ダーンバッハの戦い(後)
☆ツェラの戦い
7月4日午前7時。
普第13師団長クリスチャン・フォン・ゲーベン中将から「ダーンバッハに守備隊を残し旅団主力でナイトハルツハウゼン(ダーンバッハの南4キロ)及びツェラ(ナイトハルツハウゼンの西南西1.5キロ)に進み当地のB軍を撃退せよ」と命じられたフェルディナント・フォン・クンマー少将は、麾下普第25旅団の歩兵4個大隊・驃騎兵2個中隊・12ポンド砲兵中隊1個を率いてダーンバッハを発ち、フェルダ川に沿ったカルテンノルトハイムへの街道を南下しました。
クンマー将軍は街道の右翼側(西)に第53「ヴェストファーレン第5」連隊第2大隊、中央街道上に同連隊F大隊、左翼側(東)に同連隊第1大隊を並進させ、その後方予備・第二陣として第13「ヴェストファーレン第1」連隊F大隊と驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の2個中隊、そして砲兵中隊が進みました。
一方、迎え撃つB軍は4日朝、ナイトハルツハウゼン周辺に男爵オスカー・フォン・ツェラー中将率いるB第3師団麾下のB第6旅団(臨時旅団長シュヴァイツアー大佐)前衛が展開し、ツェラにはその本隊が展開しました。
※4日午前8時頃のB第6旅団ツェラ周辺防衛陣
〇ナイトハルツハウゼン部落内とその周辺部
*B猟兵第1大隊の2個中隊
〇ナイトハルツハウゼン東郊外のタウフシュタイン高地中腹
*B猟兵第1大隊の2個中隊
〇タウフシュタイン高地北斜面
*B歩兵第6連隊第2大隊の狙撃兵中隊
〇ツェラ部落内
*B歩兵第14連隊第2大隊
*B歩兵第6連隊第2大隊の第1中隊
〇ツェラ南方郊外
*B歩兵第14連隊第1大隊
*B軽騎兵第2連隊の第2,3,4中隊
〇ツェラ北東側入り口
*12ポンド滑腔砲2門
※この4日、旅団麾下のB歩兵第6連隊第1大隊はB第4師団に臨時加入してロスドルフで戦い、同連隊第3大隊は別行動でタンに向け行軍中でした(既述)。
B第3師団もう一方のB第5旅団(旅団長フォン・リボーピエール少将)はB第6旅団の後方、フィッシュバッハ(ツェラからは南東3キロ)の北西方郊外でカルテンノルトハイムへの街道を挟み待機しており、第一陣に2個大隊、その後方第二陣に3個大隊が展開します。師団砲兵隊のシュスター大尉率いる12ポンド滑腔砲中隊の内、1個小隊は先述通りツェラに派出し、残り3個小隊6門が左翼を街道に接して第一陣の中央部分に砲列を敷いていました。砲兵の護衛にはB軽騎兵第2連隊の第1中隊が付き、ロッタースベルク大尉率いる6ポンド施条砲中隊(砲8門)はシュスター砲兵隊の後方2キロ弱の高地上で待機するのでした。
このツェラとナイトハルツハウゼンは北方ダーンバッハ方面から見れば緩やかな高台上となり、ナイトハルツハウゼン北郊外はフェルダ川が多くの小川に分かれ湿地となっており守るB軍には有利な地形でした。それでも普軍クンマー将軍は第53連隊第1大隊をナイトハルツハウゼンへ突進させ、同連隊残りの2個(第2、F)大隊をツェラに向け進撃させるのでした。
