キッシンゲンの戦い(前)
※現在(2026年6月)改稿中のため、前後がつながりません。申し訳ありません。
正式な後段は後日(期日未定)、これ以降のページに記載させて頂きます(2026年6月3日)
ブリュッケナウからハンメルブルク、キッシンゲン周辺図
☆7月10日朝
10日早朝。
ノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)に在ったB軍2個(第1、第2)師団は前日命令通りポッペンハイムの西高地に向け行軍を開始します。
ハルトマン将軍率いるB第4師団は午前5時、宿営地のミュンナーシュタットを発してポッペンハウゼン(ミュンナーシュタットからは南へ17キロ)を目指し、フェーダー将軍率いるB第2師団は同時刻にノイシュタットを発ち、午前8時にミュンナーシュタットに達します。
ところが、B軍総司令官公爵カール・プリンツ・フォン・バイエルン親王元帥は、早朝先着していたこのミュンナーシュタットで「敵普軍、既に(フランケン・)ザーレ河畔に至る。しかし(それは前衛で)本軍は未だ至らず」との報告を受けると、「命令を変更する」と告げ、「B第1、2、4師団の目的地を変更し全軍挙げてザーレ河畔で敵を食い止める」と命じるのでした。これはカール公が「普軍が川を越えるのに時間を要するのならザーレ川から離れず川岸で防戦した方が得策」と考えたから、と想像しますが、端的に言えばこの作戦の成否は「キッシンゲンとハンメルブルクに在るB第3師団と騎兵軍団が敵を食い止めている間に残りの3個師団が戦場に間に合うか」どうかに掛かっていたと言えます。実際にミュンナーシュタットからキッシンゲンまでは南西へ直線で10キロ、道程でも約12キロ、途中50mほどの高低差はあるものの、軽装備の歩兵が強行軍で3時間足らずと言った距離でした。
ミュンナーシュタットに到着したフェーダー将軍直率のB第2師団本隊は、この時既に歩兵7個大隊・軽騎兵3個中隊・12ポンド滑腔砲1個小隊(2門)・6ポンド滑腔砲3個小隊(6門)と6割近くに減っており、B第3連隊の第1、2大隊は12ポンド滑腔砲1個小隊(2門)を連れてザーレ渡渉地点のひとつシュタイナハ(ミュンナーシュタットの北西8キロ)に向かい、B第7連隊の第1、2大隊と軽騎兵第4連隊の1個中隊、それに6ポンド施条砲1個小隊(2門)と12ポンド滑腔砲2個小隊(4門)は3日前(7日)から第7連隊長のヴィルヘルム・フォン・シュライヒ大佐に率いられビショフスハイム(ミュンナーシュタットからは北西に21.5キロ)に駐屯しており、その内滑腔砲2個小隊(4門)は前日、師団に合流するため支隊を離れ行軍中でした。
カール公は一時休憩中のフェーダー将軍に対し「師団本隊を割って一支隊をキッシンゲンへの増援に、一支隊をキッシンゲン北隣のハウゼン(ミュンナーシュタットの西9キロ)へ送るよう」命じ、フェーダー将軍はB第4旅団の3個大隊に軽騎兵2個中隊と砲兵1個小隊を付しアントン・リッター・フォン・ハンザー少将(旅団長)に預けハウゼンへ向かうよう命じ、自身は1個大隊をミュンナーシュタット防衛に残すと師団残部を直率してキッシンゲンへ向かうのでした。
※7月10日朝におけるB第2師団
〇師団本隊 (キッシンゲンへ)
師団長 マクシミリアン・クリスティアン・フォン・フェーダー少将
B第3旅団長 ヨハン・ハインリヒ・イグナス・フォン・シューマッハ少将
・猟兵第7大隊
・歩兵第12連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・軽騎兵第4連隊の1個中隊
・ツェラー大尉指揮6ポンド施条砲中隊(1個小隊欠/6門)
〇ハンザー少将支隊 (ハウゼンへ)
B第4旅団長 アントン・リッター・フォン・ハンザー少将
・猟兵第3大隊
・歩兵第10連隊第1大隊
・同連隊第3大隊
・軽騎兵第4連隊の2個中隊
・キルヒホファー大尉指揮12ポンド滑腔砲中隊の1個小隊(2門)
〇ビショフスハイム支隊
第7連隊長ヴィルヘルム・フォン・シュライヒ大佐指揮
・第7連隊第1大隊
・同連隊2大隊
・軽騎兵第4連隊の1個中隊
・6ポンド施条砲1個小隊(2門)
