プロシア・マイン軍の登場
独連邦「諸侯」軍総司令官、B王国元帥カール侯爵は7月2日の時点で連邦第7(B軍)、連邦第8(独西・南諸侯軍)両軍団の合流・統一指揮を望みますが、この日はB軍歩兵の右翼(西/第3師団)がオーバーカッツ(マイニンゲンの北西14キロ)に、連邦諸侯軍の左翼(東/He師団左翼前衛)がラウターバッハ(ギーセンの東51キロ)に、とその距離は直線でも60キロ、双方歩み寄ったとしてもフルダ東方高地の山地行軍を考えればまだ2日の行軍距離にありました。
普王国軍エドゥアルト・エルンスト・フリードリヒ・ハンニバル・フォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン歩兵大将率いるマイン軍*がこの機会を捉え、フルダ方面に進出し連邦両軍団を分断出来れば、普軍はその後主導権を握り、内線の利を活かして各個撃破を狙うなど有利に戦いを進めることが出来るはずでした。
※マイン軍
それまでは「ファルケンシュタイン軍」や「普西軍」など非公式に呼ばれていたファルケンシュタイン将軍麾下の普軍3個師団が、正確には何時から「マイン軍」と呼ばれるようになったのかは分かりません。普墺双方の公式資料では「66年7月初めころから」または「ランゲンザルツァ戦直後の6月29日から」そう呼ばれ出した、とあります。またこの名称は当時正式なものではなく、ファルケンシュタイン将軍かその周辺にいた幕僚等が「この先マイン川流域が戦場となり目標となる」としてこの名を付けたものと言われます。戦後の9月20日に普国王ヴィルヘルム1世が「マイン軍の記念十字章1866」を制定し、マイン軍に従軍し主な戦闘に参加した一般兵士に授与されたことで軍の正式名称とされました。
後述となりますがこの7月2日の時点で普軍はその主力・第一、第二、『エルベ』の三個軍により連戦連勝、結果ザクセン王国と墺領ベーメン地方の主邑プラーク(独語。現プラハ)とベーメン北部一帯を制圧、墺の要衝ケーニヒグレーツ要塞都市(現チェコのフラデツクラーロヴェー。プラハの東100キロ)前面のクルム高地に集合展開する墺北軍と一大会戦を行う直前に在りました。
これと先のハノーファー王国軍全面降伏により、普マイン軍も相当士気が上がっていたものと想像され、この波に乗った普軍とこれから戦わなくてはならない独連邦軍の気持ちを一言に表せば、正に「憂鬱」であったろうと、これもまた容易く想像出来るのです。
実際この2日、連邦第7「B」軍団本営と連邦第8軍団本営にはそれぞれウィーンより電信が届き、そこには、
「我が北軍は未だ敵との一大決戦に及んではいないものの、その配下軍団は個々に普軍と対戦しこれは連戦連敗しあり。対して(東西に分かれていた)普軍は今や合同する位置にまで迫り、この勢いをすればやがて北軍はベーメンを棄てて退くに至るだろう」
等と言うなんとも情けなく弱気な状況が記されていたのです。
一方、普マイン軍はハノーファー軍をランゲンザルツァで降伏(6月29日)させた後、その市内と周辺部にて宿・野営しますが翌30日にはその主力がアイゼナハとゴータ両市に集合し、その数は歩兵42個大隊(14個連隊規模)、騎兵22個中隊(5個連隊半)、砲兵16個中隊(新式施条砲49門、旧式滑腔砲48門)、工兵2個中隊で総計43,000名前後とされ、鹵獲されたハノーファー軍の架橋・工兵用資材は この先マイン軍の先鋒となりそうなアウグスト・カール・フリードリヒ・クリスチャン・フォン・ゲーベン中将率いる第13師団に加えられ(他にバイヤー師団の第19「ポーゼン第2」連隊が移籍)、他の師団に比べ砲兵が少数だったグスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー少将の「要塞守備隊混成師団」には12ポンド滑腔砲2個(第10、11)中隊が加入しています。
