21.納屋の家
マッテオが大きな引き戸を押して中へ入った。
家の中は、絵具と油の匂いが濃かった。
乾きかけた油絵具の匂いに、看板用の塗料や、顔料を練る油の匂いが混じっていた。
建天井は高く、何本も走る梁も柱も太かった。
四方に窓があり、中は明るかった。
表側の広い土間には板や旗や描きかけの看板が立てかけられていた。
壁際や柱のそばには、油絵具の壺、看板用の塗料、束ねた筆、刷毛、細い筆、木炭、下描き用の板まで雑多に並んでいる。
土間の奥、板を何枚か立てて仕切った一角は台所らしかった。皿や鍋や木の匙がきちんと並び、窓辺には小さな花まで活けてある。
向かいの一段高い板張りには、長テーブルと椅子があった。椅子には古いが厚みのある座布が置かれていた。
脇には大きめの梯子のように上に続く階段があった。
雑多ではあったが、不思議と居心地はよさそうだった。
マチルダは戸口の脇へ寄り、奥を指さした。
「鳥はそのまま奥へ入れて。そっちは土間になっているので、鳥も落ち着くでしょう」
マッテオは土間で、壁際の板を寄せ、桶をずらし、棒材をまとめた。
ラモンも黙って荷を下ろすと、ダンとギラを誘導して、土間へと入れた。
マッテオは丸めてあった敷物を広げ、ダンに向かって言った。
「今日はこれでしのげよ」
絵具の染みや切れ目がある、使いこんだ品だった。
ダンは鼻を鳴らしただけでその上へ足を乗せたが、
ギラは一度脚を踏み鳴らしてからそこにうずくまった。
マッテオはギラを見上げた。
「相変わらずだな」
ギラは片目を動かしてじろっとマッテオを見返した。
それから不満そうに首を振ったが、もう動かなかった。
「覚えてるのか」
ラモンが聞くと、マッテオは水桶をのぞきこんだまま答えた。
「こっちは忘れようがない。お前を蹴ることなんてなかったのに、僕はしょっちょう蹴られた」
シエラはマッテオをじっと見た。
ラモンは敷物の端を直した。
「俺も蹴られてたぞ。いまも似たようなものだ」
マッテオは立ち上がり、手についた埃を払った。
それから床の空いた場所と水桶を見比べた。
「藁はないよ。水はすぐ変えられるけど、餌もないな」
「買いに出る」
ラモンはそう言って荷をひとつ脇へ寄せた。
引き戸のところで、ビリエラが動かず、ぼんやりと二羽を見ていた。
どうやら気持ちが別のところへ向いているようで、落ち着かない様子で口を開いた。
「私は大聖堂へ行ってきても問題ないでしょうか?」
ラモンはギラの足もとの敷物を直しながら言った。
「大聖堂か」
ビリエラは少しだけ目を瞬いた。
「大聖堂からでしたら、司祭さまや王都の方々に到着を早く連絡できるので……」
「そうか」
ラモンはそれだけ言った。
シエラもそちらを見たが、特に何も言わなかった。
大聖堂より、引き戸の外に立ててある板のほうが気になるらしかった。
ビリエラはそこで小さくうなずいた。
「では、行ってまいります」
ラモンは軽くうなずいた。
「人が多い。すりに気をつけろ」
マチルダが長テーブルの端で小さな袋をまとめながら続けた。
「祭り前は、よそから来た人がいちばん狙われるの。懐は前で押さえて歩いて。あと、道を聞かれても立ち止まらないほうがいいわ」
ビリエラは目を丸くした。
「そんなにですか」
「そんなに、よ」
「わかりました。気をつけます」
シエラはそのやり取りを聞きながら、土間の柱のそばに立っていた。
手はダンのくちばしの上に伸びていたが、目はもう引き戸の外へ向いていた。
立てかけた板、赤と白の絵具、描きかけの旗。
気になっているのが、見ればわかった。
ラモンはその視線を追ってから、マッテオとマチルダを見た。
「頼みがある」
マチルダが先に振り向いた。
「なにかしら」
「藁と餌を買ってくる。その間、この子を外へ出さないでくれ」
マッテオがすぐに顔をしかめた。
「僕のところへ置いていく気かい」