・12ポンド滑腔砲2個小隊(4門)→師団合流めざし移動中
〇シュタイナハ守備
・第3連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・12ポンド滑腔砲1個小隊(2門)
〇ミュンナーシュタット守備
・第7連隊第3大隊
フェーダー将軍に先を譲りノイシュタットを後発したシュテファン将軍率いるB第1師団は、午前10時ミュンナーシュタットに到達します。カール公はシュテファン将軍に対し「ここミュンナーシュタットで後衛として防衛態勢を維持せよ」と命じました。
この時点でシュテファン師団長が掌握していた兵力は歩兵10個大隊・騎兵4個中隊・12ポンド滑腔砲3個小隊(6門)・6ポンド施条砲1個中隊(8門)とほぼ全力でした。但し正午になってザーレ河畔の渡渉地点ヴァルダッシャッハ(現・アシャッハ。ミュンナーシュタットの西9キロ)に増援として施条砲2個小隊と歩兵1個大隊が派出されました。
※7月10日午前におけるB第1師団
〇師団本隊 (ミュンナーシュタット)
師団長 ヨハン・バプティスト・シュテファン少将
B第1旅団長 ヨハン・バプティスト・フォン・シュタインレ少将
B第2旅団長 グスタフ・フォン・ウェルシュ少将
・猟兵第2大隊
・親衛歩兵連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第1連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第2連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第8連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・軽騎兵第3連隊(4個中隊)
・ムシナン大尉指揮12ポンド滑腔砲中隊(1個小隊欠/6門)
・フッテン大尉指揮6ポンド施条砲中隊(2個小隊欠/4門)
〇ノイシュタット守備・シュライヒ支隊連絡、収容隊
・猟兵第4大隊
・12ポンド滑腔砲1個小隊(2門)
〇ヴァルダッシャッハへ
・歩兵第8連隊第3大隊
・6ポンド施条砲2個小隊(4門)
先行するハルトマン将軍率いるB第4師団は、先鋒隊が午前10時にポッペンハウゼン北3キロ強のプファースドルフに達し、先ずはここに防衛陣を敷きました。ハルトマン将軍は事前に1個大隊をグローセンブラッハ(キッシンゲンの北5キロ)へ送るよう命令されていました(B第2師団のヴァルダッシャッハ守備隊の南隣となります)が、途上キッシンゲンが気になったハルトマン将軍は、大隊の目的地をキッシンゲンから味方が退却する場合に辿り着くはずのニュトリンゲン(キッシンゲンの北東4キロ)に変えて送り出します。するとカール公が早朝に発した命令(ザーレ河畔で敵を迎え撃つ)が正午、行軍中のハルトマン将軍の下に届き、同時に「師団はオイアードルフ(キッシンゲンの南西7キロ)に向かいキッシンゲンとハンメルブルクの間を敵が突破するのを防ぎ、当地のザーレ河畔と渡渉地点を守備せよ」との直接命令も受領します。ここで「180度転向」することとなったハルトマン将軍は、麾下の尻を叩き行軍方向を変えますが、全ての部隊が行軍目標を変えた時には午後2時になっていたのでした。
※7月10日正午におけるB第4師団
〇師団本隊(ポッペンハウゼンからオイアードルフへ行軍目標変更)
師団長 ヤコブ・ミヒャエル・カール・リッター・フォン・ハルトマン中将
B第7旅団長代理 ビヨット大佐(第5連隊長)
B第8旅団長 グスタフ・ツェラ少将
・猟兵第8大隊
・歩兵第5連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第13連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・歩兵第4連隊第2大隊
・歩兵第9連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・軽騎兵第6連隊(4個中隊)
・ハンク大尉指揮12ポンド滑腔砲中隊(8門)
・ケーニガー大尉指揮6ポンド施条砲中隊(8門)
〇ニュトリンゲン守備