この一時停止期間中、ファルケンシュタイン将軍は幕僚たちと共に今後の作戦を考えますが、ここで普大本営のモルトケ参謀総長より電信が届き、その骨子は、「今時戦局全般を俯瞰すれば、独連邦軍の中核が墺本国軍であるのと同じく独南西部連邦軍の中核がB王国軍であることは明白だ。もし貴殿の軍(マイン軍)が先ずカッセル(西)方面に動き続いてフランクフルト(南)を陥落させようと動けば連邦第8軍団はマインツ要塞(西)に向けて退避し戦おうとせずに籠城してしまう可能性がある。ここで貴殿と麾下がフルダ(南西)へ進んだ後にシュヴァインフルト(フルダからは南南東へ69キロ)へ進み、B王国に侵入すれば必ずB軍と遭遇するばかりか連邦第7(B)軍団と同第8軍団との合流を妨げることにもなるだろう」という事で、モルトケはマイン軍の今後の作戦を教唆するのでした。
つまり、連邦第8軍団を追えばマインツで要塞攻城戦となり、この対処には間違いなく時間が掛りその間、後方からB軍団が迫るはずで、これでは自ら「挟み撃ち」を招くようなもの、ならば一度南西側のフランクフルトに向かうと見せかけて諸侯軍を警戒させてから一気に南東シュヴァインフルト方面に変針すれば各個撃破を狙うことが出来るだろう、という、その先にあるニュルンベルク・即ちB王国核心部への進撃までも想像させる作戦でした。
ランゲンザルツァ戦の前日談、ハノーファー王国の諜略段階から「モルトケに睨まれていた」ファルケンシュタイン将軍としては、その時フランクフルトに向かおうと考えていたとしてもモルトケ「案」を採用するしかなく、将軍は幕僚に対し「先ずはフルダを目指し行軍、その後シュヴァインフルトに向かう」との方針を伝え、行軍計画を至急作成するよう命じたのでした。
7月1日。マイン軍はこの目的に沿って行軍を開始、それまでの行軍と戦闘で親部隊から離散または錯綜した部隊・人員・機材はこの行軍と同時進行で原隊復帰させます。
この日バイヤー混成師団はラウッフレーデン(アイゼナハの西12キロ)とバルカ(同北北東9キロ)を結ぶ線上各部落に進んで宿営し、前衛支隊を編成するとヴェラ渓谷へ向かわせ、この部隊はドルンドルフ(ラウッフレーデンの南18キロ)とハルンローデ(ドルンドルフの西8キロ)間、即ちヴェラ渡河点で交通要衝の地ヴァッハを望むヴェラ右岸まで進みました。
ゲーベン将軍の普第13師団はマルクズール(アイゼナハの南西11キロ)とヴィルヘルムスタール城館(マルクズールの東7キロ。現存します)の間に進んでその街道筋に宿営し、同じく前衛支隊を編成するとヴェラ渓谷へ向かわせ、ドルンドルフで右翼をバイヤー師団前衛と連絡すると左翼をバルヒフェルト(ドルンドルフの東南東15.5キロ)近郊まで伸ばしてヴェラ河畔を監視、男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル中将率いるシュレスヴィヒ師団は同じヴェラ河畔でも遠く下流のトレフフルト(アイゼナハの北19キロ)とエーベンスハウゼン(同北12.5キロ)間部落に分散宿営し、マントイフェル将軍麾下・ランゲンザルツァで戦ったエデュアルト・モーリッツ・フォン・フリース少将率いる分遣旅団は再編成と補充を兼ねてゴータ近郊のフレーットシュテット(ゴタの西9キロ)からケルバーフェルト(フレーットシュテットの西8キロ)間で宿営しました。
