ダーンバッハの戦い(前)
☆7月4日黎明時
普マイン軍総指令、エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将は3日深夜、アウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン中将率いる普第13師団の前衛、ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー少将率いる普第25旅団がB軍と接触しロスドルフ付近とダーンバッハで少時戦闘となったとの報告を受けます。
その報告によればB軍の部隊は「フェルダ川(バイエルン国境付近エルベンハウゼン近郊を源流としカルテンノルトハイム~ダーンバッハを経てドルンドルフでヴェラ川に合流する支流)の渡場複数を掌握し、その主力はナイトハルツハウゼン(ダーンバッハの南4キロ)とロスドルフ周辺にあり」とのことでしたが、ファルケンシュタイン将軍は「これは多くとも1個師団程度の兵力でマイニンゲン周辺に集合しているB軍主力から派遣された前衛であろう」と信じ、「これらの敵は孤軍でありフルダに向かう我が行軍には大きな脅威にならない」と断じると、「明日(4日)も引き続きバイヤー、マントイフェル両師団所属諸隊はフルダを目標に行軍し、(B軍に対する)側面援護はそのままゲーベン師団が担うよう」命令を下すのでした。また、ゲーベン師団に対しては別に「4日朝にロスドルフとフェルダ沿岸のB軍師団に対し攻勢を仕掛け、これを撃退した後、本軍を追ってフルダ方面へ向かえ」と命じるのです。
ところが。
このB軍は「師団」どころではなくB軍団(4個師団)そのものだったのです。
☆北部の戦闘〜ロスドルフの戦い
クリスチャン・フォン・ゲーベン中将は4日早朝5時、この日の師団命令を発し男爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ウランゲル少将の第26旅団(この時点で歩兵6個大隊・砲兵2個中隊・驃騎兵3個中隊の「三兵種混成支隊」となっています)に対しオエクセンからウンターアルバ(ダーンバッハの北北西1キロ)まで前進を命じ、旅団をウンターアルバで出迎えると午前8時、「ヴィーゼンタール(ダーンバッハの南東3.5キロ)を攻撃し当該地のB軍を撃退せよ」と命じました。
この少し前(午前7時頃)、ゲーベン将軍はダーンバッハで麾下と共に一夜を明かしたフォン・クンマー少将に対し、「旅団を二つに分け、一支隊をナイトハルツハウゼン及びツェラ(ナイトハルツハウゼンの西南西1.5キロ)に派遣し当該地のB軍を撃退せよ」と命じました。
クンマー将軍は命令を受領すると歩兵2個大隊と砲兵1個中隊をダーンバッハ守備に残留させると、歩兵4個大隊・砲兵1個中隊・驃騎兵(第8連隊)2個中隊を率いてダーンバッハを発ちました。
※7月4日早朝における普第13師団
〇ダーンバッハ残留
*師団本営
*第13「ヴェストファーレン第1」連隊・第1、2大隊
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・歩兵砲第3大隊の1個中隊(12ポンド砲6門)
〇ナイトハルツハウゼン方面へ出撃
*第53「ヴェストファーレン第5」連隊(3個大隊)
*第13「ヴェストファーレン第1」連隊・フュージリア大隊
*驃騎兵第8「ヴェストファーレン第1」連隊の2個中隊
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・後装施条砲1個中隊(4ポンド砲6門)
〇オエクセンからダーンバッハへ
*第15「ヴェストファーレン第2」連隊(3個大隊)
*第55「ヴェストファーレン第6」連隊(3個大隊)
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・歩兵砲第3大隊の1個中隊(12ポンド砲6門)