・歩兵第4連隊第3大隊
〇キッシンゲン在(B第3師団へ派遣)
・猟兵第6大隊
・歩兵第9連隊第3大隊
B予備砲兵団のうち、ギル大尉の指揮する6ポンド施条砲中隊(8門)とヘリングラート大尉指揮の騎砲兵中隊(砲6門)はハンザー将軍の縦隊を追ってハウゼンに至り、砲兵団残りはオアーレンバッハ(キッシンゲンの南南東7.5キロ)付近に待機となりました。
カール公はミュンナーシュタットでフェーダー将軍に命令を伝えた後、騎行してキッシンゲンに向かい午前9時30分、先行していた参謀長の男爵ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン中将に迎えられます。
キッシンゲンではB第3師団長男爵オスカー・フォン・ツェラー中将が昨日夕刻に少数の哨戒兵を除いて全ての部隊をザーレ右岸(ここでは西岸)から左岸(東岸)へ撤収させており、付近の渡渉場は橋なら落すか床板を外し、渡し場なら川舟を移動回収し止むを得ない場合は破壊し、残った橋にはバリケードを築くか防柵を設け、守る兵士には敵の接近によって守り切れない場合破壊するよう命じていました。
唯一ヴァルダッシャッハに第15連隊第1大隊だけが残され、ザーレ川に架かる石橋を守っていたのです。
キッシンゲンを守るツェラー中将は昨夕からこの日午前に掛けて出来得る限りの防衛態勢を築き普軍を待ち受けます。
※7月10日午前におけるキッシンゲンの防御
〇右翼(北方)隊
軽騎兵第2旅団長 伯爵カール・ツー・パッペンハイム少将指揮
ヴァルダッシャッハ~フリードリヒスハル*間に展開
・猟兵第5大隊
・第15連隊第1大隊
・第11連隊第2大隊の1個中隊
・第11連隊第3大隊の半大隊(3個中隊)
・槍騎兵第3連隊(4個中隊)
・軽騎兵第5連隊(4個中隊)
・軽騎兵第2連隊の半中隊
・12ポンド滑腔砲2個小隊(4門)
〇左翼(南方)隊
第5旅団長 ヨーゼフ・フォン・リボーピエール少将指揮
フリードリヒスハル~キッシンゲン市街と南郊外に展開
・猟兵第6大隊
・第9連隊第3大隊
・第11連隊第2大隊(1個中隊欠)
・第11連隊第3大隊の半大隊(3個中隊)
・第15連隊第2大隊
・第15連隊第3大隊
・軽騎兵第2連隊の3個中隊半
・12ポンド滑腔砲2個小隊(4門)
・6ポンド施条砲中隊(8門)
※フリードリヒスハル
現/ザリーネ・キッシンゲン。ウンタラ・ザリーネ(下採塩場)とオーバラン・ザリーネ(上採塩場)からなる16世紀来の岩塩田と塩泉浴場です。地名は塩田開発に貢献したヴュルツブルク司教フリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンから来ています。病気がちのビスマルクが湯治のためしばらく滞在していたことでも有名です。キッシンゲン中心部からザーレ川に沿って北へ2キロ~2.5キロ付近。現在は歴史博物館や乗馬クラブ、公園になっています。
この中でB歩兵第15連隊第2大隊(6個中隊)とB歩兵第11連隊第3大隊の1個中隊がキッシンゲン市街地のザーレ沿岸に並ぶ民家と園庭に展開し、第11連隊第3大隊の2個中隊は市街地東街道北側に在る聖マリア教会の墓地に待機、その後方(東)に同連隊の第2大隊(4個中隊)が展開しました。なお、同大隊の第5中隊(狙撃兵中隊*)はハンメルブルクとの連絡用としてオイアードルフに派遣されていました。
また、スタチオンベルク(スタチオン山。市街地南東側1キロ余りの丘陵森林)の頂上尾根には南方ライタースヴィーゼン(キッシンゲンの南東2.5キロ)の渓谷を監視するため騎兵の哨兵を置きますが、午前9時、普軍の接近により第15連隊第3大隊の2個中隊を送り敵の渡河に備えました。
キッシンゲン市街地と西岸のガリッツ(キッシンゲン南西1.5キロ)を結ぶ石橋(ルートヴィヒ橋)は破壊せず鹿柴(逆茂木)と木柵で塞ぎ、この橋を直射するため市街方に約80m離れてシュスター大尉指揮の12ポンド滑腔砲中隊から1個小隊2門を割いて設置しました。大尉の残り砲兵1個小隊2門は市街北東2キロのジンベルク(ジン山)西麓の北側(市街まで約400m)に、レーデンバッカー大尉指揮する6ポンド施条砲中隊(8門)はその南側に砲列を敷きました。この砲列援護に軽騎兵第2連隊の1個中隊半が当てられ、残りの軽騎兵たちはその北東方(ジンベルク東麓)に待機します。
