アレクサンダー将軍、カール公に背離す・7月5日から9日
☆7月5日
前日4日、普第13師団(フォン・ゲーベン中将指揮)の攻撃に対し2個師団(B第3、4)で立ち向かい、辛うじて「引き分け」に持ち込んだ連邦第7「バイエルン王国」軍団司令、公爵カール・テオドール・マクシミリアン・アウグスト・プリンツ・フォン・バイエルン親王元帥は、「普軍主力はフェルダ川に沿って南下してくるに違いない」と信じて5日、昨日バイエルン(以下B)軍が集合・宿野営したカルテンノルトハイムとカルテンズントハイムで敵を待ち構えました。しかし正午になっても普軍は現れず、カール公は午後に入ると事前の計画通りフランケン・ザーレ川に向けて軍団の半数を後退させます。
この日、フォン・フェーダー少将率いるB第2師団は予備砲兵団を引き連れフラドゥンゲン(カルテンノルトハイムの南11.5キロ)まで退却し、フォン・ツェラー中将率いるB第3師団はオストハイム(現オストハイム・フォア・デア・レーン。同南19キロ)まで一気に下がりました。残りB第1とB第4師団はそのままの宿野営地(第1はカルテンノルトハイム、第4はオーバー・カッツ)に留まり、普軍襲来を警戒するのでした。
一方の普マイン軍総司令官エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将は昨日の戦況から、B軍が北上し普軍に対決を挑むか否かを判断するため午前中、麾下を多少東寄りに動かせ再展開させます。
昨日B軍2個(第3と第4)師団と戦ったゲーベン将軍の普第13師団はダーンバッハとオエクセンに、バイヤー将軍率いる混成師団は前衛支隊をフルダ北方ヒューンフェルトに残すと東へ逆戻りしてガイサに、マントイフェル将軍の旧シュレスヴィヒ守備隊師団はシュタットレングスフェルトに、それぞれ警戒しながら待機となりました。
しかしこちらも午前中、偵察と諜報複数の報告から「B軍は南方に向けて退却した」との確証を得て再びフルダに向け前進を始め、バイヤー師団はヒューンフェルトに戻って集合し、ゲーベン師団はラスドルフ(ガイサの西3.5キロ)とガイサに進み、マントイフェル師団はシュタットレングスフェルトとオエクセンの間で宿野営、軍本営はブットラー(ガイサの北4.5キロ)に至りました。
アレクサンダー将軍率いる連邦第8軍団もこの5日午前中フルダを目指します。
こちらも偵察と諜報から普軍が至近に迫っていることを察知しており、この日は衝突が避けられないだろうという思いから各団隊みな即戦闘に入れるよう緊張しながら行軍を続けますが、後述通りフルダ入城は叶いませんでした。
ヘッセン(以下He)大公国師団は前日の宿営地リックフェルトからフルダまで10キロのグローセンルーダーに進み、アルスフェルト(フルダからは北西に36キロ)に至った連邦予備騎兵団の一支隊は「フルダ川沿岸の渓谷地帯を偵察せよ」との命令を受けラウターバッハ(フルダの北西22キロ)に至り、その本隊はアルスフェルトに至ります。
ヴュルテンベルク(以下W)師団(1個旅団欠)もラウターバッハに集合し、墺軍とナッサウ公国軍の合同師団(連邦第4)はフンゲンとニッダ(フルダからはそれぞれ西北西55キロと49キロ)に至り、所属騎兵は先行してエンゲルロト(フルダの西29キロ)まで進みました。
問題となったのはバーデン(以下Ba)大公国師団の行動で、命令受領後も動かず夕刻までヴェッツラーとギーセン付近の宿野営地に留まった後ようやく夜間行軍を開始、ところがフルダ方向に動かずフランクフルト(・アム・マイン)方向に南下して深夜半フリートベルク(フランクフルトの北25キロ)に至るのです。
動員が遅れていたW師団の第1旅団(フリードリヒ・フォン・バウムバッハ少将指揮)はこの日正式にアレクアンダー将軍麾下となりマイン川を越えゲルンハウゼン(フルダの南西51キロ)付近に至りました。
この日アレクアンダー将軍はフランクフルト市当局に命じて防衛工事を強化させ、マイン右岸(ここでは北岸)に8個の臨時野堡を築かせます。その備砲はマインツ要塞の予備を輸送させて使用し、構築費用は連邦議会がこれを負担するのでした。
この日アレクアンダー将軍の軍団本営はアイゼンバッハ城館(ラウターバッハの南3.5キロ。現存します)に設けられます。
5日午後に入ると、カール公の連邦軍本営からアレクアンダー将軍の本営に命令が届きました。
1866年7月5日午前8時 連邦軍本営発令