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・後装施条砲1個中隊(4ポンド砲6門)
〇(シュタット・)レングスフェルトからダーンバッハへ
*騎兵第13旅団本部
*胸甲騎兵第4「ヴェストファーレン」連隊
*野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊・騎砲兵第3、第4中隊
ゲーベン師団に対するロスドルフ方面のB軍はこの朝、ヴィーゼンタールに前夜からB歩兵第6連隊の第1大隊とB猟兵第6大隊が、その後方(東)のロスドルフにはB第4師団のグスタフ・ツェラ少将率いるB第8旅団が、更にその後方エッカートツからシュヴァルツバッハの間にフランツ・アダム・ファウスト大佐のB第7旅団が宿、野営しています。
ダーンバッハに残留したパウル・フォン・ゲルホルン大佐率いる普第13連隊の2個大隊は、クンマー将軍から「ダーンバッハに残留」して「ツェラへ向かう旅団主力の側面及び後方を確保する」ことを命じられていました。ところが2日前の深夜にインメルボルンでアルドッサー大佐とやり合ったゲルホルン連隊長は、主力の南下を見送った直後の午前8時、攻撃に加われなかった悔しさかそれとも功を焦ったか、この命令を「拡大解釈」して「積極的防御で付近の脅威を排除」するとして、ヴィーゼンタールにいると言うB軍の「前衛」を叩いてダーンバッハの防御を完璧にしようとばかりに麾下2個大隊を率いてダーンバッハを出立、フェルダ川を渡り対岸の小部落リンデナウ(ダーンバッハの南東1.8キロ)に入ろうとしました。
ここにはヴィーゼンタールを守るB猟兵第6大隊の前哨がおり、これに気付いた普軍の第1大隊が部落に突進するとB軍猟兵は戦うことなくヴィーゼンタールへ逃れます。この時普軍の第2大隊は行軍速度を維持したまま部落の北を東へ進み続けました。こうして逸るかのように進撃したゲルホルン隊は2キロ先のヴィーゼンタールに迫ったのです。
この頃(午前9時)、ダーンバッハに至ったゲーベン将軍はゲルホルン大佐が「勝手に」部下を率いフェルダ川を越えてヴィーゼンタールへ向かったことを知り、同行していたウランゲル将軍に対し「先の命令(ヴィーゼンタール攻撃)に変更なし。先行したゲルホルン隊を指揮下に加え直ちに実行せよ」と命じました。
ウランゲル将軍はまず、第15連隊の第1大隊とフュージリア大隊(普軍では第3大隊扱いです)、それに第55連隊のフュージリア(以下F)大隊を第55連隊長のヨハン・クリスチャン・アレクサンダー・ストルツ大佐に預けてダーンバッハ守備を命じると、旅団残部(第15連隊第2大隊、第55連隊第1、2大隊)を直率しゲルホルン隊を追うのでした。
ヴィーゼンタールの部落は狭い盆地の底にあり、守備側にとって決して守り易い土地ではなく、部落の死守に拘った場合四面の高所より俯瞰され撃破される恐れがありました。そのため前日この地に至ったB第6連隊第1大隊とB猟兵第6大隊は強力な敵からの攻撃を受けた場合、切りの良いところで後退することを申し合わせており、この時もゲルホルン隊の攻撃を受けると少時激しい銃撃の応酬となるものの、B軍両大隊は戦闘を短時間で切り上げ部落を棄て南方に離脱します。これは時間稼ぎの防戦でもあり、この頃にはロスドルフからヴィーゼンタールを望む東側の高地にB軍の増援が進んでおり、これはB第9連隊の第3大隊と12ポンド滑腔砲1個小隊(2門)でした。B軍の2個大隊も退却しつつ高地に登り合流するのです。
このヴィーゼンタール東方2キロ付近の高地(ロスドルフからは南西へ1キロ強)は「ヌーベルベルク(ヌーベル山。標高約520m)」と呼ばれており、B軍はこの山地尾根南北長500mばかりに布陣するのです。