ナイトハルツハウゼン部落を守るB軍猟兵2個中隊は最初正面北方から散発的な銃撃を受けるだけでしたが、やがてその右翼(東方)タウフシュタイン高地の北方斜面に突如普軍大隊が現れ、側面を突かれたB猟兵は少時激しく抵抗するもやがて圧倒され始めたため大隊の半数が守るタウフシュタイン高地に向け撤退します。高地のB猟兵はそれ以前に激しい攻撃を受けたため高地西斜面まで降りて態勢を整えており、ここにB猟兵第1大隊は再び一つになると大隊長のフーゴ・フォン・ゲリズ中佐は再度高地奪還を目指し麾下に斜面を登らせますが、高地を抑えていた普軍大隊も譲らず激しい攻防戦が続きました。粘り強く戦うB猟兵でしたが結局高地は奪取出来ず、やがてゲリズ中佐は孤軍を怖れて後退、B猟兵たちは追撃を受けつつディードルフまで下がるのでした(後述します)。
B猟兵が苦戦した原因の一つは、タウフシュタイン高地北麓を守っていたB歩兵第6連隊第2大隊の狙撃兵中隊が、普軍が現れるや早々と撤退してしまい、がら空きとなった東方からほぼ奇襲に近い側面攻撃を被ったためで、この中隊は猟兵と相前後しながら最終的にフィッシュバッハまで下がってしまったのでした。
ナイトハルツハウゼンを抑えB猟兵たちが南へ撤退したことで後方の憂いがなくなったクンマー将軍はツェラ攻略に全力を注ぎました。
普第53連隊のF大隊と第2大隊がツェラに接近すると、部落周辺で待ち構えていたB軍諸隊から猛烈な銃砲撃を浴びてしまいます。しかし普軍は怯まず前進を続け、まずは部落北口の至近から榴弾だけでなく散弾をも放ち普軍の接近を妨害する12ポンド砲2門からなる砲兵小隊に攻撃を集中し、普軍歩兵はB砲兵から数百mまで接近しドライゼ銃の正確な銃撃を浴びせました。
このB軍砲兵小隊を率いていたツー・ライン中尉は普軍兵士ひとりひとりの顔の違いが分かる距離まで敵が迫っても砲撃を続行し、砲兵は次々に倒れ(25名中戦死・負傷は9名)牽引馬匹も半数が死傷(20頭中10頭)した後になり、ようやく撤退するのでした。
このツー・ライン小隊の退却と入れ代わるかのようにフィッシュバッハから前進して来たロッタースベルク6ポンド施条砲中隊の半数・2個小隊(4門)はディードルフ北西方の高地斜面に砲列を敷き、ツェラ北方に目立つ山の麓、フェールリッツ(ツェラの北1.5キロ)の南郊に展開し始めた普軍の12ポンド砲中隊を狙い砲撃を開始するのです(射距離約2,600m)。
しかし、クンマー将軍は必ずツェラを占領するとばかりに麾下を突進させ、普第53連隊F大隊は部落東側、同連隊第2大隊はクンマー将軍の命により予備から前線へ投入された普第13連隊F大隊と共に部落西側へ進み、ほぼ同時に東西から部落へ突入を図りました。この時、普第53連隊第2大隊長のフェルディナント・フォン・ゴンタルト少佐(第一次大戦時に第30師団長だったフリードリヒ・フォン・ゴンタルト中将の父親)が戦死します。B軍諸隊は大した抵抗はせず直ちに中隊毎部落とその周辺陣地を放棄しディードルフへ後退するのでした。
但しB第6連隊第2大隊の第1中隊だけは後退せず、ツェラ部落内で味方の撤退を援護しますが、普軍はほぼ全周から部落内へ突入しB軍中隊を包囲し降伏を呼びかけますがB軍はこれを拒否、小銃に着剣すると包囲を突破すべく捨て身の突撃を敢行するのです。しかしこれは全くの自殺行為で、無傷で撤退出来たのは士官1名下士官兵19名に過ぎず、想像ですが定員150名のB軍歩兵中隊が当時その員数7割100名だったとしても無事だったのは5人に1人、中隊長のケーニヒ大尉含め80人前後が死傷したのです。中には一軒の家屋に立て籠った分隊11名が普軍の降伏勧告に応じず最後の一人まで戦った結果、全員が死傷するという悲劇も発生したのでした(午前10時半前後)。
ツェラが普軍の手に落ちると効果的に援護射撃を行っていたB軍ロッタースベルク大尉の6ポンド施条砲中隊4門もディードルフ至近に留まることが出来ず、部落南西高地まで陣地転換を行ったのでした。