普軍は(全ての部隊が)ヴェラ川を渡って南下し、このため第7(B王国)軍団が貴第8軍団とレーン山地北部で合流することは出来なくなった。このため本官は第7軍団をノイシュタット(・アン・デア・ザーレ。フルダからは南東へ29キロ)からビショフスハイム(ノイシュタットからは北西へ17キロ)間の高地に退却させることとした。
従って貴官に要求するのは、第8軍団をして至急この地に並行して展開させ、(第7軍団が進む予定の)ブリュッケナウ(ビショフスハイムの南西18キロ)及びキッシンゲン(同南23キロ)と連絡を通すことである。
その他は現時点で計画すること不可能である。
7日、本官はノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)*付近高地上にあり。
バイエルン公カール(印)
(カッコ内筆者。筆者意訳)
※これらの地名には現在多く頭に「バート(独語Bad)」が付きますが、これは「温泉地」の意、転じて「保養地・歴史的観光地」などを示し、南部ドイツでは非常に多いのでこれ以降省略させて頂きます。
この命令とほぼ同時に前日の「ダーンバッハの戦い」委細と普軍が「タン及びヒルダースを経て南下中」との報告電信が届くのでした。
アレクアンダー将軍は最初、命令に従い「全軍直ちにラウターバッハ方面からヘルプシュタイン、シュリュヒテルンを経由しブリュッケナウに向かうよう」命令を下します。
ところが。
5日夕、驚愕の至急報が将軍の下に届きます。
「ベーメン東部ケーニヒグレーツにて普墺両軍主力会戦し墺軍敗退す。仏国皇帝講和仲裁を提案」
アレクアンダー将軍は即刻前軍団命令を取り消し、「今後、各領邦軍は自国防衛を主目的とするが、先ずは軍団をして再びフランクフルト周辺地に集合を図る」として変更命令を発するのです。
アレクサンダー将軍はこれまでカール公の行動を「連邦全体の利益を考えず自国有利に物事を進めている」と感じていたはずで、そのため幾度か意見具申をしていましたが、各領邦の手前もありカール公がそれを却下すればしぶしぶ命令に従っていました。しかしこの後の展開を見ると事ここ(墺軍大敗、講和の可能性)に至っては「最早これまで」と腹を括ったように思われます。
普軍はベーメン地方における連勝で余裕が生じ、マイン軍にも増援を送る準備に入っており、アレクサンダー将軍の下にも「ケルン、コブレンツ、カッセル、ビンゲン(・アム・マイン)等要塞都市や補給端末地に普軍予備兵力集合中」との報告も届いていました。この点からも将軍が「背後」を気にして、先ずは広範囲に広がった自軍団を集合させフランクフルトで態勢を整えようと考えたのも無理はないように思えます。
アレクサンダー将軍は麾下への命令後、カール公の本営に向け使者を送り意見具申を行います。その主旨は、「この期に及び両軍団はフランケン地方で合流するよりその西60キロ余りのアシャッフェンブルクからハーナウ間で合流すべきかと」
☆7月6日
この日、連邦第8軍団はフランクフルト目指し行軍を続けました。
He師団はグローセンルーダーからアルテンシュリル(グローセンルーダーの南西12.5キロ)へ進み、連邦予備騎兵団はルッパーテンロードで集合、W師団はフライエンシュタイナウ(アルテンシュリルの南12.5キロ)とグレーベンハイン(フライエンシュタイナウの北北西8.5キロ)、同師団後衛支隊はフリーデン(フルダの南南西16キロ)、バウムバッハ少将の第1旅団はザルミュンスター(フライエンシュタイナウの南16.5キロ)へ至りました。
墺とナッサウ合同師団中、ナッサウ旅団はヴェニングス(ニッダの東南東13.5キロ)へ、墺軍旅団はゲーダーン(ヴェニングスからは北へ2キロ)にそれぞれ宿営し、予備砲兵団はハーナウまで下がりました(この日時点で7個中隊48門となっています)。
軍団本営はクラインフェルト(アルテンシュリルの南南西6キロ)に置かれました。
Ba師団はこの日も退却を続け本隊はフランクフルト近郊に至り、一部前衛はマイン川を渡河してランゲン(フランクフルトの南13キロ)にまで進みます。
結果Ba師団の行軍は軍団命令と同じ「フランクフルト行き」にはなったものの、既に前衛がマイン川を渡河し南下を続けており、師団本隊もフランクフルトを素通りし本国に向け行軍するのではないかと疑われる状況で、この勝手な退却を知ったアレクアンダー将軍はBa師団長の公子ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・プリンツ・フォン・バーデン中将に対し命令を発し、その主旨は「急ぎ反転しアッセンハイム(現ニダダール郊外。フリートベルクの南東6キロ)まで来ること。その地で命令無視の挙動を申し開きして頂きたい」とのことで、この命令は翌7日ヴィルヘルム公子が師団を更に南下させる命令を発した直後に受領されました。