「そうだ」
「仕事場には絵具はあるし、板は立てかけてあるし、祭り前で人の出入りも多い。子どもを預かるには向いてない」
マッテオはそう言ってからシエラを見た。
「しかも、こういう顔の子は、黙って見てるだけに見えて、気になるものには寄っていくだろ」
シエラは否定しなかった。
マチルダがそこで口をはさんだ。
「だったら、私が見てるわ」
「表にいればこっちから見えるし、外へ出さなければいいんでしょう」
ラモンはうなずいた。
「ああ。一人にしなければそれでいい」
マチルダはシエラを見た。
「お嬢さん。勝手に通りへ出る?」
シエラは少し考えた。
「呼ばれれば戻る」
マチルダは小さく笑った。
「通りへ出る前提なのね」
「まあいいわ。私が見てる」
ラモンは短く頭を下げた。
「助かる」
マチルダは小さな袋を取り上げた。
「そのかわり、私の買い物を頼んでよいかしら。安いところで、お願いしたいんだけど」
ラモンはうなずいた。
「わかった」
「ほんとうに? あなた、値切れる?」
そこでマッテオが吹き出した。
「ラモンは得意だよ」
マチルダは今度はビリエラを見た。
「助祭様は、戻るころにはまだ明るいでしょうけれど、似た通りが多いので、帰り道で迷わないでくださいね」
ビリエラは少し口を開き、それから閉じた。
迷わないと言い切る自信がなかったらしかった。
「……気をつけます」
マッテオは手を拭くと、広場に面した引き戸の外へ戻った。
絵筆をちょっと動かしては、少し下がって全体を見る。
マッテオの動作はこれの繰り返しだが、板の絵はその動きが繰り返されるたびに、どんどん形になっていった。
シエラは引き戸の内側から、その様子を見ていた。
マッテオは振り向かないまま言った。
「ちょっと近いよ」
シエラは一歩だけ下がった。
「これでよいか」
「ああ」
シエラはそこで、自分のそばの壁際に立てかけてあった別の板にも気づいた。
描きかけではないらしいが、近くで見ると何が描いてあるのか、すぐにはわからなかった。
青、白、薄い灰色、くすんだ緑が、短い筆の跡で何度も重ねられている。
水にも空にも見えたが、形がつかめない。
シエラは首をかしげた。
それから二歩、三歩と下がった。
すると、ばらばらに見えていた色が、ひとつの景色にまとまった。
風のある水辺と、その向こうに並ぶ白い建物だった。
「不思議だ! 建物に見える!」
マッテオは筆を動かしたまま答えた。
「近いとわからないかもね。少し離れて全体からみると形になるように描いているんだ」
シエラはもう一度その絵を見た。
近づくとまた色に戻り、離れると町になる。
「不思議だ」
しばらくしてから、マッテオの横に並んだシエラが聞いた。
「祭りの絵か」
「そうだよ」
マッテオは筆を止めずに答えた。
「赤が多い」
「そっちの注文が多いんだ」
「赤のほうが強いのか」
マッテオは少しだけ笑った。
「強いかかどうかはどうかな。勝ってほしいと思ってるやつは多いけどね」
シエラは板を見た。
白い波に赤い旗が立ち、細い舟がその間を走っていた。
「きれいだ」
その一言で、マッテオの手が少しだけ止まった。
「ありがとう」
奥ではダンが一度だけ喉を鳴らした。
ギラはその音にも動かなかった。
半土間の奥で、二羽ともようやく落ち着いたらしかった。
ラモンは落ち着いたダンとギラを一瞥して、敷物の位置と水桶をもう一度確かめる。
それから背負い籠と縄袋を持って、何も言わずに家を出た。
ビリエラも大聖堂へ向かった。
引き戸の向こうでは、マッテオがまた絵筆を動かした。
少し塗っては下がり、また少し塗る。
シエラは板の上の舟や波が少しずつ形になっていくのを見ているのが面白くて
しょうがなかった。
通りからは祭りの準備のための喧騒が絶えず続いていた。
昼の光はまだ高く、運河都市の忙しさはこれからさらに増していくところだった。