さて、この間B第3師団の片割れ、リボーピエール将軍率いるB第5旅団は同僚の苦戦を前にしても進むことなくフィッシュバッハ前面に展開するばかりでした。これは何も旅団長が消極的だった訳ではなく師団長ツェラー将軍の命令によるもので、理由の一つは普軍がガイサ(ツェラからは北西に12キロ)を占領したとの情報が届いたため正確な続報を得るまでは慎重な行動に徹しようとしたため(普軍がそのまま南下しタンを落とせば後方に回り込まれ包囲の可能性があります)であり、いま一つはシュヴァイツアー旅団が後退する場合に援護し収容を確実にするためでもありました。しかし、B猟兵第1大隊がタウフシュタイン高地から撤退しそれを追って普軍が南下し始めると、ツェラー師団長は普軍のディードルフ占領を阻止するためリボーピエール旅団長に対し前進を命じ、B第5旅団は午前10時にディードルフ周辺まで進み再展開するのでした。
※4日午前10時頃のB第5旅団ディードルフ周辺防衛陣
〇ディードルフ部落北郊外と北西郊外
*B歩兵第15連隊第1大隊の4個中隊
*同連隊第3大隊
*B猟兵第5大隊
〇タウフシュタイン高地に面して左翼(東)側へ前進
*B歩兵第15連隊第1大隊の2個中隊
〇ディードルフ部落西方郊外
*B歩兵第11連隊第2大隊
*B歩兵第11連隊第3大隊
B猟兵第1大隊がタウフシュタイン高地奪還を諦めディードルフ目指し後退すると、普第53連隊第1大隊長のフランケンベルク少佐は隊を三分割し、一つは高地に後衛として残留、一つは少佐自ら率いると南斜面を下りてB猟兵を追い、残り一つは同僚を援護するためツェラ攻撃に向かいました。
フランケンベルク少佐の追撃隊はディードルフ郊外に達しますが、ここでツェラ南郊からいち早く撤退しカルテンノルトハイムへの街道西側でディードルフ部落を見下ろす高地に陣取っていたB第14連隊第1大隊から猛銃撃を受け釘付け状態となってしまいます。この時陣頭指揮にあったフランケンベルク少佐は重傷を負い後送されてしまいました。またB歩兵大隊と同行しツェラから撤退したB軽騎兵第2連隊の3個中隊はこの隙にディードルフ南方まで撤退しますが、先頭となっていた1個中隊は普軍砲兵の放った12ポンド砲の一榴弾が隊列内で破裂したため馬匹が驚き、制御困難となった乗馬に動かされるまま更に遠方まで走り去ったのでした。
クンマー将軍はB軍が新たに旅団クラスの歩兵を前進させたことを知り、午前11時頃、一旦攻勢を中止し麾下諸隊をツェラ周辺で集合させます。この知らせを受けたダーンバッハのゲーベン将軍は、師団予備として控えていた第55連隊のF大隊とワイゲルト大尉が率いる野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊の4ポンド砲中隊(クルップ社製)、そして(シュタット・)レングスフェルトから到着したばかりの胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊とメッティング大尉率いる野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊の騎砲兵第3中隊を至急ツェラに向け進発させたのでした。