この時、師団参謀長のフランツ・アントン・ケラー大佐が堪らず、「殿下がこれ以上軍団長命令を無視して本隊をもマイン川を越えさせるようであれば、本官は職を辞します」と諫言しました。既に師団の高級士官の多くも「本国へ逃げ帰ろうとするかのような」公子に対して憤怒し師団は分裂寸前、一触即発に近い状態にありました。
この後、フランクフルト在の連邦議会からこの件に対し連邦軍本営に問い合わせもあり、カール公は叱責の電信を送り、さすがにこれは拙いと感じたのか公子はアレクサンダー将軍の命令通り師団をニッダ方面へ引き返させるのでした。
この一見怯懦に見えるヴィルヘルム公子の行動ですが、公子は大公フリードリヒ1世の弟で兄大公は普王ヴィルヘルム1世の長女を后としており、また公子自身も3年前まで近衛兵も指揮した普軍の軍人(最終階級中将)、本心は普軍と戦いたくはなかったはずで、この行動はヘッセン=カッセル軍を「戦わせなかった」ロスベルク将軍(「錯綜混迷続く連邦軍」中「こぼれ話」を参照ください)と同じような心境だったのではないかと想像します。片腕だったケラー大佐も公子の心情は理解していたはずで、諫言も公子が窮地に陥らないため(連邦からの処罰や軍の離反)のものだったのではないか、と想像します。
ヴィルヘルム公子自身は決して臆病な方ではなく、後の普仏戦争ではバーデン第1旅団を指揮、ニュイ=サン=ジョルジュとディジョンの戦闘で陣頭指揮、ニュイでは壮絶なサン=ベルナール跨線橋の白兵戦で頬に銃創を負っています。
ヴィルヘルム・バーデン公
話を戻しましょう。
6日。
B軍本営はオストハイムに置かれ、シュテファン将軍のB第1師団はフラドゥンゲンに、フェーダー将軍のB第2師団は予備砲兵団を連れてメルリヒシュタット(オストハイムの南東6キロ)へ、ツェラー将軍のB第3師団はノイシュタットに、ハルトマン将軍のB第4師団はノルトハイム(現ノルトハイム・フォア・デア・レーン。同北西4キロ)に、それぞれ至り宿営しました。
B予備騎兵軍団中、重騎兵旅団と軽騎兵第1旅団は早朝ビショフスハイムを発ち騎砲兵2個中隊と共にミュンナーシュタット(ビショフスハイムの南東21.5キロ)に到着し、一部は更に進んでハンメルブルク(ミュンナーシュタットの南西26キロ)に至り、軽騎兵第2旅団はキッシンゲン(ミュンナーシュタットからは南西10キロ)に留まりました。
一方、普マイン軍はファルケンシュタイン将軍の本営がバイヤー、ゲーベン両師団と共にフルダへ入城して周辺地に宿野営を求め、マントイフェル師団はヒューンフェルトに進みました。
なおこの6日、ファルケンシュタイン将軍の下にリッペ侯国軍/フュージリア(軽装)歩兵で構成された1個大隊が到着しマイン軍に参加、フルダ入りしています。
☆7月7日
この日、連邦第8軍団はフランクフルト~ハーナウへの行軍を残り一日行程まで進めます。
He師団はオルテンベルク(ニッダの南南東7キロ)とリスベルク(オルテンベルクの北東3キロ)へ進み、連邦予備騎兵団はエヒツェルとフンゲン(それぞれニッダの西南西9キロと北西10キロ)に、W師団のうちバウムバッハ少将の第1旅団はゲルンハウゼン(ハーナウの北東20.5キロ)周辺に、ヘーゲルマイヤー将軍の第3旅団はビルシュタイン(オルテンベルクの東18キロ)、フィッシャー将軍の第2旅団はフィッシュボルン(ビルシュタインの北3.5キロ)へ、墺とナッサウ合同師団中、ナッサウ旅団はリントハイム(オルテンベルクの南南西9キロ)へ、墺軍旅団はシュタムハイム(リントハイムの北西5キロ)にそれぞれ宿営し、反転したBa師団はフォン・ラ・ロッシ将軍の第1旅団がナウハイム(フリートベルクの北3.5キロ)、ノイブロン将軍の第2旅団はフリートベルクに達します。
予備砲兵団はハーナウからフランクフルトを守る形でその南方、オッフェンバッハ(フランクフルトの東南東7キロ)、オーバーラート(同南東3キロ)、ニーダーラート(同南西4キロ)に展開しました。
軍団本営はHe師団と共にオルテンベルクに進みました。