☆7月2日・「インメルボルンの遭遇戦」「ヴィーゼンタール、ロスドルフの斥候戦」
7月2日。
普軍のバイヤー師団は慎重にヴェラを渡河して左岸(ここでは南岸)ヴァッハ(アイゼナハからは南西へ27キロ)に進み、斥候をガイサ(ヴァッハの南13.5キロ)とレングスフェルト(現・シュタットレングスフェルト。ヴァッハの南東9キロ)間に広く放ちました。
同じくゲーベン師団はティーフェンオルト(昨日の宿営地マルクズールからは南へ9キロ)に進んでヴェラ河畔に至り、前日からヴェラ河畔に沿って広く展開していた前衛諸隊はレングスフェルトやシュマルカルデンに至る街道筋を偵察しました。
マントイフェル師団は本隊がマルクズール、フリース旅団がアイゼナハと分かれて宿営し、ファルケンシュタイン将軍は本営をアイゼナハからマルクズールへ移しました。
こうしてこの2日、普マイン軍はフリース旅団以外の部隊がアイゼナハより南方に進み出ます。大まかに言えば右翼(西側)にバイヤー師団、左翼(東側)にゲーベン師団、後方にマントイフェル師団という態勢でヴェラ河畔に至りますが、至近には連邦軍、特にB軍の前衛が張り込む諸部落があり、前衛や斥候同士が衝突する事態となるのです。
同2日。
B第4師団の前衛支隊(B第9連隊2個大隊と同軽騎兵第6連隊2個中隊)は同第9連隊長アルドッサー大佐が率いて重要なヴェラ渡河点ヴェルンスハウゼン(マイニンゲンの北17.5キロ)に居座り、ここに早朝マイニンゲンから「シュマルカルデンから(バート・)ザルツンゲンに掛けて斥候騎兵を放ち敵を捜索せよ」との命令が下ります。これは前日からこの黎明にかけて、ゴータからアイゼナハ方面に向かった斥候たちが地元住民から聴取した敵情や噂、これら斥候自らが敵を発見出来なかったことなどからB軍本営が「普ファルケンシュタイン軍はテューリンゲンの森山地を避け、西に迂回しヴェラ下流域に進んだのでは」と推察した結果でした。
大佐は直ちに斥候をヴェラ川に沿って派遣しますが、帰って来た騎兵達は口を揃え「敵は見ませんでした」と報告するのです。
そのまま時が過ぎ午後8時30分。
B軍でも「猪突猛進型」の恐れ知らずで知られていたアルドッサー大佐は「敵は必ず近くまで来ているはず」と信じ「今なら普軍を発見出来るのでは」と考え、第9連隊の1個中隊と半個(2個小隊)、そして軽騎兵第6連隊の1個中隊(約90騎)を直率し、歩兵250名余りは馬車に乗車、ヴェラ右岸(ここでは東岸)に渡ると下流に向けて進みました。
大佐隊は途中ブライトゥンゲン(ヴェルンスハウゼンの北4.5キロ)を過ぎ、更に4.5キロ北のバルヒフェルトを目指しますが、グルムバッハ(ブライトゥンゲン北郊外の街道沿い家屋群。現存します)に至ると前方警戒で進む先鋒騎兵が戻り大佐に「この先に野営火が見えます」と報告したのです。
アルドッサー大佐が確認すると、約3キロ先、バルヒフェルトの西側で確かに野営の灯が見えました。大佐は歩兵を下車させると馬車をその場に置き去り、「この先粛音で進む」とバルヒフェルトに忍び寄りました。
ところが、大佐隊がバルヒフェルトの部落内に進んでも敵は発見出来ません。ヴェラ対岸のインメルボルン(バルヒフェルトの西1.5キロ)周辺には正体不明の部隊がいる可能性大でしたが、大佐は更に先を偵察し敵を探ることにして1個小隊の歩兵をバルヒフェルトに残して先に進み、3キロ北へ進んでヴィッツェルローダ(小部落)に至りましたがここにも普軍はいませんでした。
大佐は「敵はヴェラ東岸ではなく西岸にいる」と確信しバルヒフェルトに引き返しますが、この間にバルヒフェルトに残していたB軍歩兵1個小隊は普軍の前衛斥候隊(中隊規模と伝わります)と遭遇、銃撃戦となったのです。