キッシンゲン防衛を任されたツェラー中将は残りの歩兵を予備として手元に置き、東郊外のヴィンケルス部落(中心街から1,800m)前面(西)の街道に跨る形で展開するこれら歩兵と敵の襲来を待つのでした。
※ツェラー将軍直率の予備隊
・猟兵第6大隊
・第9連隊第3大隊
・第15連隊第3大隊
一方の普マイン軍はこの日早朝ザーレ川に向けて前進を再開します。
グスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー少将の混成師団はゲーベン将軍の第13師団に同行していた軽架橋1個隊を付されてハンメルブルクを目標に進発し、アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン中将の第13師団はキッシンゲンを目標に進みました。男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル中将のシュレスヴィヒ師団は前日夕発令の命令では前衛をヴァルダッシャッハに進め本隊はブリュッケナウ郊外で待機となっていましたが、早朝マイン軍本営より伝令士官が到着し口頭で「ゲーベン師団を追ってキッシンゲンに進め」とのことで、マントイフェル将軍は直ちに麾下をキッシンゲンに向け進発させましたが、何故かこの命令はゲーベン将軍に知らされていなかったのでした。
クリスチャン・フォン・ゲーベン
ゲーベン将軍は早朝の斥候偵察によりザーレ河畔でB軍と遭遇することを知っていました。そのためこの日麾下に対し必ず戦闘が発生することを警告し、黎明時に男爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ウランゲル少将率いる混成旅団に対しキッシンゲン攻略を命じ、ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー少将の混成旅団には朝8時、全部隊をシュリンプホーフ(キッシンゲンからは西北西に7.5キロ)に集合させてからウランゲル旅団に先行しザーレ河畔に向かうよう、アレクサンダー・ベルンハルト・フォン・トレスコウ少将の予備旅団にはアルバーツハウゼン(シュリンプホーフの南東2キロ)に集合させると師団本隊の左翼側面援護のため一支隊をフリードリヒスハルへ向かわせ、同じく右翼側面援護とハンメルブルク方面警戒として一支隊をオイアードルフに向かわせます。
※フリードリヒスハルに向かった支隊
第15「ヴェストファーレン第2」連隊長 男爵アレクサンダー・エデュワルト・クーノ・フォン・デア・ゴルツ大佐指揮
・第15「ヴェストファーレン第2」連隊第2大隊
・同連隊フュージリア(以下「F」)大隊
・驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の半中隊(60騎前後)
※オイアードルフに向かった支隊
第13「ヴェストファーレン第1」連隊第1大隊長 ハンス・クリスチャン・ボード・カール・フリードリヒ・アウグスト・フォン・ボリース中佐指揮
・第13「ヴェストファーレン第1」連隊第1大隊
・驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の1個中隊
フェルディナント・フォン・クンマー
結局午前中キッシンゲン市街に向かった普軍の兵力は歩兵10個大隊・騎兵3個中隊半・砲35門だけで、普マイン軍全体の四分の一程度に過ぎず、これは総司令官エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将が「B軍主力はハンメルブルクにあり」と信じていたからで、将軍本人もバイヤー将軍と共にハンメルブルクに向かっていたのです。
とはいえマイン軍本営がマントイフェル将軍に「ゲーベン将軍に続け」と命じたことは救いでした。
マントイフェル師団本隊がいるブリュッケナウ近郊からハンメルブルクまでは行軍距離24キロ、対してキッシンゲンまでは28キロあり、行軍路も比較的ハンメルブルクへの街道の方が坂が少ないため、本日の戦闘に間に合う可能性を考慮するならハンメルブルクへ向かわせるのではないか、と思えるからです。