B軍本営はノイシュタットに置かれ、ツェラー将軍のB第3師団は昨日から動かずノイシュタットに、シュテファン将軍のB第1師団は本隊がオストハイムに、B第7連隊長のヴィルヘルム・フォン・シュライヒ大佐率いる支隊がビショフスハイムに、フェーダー将軍のB第2師団はミッテルシュトロイ(メルリヒシュタットの南南西4.5キロ)に、ハルトマン将軍のB第4師団はメルリヒシュタットに、それぞれ移動します。
予備砲兵団はノイウハウス(ノイシュタット南東郊外1キロの温泉地。ノイウハウス・アム・レンヴェークではありません)に、B予備騎兵軍団は昨日と同じ場所で駐留し、これでB軍は全軍ノイシュタットを中心に南はキッシンゲン付近から北はビショフスハイムまで西側に半円弧を描く形で展開を終えました。
7日早朝。B軍カール公本営にアレクアンダー将軍の使者が到着し「全軍フランクフルトに退却する」との報告をしました。カール公は激怒しアレクアンダー将軍の本営宛に「却下する」との電信を発信、更に怒り心頭のカール公はアレクサンダー将軍宛てに書簡を送付するのです。
「殿下
私は西独連邦総軍司令官として、戦場における不測の事態に対処する以外、いかなる者をしても本官の許可を得ずして本営命令と作戦を変更することを許さない。
現在ベーメン、メーレン地方の戦況が我ら西独連邦軍の戦況に対し大いに影響を与え得ることは当然私も理解する。とは言え、殿下は私の許可を得ず本営の作戦である第7(B軍)軍団と第8軍団の合流計画とは違った行動をしている。
マイン川をして防衛線とする作戦案については私も大方納得するものだが、マイン河畔へ若しくは川を越えての撤退を即刻実行するは目下の戦況において得策ではない。先ずは両軍団合流が先決で、尚且つマイン川以外で防戦に努めるべきであり、それ以外は考えられない。
私は殿下に望む。私の許可を得ずして行っている退却行動を中止し、当初の作戦に還りB軍との連絡を通せ。
私は定めた作戦通りB軍主力をザーレ河畔のノイシュタット、キッシンゲン、ハンメルブルク付近に集合させ、その前衛はメルリッヒシュタット、ビショフスハイム、ブリュッケナウに置こうと考える。そのため殿下は必ずB軍と呼応しフルダ~ハーナウ街道(現独国道66号線)上シュリュヒテルン(フルダの南南西25キロ)方面に進みその街道筋を防衛すべきである。
このため私は殿下に対し、麾下の一大部隊をゲルンハウゼンからシュリュヒテルンに掛けて送致することを画すと同時に、至急そのうちの1個旅団を鉄道にてゲミュンデンに送り、またその到着がいつになるか報告することを命じる」(カッコ内筆者。筆者意訳)
この書簡が到着する以前の7日夕刻。アレクサンダー将軍は同じく書簡をB軍団本営に詰める墺軍連絡士官伯爵ヨハン・カール・アウグスト・フィン中将に送っています。
「7月7日午後7時オルテンベルクにて
私は昨夜、使者に書簡を持たせカール公に宛て送り出しました。その内容は我が軍団をしてフランクフルトに向けて後退するということです。公の計画であるブリュッケナウからキッシンゲンにおいて両軍団が合流するとの命令は、敵がフルダから南下すれば我らの側面及び背面に入り込む可能性があるため従うわけには行きません。これは貴官においても同意すると信じます。
私の見立てるところ、両軍団がレーン山地に近い地域(フランケン・ザーレ沿岸)で集合するよりはマイン川沿いに集合する方が得策と考えます。そのため、第8軍団はヘーヒスト(フランクフルトの西郊外10キロ)~フリートベルク~ハーナウの線に展開し第7軍団はアシャッフェンブルク~ゲミュンデン(・アム・マイン。ハンメルベルクの西南西15キロ)に展開することを提案します。これが実現すれば我ら連邦軍は統一して右(東)方向、左(西)方向、そして前方(北)といずれの方向にも素早く行動が可能となり、これは数日前までの状況である敵を我が両軍団の間に挟み込むこととなり、カール公の作戦による第8軍団がフルダ~ハーナウ街道の隘路で敵を迎える計画より優れていると自負します。
貴官に願うに、私に代わりこの意見をカール公にお伝え頂きたい。我が軍団は明日前記の如く行動し配置に就きます。私は本営をフランクフルト付近に置きますので貴官が私の意見に賛同するか否かの回答を至急フランクフルトまで送って頂きたくお願いします。
明朝私はニーダー=ヴェルシュタット(フランクフルトの北北東19.5キロ、ヴェルシュタットの北郊外)に進みます」(カッコ内筆者。筆者意訳)
カール公とアレクサンダー将軍の作戦案
