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01.裏

01.帰ってきた娘 執事の目線でスタート版。 どっちか悩んで、こっちを裏にしました!

アルバトス侯爵家の執事は、その夜も時計のように正確に働いていた。

もっとも、時計と違って、目の前の人間は勝手なことをするので時計と同じようには進まない。そこがいつも面倒だった。


大居間の給仕は済んでいた。侯爵閣下は機嫌が悪くない。侯爵夫人も表向きは穏やかだ。翌日から長女が王立貴族学園へ通う夜としては、まずまずの静かな晩だった。


執事は廊下を忙しく歩きながら、そう判断していた。


侯爵家に長く仕えていると、静かな晩が本当に静かなまま終わるかどうかくらいはわかるようになる。今夜は七割方、大丈夫そうだった。残りの三割は人間なので、当てにならない。


長女シーラがそのアルバトス領で育てられ、数週間前になってから急に王都の本邸へ呼び戻されたときも、執事は驚かなかった。だが、多少忙しくなることは覚悟した。


昔、東のアルバトス領へ何度か同行したこともある。石の城、冷たい風、無駄口の少ない領兵、妙に足腰の強い女たち。王都育ちの執事には、いまでもあの土地は少しばかり居心地が悪い。


侯爵家には侯爵家の都合がある。

ただし、都合がある家ほど、使用人には余計な想像をさせる。

長女は家族の中でひとりだけ黒髪だった。瞳も黒い。侯爵も、侯爵夫人も、兄君たちも金髪に碧眼なのだから、目立たぬはずがない。使用人たちは口に出さないが、見ないふりをしているだけだ。

そして侯爵夫人自身が、その「見ないふり」をいちばん気にしているようだった。

夫人は長女を見るたび、相手が娘か、面倒の種か、決めかねている顔をするときがある。執事はそういう顔を何度も見た。

侯爵閣下に不貞を疑われている、とでも思っているのだろう。

そこまで考えるということは、むしろ何か自分で引っかかることでもあるのではないか。執事はそう思っていたが、もちろん口にはしない。執事の仕事は家を回すことであって、奥方の胸の内を片づけることではない。


廊下の向こうからフットマンが小走りにやって来た。

来る前から、あまりよい知らせではない顔をしていた。


「どうした」


執事が聞くと、フットマンは息を整えてから頭を下げた。


「精霊教会の司祭様がお見えです」


執事は小さく眉を上げた。


「夜分にか」


「はい。閣下にすぐお目通りをと」


「名は」


「ロドリゴ・デ・サン・ミゲル司祭様です」


そこで執事は少しだけ黙った。


侯爵家の門番が煙に巻いて帰らせることができるような相手ではなさそうだった。


「ひとりか」


「いえ」


フットマンは言いづらそうに続けた。


「女の子を、おひとり」


執事はその一言で嫌な予感を覚えた。

こういう嫌な予感は、たいてい当たる。当たってほしくないときに限ってよく当たる。


「年は」


「八歳か、九歳ほどかと」


「親類の届け出か、保護の相談か、寄進の依頼か」


「それが……」


フットマンは困った顔をした。


「奥様に、少し似ております」


執事はそこで、今夜の残り三割が面倒な側へ倒れたと理解した。


「司祭は何と」


「大事なお話がある、と」


「それだけか」


「はい」


執事は鼻の上の眼鏡をくいっと上げた。

精霊教会の人間は、こういうとき肝心なところを玄関で言わない。相手に言わせたいからだ。ずるいが、たいてい効く。


「待たせているのはどこだ」


「玄関広間です」


「よろしい。私が出る」


フットマンはほっとした顔で下がった。

執事は玄関広間へ向かった。

足取りは一定だったが、頭の中では大居間の並びが浮かんでいた。金髪の侯爵、金髪の侯爵夫人、金髪の兄君たち、黒髪の長女。

その家へ、奥様に似た少女が教会から届けられた。

まともな話であるはずがない。


玄関広間には司祭が立っていた。

黒い祭服、よく整えられた髭、いかにも話を濁さず通しそうな顔。年のころは三十代後半。見るからに、門前払いするとあとで面倒になる種類の男だった。


そして、その後ろに少女がいた。

執事は少女をひと目見て、内心で顔をしかめた。

なるほど。これはフットマンが言いよどむはずだ。

金髪。碧眼。顔は侯爵夫人によく似ている。


だが、服がひどかった。

厚い布を頭からかぶせて脇を縫っただけのような一枚もの。色は洗いすぎた雑巾と古い袋の中間みたいな色だった。要するに、育ちも家も服のほうから先に白状している格好だった。

