24.運河都市の2日目
朝、シエラは物音で目を覚ました。
子ども部屋の小さな窓から、朝の光が差し込んでいた。部屋の中では、先に起きたクリスが着替えながらもテオの毛布を剥がそうとしていた。
「ほら、起きて。朝だよ」
「んー……」
テオは顔をしかめて毛布にしがみついたが、クリスはもう一度毛布を引いた。そこでようやくテオが寝台の上でもぞりと起き上がる。そのやり取りを聞いて、シエラも身を起こした。
階下からは、すでに物音がしていた。板が踏まれてきしむ音、桶を引く音、誰かが短く言葉を交わす声。
シエラが部屋を出るころには、クリスはもう先に階段へ向かっていた。テオも髪をぐしゃぐしゃのまま、そのあとを追った。
シエラが階段を下りると、土間ではもうマッテオが動いていた。大きな板を壁に立てかけ、筆を何本も並べ、机の上には顔料皿がいくつも広げられていた。家の中には朝から絵具と油の匂いが濃かった。
台所のほうでは、マチルダが鍋を見ながらパンを切っていた。クリスはその横で皿を運び、布をたたんだりしていた。
ラモンは長テーブルの端に腰を下ろし、湯気の立つ杯を手にしていた。今日は家の中で休むつもりらしかった。
土間の奥では、ダンが首をゆっくり振り、ギラが羽を整えていた。二羽とも落ち着いてはいたが、人の出入りがあると、そわそわと脚を動かしていた。
マチルダが振り向いた。
「起きたのね。顔を洗ったら、先に食べなさい」
シエラはうなずいた。
クリスがテオの肩を軽く押した。
「先に顔を洗ってきなさい」
テオは口をとがらせたが、逆らわずに裏手の水桶のほうへ向かった。クリスもそのあとを追い、シエラも少し遅れてそちらへ向かった。
顔を洗って戻ると、土間のほうではもうマッテオが板に下描きを入れはじめていた。筆ではなく細い炭を使って、迷いなく線を引いていく。近くで見ても、何の形になるのかはまだよくわからなかった。
そのとき、奥からビリエラが出てきた。もう法衣は整えてあり、今日もこれから大聖堂へ向かうらしかった。
「おはようございます」
ビリエラはそう言ってから、土間の忙しさを見回し、少しだけ肩をすくめた。
「……朝から、にぎやかですね」
マチルダは鍋のふたをずらしながら言った。
「助祭さんも、先に召し上がってからになさいな」
「はい。いただいたら、すぐに向かいます」
ラモンがビリエラを見た。
「今日も顔出しか」
「ええ。昨日は到着の報告だけでしたから、今朝はもう少しきちんと話を通しておいたほうがよいかと」
「そうか」
ビリエラはうなずいたあと、少しだけ言いにくそうな顔になった。
「昨日よりは……迷わず行けると思います」
ラモンは杯を置いた。
朝食が並びはじめると、表の引き戸の向こうからもう人の声が聞こえてきた。広場を行き来する足音も早い。祭りが近いせいか、通りは朝から落ち着かないようだった。
マッテオは板から顔も上げずに言った。
「もう来たか」
マチルダが皿を置きながら、そちらを見た。
「朝のうちは早いのよ。受け取りもあるし、追加を言いに来る人もいるから」
「追加は断れ」
マッテオはそう言いながらも、手は止めなかった。
マチルダはシエラに手招きしながら、マッテオに返す。
「断ったら、明日また来るだけよ」
シエラは席についた。テオはもう座っていたが、視線だけは土間の奥へ向いていた。クリスがその横へ座りながら、肘で軽くつつく。
「朝ごはん食べるときによそ見しない」
テオはしぶしぶ前を向いたが、パンを取る前にもう一度だけ奥を見た。
「ラモンおじさん、雷駝鳥は今日は外に出ないの?」
ラモンが答えた。
「今日は休ませる。ここで落ち着かせておく」
「乗るのもだめ?」
「だめだ」
テオはそこで口をへの字にした。クリスは何も言わずにスープ皿を弟の前へ寄せた。
朝食が終わるころには、表の引き戸の向こうの声がさらに増えていた。広場に面した家らしく、朝のうちから落ち着かなかった。
マッテオは椅子にも座らず、さっさと食べ終えると、また板の前へ戻った。今日は受けた仕事の仕上げがいくつもあるらしく、乾かしていた板も、巻いた布も、土間のあちこちに立てかけてあった。
「こんなにあるのか」
ラモンが言うと、マッテオは炭を持ったまま鼻を鳴らした。
「祭り前だからな。今のうちに渡せるもんを渡しておかないと、二日後には誰も仕事どころじゃなくなる」
そのころ、ビリエラは食べ終えて立ち上がった。
「では、行ってまいります」
マチルダが振り向いた。
「お昼はどうなさいます。戻れそうにありませんか」
「たぶん、戻れないかと」
「では、お昼は気にせずお行きなさいな。夕食までにはお戻りくださいね」
「はい、ありがとうございます」
ビリエラはそう言ってから、シエラのほうも見た。
「シエラさんも、今日はおとなしくしていてくださいね」
シエラは短くうなずいた。
「承知した」
ビリエラが出ていくと、入れ替わるように表から声がした。
「マッテオ、できてるか」
「半分な」
マッテオはそう返しながら、もう板に向き直っていた。炭で引いた線の上へ、ためらいなく色を置いていく。赤、白、黒が重なっても、近くで見るうちはまだ何の絵かわからなかった。