カール公とアレクサンダー将軍。二人の離反原因はひとえに「自国優先」にあります。
カール公は文字通りバイエルン王国国境に迫る普マイン軍を国境と北部フランケン地方で阻止しようと考え、そのためにB軍をフランケン・ザーレ川を前面とするノイシュタットからキッシンゲンに集中させ、その「前衛」として連邦第8軍団を使用する(ブリュッケナウを両軍団連絡点としてその前面のキンツェヒ渓谷/シュリュヒテルンからゲルンハウゼンに展開させ最初に普軍と衝突させる)考えが見え見えで、
対するアレクサンダー将軍は、第8軍団をフランクフルトを守る形で展開させB軍をその右翼(東)に連絡・展開させることで結果的にヘッセン大公国南部ダルムシュタット地方を守る形になる考えであり、
これは全く母国大事と取られても仕方がない作戦であって、ただ一つベルリン=モルトケの命令で進む普マイン軍とは対照的な状況と言えるのです。
アレクサンダー将軍は先のカール公の叱責に近い書簡を8日早朝に受領しますが考えを変えることなく、麾下にハーナウ及びフランクフルトに向け進み続けるよう命じるのでした。
この7日の普マイン軍は休息・給養日となり、昨日と同じフルダとヒューンフェルトに留まり周辺の偵察を行った結果、ファルケンシュタイン将軍は「連邦両軍団は共に退却しそれぞれフランクフルト方向とフランケン・ザーレ川方面に去った」と断じました。
☆7月8日
7日夜半近くのこと。W師団長のオスカー・フォン・ハルデック中将(戦中昇進)からアレクアンダー将軍の本営に「普軍がキンツェヒ渓谷内に侵入した」との報告が届きます(普軍はまだ動いておらず誤認か騎兵斥候を発見したのかも知れません)。
既に翌8日の行軍命令「リントハイムとデュデルスハイム(オルテンベルクの南7キロ)に進め」を発していたアレクサンダー将軍でしたが、本営はW師団に対し「1個旅団(ヘーゲルマイヤー将軍の第3旅団)をキンツェヒ渓谷内に降ろし渓谷内にある1個旅団(バウムバッハ将軍の第1旅団)と合流させて(渓谷出口の)ゲルンハウゼンを固守せよ」との変更命令を下します。
しかしこの命令は実行されませんでした。何故ならばアレクサンダー将軍は命令を発した後に思い直し新規に再変更命令を発し、ハルデック師団長が受け取ったその命令(当初の行軍命令と寸分違わず同じ)には「先の命令を廃する」との一文が付属していたからでした。
この日、He師団はヴィンデッケン(ハーナウの北10キロ)に至り、連邦予備騎兵団はヴェルファースハイム(ニッダの西13.5キロ)近郊に進むと軍団命令によりフリートベルクからギーセンに至る街道筋を偵察、警戒しました。Ba師団は第2旅団がフリートベルクに留まり、第1旅団がナウハイムからアッセンハイム(フリートベルクの南南東5.5キロ)に移動し、墺とナッサウ合同師団中、ナッサウ旅団はフランクフルト郭外街のゼックバハ(大聖堂の北東4.5キロ付近)とプロインゲスハイム(同北4.5キロ付近)へ至ります。
早朝に命令の錯綜で混乱したW師団は本隊(第2、第3旅団)が予定通りリントハイムとデュデルスハイムに、バウムバッハ将軍の第1旅団はランゲンゼルボルト(ハーナウの北東9.5キロ)とランゲンティーバッハ(同北東6キロ)に行軍し、念のためゲルンハウゼンに騎兵1個中隊を残しました。
すると午後1時30分、ランゲンティーバッハに連邦第4師団長フォン・ナイペルグ中将が直率した墺軍旅団が到着します。ここでナイペルグ中将はバウムバッハ少将からゲルンハウゼンにはW軍が騎兵中隊しか置いていないことを聞き及び、普軍がキンツェヒ渓谷を下って来ると信じていたナイペルグ将軍は不安を感じ、この情報を伝令に託しアレクアンダー将軍の本営に送り出しました。
この報告は夕方、ニーダー=ヴェルシュタットに到着したアレクサンダー将軍に達しますが、既に翌日もフランクフルトの守勢位置に向かって行軍することに決していたアレクアンダー将軍は何の処置も行いませんでした。但しB軍がフランケン・ザーレ沿岸に集中し、マイン川がシュペッサルト山地(アシャッフェンブルク東の山地)により南に屈曲するゲミュンデン(ハンメルブルクの南西15キロ)方面に守備隊を置いていないことを危惧したアレクアンダー将軍は、アシャッフェンブルクとゲミュンデンを結ぶ重要な鉄道線が普軍によって分断されるのを怖れ(B軍との連絡が困難になります)、山地手前の鉄道主要地ローア(ゲルンハウゼンからは南東に35キロ強)にW第1旅団から2個中隊を送るよう命令し、旅団長のバウムバッハ将軍はW第5連隊から2個中隊を抽出し送るのでした。