これらダーンバッハからの増援は午後12時過ぎツェラ周辺に到着しますが、砲兵2個中隊12門が砲列を敷けるような適地は見つからず、やむなく4ポンド砲中隊6門のみツェラ南方でカルテンノルトハイムへの街道に接して砲列を敷き、この護衛として胸甲騎兵連隊がその周辺に展開・待機となったのでした。
これによりツェラ北方で砲撃を続けていた普軍12ポンド砲中隊に4ポンド砲中隊が加勢する形で砲撃が激化し、特にクルップ社自慢の4ポンド砲は正確にディードルフのB軍を叩き始め、対するB軍もシュスター大尉率いる12ポンド滑腔砲中隊の半数4門をディードルフ南西の高地に展開して対抗砲撃を行い、他の4門はディードルフとフィッシュバッハの中間付近に砲列を敷いて砲撃を行いますが、後方4門は敵陣まで2500m前後と旧式の滑膣砲では比較的遠距離だったために効果が薄く、また午前中は奮戦していたロッタースベルク大尉の6ポンド施条砲中隊もこの時はフィッシュバッハ南西方高地にあり、ツェラまでは3500m強とあって撃っても無駄弾とばかり全く沈黙してしまうのでした。
午後2時30分。最後の一押しとばかりに普53連隊第1大隊が一旦は下がったタウフシュタイン高地際から再度ディードルフに迫りますが、これはB第15連隊の第1大隊が西と東から挟撃する形で攻撃を挫き、普軍大隊は再び北方に後退します。
これが最後の銃撃戦となり、以降午後3時過ぎまで砲兵の対抗射撃が続きますが、これも尻つぼみに収まりました。この後クンマー将軍は全軍ダーンバッハへの後退を命じ、ほぼ同時にツェラー将軍も師団をカルテンノルトハイムまで下げる命令を下すのでした。
実はB軍率いるカール公は午後12時頃フィッシュバッハまで進んで観戦し、その結果「普軍は全軍フェルダ川を遡り前進しているに違いない」と断じ、「このままディードルフやロスドルフで戦うよりカルテンノルトハイム~カルテンズントハイム(カルテンノルトハイムの南2.5キロ)まで下がって戦う方が地形からしても有利」と総退却を命じたのです。
カール公はそれだけではなく、このままレーン山地(フルダの東方一帯)で諸侯の連邦第8軍団と合流するまでB軍単独で普軍と戦うのは愚策と決め付け、先ずは普軍から充分離れて後退したのちにフランケン・ザーレ川(バイエルンとチューリンゲン地方国境のトラップシュタット近郊が源流で、レーン山地の南端に沿って流れた後にゲミュンデンでマイン川に合流する支流。ザクセン地方を流れるエルベ支流のザーレ川とは違います)の流域で連邦第8軍団と合流することを望んだのです。
カール公の意向に沿い、まずは後衛援護としてリボーピエール旅団のB歩兵第15連隊第1大隊がディードルフに残留し、これにB軽騎兵第2連隊の第2,3,4中隊とB第2師団から砲兵2個小隊4門が前進して加わり北方を警戒する中、ツェラー将軍の第3師団は損害が多いシュヴァイツアー旅団を先に、これにリボーピエール旅団が続行してカルテンノルトハイムへ後退して行きました。こののち後衛も後退し午後5時までに全部隊がカルテンノルトハイムとその周辺に至ったのです。
オスカー・フォン・ツェラー
普軍クンマー旅団にも午後2時過ぎには後退命令が届いており、先述通り普軍砲兵は午後3時まで砲撃を続けた後に先立って後退した諸隊を追ってダーンバッハに至り、クンマー将軍たちは師団後衛となってここで一夜を警戒しながら過ごすのでした。
この「ツェラの戦い」で、普軍は戦死が士官1名・下士官兵10名、負傷が士官3名・下士官兵58名、行方不明(捕虜)が下士官兵2名、B軍*では戦死が士官3名・下士官兵7名、負傷が士官3名・下士官兵69名、行方不明(多くはその後死亡を確認)が士官1名・下士官兵46名でした。