この普軍部隊はゲーベン将軍の普第13師団麾下ルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー少将率いる第25旅団の第13「ヴェストファーレン第1」連隊(連隊長パウル・フォン・ゲルホルン大佐)第1大隊(ヴェストファーレン州都ミュンスターの部隊です)から派出した斥候隊で、ティーフェンオルトに進んだゲーベン将軍からシュマルカルデンに至る街道を偵察せよと命じられていたのです。
この部隊は普軍で最も左翼(東側)に進んだ隊で、エットマールスハウゼン(バルヒフェルトの西2キロ付近にある小部落)を過ぎた所で大休止の野営に入っていました。先ほどアルドッサー大佐が発見した野営火はこの部隊のものと思われます。ヴァラ対岸を警戒していたバルヒフェルトのB軍小隊がこの部隊を発見したのか、それともこの普軍中隊がB軍の存在に気付いたのか、どちらが先に発見し発砲に至ったのかは不詳です。
銃声を聞いたアルドッサー大佐は部下と共に急ぎバルヒフェルトに戻り味方小隊を収容すると、暗闇を利して普軍部隊を奇襲しようとヴェラを渡河してインメルボルンへ突進しますが、ここで味方を救うため普軍1個中隊が駆け付けたため、一時激しい銃撃戦となりました。
奇襲に失敗したアルドッサー大佐はそれでも漆黒の闇の中、銃火だけが眩しいインメルボルンの部落で奮戦しますが、相手の規模も分からず戦い続けるには限界があり、大佐は自身銃撃を浴びて腕に負傷したこともあって部下に退却を命じました。B軍が退却したことをミュンスターの将兵も気付きますが、こちらも暗闇では深追い出来ず、また敵と接触したことで斥候任務は完了した、としてB軍の増援が来る前に本隊へ帰還するため反転し、この戦争最初の普軍とB軍の戦闘は短時間で終了したのでした。
「インメルボルンの遭遇戦」で普軍は負傷4名(うち1名重傷)を報告し、B軍は戦死が下士官兵3名・負傷が大佐を含む士官4名、下士官兵10名を報告しています。
インメルボルン(20世紀初頭)
この2日夜から3日黎明前にかけてはインメルボルン以外の数ヶ所でも普軍の強行偵察隊とB軍前哨が接触しています。
バイヤー師団所属の第32「チューリンゲン第2」連隊は左翼前衛となってレングスフェルト(現・シュタットレングスフェルト。前述)を目指し南下しますが、この2日夜、連隊長のクルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン大佐は1個小隊の歩兵(30名程度)と同行していた驃騎兵第9「ライン第2」連隊の1個中隊から半個小隊(10騎前後)を借りて夜間斥候を出し、彼らはB軍の前線を求めレングスフェルトを越えて更に南のダーンバッハ方面まで進み、一部はヴィーゼンタールやロスドルフ(どちらもダーンバッハ東方の小部落)まで進みます。しかしこの地にはグスタフ・ツェラ少将のB第8旅団前衛が進んでおり、ここで普軍斥候たちは各所同時多発的にB軍の前哨に遭遇し短時間ですが激しい銃撃戦となります。やがて普軍斥候隊は明らかに員数が多いB軍を前に深入りせず退却しました。
この「ヴィーゼンタール、ロスドルフの斥候戦」ではB軍側に戦死1名・行方不明1名(捕虜です)の損害が発生しています。
☆7月3日(前)
この日も普マイン軍はフルダ方向への行軍を続けます。
ファルケンシュタイン将軍は本営と共にマルクズールを発ち、夕刻までにヴェラ河畔でヴァッハ対岸のフィリップシュタール(マルクズールからは南西16キロ)に到着しました。