侯爵家の玄関広間に立たせるには、見事なくらい似合わない。


だが、顔だけは似合った。

そこがいちばん始末が悪かった。

執事は司祭へ進み出た。


「アルバトス侯爵家執事でございます。夜分のご来訪、どのようなご用件でしょう」


司祭は一礼した。


「突然の訪問をお許しください。侯爵閣下に、至急お伝えすべきことがございます」


「今夜でなければならないことで?」


「はい」


司祭は迷わなかった。


「このお嬢さんを明日まで別の場所に置くわけにはまいりません」


執事は少女を見た。

玄関広間の床に吸い込まれそうな頼りなさで、少女は怯えた顔をしていた。


「ご用件の大意を、先に伺っても」


司祭は執事を見返した。


「精霊教会では、しばし、精霊の御技を伝え聞くことがあります」


執事は思った。

出たな、教会の前置きだ、と。

だが顔には出さない。


「その中には、妖精による取り替え子の話も含まれます」


執事は一瞬だけ瞬きをした。

精霊教会は、たまにとんでもないことを大真面目に持ってくる。だが今回は、その“たまに”が侯爵家の玄関広間まで歩いてきていた。


「……なるほど」


それだけ返した。

司祭は少女の肩に軽く手を置いた。


「私もまた、これまで教会を預かる者として、そうした御業を幾度か耳にしてまいりました。ですが、この子を見たとき、ただ聞き流してよい話ではないと考えたのです」


ふと、この司祭が侯爵夫人と懇意だったことを思い出した。

執事は心の中で、そうでしょうとも、と答えた。

この顔で、この色で、この格好だ。聞き流して済むなら、そのほうが器用すぎる。


「お取次ぎいたします」


執事はそう言った。


司祭を玄関広間に残し、大居間へ戻る。扉の前で一度だけ姿勢を整え、中へ入った。

中央の大きなソファに侯爵閣下はワインを手にして座っていた。ラフなシャツ姿でリラックスしていることがわかる。

その隣で侯爵夫人はお茶を手にしている。長男は本。次男は木剣。窓際で長女は椅子に座っている。

執事は侯爵へ一礼した。


「閣下。精霊教会の司祭様がお見えです」


侯爵が眉を上げた。


「司祭?」


「はい。ロドリゴ・デ・サン・ミゲル司祭様です」


「用件は」


執事は少しだけ間を置いた。


「女の子をひとり、お連れです」


それだけで、侯爵夫人がこちらを見た。


執事は続けた。


「十歳ほどかと。金髪に碧眼で……奥様によく似ておられます」


侯爵はもともと、驚くと黙る人だった。感情を表に出すより先に、相手の言葉を最後まで聞いてから立ち位置を決める。若いころからそうだった。面倒ごとを前にしたときほど、その癖は強く出る。

若干の沈黙のあと、侯爵は低く言った。


「通せ」


執事は一礼し、扉を開いた。


司祭が入る。少女が続く。


その瞬間、大居間の空気は、先ほどまでとは別のものになった。

執事はそれを横目で確かめながら、壁際へ下がった。

侯爵夫人が立ち上がった。


「……その子は?」


司祭は一礼し、少女の肩に手を置いた。


「突然の訪問をお許しください、侯爵閣下、侯爵夫人」


そこから先の話は、執事にも半ば予測できていた。


孤児院。精霊教会。精霊の御技。妖精による取り替え子。


司祭は静かに話した。


執事は主に侯爵を見ていた。


侯爵は表情を崩さなかった。だが、唇の端がだんだん下がりっていくのを執事は見逃していなかった。

侯爵夫人はすでに、司祭よりもその後ろの少女を見ていた。


司祭が少女を一歩前へ導いた。


「私もまた、これまで教会を預かる者として、そうした御業を幾度か耳にしてまいりました。ですから、この子を見たとき、ただ聞き流してよい話ではないと考えたのです」


侯爵はその言葉にも動かなかった。


だが執事にはわかった。侯爵はもう、この場を家の外の話としては見ていない。司祭の持ち込んだ面倒が、いま侯爵家の中に立っていると受け取っていた。


侯爵夫人の指先が震えた。


少女は口を開いた。


「……あの」


小さな声だった。


「わたし、シーラです」


その名が落ちた瞬間、侯爵夫人の顔色が変わった。


だが執事は、そのときも侯爵を見た。


侯爵は表情を変えなかった。目だけが、ほんのわずかに細くなった。それで十分だった。あの人は、驚いたときほど顔を動かさない。


少女はさらに続けた。


「ずっと、そう呼ばれてました」


それから、侯爵夫人を見上げた。


「お、おくさま……」


そこで詰まった。


司祭が少女の肩に置いた手に、ほんの少しだけ力を入れる。


少女は言い直した。


「……おかあさま、ですか」


茶器が落ちた。


硬い音が広い部屋に響いた。


侯爵夫人は割れた欠片など見もせず、少女へ駆け寄った。


「ああ……まあ……」


夫人は少女の肩をつかみ、そのまま抱きしめた。


「この子……この子だわ……!」


その声を聞いても、侯爵はすぐには動かなかった。


執事はそこに、侯爵らしさを見た。夫人のように感情へ飛びつかない。東の領主の血筋らしい我慢強さだった。面倒ごとが本物であるほど、侯爵は性急にうなずかない。


抱きしめられた少女が、やがて、そっと侯爵夫人を抱きしめ返した。


そのあたりでようやく執事は、部屋のほかの者にも目を向けた。長男も次男も、黒髪のシーラお嬢様も、動かず静かなままだ。子どもたちは、どうしてよいかわからずにいるだろう、と執事は一人頷いた。


執事は音を立てずに、半歩、侯爵に近づく。

次にこの場を動かすのは夫人ではない。侯爵だ。

執事には、それがわかっていた。

そして執事は、割れた茶器が床に散ったままの大居間で、侯爵が口を開くのを待っていた。

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