※B軍の死傷者・行方不明者数は普・墺双方の公式記録で大幅な違いがあり、ここではネットでも確認出来る墺軍寄りの数字を記しましたが、普公式戦史ではB軍死傷者数を士官7名・下士官兵177名としておりこれを墺軍公式は「明らかに多過ぎ」と非難しています。しかし、ツェラにおけるケーニヒ中隊の状況を見れば墺軍公式も少ないように思えます。
この日の夜、B第1師団はカルテンノルトハイムからカルテンズントハイム間の街道両側に集中して野営し、B第2師団はカルテンノルトハイムの西郊外で野営します。この師団からB第7連隊長のヴィルヘルム・フォン・シュライヒ大佐が連隊の第2大隊に軽騎兵第4連隊から1個中隊とキルヒホファー大尉率いる12ポンド滑腔砲中隊から2個小隊4門を借り受けてヒルダース(カルテンノルトハイムの南西12.5キロ)に派出し軍左翼を警戒しました。
B第3師団は予備砲兵団と共にカルテンズントハイムとその周辺に集合して宿・野営し、B第4師団はオーバーカッツ周辺で宿・野営に入ります。
カール公の本営はカルテンズントハイムに置かれました。
この日の普軍第13師団とB軍の戦闘「ロスドルフの戦い」と「ツェラの戦い」を総称し「ダーンバッハの戦い」と言います。
両戦闘共に両軍が撤退したため双方勝利を主張していますが、ゲーベン将軍はマイン軍本営から当初より「戦闘後に撤退しフルダ方面へ向かうよう」命令されており計画的撤退だったのに対し、B軍側は防戦で戦闘を始め途中で不利な戦場から陣地転換する主旨で後退することを決し、結果的に普軍が先に撤退したため勝利を主張しているので筆者は「ややB軍優勢な引き分け」とするのが無難、と考えますが如何でしょうか。
カール・フォン・ハルトマン
熱血漢のB第4師団長。その後普仏戦争でも大活躍します
☆7月4日のその他諸隊
B予備騎兵軍団長カール・テオドール・フォン・ツーン・ウント・タクシス騎兵大将は7月3日深夜、フルダにおいてB軍総司令官カール公6月30日発の命令をようやく受領します。命令の主旨は「ヴァッカ(ガイサの北13.5キロ)方向へ示威行動を起こし南下するはずの普軍を警戒、B本軍のカルテンノルトハイム方面への行軍を援護し、ガイサ~ダーンバッハ間にて(展開し)本軍との連絡を付ける」でしたが、騎兵軍団は既にこの3日(ガイサからは南西へ26.5キロも離れた)フルダ周辺まで進んでいます。
冷や汗もののタクシス将軍は翌朝、前衛がフルダへ行軍一日程度に迫っていた第8軍団本営に向けて伝令を走らせ、軍団長のアレクアンダー将軍に対し「貴軍団歩兵により至急フルダを確保願いたい」と要請するのでした。これはフルダに一支隊を残して第8軍団との連絡を取り、残りは引き返してB本軍と連絡しようという計画だったと想像しますが、当時ウルリヒシュタイン(フルダの西34キロ)にいたアレクアンダー将軍はこれを承知するものの、「フルダ掌握は翌5日夕とさせて貰いたい」と答えたのでした(後述します)。
これで本営の命令を履行するための一手を成したタクシス将軍は4日朝、軽騎兵2個旅団をフルダとニーダービーバー(フルダの東北東9.5キロ)に留め、「ヴァッカ方向へ示威行動」をするため重騎兵旅団をヒューンフェルド(フルダの北北東15キロ)経由で昨日普軍が達したと思われるラスドルフ方面へ向かわせました。ところがこの朝、普軍バイヤー師団前衛もラスドルフを発しフルダ目指して行軍を開始しており、両軍はヒューンフェルド北東4キロ、キルヒハーゼル付近の雑木林で遭遇、同行していたタクシス将軍は直ちに普軍の先鋒部隊に対し胸甲騎兵第1連隊を突撃させ、重騎兵と共に進んだB軍マイセンバッハ大尉指揮の騎砲兵第3中隊(12ポンド騎砲6門)で準備の出来た1門に援護射撃を行わせます。