ファルケンシュタイン将軍は「B軍主力など自軍兵力の三分の一で十分」と考えていたかも知れませんし、「マントイフェル将軍はいずれにせよ本日の戦闘に間に合わない」と考え、その先の目標であるシュヴァインフルト(キッシンゲンからは南南東20キロ)へ直線的に進むことを優先したのかも知れません。
しかし前述通りこの「後方から友軍が来る」情報は何故かゲーベン将軍に伝えられませんでした。
このゲーベン将軍の「単独で戦わなくてはならない」との心理は果たして戦闘の経過に影響したのでしょうか。それをこれから見て行くことになります。
※7月10日の普第13師団序列
○フォン・クンマー少将混成旅団
・第13「ヴェストファーレン第1」連隊(1個大隊欠)
・第53「ヴェストファーレン第5」連隊(3個大隊)
・驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の2個中隊(連隊は5個中隊)
・野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊歩砲兵第3大隊4ポンド施条砲第4中隊
・同大隊6ポンド施条砲第3中隊
・工兵1個小隊
○フォン・ウランゲル少将混成旅団
・第15「ヴェストファーレン第2」連隊第1大隊
・第55「ヴェストファーレン第6」連隊(3個大隊)
・リッペ=デトモルト侯国歩兵大隊
・驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の1個中隊半
・野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊歩砲兵第3大隊4ポンド施条砲第3中隊(1門欠)
・同大隊12ポンド滑腔砲第3中隊
・工兵3個小隊
○フォン・トレスコウ少将予備旅団
・第13「ヴェストファーレン第1」連隊第1大隊
・第15「ヴェストファーレン第2」連隊第2、F大隊
・胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊(4個中隊)
・驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の1個中隊半
・野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊歩砲兵第3大隊騎砲兵第3中隊
・同大隊騎砲兵第4中隊
キッシンゲン戦場地図
☆キッシンゲンの戦い・午前中
7月10日午前9時過ぎ。
普第13師団この日の先鋒となった第53連隊F大隊はキッシンゲンを望むザーレ川対岸(西岸)のガリッツに達します。
この時ガリッツにいたB軍兵は僅か半個小隊の哨兵で、普軍の接近を見た彼らは直ちに渡河して対岸に避難しました。
この普軍大隊が更に渡河を試みようとすると市街地北のレーデンバッカー大尉率いる6ポンド施条砲中隊は砲撃を開始、その初弾で普軍の先頭中隊に命中させ数名を戦死させてしまいました(射程1,000m前後)。しかし普軍は臆せずに滞ることなく前進を続け、ザーレ西岸に並ぶ民家にも既にB軍兵は存在していなかったこともあり大隊は3個中隊でこの民家群を占領、対岸のB軍と激しい銃撃戦を始め、やがてこれに砲撃も加わります。この砲撃はクンマー旅団に配されたヴァイゲルト大尉率いる4ポンド施条砲第4中隊とカール・フォン・アイナッテン大尉率いる6ポンド施条砲中隊の12門によるもので、両砲兵中隊は急ぎスタッフェルブルク(以降「スタッフェル山」。ガリッツの北1,300m)の東麓に展開し砲撃を開始したのです(キッシンゲン中心地まで900m前後)。
F大隊残りの1個中隊はガリッツ東郊のアルテブルク山(現・アルテンベルク。ガリッツの東1,200m。以降「アルテ山」とします)を占領しキッシンゲン市街を観測しつつ市街地攻撃の拠点とするのでした。
やがて普第53連隊残りの2個(第1、2)大隊も到着し、F大隊に並んで民家群に急速展開して銃撃戦に参戦、そこへ普第13連隊の2個(第2、F)大隊がガリッツに入りいつでも参戦出来るよう待機すると、同行していた騎兵はその後方に展開しいざという場合の援護となるのでした。