同3日、バイヤー師団は三個の支隊に分かれ、ヴァッハ周辺から南下しそれぞれブットラー(ヴァッハの南南西9キロ)、ガイサ(ブットラーの南4.5キロ)、ラスドルフ(ガイサの西3.5キロ)に進みました。
ゲーベン師団は旅団毎に分かれ行軍し、クンマー少将率いる第25旅団は(シュタット・)レングスフェルトから昨日B軍との接触があったダーンバッハを目指し、ウランゲル少将率いる第26旅団はティーフェンオルトを発つとクンマー旅団を追う形でその右翼側を進み午後遅くオエクセン(ダーンバッハの北西5キロ)に至り、同師団の騎兵、アレクサンダー・ベルンハルト・フォン・トレスコウ少将率いる騎兵第13旅団は(シュタット・)レングスフェルトで宿営に入ります。
普マイン軍の「後衛」となったマントイフェル師団は主力前衛がマルクズールに達し、翌4日にはヴェラ河畔に至ること確実になるのです。
一方B軍では、昨夜前衛が普軍と接触、戦闘に至ったB第4師団長フォン・ハルトマン中将が「普軍はゴータから南西に迂回し今やヴェラを渡河して南下している」と確信し、昨日インメルボルンで戦ったアルドッサー大佐にヴェラ渓谷内で渡河点となるヴェルンスハウゼン、シュヴァルンゲン、ヴァウンゲンの防衛と後衛を任せ、後方連絡といざというときのための退却路を確保すると、本隊は昨日斥候が敵偵察隊と接触したロスドルフ周辺に進んで南北に展開、敵の出方を探ることにしました。
ロスドルフに先着したのはB第9連隊第3大隊(アルドッサー大佐麾下の大隊ですがこの時は師団直属で別動しています)で、この大隊は前夜エッカートツ(ロスドルフの東南東3キロ)で宿営していたため先行しロスドルフに着いています。この大隊から、斥候隊が黎明時に接触した敵が去ったウルンスハウゼン(ロスドルフの北西4.5キロ)に向けて進むと、ちょうど普クンマー旅団前衛も斥候を派出しており、普B両軍斥候はダーンバッハへの街道上で遭遇し短時間銃撃を交わし離れました。
この頃、ダーンバッハにはそのクンマー旅団前衛が入り始めていましたが、普軍は先の斥候以外B軍兵士を見掛けていませんでした。実は早朝までこの街にはB第5連隊第3大隊が駐屯していたのですが、この朝、命令によりローザ(ロスドルフの東北東2.5キロ)を目指し行軍してしまい、この代わりにダーンバッハにはB第6連隊第1大隊が入るはずでしたが未だ到着せず、期せずして間隙を突き普クンマー旅団兵が街を無血占領してしまったのでした(後述します)。
ロスドルフでは午後早く、フランツ・アダム・ファウスト大佐率いるB第7旅団本隊(歩兵4個大隊、騎兵1個中隊、12ポンド滑腔砲中隊半個4門)も到着し、しばらく後にハルトマン将軍が師団本隊を率いてロスドルフ周辺に展開、ファウスト大佐隊はその南方に展開し宿営に入るのでした。
※7月3日夕刻・B第4師団の展開
〇ロスドルフとその周辺
*師団本隊/第8旅団(旅団長グスタフ・ツェラ少将)
・猟兵第8大隊
・歩兵第5連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・歩兵第13連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・軽騎兵第6連隊の2個中隊
・12ポンド滑腔砲2個小隊(砲4門)
〇ローザ
・歩兵第5連隊第3大隊
〇エッカートツ、ヒューンプファースハウゼン(エッカートツの南南西3.5キロ)、シュヴァルツバッハ(同南南東3.5キロ)
*第7旅団(旅団長アダム・ファウスト大佐/旅団本営はエッカートツ)
・猟兵第6大隊
・歩兵第4連隊第2大隊
・同連隊第3大隊
・歩兵第9連隊第3大隊