しかし普軍前衛は方陣を作ってこれを猛銃撃で迎え、また前衛に同行していた野戦砲兵第8「ライン」連隊の後装施条4ポンド砲中隊(シュミット大尉指揮)の小隊2門がB胸甲騎兵の突撃に対し正確無比な砲撃を行ったためB騎兵の攻撃は頓挫し、たちまち潰走してしまうのでした。これに動揺した同僚第2連隊も後に続きB重騎兵は敗走状態となったのです。この時マイセンバッハ大尉の騎砲兵中隊は騎兵を救うため至急砲列を敷きますが対抗射撃を行うや否や銃撃と砲撃を集中されてしまい、騎兵と共に退却するほかなく、1門の砲は運搬前車を撃ち抜かれて動けなくなったため遺棄されたのでした。
タクシス将軍はヒューンフェルドに戻ると部落に後衛予備として居残っていたB胸甲騎兵第3連隊を併合し、迫り来る普軍とその砲撃に追われるようにフルダに向け退却行に入ります。
ところがフルダに達した午後4時、敵普軍もまたフルダに向けて進撃を続けているとの報告を受け、激しく動揺する部下共々パニック状態となってしまったタクシス将軍は、当地の軽騎兵2個旅団を含めた軍団全てを後退させることに決し、ビショフスハイム(フルダの南東29キロ)を目標に急ぎフルダを棄て去って行ったのです。但し、道中我に返ったのか後衛として軽騎兵第1旅団のみリューター(フルダの南南東10キロ)に留め、行軍右翼(南西)警戒としてデルバッハ(フルダの南13キロ)に胸甲騎兵2個中隊を送りました。
重騎兵旅団(半数)と軽騎兵第2旅団は午後10時、ゲルスフェルト(ビショフスハイムの北西8キロ)付近に達するとカルテンズントハイムのカール公より命令が届き、その主旨は「予備騎兵軍団はブリュッケナウ(ゲルスフェルトの南南西18キロ)に向かい、この地よりハンメルブルク(ブリュッケナウの南22.5キロ)またはキッシンゲン(同南東23.5キロ)に進み(そちらに向かう)我ら軍団本隊と連絡せよ」とのことで、タクシス将軍は既に先へ進んでしまった軽騎兵第2旅団の前衛中隊を除き、本隊を率いて踵を返しヘッテンハウゼン(ゲルスフェルトの西7.5キロ)経由でブリュッケナウへ向かいました。ビショフスハイムに達していた前衛中隊はこの夜この地で過ごしたのでした。
テオドール・ツーン(トゥルン)・ウント・タクシス
なお、このフルダからビショフスハイムへの道中で呆れた話が残っています。
重騎兵旅団長のグスタフ・フォン・ロンメル少将はフルダを離れると行軍路を勝手に変更し、旅団の半数を軽騎兵第2旅団に同行させ正規の街道を進ませると自身は残り半数を率いて脇道に逸れて進むのです。本人は「近道を図り旅団に先行しようとした」と釈明した模様ですが、これは「敵が目標とするだろう本隊を離れ自分だけ助かりたい」との行動では、と疑われても仕方のないことで、それでも旅団に先行しゲルスフェルトに到着すれば「露払い」したとの言い訳も出来たことでしょうが、街道を外れた道はロンメル将軍の目論見とは違って近道には程遠く、本隊がゲルスフェルトに接近する頃には未だヘッテンハウゼン近郊を通過中でした。この時、遠方から緊急を告げるラッパ号音が聞こえ、更に騎兵銃の発射音が聞こえたためロンメル将軍ら部隊に動揺が走り、やがて部隊は我先に南方へ逸れて遁走状態に陥ってしまいました(このラッパや銃声は、本隊が目的地変更で逆走するための停止合図だったと想像します)。