B軍はこの日、ツェラー将軍の第3師団が予備騎兵軍団長のツーン・ウント・タクシス将軍の指揮下に置かれ、フランケン・ザーレ沿岸のシュタイナハ(ノイシュタットの南西9.5キロ)からキッシンゲンの間に展開、予備砲兵団はミュンナーシュタットに移動しその周辺地に宿営し、B予備騎兵軍団は昨日と同じ場所で駐留を続けます。
シュテファン将軍のB第1師団は本隊がウンスレーベン(ノイシュタットの北北東7キロ)、後衛はメルリヒシュタットに移動し、シュライヒ大佐支隊はそのままビショフスハイムに留まりました。B第2、B第4師団はノイシュタットに至り、カール公の本営はノイシュタットから動きませんでした。
この日の午後、カール公の本営とハンメルブルクのタクシス将軍の本営に「普軍、ブリュッケナウに向けて行軍す」との至急報が届きます。
この時、両本営の多数が「普軍は連邦第8軍団を追ってフランクフルト方面へ行軍中」と考えており「これは誤報」と信じ、それはツーン・ウント・タクシス将軍も同じと思われますが、将軍は一応用心のため指揮下に入ったB第3師団からB第11連隊の2個中隊をゲローダ(ブリュッケナウの南東8キロ)に置いて前哨とし、B第14連隊の2個中隊をハンメルブルクに呼んで本営の護衛とするのでした。
この日、B軍は一旦普軍との接触を失います。これは主力がフルダ方面から40キロ以上離れてしまったため、騎兵斥候も長距離かつ広範囲に捜索しなくてはならない状況となったためでした。
普マイン軍のファルケンシュタイン将軍はこの日の早朝、連邦両軍団が想定外に早く撤退したことで、今後の作戦として参謀本部総長モルトケ歩兵大将から教唆された通り、「連邦第8軍団は退却するに任せて追わずに放置し、B軍団を追ってB国境を越え進撃する」ことに決します。
この時ファルケンシュタイン将軍はマイン川を渡河してからB軍と対決するより、その手前で会戦を行う方が理に適うと信じ、目標をシュヴァインフルト(キッシンゲンの南南東20.5キロ)に定め、3日後の11日に到達する行軍日程を定めるのでした。
※7月8日から11日に至る普マイン軍の行軍行程
〇バイヤー師団
8日/シュリュヒテルン 9日/ブリュッケナウ 10日/ハンメルブルク 11日/後衛・オイアードルフ(キッシンゲンの南西7キロ)前衛・シュヴァインフルト
〇ゲーベン師団
8日/後衛・デルバッハ(フルダの南13キロ)前衛・モッテン(デルバッハの南5.5キロ) 9日/ゲローダ 10日/キッシンゲン 11日/シュヴァインフルト
〇マントイフェル師団
8日/フルダ 9日/前衛のみブリュッケナウ 10日/ヴァルトフェンシュター(キッシンゲンの北西11キロ) 11日/後衛・キッシンゲン 前衛・オアーレンバッハ(キッシンゲンの南南東7.5キロ)
バイヤー師団8日のシュリュヒテルンへの行軍は「普軍は連邦第8軍団を追っている」と見せかけ連邦軍を欺く偽計で、9日もゲルンハウゼンに向かうと見せかけ少々南下すると東へ向かう予定でした(前述通り連邦軍はまんまと引っかかります)。
8日夕。普マイン軍は3個師団共に予定の宿営地に到着し、軍本営はアイヒェンツェル(フルダの南6.5キロ)に進みます。ファルケンシュタイン将軍は諜報と偵察の結果から「B軍の現在地はキッシンゲン、ハンメルブルク、ビショフスハイムで、連邦第8軍団はフランクフルト近郊に達した」と確信するのでした。
☆7月9日
この日普軍は黎明より行軍開始、作戦計画通りに進みました。
ゲーベン将軍の普第13師団(ダーンバッハの戦い前後より歩騎砲三兵種混成旅団3個に再編成されています)はゲローダに向かい、クンマー将軍指揮する前衛旅団は予定通りゲローダを占領すると更に先へ進み、最初はプラッツ(ゲローダの南東1キロ)、続いてヴァルトフェンシュターで昨日タクシス将軍から派遣されたB第11連隊の2個中隊と遭遇し交戦しました。これは数の多い普軍が優勢でB軍歩兵も抵抗しますが次第に圧倒され短時間でキッシンゲン方面に退却します。ゲーベン師団は夕刻までにヴランゲル将軍率いる本隊旅団がゲローダ、プラッツそしてヴァルトフェンシュターで宿営し、トレスコウ将軍率いる後衛旅団はその後方点在する小部落で宿営を求め、クンマー将軍はその先ポッペンロート(キッシンゲンの北西7キロ)とシュリンプホーフ(ポッペンロートの南西1.5キロ)に進むと驃騎兵4個中隊をフランケン・ザーレ川方面へ斥候に出撃させ、ヴェストファーレンの驃騎兵達はオーバートゥールバ(キッシンゲンの西8キロ)やクラウスホーフ(旅荘。現存します。同北西4キロ)でB軍の哨戒隊と接触、短時間銃撃を交わした後に普驃騎兵は撤退しました。