B軍がヌーベル山に布陣した頃、普軍ウランゲル隊もヴィーゼンタールに到着し、ここでウランゲル将軍はゲルホルン大佐隊を隷下に加えるや、その第2大隊(第13連隊)をロスドルフに向かう街道右(南)の小丘(部落の東600m)に布陣させ右翼と為し、第55連隊の第2大隊を中央街道上に、第15連隊の第2大隊を北方左翼に進めるとこの3個大隊を逸るゲルホルン大佐に任せ、大佐は各大隊に中隊毎の縦隊行軍を命じました(普軍教練通りの攻撃態勢)。
この時ウランゲル将軍は同行した正式化間もないクルップ社製4ポンド鋼鉄後装施条野砲*6門からなる野戦砲兵中隊(ケスター大尉指揮)をヴィーゼンタール北西の1076高地(部落からは800mほど)に布陣させ、「準備出来次第敵陣を砲撃せよ」と命じるのです。ウランゲル将軍は残った第13連隊と第55連隊の両第1大隊と青銅製12ポンド歩兵砲中隊そして驃騎兵3個中隊を部落後方(西)郊外に予備として待機させるのでした。
この新式4ポンド砲の威力は既存の青銅製野砲の比ではなく、約2,500m先に布陣していたB軍に対し正確かつ間断なく榴弾を注ぎ、これに遅れて12ポンド砲中隊6門も展開して砲撃を始めたため、わずか2門で対抗砲撃を行っていたB軍12ポンド砲小隊はたまらず山を下りるのでした。
※4-Pfünder-Feldkanone C/64
口径78.5mm・榴弾の最大射程3,450mで、同系統の4ポンド砲C/61の改良版でした。同じクルップ社製6ポンド鋼鉄後装施条野砲(6-Pfünder-Feldkanone C/64)も同時期に正式化され、こちらは4ポンド砲より強力で口径は91.5mm、榴弾の最大射程は3,750mありました。普墺戦争はこの新型野砲への転換期に発生し、砲兵隊は未だ旧式の青銅製12ポンド滑腔砲や過渡期にあった後装施条砲などが混在して運用されていました。普墺戦後、普軍の師団砲兵隊は全てが4ポンド砲(普墺戦争での経験を活かし改良されたC/67)を「軽砲」、6ポンド砲(同じC/64)を「重砲」としてそれぞれ2個中隊・各中隊6門・計24門で統一されるようになります。
この砲撃戦の最中にグスタフ・ツェラ少将率いるB第8旅団がロスドルフより進撃し、ツェラ将軍はヌーベル山の北側街道上で敵を初めて視認しますが、敵の野砲により一方的に叩かれ続けるだけの自軍を見て唖然としてしまうのです。
ヌーベル山ではヴィーゼンタールから後退していた2個大隊の損害が大きくロスドルフに向けて後退中で、先述通り野砲も山陰に退避していました。ツェラ将軍は直ちにその野砲小隊の親中隊(ハンク大尉の12ポンド滑腔砲中隊)残部6門に退避していた2門を加え8門で街道北の草地に砲列を敷かせ、ヴィーゼンタールの敵砲列への対抗砲撃とこちらへ進みつつある敵歩兵縦隊への砲撃を開始させました。
しかし果敢なゲルホルン大佐指揮による普軍3個大隊は全く怯むことなく前進を続け、やがてドライゼ銃の射程(有効500m)に入ると正確な銃撃もB軍に降り注いだため、ツェラ旅団の各大隊はヌーベル山の北斜面に広がり退避し、ハンク大尉の12ポンド野砲陣も損害が出始めたため一気にロスベルクへ後退するのでした。
ここでローザ(ロスドルフの東北東2.5キロ)に待機していたB第9連隊の第2大隊も前線に到着しツェラ旅団は全力となりましたが、普ウランゲル旅団は既にヌーベル山西麓を登り始めており、森が邪魔となりB軍は狙撃も儘ならなくなっていたのでした。
ヌーベル山奪取に向かう第15連隊第2大隊とリュストウ少佐(大隊長)
散発的に銃撃戦が行われる中、午前11時30分にB第4師団長ヤコブ・ミヒャエル・カール・リッター・フォン・ハルトマン中将がロスドルフを越えて前線に到着し、勇猛果敢で知られる将軍は退却し待機状態にあった各大隊を叱責して合流させ、弱気になっていたツェラ旅団を奮起させると自ら先頭に立ち、ヌーベル山を奪還すべく斜面を登り始めました。