この潰走、キルヒハーゼルで初めて目の当たりにした普軍の銃撃(ドライゼ銃)と砲撃(正式化間もない4ポンド砲)の衝撃(戦車を初めて見た第一次大戦のドイツ兵を思い浮かべてください)を考慮すればロンメル将軍たちの動揺(普軍が迫っているとの誤解)も少しは理解出来ますが、普段はエリート然としていたであろう胸甲騎兵たちが雑兵の如く逃げ惑う姿は哀れにすら感じてしまいます。恐怖に駆られた一部の胸甲騎兵は先行していた軽騎兵たちを追い抜き軍団一番乗りでフランケン・ザーレ沿岸に達し、一番遠くまで逃げた兵士はマイン川にまで達していたそうです。
余談ですがこのロンメル将軍、「あの」将軍とは血縁・姻戚関係はありません。
ロンメル将軍ら士官たちは逃げる部下を追って落ち着かせ秩序を回復すると、翌5日早朝ブリュッケナウに到着し、後衛としてリューターに残留していたB軽騎兵第1旅団やデルバッハへ派遣していた胸甲騎兵2個中隊も前後して到着したため5日夕刻には重騎兵旅団の殆どと軽騎兵第1旅団がブリュッケナウで合同し、先行した軽騎兵第2旅団はこの5日、キッシンゲン(ゲルスフェルトからは直線でも南南東に30キロ。相当早い行軍です)に至りました。
一方、B騎兵を脅かした普軍バイヤー師団はこの4日、B騎兵と遭遇したヒューンフェルドで野営に入り、フルダ警戒の前衛をリュッカース(ヒューンフェルドの南3.5キロ)に出すと共にフルダ方面の偵察とB騎兵の動向を探るため強行偵察隊を南方に派遣しますが、B騎兵に出会う事はありませんでした。
つまりバイヤー将軍はB軍と接触したことでフルダ入りを師団全力で行うことを画策し、前衛をヒューンフェルドで留め師団残部が到着するまでフルダ方面を警戒させたのです。つまりB軍タクシス将軍は「幻の普大軍が来る」との虚報により逃れるようにフルダを去ったのでした(結果的にカール公の命令に合致しましたが)。
マントイフェル師団は主力がヴァッカに、前衛はシュタットレングスフェルト(ヴァッカからは南東へ9キロ)に至り宿営に入ります。
ゲーベン師団は既述通りダーンバッハとガイサに分かれて宿営するのでした。
アレクサンダー将軍率いる連邦第8軍団は4日、殆どが休養・補給日として3日と同じ場所で宿野営し、ただ墺軍とナッサウ公国軍の合同師団、連邦歩兵第4師団(師団長フォン・ナイペルグ中将)だけが「7日までにフルダへ至るように」との命令に従い行軍を続けこの日はランシュタット(フルダからは西南西へ直線で53キロもあります)に至り宿営しました。
アレクサンダー将軍の軍団中、既述通りヴュルテンベルク軍の前衛支隊(猟兵1個大隊主幹)がフルダ至近(10キロ)のグローセンルーダーにあり、ヘッセン大公国師団もリックフェルト(フルダの西20キロ)にありましたが、将軍はB軍タクシス将軍からの「催促」があっても当初の計画を変更せず、「明日行軍を始め夕刻にフルダへ入城する」とするのでした。
これも無理はなく、連邦第8軍団は全ての部隊が総司令官カール公の命令に振り回され、この数日は強行軍が続いており、ヘッセン師団とヴュルテンベルク師団こそフルダ近郊へ達したものの残り半数のバーデン大公国師団と第4師団は未だ遠方で、アレクサンダー将軍は軍団を出来るだけ割ることなく普軍と対したいとしてこの日は「ブレーキ」を掛けていたのでした。