その他、バイヤー師団はブリュッケナウに、マントイフェル師団は前衛のみレーマースハーク(ブリュッケナウの北東2キロ付近。現在部落は更に北東に移転しこの場所はギムナジウムになっています)に進みました。
B軍本営ではこの日早朝、深夜からレーン山地に偵察に出ていた軽騎兵が次々に戻り「普軍大縦隊ブリュッケナウに進み来る」との報告をします。
カール公始め本営の幕僚達は冷水を浴びた思いだったことでしょうが、カール公は直ちにツェラー将軍とタクシス将軍に対し「B第3師団と予備騎兵軍団によりキッシンゲンからハンメルブルク間のフランケン・ザーレ川渡河地点を守備せよ」と命じ、B軍主力の残り3個師団と予備砲兵には「現在地より後退しポッペンハウゼン(キッシンゲンの南12キロ。フルダ南の同名地とは違います)西の高地に集合展開せよ」と命じたのです。
この9日午前9時時点でシュテファン将軍率いるB第1師団がウンスレーベン(ポッペンハウゼンからは北に32キロ)付近に、フェーダー将軍率いるB第2師団とハルトマン将軍率いるB第4師団はノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)におり、多少の努力(20キロ強の行軍1日半)で翌10日午前中には命令通りの高地に集合出来るはずで、少なくともキッシンゲン近郊には到達していたはずでした。
午後にはゲローダで交戦したB第11連隊からの至急報で普軍主力がB軍との対決を期していることが確定します。
しかしB軍の動きは鈍く、B第2師団はノイシュタットから動かずじまい、B第4師団は街こそ出たもののミュンナーシュタット(行軍路11キロ程度)止まり、B第1師団は午後になって動き出しこの日はノイシュタットに入城しただけに終わるのです。
このB軍の「危機に際する反応の鈍さ」は致命的でした。
ツェラー将軍の第3師団はキッシンゲンで動かずタクシス将軍はハンメルブルクで予備騎兵を現在地に留めたまま、ツェラー師団からシュヴァイツアー大佐率いるB第6旅団を加え普軍を警戒しました。
※7月9日のキッシンゲンとハンメルブルクのB軍
◎キッシンゲン(ツェラー将軍指揮)
〇リボーピエール旅団
・猟兵第5大隊
・歩兵第11連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第15連隊第1大隊
・同連隊第3大隊
〇ハルトマン師団より臨時編入
・猟兵第6大隊
・歩兵第9連隊第3大隊
〇軽騎兵第2旅団
・槍騎兵第3連隊
・軽騎兵第5連隊
〇師団直属
・軽騎兵第2連隊
・シュスター12ポンド滑腔砲中隊(砲8門)
〇予備砲兵団より
・レーデンバッカー6ポンド施条砲中隊(砲8門)
◎ハンメルブルク(タクシス将軍指揮)
〇シュヴァイツアー旅団
・猟兵第1大隊
・歩兵第6連隊第1大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第14連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
〇重騎兵旅団
・胸甲騎兵第1連隊
・胸甲騎兵第2連隊
・胸甲騎兵第3連隊
〇軽騎兵第1旅団
・槍騎兵第1連隊
・槍騎兵第2連隊
〇騎兵軍団直属
・マイセンバッハ騎砲兵第3中隊(砲6門)
・ラ・ロッシ騎砲兵第4中隊
〇ツェラー師団より
・ロッタースベルク6ポンド施条砲中隊(砲8門)
この日、シュライヒ大佐支隊はビショフスハイム駐屯を続けます。
カール公は普軍がフランケン・ザーレ川まで一日と迫った今、連邦第8軍団の来援を断念し独力で戦うことを決心します。既にシュリュヒテルン~ゲルンハウゼン間の街道筋に連邦軍は存在せず連絡もほとんど途絶えた状態で、フランクフルト~ハーナウに陣を構えているとするならば急いでも三日は掛かる距離にあるからでした。
この日アレクサンダー将軍は本営をボルンハイム(フランクフルトの北東市外)に構え、連邦第8軍団はフランクフルトを囲む形で防衛網を完成させます。