ここで前線に到着したゲーベン師団長はアルテ山腹からB軍の状況を一望すると「キッシンゲンは簡単に陥落しない」と断じ、また正面に架かるルートヴィヒ石橋を奪うためには、鹿柴などの障害物を崩しつつ進み正面に構える野砲の至近距離射撃と数個歩兵大隊の集中射撃を受けなくてはならず、「これは他に手立てがない場合に行うしかない最後の策」として「先ずは市街の南方、ザーレ下流(ハンメルブルク方面)に架橋し対岸に渡るしかあるまい」として、午前10時過ぎにガリッツ後方に到着したウランゲル将軍に対し「麾下をアルテ山より南方に進ませザーレ下流から渡河し南方より市街地へ突入せよ」と命じるのでした。
ここでウランゲル将軍はランゲンザルツァの戦いでハノーファー軍から鹵獲し師団に加えられた舟橋と架橋資材を運んでいた工兵隊がどこにも見当たらないことに気付きます。前述通りこの軽架橋隊はマイン軍本営からバイヤー師団を追ってハンメルブルクへ向かうよう命令され師団後衛から離脱しており、このことをここまで師団本営の誰も気付いていなかったのでした。
ところが。
ゲーベン将軍は非情にもウランゲル将軍に対し「渡河地点においてどのような手段により川を渡るかについては貴官に任せる」と伝え、つまりは「自分で何とかしろ」と命じたのでした。
ゲーベン将軍は黙って答礼し去るしかなかったウランゲル将軍の背中を見送ると、前線で指揮を執るクンマー将軍に対し「銃撃戦を続行し出来れば更に銃撃密度を高めて敵の注意を集め、ウランゲル旅団の渡河を隠蔽、援護するよう」、そしてウランゲル旅団が渡河に成功し市街に突入したならば、「犠牲を厭わず直ちに石橋に向け突撃し市街へ突入せよ」と命じるのでした。
ヴィルヘルム・フォン・ウランゲル
「橋を封鎖され架橋材料もなく対岸で待ち構える敵前でなりふり構わず渡河を敢行する」という難題を押し付けられたウランゲル将軍は、先鋒として第15連隊第1大隊をアルテ山に送り、午前11時、ここからザーレ川に向う急斜面を滑り降りるように2乃至3個小隊(100名前後)が河岸へ突進、堤防で警戒していたB軍哨兵を駆逐するとハンメルブルクへ続く街道に沿って散開、たちまち対岸のB軍と銃撃戦になります。
旅団に配されていた2個砲兵中隊(男爵マクシミリアン・ゲオルク・フォン・アイナッテン大尉の12ポンド砲第3中隊とコスター大尉の4ポンド砲第3中隊)も戦場に到着し、アルテ山に登ると視界が開けた地点で砲列を敷きジン山のB軍砲列に向け対抗砲撃を始めようとしますが、12ポンド滑腔砲では射程が遠過ぎ大した損害を与えることが出来ない(B軍砲列まで約2,500m)ため砲撃を諦め山頂西斜面に降り、最新の4ポンド施条砲5門を率いるコスター大尉隊のみで砲撃を敢行しました。
この間、B軍側も猛烈な銃撃を絶やさず普軍の渡河を防ごうとしていました。
歩兵に負けずB軍砲兵も奮戦し、重要な石橋に対し直射可能な位置にいた12ポンド滑腔砲小隊(2門)を率いる少壮のヘルダー少尉は、対岸の橋の袂に突進する普軍歩兵に対し数回に渡って霞弾(対歩兵用榴散弾の一種で細かな鉄球を薄い鉄板のキャニスターに詰めたもの)を発して渡河を挫き、銃撃を浴びる前に至近の民家の陰に撤退、ほとぼりが覚めると再び布陣するということを繰り返すのでした。
また午前10時にはB第2師団所属でミュンナーシュタットから急行して来たツェラー大尉の6ポンド施条砲中隊の内、1個小隊2門が郊外部落のヴィンケルスに先着し、45分後には残り4門も到着、ジン山中腹に登って砲列を敷くと約3,000m先のスタッフェル山に展開し砲撃を続けていた普軍クンマー旅団砲兵を目標に砲撃を始めました。この砲兵中隊の護衛として進んで来た猟兵第7大隊と軽騎兵第4連隊の1個中隊は一時ヴィンケルス付近の街道路傍に待機するのでした。
元よりジン山西麓端に展開しスタッフェル山の普軍砲兵と至近距離(約800m)で砲撃戦を繰り広げていたシュスター大尉の12ポンド砲中隊一個小隊とレーデンバッカー大尉指揮する6ポンド施条砲中隊(計10門)は、普軍砲兵の砲撃が正確となって来たため900mほど東に下がっていましたが、ツェラー砲兵中隊の到着で更にヴィンケルスの北まで下がり、ツェラー砲兵中隊に続く形で砲列を敷き直すと砲撃を再開しました。
