20.貧乏画家
平舟は白い石垣でできている船着き場へゆっくり近寄った。
目の前に、石段が何段も重なっていた。
その上では、人が絶えず行き交っていた。
荷を担ぐ者、布を抱える者、声を張り上げる者が、広場の端から端まで途切れなかった。
赤と白の旗が風に鳴り、白い石壁に影を落としていた。
さらにその奥に、精霊大聖堂が高く立っていた。
塔も壁も白く、午後の光を受けて、ひときわ明るく見えた。
シエラは舟の桟へ片足をかけた。
そのまま広場へ飛び移ろうとして、ラモンが手を伸ばした。
ラモンがその襟首をつかむより早く、船頭が声を上げた。
「おっと、お嬢ちゃん、まだですよ。先に板を渡しますんで」
シエラは足を止めたが、視線は石段の上から離さなかった。
船頭は舟べりに立てかけてあった細い板を持ち上げ、船着き場へ渡した。
板の端が石に当たり、軽い音を立てた。
「順に行きましょう。まず人からです。鳥さんはそのあとで」
ビリエラはその板を見て、顔をこわばらせた。
舟の揺れが止まったわけではなく、足もとではまだ水が小さく動いていた。
「こ、ここを渡るのですか……?」
「渡らないと、今日は船で泊まりになりますよ」
船頭はそう言って、板の上を靴先で軽く踏んだ。
「大丈夫です。落ちても、せいぜい頭まで浸かるだけです」
ビリエラは板と水面を見比べた。
「精霊よ……」
ビリエラは何か言い返しかけたが、結局あきらめて舟べりへ寄った。
板の上へ足を出す。
板はわずかにしなり、ビリエラの肩がびくりと揺れた。
「ゆっくりでいいですよ」
船頭はそう言って板の先を押さえた。
「目の前だけ見てれば着きます。下を見ないで」
ビリエラは口を結んだまま、もう一歩踏み出した。
板の上でまた舟がわずかに揺れ、ビリエラの膝が固くなる。
それでもビリエラは足を止めず、細い板を渡りきった。
白い石の上へ両足が乗った瞬間、ビリエラは目に見えて力を抜いた。
「つ、着きました……」
「次だ」
ラモンがそう言うより早く、シエラは舟の桟を蹴った。
細い板へ足を移し、そのまま迷わず渡る。
ビリエラはあわてて両手を出したが、シエラはその手を借りずに石の上へ降り立った。
すぐに顔を上げる。
白い石段の向こうで、人が流れ、旗が揺れ、大聖堂が高く立っていた。
ビリエラは出しかけた手を引っ込めた。
「……お、お見事です」
ラモンは舟の中で荷を寄せた。
「褒めるのは後だ。次はダンを出す」
ラモンはダンの首もとを軽く叩いた。
「先だ。出ろ」
ダンは低く喉を鳴らし、舟の中で一度だけ足の位置を変えた。
大きな脚が板の前へ出る。
板がきしみ、舟がぐっと傾いた。
ビリエラは思わず身を引いた。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「ダンは平気だ」
ラモンは手綱を短く持ったまま、ダンの動きに合わせて歩かせた。
ダンは細い板の上でもためらわず、長い脚で石の上へ降りた。
ギラは板の前まで来ると、そこでぴたりと止まった。
片目で板を見下ろし、次に水面を見た。
首がゆっくり下がり、羽がわずかにふくらむ。
「ほら、止まりました……」
ビリエラは石段の端まで下がった。
ラモンは手綱を引かなかった。
無理に引けば、かえって嫌がるとわかっていた。
「シエラ」
シエラはギラを見た。
少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「Avanti」
ギラの首がぴくりと動いた。
それでもすぐには出ない。
シエラはもう一度、同じ声で言った。
「Avanti」
ギラは不満そうに鼻を鳴らした。
だが、首を少し高くすると、ようやく前へ出た。