・12ポンド滑腔砲2個小隊(砲4門)
〇ジンナースハウゼン城館(ヒューンプファースハウゼン北西郊外。現存します)
・師団本営
・工兵等直轄部隊
〇ヴェルンスハウゼン、シュヴァルンゲン、ヴァウンゲン
*アルドッサー大佐隊(後衛)
・第9連隊第1大隊
・同連隊第2大隊
・軽騎兵第6連隊の2個中隊
〇不詳
・6ポンド施条砲中隊(砲8門)
☆「ダーンバッハの前哨戦(7月3日)」
7月3日早朝。
B第3師団麾下第6旅団(旅団長代理シュヴァイツアー大佐)麾下B第6連隊の第1大隊は急遽、前夜普軍斥候と接触し少時銃撃戦を繰り広げたB第4師団のB第5連隊第3大隊に代わってダーンバッハに入ることとなり、師団主力が宿営していたオーバーカッツ周辺から急ぎ北上しますが、ダーンバッハはこの地から道程で17キロ強先にあり、道中はヴェラ支流のフェルダ川が作る渓谷を行くもので起伏も大きく、簡単な行軍ではありませんでした。結局、ダーンバッハ近郊に至ったのは昼近くになってしまい、その時には既に普ゲーベン師団の前衛が街を占領しており、数で敵わないと感じたB軍大隊は敵に発見される前に街道を外れ東に約4キロ離れたヴィーゼンタールへ向かいました。ところが、ここにも普軍がおり、こちらは明らかに前哨部隊で自軍有利と見たB軍が突進すると普軍将兵は戦わずに素早く陣を払い西へ遁走するのです。
この後、ヴィーゼンタールは同大隊とエッカートツから命令でヴィーゼンタールに進んで来たB猟兵第6大隊によって守備されます。
このB第6連隊第1大隊を追う形で本隊のB第6旅団も北上、カルテンノルトハイム(オーバーカッツの北西5キロ)でダーンバッハへの街道を進み、ディードルフ(ダーンバッハの南6キロ)に進みます。同じくフォン・リボーピエール少将率いるB第5旅団はその後方、フィッシュバッハ(ディードルフの南東1.5キロ)に至りました。
ここでB第6旅団と共にディードルフに到着したB第3師団長、男爵オスカー・フォン・ツェラー中将はB第6連隊第1大隊から「敵は既にダーンバッハを占拠、我はヴィーゼンタールにあり」との報告を受け、師団参謀長のマクシミリアン・ヨーゼフ・イグナス・フォン・ヘッケル少佐に対し、「適当な兵力を以てダーンバッハの敵を偵察せよ」と命じます。
少佐はB第14連隊第3大隊から1個中隊を借り、軽騎兵第2連隊の第2中隊を加えて偵察に出立、しばらく後にB第14連隊第3大隊の残部を追従させ、この日(3日)午後遅くダーンバッハに接近しました。しかしこの街には普クンマー旅団の前衛、ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ大佐率いる第53「ヴェストファーレン第5」連隊のフュージリア大隊が警戒態勢で待ち受けており、ヘッケル隊の接近を知ると猛烈な発砲を見舞うのです。B軍側も銃撃で対抗しますが、しっかりとした家屋や隔壁から正確な銃弾を送り続ける(何せドライゼ銃です)普軍に対し、遮蔽物も少ない街道と道端の広野で戦うB軍は死傷者が続発したため、ヘッケル少佐は堪らず退却を命じました。その後少佐は部下と共に後続していた大隊本隊が待機するナイトハルツハウゼン(ダーンバッハの南4キロ)まで後退しますが、普軍はフュージリア大隊に同行していた砲兵小隊が2門の野砲で榴弾を数発放っただけで追撃することはありませんでした。
この「前哨戦」でヘッケル少佐は下士官兵6名戦死、負傷6名、行方不明(多くは捕虜)38名を報告し、普軍の損害は極わずか、と言われています。
☆7月3日(後)
この日の午後。