しかし「時すでに遅し」で、ウランゲル将軍はヌーベル山頂尾根を完全に占領し歩兵を山林の陰に展開させると、12ポンド歩兵砲中隊をヴィーゼンタール南郊外の高地まで前進させて砲列を敷かせ、B軍が集合して登って来るのを準備万端待ち構えており、B軍歩兵が斜面に取り付くや否や猛烈な銃砲撃を浴びせるのでした。さすがのハルトマン将軍も無茶は出来ず、直ちに攻撃を中止すると各大隊をロスドルフに向け退却させたのでした。
ヌーベル山での戦いが佳境に入る頃、ロスドルフ以南で分宿していたファウスト大佐率いるB第7旅団もハルトマン将軍から戦場へ進軍せよとの命令を受け、ちょうどツェラ旅団がロスドルフに向け後退し始めた頃(午後12時過ぎ)に旅団先鋒となったB第5連隊第1大隊がロスドルフを通過、西郊外に至ります。ファウスト大佐はこの大隊を直率しヴィーゼンタールへの街道を西へ進みますが、ヌーベル山上の普軍はこの大隊にも猛烈かつ正確な銃砲撃を加え、浮足立ったB軍大隊は一時立ち往生してしまい、馬上のファウスト大佐はドライゼ銃の一弾に頭を撃ち抜かれ即死、傍に控えていた副官のフォン・アウジン中佐も銃弾を浴びて戦死してしまうのでした。
旅団長の戦死とツェラ旅団兵の敗走を見たこの大隊の兵士も容赦なく降り注ぐ銃弾から逃げ惑い、遂には潰走してしまうのです。前線で動揺する将兵に檄を飛ばしていたハルトマン将軍でしたが、午後12時15分、片腕と頼む旅団長の戦死と普軍の猛烈な銃撃を前に進撃を断念、全軍ロスドルフに引き上げ守勢に回ることを決断し、前線で踏み止まっていた将兵に後退を命じ、諸隊を一旦ロスドルフ東郊外まで下げて集合させ、後、部落周辺に再配置するのでした。
※午後12時30分頃のB軍ロスドルフ防衛陣
〇ロスドルフ城館(市街に現存します)とその北周辺
*B第5連隊第3大隊
〇ロスドルフ北方1150高地
*B第13連隊第1大隊
〇ロスドルフ南方高地(ヌーベル山対面)
*B第13連隊第2大隊
*B猟兵第8大隊
〇ロスドルフ東郊外
*B騎兵第6連隊
*ハンク12ポンド滑腔砲中隊
ヌーベル山に進撃するバイエルン歩兵第5連隊第1大隊
午後1時。遅れていたケーニガー大尉率いる6ポンド施条砲中隊(砲8門)がロスドルフの南東方にあるホーフベルク(ロスドルフ南東1キロ強。ホーフ山)に砲列を敷き、ちょうどロスドルフ攻撃のため樹林から出ようとしていた普軍に砲撃を加え、これを撃退することに成功します。
敵が慌てて林間に逃げ込んだのを望見したハルトマン将軍は、この隙にケーニガー砲兵中隊をヌーベル山と街道を挟んで対面する1236高地(ロスドルフの北西1キロ余り)に陣地転換させ、退避していたハンク砲兵中隊にも前進を促し合流展開させると、先ずはヴィーゼンタール南方で盛んに砲撃を繰り返す普軍の12ポンド砲中隊を目標に砲撃を開始させたのです。この合計16門の砲撃により普軍砲陣には損害が続出し、やがて普軍砲列は沈黙してしまうのでした。
この間、打撃を受けたツェラ旅団諸大隊もロスドルフ近郊で集合を終え殆どの部隊が秩序を回復したため、ハルトマン将軍は「反撃に転じる時が来た」と信じ、損害が大きかったB猟兵第6大隊にロスドルフ守備を命じ、当座出る幕のない騎兵たちを部落後方(東方)警戒に置くと午後2時頃、師団のほぼ全力、歩兵10個大隊を集合させ、高地から6ポンド施条砲2個小隊(4門)を呼んで歩兵に加えると、これらを自ら率いてヌーベル山攻撃を開始するのでした。
普軍砲兵の脇をダーンバッハに後送される普軍負傷兵(正面にヌーベル山)
この時、ヌーベル山上ではウランゲル将軍がこちらもロスドルフ攻略に向け諸隊に準備をさせていました。標高が僅かに高いだけ(約50m)で僅か1500m先に16門の砲列を敷かれ、先ほども攻撃の出鼻を挫かれたはずのウランゲル将軍でしたが、ここで強気に前進を企てたのは一説によると「敵の砲撃と自軍の砲撃が付近の高地に反響し、これが北東方から聞こえたためこの日はヴェラ河畔を目指し前進しているはずのマントイフェル師団が急行軍で近くまで来ている、と信じたから」(墺参謀本部編「普墺戦史」ほか)とのことでした(筆者は眉唾と考えます)。
