01.帰ってきた娘
アルバトス侯爵家の大居間は、その夜もキラキラしていると思った。
若いメイドのクララは、銀盆を両手で持ちながら、部屋の隅で背筋を伸ばして立っていた。王都で育ったクララは、派手な屋敷や上等な品をまるで知らないわけではなかった。実家は布や小物を扱う商家で、それなりの家へ品を納めることもあったからだ。それでも、侯爵家の大居間はやっぱり別だった。物が高そうなだけではない。磨かれ方も、置かれ方も、洗練されていた。こういう家に勤めていると言うと、同じ通りで育った友人たちは目を丸くするので、ちょっと気分がよかった。
高い天井には精霊をかたどった彫刻が施され、白い石柱には金の飾りが巻いてあった。壁には歴代当主の肖像画がかかり、深紅の絨毯は端までぴしっと伸びている。大きな暖炉には火が入り、その前に置かれた飾り金具までぴかぴかに磨かれていた。暖炉の火まで上等に見えるのだから、貴族の家というのはたいしたものだと、勤め始めたころのクララは本気で感心したものだった。今では、さすがに顔には出さない。
部屋には侯爵家の家族が揃っていた。
侯爵アレハンドロ・デ・アルバトスは、ワインを飲んでいた。侯爵夫人イサベラは、その隣で茶器を手にしていた。二人とも、夜の灯りの下で金髪がやわらかく光っていた。碧眼までよく似ていて、お似合いの侯爵夫妻だった。
長男ディエゴも金髪に碧眼だった。父親に似た整った顔で、肘掛け椅子に座り、本を読んでいた。
ちょっとかすんだ金髪の次男フェルナンドは暖炉の近くにいた。まだ十二歳ほどで、じっとしているのが苦手な子だ。今もふかふかの茶色いプードルを相手に木剣を振るまねをしていた。犬は元気いっぱいで、フェルナンドが木剣をひらひらさせるたび、前足を浮かせたり、ぴょんと跳ねたりしている。見ているぶんにはちょっと面白かった。
そして、10歳になる長女のシーラお嬢様は、家族から少し離れた椅子に静かに座っていた。
クララは、さりげなくそちらを見た。
侯爵も、侯爵夫人も、兄君たちも、若干の色彩の違いがあるものの、みな金髪に碧眼だった。暖炉の火を受けると、その髪はやわらかく光った。並んでいれば、ひと目で家族だとわかる。
だが、シーラお嬢様だけは違った。
黒髪だった。瞳も黒かった。クララは最初に本邸でシーラお嬢様を見たとき、まずそこに目が行った。
つやのある濃い黒髪で、光を受けると少し青く見えるような色だった。目も深い黒で、じっとしていると表情が読みづらい。この団らんの場でも、浮いて見えた。
シーラお嬢様が王都の本邸へ来たのは、ほんの数週間前のことだった。それまでは東のアルバトス領の城で育っていたと聞いている。だから、使用人たちは最初は少しざわついた。いまさら本邸へ呼ばれる娘。しかも、呼ばれてすぐに王立貴族学園へ入る準備まで進めるのだから、事情がありそうだと、誰だって思う。
もちろん、表では誰も何も言わなかった。
シーラお嬢様は、思っていたよりずっとちゃんとしていた。
礼儀作法も崩すこともなく、田舎でのびのび育った子というより、しっかりと躾をされた貴族家のお嬢様だった。
ただ、言葉遣いだけは少し変わっていた。
最初にそれを聞いたとき、クララは本気で盆を落としそうになった。王都ではあまり聞かない、変な言い方が混じるのだ。あれでは学園で浮く。
侯爵夫人イサベラも、それを気に入っていなかった。
侯爵夫人は表立って声を荒げる人ではなかった。だが、やわらかい言い方でも、とても冷たく聞こえることがあった。
「まあ……ずいぶん変わった話し方をするのね、シーラ。先代様ご夫妻は、王都の礼儀作法まではお教えにならなかったのかしら」
「せっかくなのですもの。女の子は、もう少し愛らしく話したほうが、皆に好かれるわ」
夫人はそう言った。おっとりとした言い方のはずなのに、どこか棘があった。
シーラお嬢様は、そのたびに黙ってうなずいた。
兄君たちも、どこかよそよそしかった。
長男ディエゴはもともと本にばかり目が向くタイプのようで、家の中の細かな空気にまで気を配る感じではない。次男フェルナンドは子どものためか、悪気なく距離を取るが、意地悪をするわけではない。急に本邸へやってきた妹とすぐには打ち解けられないのだろう。
翌日から、シーラお嬢様は王立貴族学園へ通うことになっていた。侯爵家の娘として、いよいよ世間へ出るのだと、昼のうちには古株のメイドたちもあれこれ言っていた。奥様も機嫌が悪いわけではなかったし、侯爵家としては節目の前夜だった。
だから、今夜は静かな団欒になるはずだった。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
部屋の空気が少しだけ変わった。クララは反射的に姿勢を正した。
入ってきたのは執事だった。執事は侯爵へ進み出て、一礼した。
「閣下。精霊教会の司祭様がお見えです」
侯爵が少しだけ眉を上げた。
「司祭?」
「はい。大事なお話があるとのことです」
クララは銀盆を持ったまま、まばたきをした。
