動けなかった。司祭ロドリゴは顔色を変え、その場で膝をついた。


「精霊の御使い……!」


妖精はくるりと宙を回った。楽しそうな顔だった。


「やだ、やだ」


妖精は笑いながら言った。


「もう会っちゃったの?」


妖精は二人の少女を見比べた。それから肩をすくめた。


「まあ、いいか」

「本当はね、二人で来るはずだったんだけど」

「あいつはどっかでまたふらふらしてて、いないの」


そう言ってから、妖精は金髪の少女の前へふわりと飛んだ。近くまで寄ると、その金の髪を指先でつついた。


「ほら、やっぱりかわいいじゃない」


妖精はにこにこと笑った。


「やっぱり、こっちの子よね」


侯爵家の者たちは息を詰めたまま動かなかった。誰も、その言葉に口を挟めなかった。

だがそのとき、黒髪の少女がじっと妖精を見上げた。

妖精がくるりと向きを変えた、その瞬間だった。

黒髪の少女が、すっと手を伸ばした。

誰も止められなかった。

小さな手が、妖精をつかんだのだ。


「きゃっ!?」


妖精の悲鳴が部屋に響いた。


一瞬、全員が何が起きたのか理解できなかった。


次の瞬間、司祭ロドリゴは目を見開いた。侯爵夫人イサベラは小さく悲鳴を漏らした。


「ひっ……」


侯爵夫人は黒髪の少女に手を伸ばしかけ、ふと、自分の腕の中の少女を見た。ディエゴがとっさに母のそばへ寄る。フェルナンドも立ち上がったが、妖精をつかんだままの少女から目を離せなかった。


侯爵アレハンドロが低い声で言った。


「放しなさい」


黒髪の少女は妖精をつかんだまま、侯爵を見た。

侯爵はもう一度、はっきりと言った。


「シーラ、精霊の御使い殿を放しなさい」


黒髪の少女は少しだけ間を置いたが、やがて手を開いた。

妖精は慌てて宙へ逃げた。羽をばたつかせながら一気に天井近くまで上がり、距離を取る。

小さな顔が怒りで赤くなっていた。


「なによ、いまの!」


妖精は空中で怒鳴った。


「信じらんない! 人間のくせに! わたしをつかんだ!」


司祭ロドリゴは膝をついたまま、言葉を失った。

妖精は黒髪の少女を睨みつけた。


「この子、気に入らない」


黒髪の少女は黙って妖精を見上げていた。

妖精は小さな指を突きつけた。


「あの子とこの子、全部入れ替えなさい」


その声音は先ほどよりもずっと強かった。


「服も」

「部屋も」

「名前も」

「権利も義務も、恩恵さえも」


妖精はそこでにやりと笑った。


「ぜーんぶ」


それから、思いついたことをそのまま口にした。


「それと、その子は、本当の家に歩いて帰りなさい」


侯爵夫人が小さく息を呑む。司祭ロドリゴも思わず顔を上げた。

だが妖精はそんな人間たちの反応など気にも留めなかった。


「わたしをつかむ子なんて、運んであげない」


黒髪の少女は、ただ静かに立っていた。

それから妖精を見上げた。


「本当の家とは、どこを指す」


妖精は目をぱちぱちさせた。


「はあ?」


妖精は金髪の少女を指さした。


「この子の家に決まってるじゃない」


それから黒髪の少女を見た。


「あんたのいるべき場所よ」


誰も反論しなかった。妖精は精霊の使いであり、その言葉に従わないなど論外だった。その場にいる誰も、それを覆すことはできなかった。


司祭ロドリゴが震える声で言った。


「……精霊の御意志ならば」


侯爵アレハンドロはしばらく黙っていた。

侯爵は黒髪の少女を見た。少女は黙ったまま、侯爵を見返していた。

それから侯爵は金髪の少女へ視線を移した。


「……精霊の御意志ならば、そうなのだろう」


侯爵の声は重かった。


「お前が、我が娘か」


侯爵夫人は涙をこぼしたまま何度も頷いた。

黒髪の少女は何も言わなかった。

妖精は満足そうに笑った。


「じゃあ決まり!」

「元の人生を取り戻してね!」


きらり、と光が弾けた。

次の瞬間、妖精の姿は消えていた。


部屋の中には沈黙だけが残った。

この主人公は後先考えずに行動する悪い癖があります。

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