この間にB猟兵第6大隊は予備指定を解除され第11連隊第3大隊の2個中隊が待機する聖マリア教会の墓地へ進み、ザーレ川を挟んだ銃撃戦が佳境に入った午前11時には同じく第9連隊第3大隊も前進し墓地に入りました。
午前10時過ぎ、キッシンゲン防衛を指揮するB第3師団長フォン・ツェラー中将は、南方ライタースヴィーゼン渓谷や西方ガリッツを監視するスタチオン山の哨兵から「敵の大部隊、ガリッツに到着し前進する気配」との報告を受け、「これで敵の攻撃主軸がここキッシンゲンに在ることがはっきりした」として、墓地へ送った猟兵第6大隊に対し前線左翼(南方)の援助として1個中隊を市浴場(市街地南、現在のレーンキッツホテルの位置にあったと思われます)に、残り3個中隊をスタチオン山の樹林に沿って走るアルンスハウゼン(キッシンゲンの南3.5キロ)への街道端へ展開させるよう命じました。
B軍本営のカール公が発したこの日朝の命令で、キッシンゲンへの増援はB第2師団長フォン・フェーダー少将が直率する歩兵3個大隊・軽騎兵1個中隊・6ポンド施条砲中隊(1個小隊欠/6門)でしたがその行軍中、歩兵第12連隊第1大隊は市街後方のヴィンケルスで足止めされ部落の警備に、同連隊第2大隊は南方のライタースヴィーゼン部落を確保するよう命じられて離脱し、キッシンゲン市街へ進んだのは猟兵第7大隊と前述のツェラー大尉指揮6ポンド施条砲中隊のみとなってしまいます。
ヴィンケルス付近で一時休止していた猟兵第7大隊は、午前11時30分にスタチオン山の防衛線補強に進み、墓地へは最後の予備になっていた第15連隊第3大隊(この時4個中隊編成となっていました)が進みます。
こうしてB軍も増援を前線に投入し、普軍の渡河を許すまいと銃砲撃を続行するのでした。
普軍側もこのまま渡河出来ずに銃砲撃を交わしても得るものはなく、いたずらに貴重な弾薬(既に補給線が伸び切っているとの指摘が普参謀本部から出されています)を消費するだけ、しかも時間も消費しB軍の増援が何時現れてもおかしくない頃合いになってしまいます。ゲーベン将軍としては一刻も早く麾下を渡河させB軍と直接市街戦に持ち込むしかありません。
戦闘開始から既に2時間半。互角に近い銃砲撃戦が続き、普軍は河畔に達するも渡河は叶わず、一部に弾薬消費が携行弾数に近付いた兵士も現れ始め、銃砲撃も勢いが衰え始めた時。
普軍の一隊が遂に「突破口」を発見し戦況を一変させるのです。
※バイエルン軍歩兵と軽騎兵
1863年の軍制改正で歩兵連隊は4個大隊制で第4大隊はいわゆるマルシェ部隊(予備及び補充)となり、普軍の後備兵同等となります(戦時に連隊は第1から3の三個大隊で出征)。また歩兵大隊は6個中隊となり、第1から第4中隊が通常140名の歩兵中隊、第5、6が「シュッツィン」中隊となります。筆者はシュッツィン(直訳では「守備」ですが軍事的には「ライフル」となります)の語感から「狙撃兵」中隊としています。これは普軍のフュージリア兵(=軽歩兵)相当となります。このシュッツィン中隊は大隊から離れ単独で哨戒や偵察、一時的な占領地警備などに使用されることが多く見られました。なお精鋭が多い猟兵大隊は平時から4個中隊制です。
バイエルン軍では歩兵は連隊でまとまらず大隊単位で旅団に参加することが多くあり、連隊単位で旅団に参加し戦うことが多い普軍と対照的でした。
バイエルン軍歩兵士官(左)バイエルン軍歩兵一般兵士(右)
なお、この「普墺戦争」編では「軽騎兵」としているバイエルン軍の騎兵兵種ですが、Chevau-Legers(シュヴォー=レジェ又はシュヴォーレゼー)と呼ばれるバイエルン独特のもの(過去にはフランスやザクセンにもありました)で、普墺戦争時にはサーベルと騎兵銃で武装し、斥候偵察や敗残兵狩りに活躍していました。プロシア軍に当てはめると驃騎兵(最も軽装の騎兵)や竜騎兵(下馬して戦う事も可能な騎兵)の中間、と言ったところでしょうか。
バイエルン軍軽騎兵(1854年)
バイエルン軽騎兵第5連隊(左馬上)同第2連隊(右後ろ向き)