大きな脚が板を踏む。
板がぎしりと鳴り、舟がまた揺れた。
「精霊よ……」
ビリエラはさらに半歩下がった。
ギラは途中で止まらなかった。
そのまま二歩、三歩と進み、白い石の上へ降り立った。
シエラはぱっと顔を明るくして駆け寄った。
ギラは鼻を鳴らしたが、その場を動かなかった。
船頭がそれを見て、感心したように片眉を上げた。
「へえ。見た目より、ずっと言うことを聞くんですね」
「言うことを聞くのは、こちらです……」
ビリエラはまだ石段の端に寄ったまま言った。
ラモンは舟に残った荷をまとめた。
鞍袋と包みを順に持ち上げ、先に石の上へ寄せる。
船頭は竿を脇へ置き、受け取った代金を手早く確かめた。
「大聖堂へ行くなら、石段を上がってまっすぐですよ。ただ、その鳥さんたちを連れて広場の真ん中へ入るのは、あまりおすすめしませんね」
ラモンは荷を持ち直した。
「ああ、先に知り合いのところへ行くつもりだ」
船頭はうなずいた。
「そのほうがいいです。今は祭り前で、広場はどこも人が多いんで」
そう言って、竿の先で石段の上を軽く示した。
「三日後は、もっとひどくなりますよ。赤だ白だで、町じゅう落ち着きません」
ラモンは答えず、ダンの手綱を持ち直した。
それからギラのほうもひと目見て、荷の位置を確かめた。
ビリエラはようやく息を整え、白い石段を見上げた。
シエラはもう石段のほうへ体を向けていた。
だが勝手には歩き出さず、その場でラモンを待った。
舟は離れていった。
ラモンはそれを見届けると、石段には向かわず、水路沿いの道へ足を向けた。
ビリエラが目を瞬いた。
「……大聖堂へは行かないのですか」
「先に鳥と荷を置きにいく。祭りの前なので宿はおそらく取れないだろうから、知り合いの家に」
ラモンは歩きだした。
水路沿いの道は、広場の前より少し狭かった。
それでも人の流れは途切れなかった。
天秤棒で樽を運ぶ者、縄束を肩にかつぐ者、板を二人で抱えて急ぐ者が、次々に行き交っていた。
建物の壁には、赤や白の布がすでに何枚も垂らされていた。
まだ結びきっていない旗もあり、軒先では脚立に乗った男が紐を通していた。
道の脇には、描きかけの板が何枚も立てかけられていた。
舟の絵、波の絵、赤い旗、白い鳥。
祭りに使うものだと、見ればすぐにわかった。
道を二度曲がると、個人宅の庭だろうか、庭にしては大きく、広場にしては小さな空間へ出た。
レンガを敷いてある空間で、
赤い舟、白い波、魚の絵、旗の絵、祭り用らしい板が壁際にいくつも並んでいた。
塗りかけの板も多く、足もとには顔料の壺や筆を洗った桶が置かれていた。
広場の奥の建物に梯子がかかっていた。
その上で、ひとりの男が看板に筆を走らせていた。
くたびれたシャツの背には赤や白の塗料が乾いてこびりつき、髪は後ろで雑に結ばれていた。
男は足音に気づいたが、振り向かないまま言った。
「悪いが、今日の急ぎは倍だぞ。祭り前に安くしろって客なら、来年にしてくれ」
ラモンが足を止めた。
「商売が繁盛してそうでなによりだ」
男の手が止まった。
筆先が板の上で止まり、赤い線が少しだけ太くなる。
それから男はゆっくり振り向いた。
顔を見た途端、目を見開く。
「……おい」
男は梯子の上からラモンを見つめた。
信じられないものを見る顔のまま、口を開く。
「ラモンか」
「ああ」
男はそのまま梯子を半分ほど滑るように降りてきた。
危ない降り方だったが、慣れているらしかった。
地面へ着くと、男はラモンを見た。
次にダンを見て、さらにギラを見た。
「ダンか。ギラまでいるのか」
ダンは低く喉を鳴らした。
ギラは片目で男を見たあと、興味がなさそうに首を戻した。