W師団はハーナウの北、ミッテルブーヘン、ブルーフケーベル、ロスドルフ、ランゲンティーバッハ(いずれもハーナウの北北西から北東に掛けて6~8キロ)に展開、宿営し、Ba師団はニッダ川に沿ってグローナウ(フランクフルトの北東11キロ)~フィルベル(グローナウの南西3.5キロ)~ヘッデルンハイム(フィルベルの南西6.5キロ)までの間に展開、宿営します。
He師団はベルゲン(・エンクハイム。フィルベルの南南東3キロ)~ゼックバッハ(ベルゲンの西南西2.5キロ)~ボルンハイム(ゼックバッハからは南西2キロ)~ファッフェンハイム(ボルンハイムの東南東3.5キロ付近。現在はホームセンターなど)~ビショフスハイム(ファッフェンハイムの東3.5キロ付近。通りに名前が残るだけです)のライン上に展開、宿営し、ナッサウ旅団はレーデルハイム(ヘッデルンハイムの南西4.5キロ付近)~エッシュボルン(レーデルハイムからは北西に3キロ)~ゾーゼンハイム(現ゾーデン・アム・タヌウス。エッシュボルンの西5キロ)に、墺軍旅団はフランクフルト市街とボッケンハイム(フランクフルトの西市外)に宿営しました。予備騎兵団はブルヘンブリュッケン(フリートベルクの南南東4.5キロ)周辺で宿営します。予備砲兵は昨日と同じくフランクフルトのマイン南岸に展開しました。
アレクサンダー将軍の命令で急遽築造された野戦堡塁は結局7個で、ボッケンハイム、フリートベルガー=ワルテ(ボルンハイムの北北西1,200m付近。フランクフルト市街防衛施設で市街北東の監視塔)の横、エッケンハイム、ゼックバッハ、ボルンハイムとオッフェンバックとオーバーラートの舟橋脇にありました。
フランクフルトの防衛(7月9日)
この日早朝(普軍来襲の報告前)カール公はアレクサンダー将軍に宛て電信でフランケン・ザーレ川に来るよう命令しますが、アレクアンダー将軍は「マインツからフランクフルト、ハーナウにかけて普軍侵攻の恐れが高まっている」として応じませんでした。アレクサンダー将軍は後日その手記で「カール公はしきりにフランケン地方で両軍団が合流することを命じていたが、ヘッセン大公国やナッサウ、ヘッセン選帝国の領土が敵により侵攻を受けているのにカール公曰くこれは後備兵による示威行動に過ぎないなどと軽視していた」と怒りをぶつけています。
アレクサンダー将軍は9日夕、再びカール公の本営に詰めるフィン将軍に対し長文の電報を打っています。
「7月5日我が軍団がフルダに向かう途中、カール公より『第7軍団兵は普軍師団の攻撃を受けノイシュタットに下がらざるを得なくなった。ヴァッカ周辺での両軍団合流は無理となったため、第8軍団は転進してブリュッケナウに至れ』との要求がありました。これは我が軍団が受けた実に3回目の転進命令です。それでも私は努めて命令遵守しましたが、この時フルダからハーナウに向けて敵が進もうとしているとの報告を受け、またフランクフルトの連邦議会からも連邦軍事規約に基きマイン川流域を防御するよう要請がありました。
カール公はこの経緯を知っていたはずですが、我が軍団に対し全てを投げ出しノイシュタットに向かうよう命令しているのです。これはマインツからシュヴァインフルトに至るまでのマイン流域を全て敵に与えようとしていることになります。公は私の建議を一切受け付けず、ご自身の意見に固執しています。
我が軍団は暑気や風雨の中、山地を行軍すること8日に及び疲労も甚だしくあります。このためヘーヒスト~フリートベルク~ハーナウの線で停止しました。これよりマイン川の線を固守する所存であります。目下の情勢ではこの手しかありません。
私は明朝ボルンハイムにおりますので、どうかこの件を皇帝陛下にお伝え願い、(カール公か私かどちらが正しいか)裁可をお願いしたく。
私の行動をW王国国王陛下、ヘッセン大公国陛下共に喜び認めてくださいました」(カッコ内筆者。筆者意訳)
翌10日。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこの件を伝えられると以下の返答をします。
「アレクサンダー公は第7軍団とよく話し合い事を運ぶことを願う。これをフィン伯爵と相談するように。作戦の内容についてウィーンでは遠方ゆえに判別することは出来ない」
結果を知る現代の人間からすれば正しかったのは(自国優先だったにせよ)カール公の方で、アレクサンダー将軍は信じていたか否かは分かりませんが、「普軍が自分たち第8軍団を追ってフランクフルトに来る」説を譲らずB軍(実質42,000名前後)を単独で普マイン軍(実質40,000名前後)と衝突させることになったのです。