B第3師団の残りB第6連隊第3大隊は独り師団を離れ、西方へ進んでしまったB騎兵軍団に代わりタン(ディードルフからは西へ7.5キロ)に入りました(元々はB軍騎兵と共にガイサ方面を警戒する予定だったはずです)。
B第1師団はこの日、マイニンゲンからB第3師団を追う形でオーバーカッツに進むよう命令を受け、昼過ぎにはその行程を半分以上消化しました。また、B第2師団はヘンネベルクからB第1師団の後方(南)ヘルマースハウゼン(オーバーカッツの南4.5キロ)に進むよう命令されますが、こちらはやや遅れ気味で進みます。
カール公と軍団本営は午後遅くにB第4師団の後方、カルテンノルトハイムに進みました。カール公はここでダームバッハに敵が入り、偵察隊に死傷者が出たことを知り「B第1、第2両師団の目的地を変更する。本日中に軍団本営周辺まで進ませろ」と命じます。
伝令から至急報を受けたシュテファン将軍は麾下B第1師団の尻を叩き予定地を通過、夜に入ってカルテンノルトハイムに到着し宿野営に入ります。マイニンゲンからオーバーカッツまでは道程で16キロ余り。更にカルテンノルトハイムまで7.5キロと、山地を考えるとかなりの強行軍でした。しかしフェーダー将軍率いるB第2師団は更に遠方、前日宿営地ヘンネベルクからヘルマースハウゼンまでが道程15キロ、ここからカルテンノルトハイムまではほぼ同じ15.5キロ先にあり、これは流石に無茶で、B第2師団は日没で闇に閉ざされたため行軍を中止、この日はベッテンハウゼン(現・レーンブリック。ヘルマースハウゼンの東3.5キロ)で宿野営しました。
この3日、後に問題になる行動を取ったのが何故か未だに6月30日発令の命令が届いていない模様のB予備騎兵軍団です。
早朝ゲルスフェルトを発ったB重(胸甲)騎兵旅団は午後遅くフルダ市街に入り、前衛はマールバッハ(フルダの北北東8キロ)に進みます。
B第1、第2軽騎兵旅団の2個旅団はこの日午前中に合流すると、フルダを経由しヒューンフェルト(フルダの北北東15キロ)に入り、これ以降B第1軽騎兵旅団長の王族、ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・バイエルン少将はこの2個旅団を統括指揮することとなります。
ところが直後、張り切るルートヴィヒ公が真っ青となる報告が届き、それによれば「敵普軍の大部隊、ガイサ方面からラスドルフに進む」とのことで、北東に15キロしか離れていないラスドルフに敵「主力」が進み来ることを怖れたのか、ルートヴィヒ公は軽騎兵2個旅団に対し「直ちに後退」を命じて引き返し、夕刻、重騎兵旅団と軍団本営が控えるフルダに入ると前哨をニーダービーバー(フルダの東北東9.5キロ)に派出しました。
これによりB軍騎兵の大部分がフルダ周辺に集合する形となったのでした。
ルートヴィヒ・フォン・バイエルン公
一方、アレクサンダー将軍率いる連邦第8軍団もこの日はフルダ目指して行軍を続けました。
He師団はルッパーテンロードから行軍を開始、ウルリヒシュタイン(ルッパーテンロードの南東9キロ)からリックフェルト(フルダの西20キロ)へ進み、付近の高原周辺で野営に入ります。
W師団本隊はHe師団から1日行程遅れる形でルッパーテンロードとオーバーオーメン(ルッパーテンロードの南東2キロ)に進み、同師団の左翼(南)支隊はショッテン(同13.5キロ)に、先行していた右翼(北)支隊は軍団の先鋒としてグローセンルーダー(フルダの北西10キロ)に至り、あと半日も行軍すれば至るはずのフルダと北方のシュリッツ(グローセンルーダーの北9キロ)に向けて斥候を放ちました(但しB軍騎兵と連絡したとの記録は探せませんでした)。