「まだ生きてたのか、お前ら」
マッテオはそう言って笑い、すぐに両手を広げた。
ラモンも荷を片手に寄せてから、同じように両腕を開く。
二人はそのまま強く抱き合い、互いの背を一度ずつ叩いた。
「十年ぶりだな」
「そんなになるか」
「なる。だから、生きてたかと聞いた」
ラモンの口元がわずかにゆるんだ。
「そっちもな」
二人が体を離すと、マッテオはもう一度ラモンの顔を見た。
「前に来たときより、精悍な面になった」
「老けたのさ」
マッテオはようやくビリエラを見た。
さらにその後ろのシエラへ目を移す。
「で、どういうことだい」
ラモンは短く答えた。
「旅の連れだ」
マッテオはビリエラの服を見て、すぐにうなずいた。
「なるほど、教会関係者の護衛ね」
それからシエラへ目を移し、あっさり続けた。
「そのついでに、娘を連れて故郷へ帰るのかい。嫁さんはどうした?」
ビリエラは目を丸くした。
「娘……?」
マッテオはシエラの髪を見た。
黒い瞳より先に、見事な黒髪のほうへ目を奪われたらしかった。
「いい黒だな」
マッテオは感心したように言った。
「アルバトスの先々代様が黒い髪だったとは聞いていたが、髪までここまできれいに黒いのは、そうそういない」
ビリエラはようやくそこで口をはさんだ。
「ラ、ラモンさんのお子さんではありません」
「そうなのか」
マッテオはあっさり言った。
それから胸を張り、少しだけ芝居がかった仕草で名乗った。
「マッテオだ。運河都市で、絵描きをやっている」
そこで後ろの看板を親指で示した。
「正確には、売れない絵描きのふりをしながら、看板や旗や壁絵で家族を食わせている。いま塗ってるこれも、その悲しい現実の一枚だ」
ラモンは看板をひと目見た。
「食ってはいけているようだな」
マッテオは鼻で笑った。
「ぎりぎりかな。祭りが終わるまでは、どうにか食える」
ラモンはうなずいた。
「しばらく泊めてくれ。鳥もいる」
マッテオは頭をかいた。
「そうだろうと思った」
それからダンとギラを見比べ、少しだけ目を細めた。
「うちは金はないが、場所だけはあるから。絵を広げる部屋も、板やら何やら突っ込む納屋も」
ラモンは短くうなずいた。
「助かる」
「今は手が離せないから礼も細かい話も夜にしよう」
マッテオはそう言って先に立って歩きだした。
その先で納屋の戸が開いた。
腕まくりをした女が、布巾を片手に出てきた。
まずマッテオを見て、それからラモンを見た。
そこで女の目が止まった。
「……まあ」
女はラモンを見直した。
「ラモンさん?」
ラモンも女を見た。
「マチルダか」
女――マチルダは、そこでようやくはっきり笑った。
「やっぱり。十年ぶりくらいになるかしら」
「そのくらいだろうな」
マチルダはうなずいた。
それからダンとギラを見上げ、少し目を見開いた。
「ダンもギラも一緒なのね。まあ……懐かしい」
ギラは片目でマチルダを見たが、騒がなかった。
ダンは低く喉を鳴らした。
マッテオが肩をすくめた。
「そんなわけで、客だ」
マチルダはもう一度、ラモンとビリエラとシエラを見た。
それからすぐに聞いた。
「何人泊まるの?」
「三人だ。鳥が二羽つく」
マッテオが答えると、マチルダは少しだけ眉を上げた。
だが驚いた顔はしなかった。
まず寝床と食事の段取りを考えたらしかった。
「食事は増やせるわ。部屋も詰めれば何とかなる」
ラモンは短く頭を下げた。
「助かる」
マチルダは布巾を持ち直した。
「まだ礼は早いわよ。何日いるのか、どこまで面倒を見るのかでお礼は変わるもの」
マッテオが小さく笑った。
「うちでいちばん話が早いのはまさに僕の妻だ」