正に両軍激突、と思われましたがこれは未遂に終わります。何故なら、午後2時前後ウランゲル将軍の下にゲーベン師団長からの伝令が到着し、それに因れば「直ちに戦闘を止めダーンバッハに後退せよ」とのことだったのです。
ウランゲル将軍にすればブレーキを掛けられた思いだったでしょうが、命令は命令です。将軍はヴィーゼンタールに控えていた第55連隊の第1大隊、12ポンド砲兵中隊、そして驃騎兵3個中隊を山上に呼んで後衛とし、攻撃寸前だった歩兵4個大隊(第13連隊第1、2大隊、第15連隊第2大隊、第55連隊第2大隊)を順次撤退させるのでした。
午後3時。ハルトマン将軍は麾下と共にヌーベル山頂に達しますが、その道中も山上にも敵はいません。普軍後衛も短時間山上に留まった後、ウランゲル将軍を追って山を下り、既にヴィーゼンタールに達していたのです。ハルトマン将軍は追撃隊を組織して普軍を追わせますが普軍後衛はこれを撃退し西へと去っていったのでした。
ここで日も傾き、またハルトマン将軍にもB軍本営からカール公の命令が届き、「速やかにオーバーカッツ(ロスドルフからは南に11キロ)まで行軍せよ」とのことで、ハルトマン将軍は歩兵3個大隊と騎兵連隊そしてケーニガー砲兵中隊をヴィーゼンタールとロスドルフに後衛として残留させると、師団残りを率いてオーバーカッツに向かい深夜11時現地に到着します。後衛も夜間に任地を離れ翌朝6時30分、無事オーバーカッツで師団に合流するのでした。
普軍ウランゲル隊はそのままダーンバッハに下がり、ここで後衛を迎えると命令によりガイサ(ダーンバッハからは西に12キロ)に向かい深夜半、現地に到着するのでした。
この「ロスドルフの戦い」で、普軍は戦死が士官5名・下士官兵32名、負傷が士官5名・下士官兵208名、行方不明(多数が捕虜)が下士官兵20名、B軍では戦死が士官9名・下士官兵33名、負傷が士官18名・下士官兵274名、行方不明(多数が捕虜)が下士官兵39名でした。
この戦死者の中には普軍の第15連隊第2大隊長で小銃の開発と研究で有名だったツェーザル・リュストウ少佐*がいます。少佐はヌーベル山奪取の際、大隊の陣頭で指揮中腹部に銃撃を受けてしまい転倒したところ頭部にも銃弾が当たり、包帯所に運ばれますが既に死亡していたのです。またB軍の戦死者には既述のファウスト大佐とアウジン中佐が含まれています。
なお、命令を「拡大解釈」しヴィーゼンタールに向かったゲルホルン大佐がゲーベン将軍やファルケンシュタイン将軍から叱責や説諭を受けたとの記録は見当たりません。この辺り、委任命令(目的さえ違わなければ独断も許される)が普軍に浸透し始めている証拠(当時の他国軍なら下手をすれば軍法会議ものです)としたら考え過ぎでしょうか。
こぼれ話
リュストウ家の三兄弟
ヌーベル山麓に斃れた普第15連隊第2大隊長のツェーザル・リュストウ少佐は1826年6月18日ベルリン西郊外の古都、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに生まれます。
中流家庭に生まれ育った彼には5歳上の長男ヴィルヘルム、2歳上の次男アレクサンダー二人の兄がいました。
この三兄弟は全員が軍事研究で歴史に名を遺し、また三人共にプロシア陸軍の士官でした。またツェーザルはオルド自由主義(自由主義経済を維持しつつ野放しな経済活動を国が制限し秩序を保障するという考え方)の先駆者で20世紀前半に活躍する経済学者、アレクサンダー・リュストウの祖父でもあります。