アレクサンダー将軍はこの日、フルダにあと1日と迫った軍団の後衛としての任務をBa師団に与え、師団はこの二都市を流れるラーン川に沿って哨戒線を展開すると、フォン・ラ・ロッシ少将率いるBa第1旅団本隊はギーセンの守りを固め、フォン・アイゼンブルク大佐率いるBa第2旅団は前日前衛が占領した普領ヴェッツラーの支配を確実にするため西に動き、4日朝、ヴェッツラーに入城しています。
墺軍旅団とナッサウ公国軍の連邦第4師団は北上しフリートベルクに進んでいます。
連邦騎兵団の内、3個連隊と4ポンド砲中隊はブーツバッハからBa師団に合流するためギーセンに向かいますが、途上、本営から命令が届き、「マールブルク~キルヒハイン~アルスフェルトのライン(ギーセンからは北~北東方向に30から40キロ)を偵察せよ」とのことで、その方向に転じ行軍を続けました。
アレクサンダー将軍と本営はこの日、He師団と共に移動しウルリヒシュタインに至ります。
この日の行軍で連邦第8軍団は軍団のほぼ半数、2個(HeとW)師団がフルダまでほぼ半日の距離にまで至ります。アレクサンダー将軍はHe師団の集合を待ち、7月5日を期してHe師団を従えフルダに入城しようと考えていました。また、最も遠くに離れている連邦第4師団長フォン・ナイペルグ中将に伝令を送り「貴師団は行軍速度を上げ遅くとも7月7日までにフルダへ来るように」と命じるのでした。
以上、7月3日にカール公率いる連邦軍は、B軍が北はローザ、ロスドルフ、南はカルテンノルトハイム、ベッテンハウゼンまで約20キロの間に集中し、連邦第8軍団は半数がフルダに近付き、そのフルダにはB軍騎兵が集中する状況となりました。
対する普軍はヴェラ川を南に越え、西はフルダを狙えるラスドルフからガイサ、東はオエクセンからダーンバッハと進み出ます。このように普マイン軍は各師団が東西と南北に大きく離れており、この3日夕刻の時点では右翼(西)のバイヤー師団と左翼のゲーベン師団との間に「隙間」(約16キロ)が生じていました。
もしカール公が翌4日にこの「隙間」、即ちダーンバッハとガイサの中間にある林道を北行すればバイヤー師団の裏側に回ることが出来、またゲーベン師団の配置はダーンバッハ周辺に集中していたため、こちらもB第4師団が敵の左翼を北上し(バート・)ザルツンゲンやライムバハ等ヴェラ河畔に至れば、これを片面から包囲することが可能だったのです。
しかしB軍の方もフルダとロスドルフの間にほとんど兵力が存在せず、ガイサから南下しB王国国境のビショフスハイムまでわずか1個大隊の歩兵が居るだけ、という「ガラ空き」状態になってしまっており、これは先ほど普マイン軍の「隙間」とそっくりそのままであって、ファルケンシュタイン将軍率いるマイン軍本営がこれに気付けば東西に割れていた連邦軍と戦うことなく間隙を抜け、その後方へ回り込むことも可能な状態だったのです。これはB予備騎兵軍団が命令の行き違い(?)により予定されていた「第8軍団と連絡しつつB王国軍との間をつなぐ」任務を殆ど果たさず先に進み過ぎたために発生した「危機」でした。
とは言え、これに普マイン軍が気付いていたかと言えばそれも怪しく、それどころかあのモルトケ参謀本部総長も軽視していた連邦第8軍団が既にフルダ至近まで迫っていたことで、連邦軍は普軍を東西から挟み撃ちにする態勢が自然出来上がっていたのです。
翌4日。この両軍共に抱えていた「穴」をどちらが先に気付き「抜ける」のか「塞ぐ」のか、それとも互いに気付かず正面衝突に至るのか、どちらにせよ重要な一日となること必至の状態となりました。