こんな時間に司祭。しかも急ぎの話。よい知らせではなさそうだと、クララは思った。
侯爵は短く考えてから言った。
「通せ」
執事が扉を開く。
黒い祭服の男が静かに入ってきた。三十代後半ほどの司祭だった。髭はきちんと整えられていて、いかにも偉い聖職者らしい落ち着いた顔をしていた。
精霊教会の司祭、ロドリゴ・デ・サン・ミゲル。
だが、クララが思わず目を向けたのは、その後ろだった。
小さな女の子が立っていた。
金色の髪が肩にかかり、青い瞳が不安そうに大居間の中を見ていた。その姿を見た瞬間、びっくりしてクララは思わず、息を飲んだ。
目元も、口元も、侯爵夫人によく似ていたからだ。
服はひどく粗末だった。
厚い布を頭からかぶるようにして作っただけの、だぶついた一枚ものだった。変な色だった。茶色とも灰色ともつかない、洗いすぎてくすんだ色で、あまり体に合っていない。丈は短く、袖は長すぎる。孤児院のようなところからそのまま連れてこられたのだと、ひと目でわかった。侯爵家の大居間の中では、その服はまったくそぐわなかった。
侯爵夫人イサベラも気づいたのだろう。夫人はゆっくり立ち上がった。
「……その子は?」
司祭ロドリゴは深く一礼した。
「突然の訪問をお許しください、侯爵閣下、侯爵夫人」
そして、司祭は後ろの少女の肩に手を置いた。
「私は先日、とある養護院を訪れておりました」
少女は落ち着かない様子で視線をさまよわせていた。豪華な大居間も、侯爵家の人々も、全部が自分とは関係ないものに見えている顔だった。
金髪で青い目の少女は、服装に目をつぶれば、侯爵家の一族の一員に見えた。侯爵夫妻のあいだに立たせれば、こちらの少女のほうがよほど家族として自然に見えそうなくらいだった。
クララはそう考えて、なんだかぞわっとした。
クララは思わず、いつものシーラお嬢様のほうを見た。
黒髪のシーラお嬢様は、椅子に座ったままだった。シーラお嬢様は立ち上がりもせず、騒ぎもせず、ただ司祭と金髪の少女を見ていた。
暖炉の火の前で笑っていた金髪の次男。椅子で本を読む金髪の長男。立ち上がった金髪の侯爵夫人。奥でワインを持つ金髪の侯爵。
もうひとり、金髪の少女が居心地が悪そうにたたずんでいた。
その中で、黒髪のシーラお嬢様だけが、なおさら浮いて見えた。
司祭が言った。
「精霊教会では、しばし、精霊の御技を伝え聞くことがあります」
侯爵が低い声で問うた。
「……どんな話だ」
「妖精による取り替え子の話です」
その一言で、クララは、暖炉の火さえ一瞬、止まった気がした。
フェルナンドの手が止まり、プードルも木剣の先を見たまま動きを止めた。ディエゴは本から顔を上げた。侯爵夫人は立ったまま、少女を見つめていた。
クララは息をのみそうになって、あわててこらえた。
妖精の取り替え子。
それは下町の子どもを脅かすための与太話ではなかった。この国では、精霊教会の司祭が口にした瞬間に、笑い話ではなくなる。
司祭は少女を一歩前へ導いた。
「私もまた、これまで教会を預かる者として、そうした御業を幾度か耳にしてまいりました」
司祭はそこで言葉を切った。
「ですから、この子を見たとき、ただ聞き流してよい話ではないと考えたのです」
侯爵夫人の指先が震えていた。カップの縁が小さく鳴った。
少女はおずおずと口を開いた。
「……わたし」
声は小さかった。
「わたし、シーラっていいます」
長男ディエゴが本を膝の上に下ろした。フェルナンドは木剣を握ったまま、プードルの背にもう片方の手を置いた。侯爵は表情を変えなかったが、目だけが鋭くなっていた。
少女は続けた。
「孤児院で……ずっと、そう呼ばれてきました」
そして、少女は侯爵夫人を見た。
「……あの」
声が震えていた。
「あなたが……お母さまですか?」
その瞬間、侯爵夫人の手からカップが落ちた。
茶器が床に当たって割れた。乾いた音が広い部屋に響いた。
侯爵夫人は砕けた茶器など見もしないで、金髪の少女へ駆け寄っていた。
「……シーラ」
夫人は少女を抱きしめた。
「私の……娘……!」
絞り出すような奥様の声を、クララは今まで聞いたことがなかった。
抱きしめられた少女は、最初は驚いていたが、やがて、そっと侯爵夫人を抱きしめ返した。
クララはその様子を見て、胸の奥がきゅっとした。
だが、そのすぐあとで、視線は自然ともう一人のほうへ向いた。
黒髪のシーラお嬢様は、まだ椅子に座っていた。
ただ、侯爵夫人に抱きしめられている金髪の少女を見ていた。
侯爵夫人は金髪の少女を抱きしめたままだった。
ディエゴは本を閉じることも忘れたような顔で見ていた。フェルナンドはプードルの背に手を置いたまま固まっていた。さっきまで跳ねていたプードルまで、部屋の空気に押されたみたいに動かなかった。
侯爵は黙って司祭を見ていた。
クララは思わず肩を揺らした。割れた茶器を片づけるべきかと、一瞬だけ足に力が入った。だが、動けなかった。今、床にひざをついて欠片を拾い始めたら、かえって場を壊す気がした。クララは銀盆を持ったまま、その場に縫いとめられたように立っていた。