ツェーザル(英語読みなら「シーザー」です)は13歳でプロシア軍士官学校に入校し、1843年(17歳)、卒業しエアフルトの第32「チューリンゲン第2」連隊に少尉心得として入隊しました。1849年(23歳)、彼はプロシア軍の施条小銃生産を監督・研究するための査察士官として「銃火器製造の故郷」、チューリンゲンのズール(マイニンゲンの東20キロ)に派遣され、この地で見初めた小銃販売業者の娘、エミリー・フリーデリケ・ヨハンナ・シュパンゲンベルクと1851年10月9日に結婚しました。結婚生活は平穏で息子2人と娘1人が生まれますが、妻エミリーは1859年6月30日、28歳の若さで結核により亡くなってしまいます。技術畑の軍人として出世の階段を昇り始めていたツェーザルに代わり、子供たちは祖父母に育てられます。
この間、まだ若い(30歳前後の)ツェーザルは日進月歩で急速に技術革新を遂げていた施条小銃の専門家と目されるようになりました。ツェーザルは革新的で速射に優れていたものの未だ発展途上のドライゼ小銃より、旧来の前方装填方式ながら射程と安全性では優位で、なにより兵士たちが慣れ親しんでいた旧来の扱い方に近いミニエー銃に注目し、彼の助言もあってクリミア戦争中、18ヶ月間におよそ30万挺の普王国製旧式前装小銃がミニエー銃に改造されました。このこともあり、ツェーザルはズールの銃火器製造各社から信頼を勝ち取り、プロシア王立小銃導入委員会の会長に就任するのでした。
ミニエー銃が世界標準となった1850年代、ツェーザルはこの小銃の世界的な権威と認められ、その論文はヨーロッパの各国軍でも参考書として扱われるようになります。
プロシア軍部は長らくズールで銃火器製造責任者として勤務していたツェーザルを召喚し、彼はエアフルトの軍事学校に教官として赴任しました。1857年には小銃や火器に関する代表的著書を数冊発行し、これはロシア陸軍でも教本として使用されています。
1862年(36歳)、大尉に昇進したツェーザルは参謀本部所属としてケーニヒスベルク在の第1師団参謀となり、66年春には少佐に昇進すると共に第13師団に異動、第15連隊第2大隊長となります。
直後普墺戦争勃発でゲーベン将軍の下、西部戦線で作戦参加、運命の日を迎えたのでした。
ツェーザルの遺体は連隊と共にガイサに運ばれこの地で葬られます。その墓の隣には同じヌーベル山麓で戦死したB軍ファウスト少将(戦死後昇進)の墓もあります。彼らは現在も同じ墓地で眠っています。
ツェーザル・リュストウ
次兄のアレクサンダーも普軍士官として軍事研究の論文を多く出版し、2回のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で活躍、デュッペル堡塁の戦いでの軍功により剣付き赤鷲勲章四等を授与されます。66年2月、弟とほぼ同じ時期に少佐昇進しフォン・ビッテンフェルト大将率いるエルベ軍の砲兵大隊長(砲兵第8「ライン」連隊所属)としてボヘミア北部で墺北軍と戦いますがケーニヒグレーツ会戦中に片脚切断の重傷を負い弟に遅れること20日余り、7月25日ホジツェ(プラハの東北東91キロ)の軍病院で亡くなります。享年42歳。
アレクサンダー・リュストウ
そして長兄のヴィルヘルムは弟たちと同じくプロシア軍に仕官し軍事問題の研究書を出版し有名となりますが、その内容は弟二人と違い革新かつ過激で人民軍の構想を標榜し、急進自由主義者として軍に睨まれてしまいます。ヴィルヘルムは48年のドイツ革命で人民革命側に立ってしまい革命が失敗した後、反逆罪の疑いで数回の軍法会議に掛けられ軍を追われ収監されますが脱走、スイスに亡命します。この地で仕官した後、イタリア統一戦争で最初はジュゼッペ・ガリバルディの参謀長、後に南部軍の左翼軍団司令官として両シチリア(ナポリ)王国軍と戦い勝利、イタリア統一を見届けた後、スイスに帰国しスイス軍の参謀本部勤務や軍学校で教鞭を執ったりしますが、ここが彼の頂点で、その後は経済的に困窮し普仏戦争で普王国軍に復帰を目指すも失敗、スイス連邦工科大学の教授職に推されるものの、これも撤回され1878年8月、失意の彼はチューリッヒの自宅で拳銃自殺をしてしまうのでした。享年57歳。
スイス軍の軍装を着用するヴィルヘルム・リュストウ