マチルダは引き戸のほうへ出て、用向きを聞いた。クリスもそのそばに立ち、受け取るものと渡すものを間違えないよう見ていた。
シエラは邪魔にならない場所に立って、その仕事ぶりを眺めていた。ラモンは長テーブルの端から、マッテオと、そのそばを離れないシエラを見ていた。
人はひっきりなしに来た。祭りに使う旗の受け取り、看板の文字の直し、色の確認、渡す日の念押し。マッテオはそのたびに手を止めたり止めなかったりしながら応じていた。
「それは昼だ」
「こっちは夕方」
「乾いてから持っていけ。指で触るな」
マチルダは横で受け渡しをまとめ、クリスもその手伝いをしていた。
マッテオの筆は止まらなかった。太い線を置いたかと思うと、少し下がって眺め、また近づいて端を引く。近くで見るとただ色が重なっているだけなのに、少し離れると旗や建物の輪郭が急に見えてきた。
ラモンが後ろから声をかけた。
「飽きないか」
シエラは振り向かずに答えた。
「飽きぬ」
マッテオはそれを聞いて、板の向こうで笑った。
「ほらな。絵描きは食えなくても、見物はつく」
マチルダが引き戸のほうから言った。
「見物がつくのは結構ですけれど、先に仕上げてくださいな」
「止めてないだろ」
「でしたら結構です」
しばらくすると、表から子どもの声がした。テオの友達らしい男の子が二人、引き戸の外から半土間の奥をのぞきこんでいた。
「ほんとにいる」
「でかいな」
テオはたちまち得意そうな顔になった。
「ダンっていうんだ。こっちはギラ」
友達のひとりが、おそるおそる言った。
「乗れるのか」
「乗れるよ」
テオはすぐに答えたが、その声は少し大きすぎた。ラモンが長テーブルのほうから顔を上げる。
「お前は乗るなよ」
「まだ乗るって言ってないよ」
「顔に書いてある」
クリスは引き戸のそばでそのやり取りを聞き、少しあきれたように弟を見た。
テオは口をとがらせたが、友達の前なので引かなかった。
「ちょっと見るだけだよ」
「見るだけにしとけ」
ラモンがそう言ったときには、もうテオは半土間のほうへ足を向けていた。友達二人も、こわごわとそのあとについていく。
ダンは首を下げて子どもたちを見た。ギラは片目だけでじろりと見返した。
シエラは引き戸の内側から、その様子を見ていた。近づきすぎれば危ないと、シエラにはすぐわかった。
テオはダンのほうを見ながら、さらに一歩出た。
「なあ、ラモンおじさん。ちょっとだけ乗ってみたい」
「だめだ」
ラモンはすぐに言った。
「今日は休ませる日だ。それに、お前にはまだ早い」
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとで済まん」
マッテオも表から声を飛ばした。
「テオ、やめろ」
テオはそれでも未練たっぷりにギラのほうを見た。
「シエラだって乗ってた」
「シエラは旅の間ずっと乗ってきた。今日いきなり乗るのとは違う」
テオは口をとがらせたまま、友達の前で引き下がるのも悔しそうだった。
「ちょっと近くで見るだけ」
「それもほどほどにしろ」
ラモンがそう言ったとき、ギラが首を低くした。羽がわずかにふくらみ、太い脚が土間を踏み直す。
シエラはそれを見た。
「怒る」
「え」
テオが足を止めた、その次の瞬間だった。
ギラの脚がどんと鳴った。
「うわっ」
テオは本当に飛びのいた。友達二人もいっしょになって後ろへ下がり、引き戸の板にぶつかりそうになって止まった。
ギラはそのまま首を少し前へ出し、苛立たしげに嘴を鳴らした。
ラモンはそこで立ち上がった。
「だから言った」
テオは顔を赤くしたまま、もう一歩だけ後ろへ下がった。
ちょうどそのとき、表から戻ってきたマッテオがそれを見た。
「だからやめろと言ったろう」
テオは肩をすくめた。
「……ちょっと近づいただけだよ」
「ちょっとで蹴られたら、あとが困る」
マッテオはそう言ってから、友達二人のほうも見た。
「お前らたちも見るだけにしとけよ」
友達二人はそろってうなずいた。
それ以上は、さすがにテオも近づかなかった。友達に向かって何か言いわけめいたことを言っていたが、声はさっきまでよりずっと小さかった。
ギラはまだ少し気を立てていたが、テオたちが離れると、やがて首を戻した。ダンは横でゆっくり首を振るだけだった。
やがて子どもたちはまた表へ出ていった。テオは友達といっしょに広場のほうへ走っていったが、戸口を出る前にもう一度だけ雷駝鳥を振り返った。
そのあとも、家の中は忙しかった。マッテオは板を立て替え、布を広げ、乾いたものから順に渡していった。マチルダは用向きを聞き、代金を受け取り、クリスは何度も表と台所を行き来した。テオも友達と出たり入ったりしていたが、土間には近づかなかった。
シエラは引き戸の内側に立ったまま、またマッテオの仕事を見ていた。近くでは形がわからないのに、少し離れると急に絵になる。その変わり方が気になった。
ラモンが言った。
「そんなに気になるか」
「気になる」
マッテオは筆を動かしたまま笑った。
「昨日より見方が真剣じゃないか」
ラモンは椅子の背にもたれたまま、マッテオと、その仕事のそばを離れないシエラに目をやった。
この回と次の回を書くの一日使ってしまったよ・・・・あっという間に夕飯の時間




