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錯綜混迷続く連邦軍


挿絵(By みてみん)

  マイニンゲン周辺(19世紀中頃)


挿絵(By みてみん)

  ヴェラ川流域



☆バイエルン軍団の混迷


 独連邦西・南方諸侯軍を統括するバイエルン(以下B)国王ルートヴィヒ1世の弟君、B軍元帥のカール・テオドール・マクシミリアン・アウグスト・プリンツ・フォン・バイエルン侯爵(当時71歳)は、去る6月14日に自軍参謀長の男爵ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン中将とオーストリア(以下墺)帝国北軍参謀長アルフレッド・フォン・ヘニックシュタイン中将との間で誓約された「作戦計画」に伴い、「各領邦諸侯は連邦軍の共同作戦が不利となる事が無いとの条件で自衛を優先することを許す」「諸侯の領域・権利が連邦軍の軍事行動によって損なわれる場合にはその都度話し合い、(双方の)利益を損なう事がないよう図る」ことを各諸侯に示します。しかしこれはあくまで「B王国領土が保全される事が前提」ということで、この辺り、ただ一人の国王隷下で戦うプロシア(以下普)王国軍に比べ圧倒的な差があったと言えるでしょう。

 この時に決まった「墺軍が墺領ベーメン(ボヘミア)で(攻守どちらであっても)作戦行動に出た場合」に開始する共同作戦についても、カール公は内心「B王国近辺を離れ(東方350キロも離れた)ベーメンで戦う」ことに対し消極的であったように思われます。

 このような、お互いが自分本位に物事を進めようと考えている状況ではB・墺ともに相手に対し疑心暗鬼となる訳で、これもその後の戦況を普軍有利に進めた遠因の一つと言えるでしょう(このくだり「諸公の戦い・開戦準備」を参照願います)。


 連邦軍本営(実質B軍本営)ではB軍が戦闘準備を完了した6月23日以来、南進を続けるハノーファー軍の現況・位置を探り続けますが、情報は途切れ途切れで、噂に過ぎないものも多く、この日は「ミュールハウゼン(ランゲンザルツァの北西17キロ)にあり」(正しい)というものや「軍の前衛はタバルツ(現バート・タバルツ。同南南西27.5キロ)まで来ている」(間違い)というものまで、真偽様々でした。

 連邦軍はハノーファー軍に対し何も為し得ないまま時だけが過ぎて行き、27日黎明、ようやく「信頼すべき情報」として「ハノーファー軍はランゲンザルツァにあり」との報が届くのです。

 しかし、カール公はアレクサンダー将軍率いる連邦第8軍団との共同作戦を決定した直後(26日)でもあり、「作戦計画は一切変更することはない」と断じ、翌28日連邦総軍命令として「今後連邦第8軍団の指揮もカール公が掌握し、両軍団上げて26日の計画に従い行軍せよ」と命じます。また連邦第7軍団を称するB軍については翌29日、「作戦通りアルスフェルトへの行軍を開始せよ」と命じたのでした。


 この命令によりB軍は29日、B第1師団(シュテファン少将指揮)がノイシュタット*(現バート・ノイシュタット・アン・デア・ザーレ。フランクフルトからは東に111キロ、マイニンゲンからは南南西へ30キロ離れています)へ、B第2師団(フォン・フェーダー少将指揮)はミュンナーシュタット(ノイシュタットの南8キロ)へ、B第3師団(フォン・ツェラー中将指揮)はワルダシュラハ(現アッシャッハ。ミュンナーシュタットの西9キロ)へ、他師団より先行していたB第4師団(フォン・ハルトマン中将指揮)はビショフスハイム(ノイシュタットの北西17キロ)へ、本営はキッシンゲン(現バート・キッシンゲン。ミュンナーシュタットの南西10キロ)にそれぞれ進み宿・野営することに決します。


※ノイシュタット(直訳すれば「新しい都市」)という地名はドイツ西・南部に数多くあり、ノイシュタット・アン・デア・ザーレの他にも、バイエルン本国ニュルンベルク西のノイシュタット・アン・デア・アイシュ、同じくインゴルシュタット東のノイシュタット・アン・デア・ドナウ、ライン西岸のノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ、ラインラントのノイシュタット・ヴェスターヴァルド、ハノーファー市西のノイシュタット・アム・リューベンベルゲ、チューリンゲン南東部のノイシュタット・アン・デア・オルラ、同じくチューリンゲンとバイエルン国境の街ノイシュタット・バイ・コーブルク、そしてヘッセン=カッセルのノイシュタット(ヘッセン)と、まだまだありますが、この後に幾度も登場する地名なので、混同注意です。


 ところが、この命令が発せられた直後の28日午後。

 ハノーファー王国の外務大臣カール・フォン・プラテン=ハレルムント伯爵26日夜の伝としてウィーンより電信が届き、それによれば「普軍は大軍をアイゼナハからゴータに置き、ハノーファー軍は糧秣少なくランゲンザルツァに包囲されている。連邦軍が南方より普軍を攻め、また糧食を補充して貰えれば軍は8日間耐えて見せる」とのことでした。

 この「裏」には軍と共にあるハノーファー国王ゲオルク5世の窮状を見かねた墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の焦燥があり、皇帝は連邦軍本営に詰める墺軍派遣武官、伯爵ヨハン・カール・アウグスト・フィン中将に直接プラテン伯爵の請願を伝え、将軍に対し「B軍を説き伏せて至急ハノーファー軍を救うよう」命じていたのです(とはいえ「世知辛い」フィン将軍がカール公を説得したとの記録は見つかりませんでした)。

 更に28日、ウィーンにはフランクフルトから「フォルガー博士」の名で至急電が届きました。

「昨日27日、ランゲンザルツァからミュールハウゼン方面でハノーファー軍と普軍及びゴータの兵士が激しい戦闘を行い、普軍側が大敗した。ゲオルグ5世陛下は小職に対しこう命じられた。『敵は未だ強大で集合しつつあれば国軍は必ず敗れる。至急B軍の来援を求め朕らを救って貰いたい』と。この命により小職は昨日早朝戦場を離れ昨晩ゴータに至ったが、見たところ普軍の損害は大きなものだった」

 この「フォルガー博士」とは15世紀来ハノーファー王国で高級役人や市長、評議員を輩出したフォルガー家の一員で、当時国王の傍にいた人物と思われます(普側の記録には「ランゲンザルツァ戦の後、ハノーファー軍の一士官が戦場を離脱しB軍本営に至り状況を伝えた」との記録もあります)。

 この電文は直ちに在シュヴァインフルトB軍本営に転送され、追って28日21時30分、ウィーン大本営からカール公に対し「明朝、連邦両軍団共に出撃しハノーファー軍を救うべし」との大命が発せられたのでした。


 こうなるとカール公も動かざるを得ず、B軍に対し「フルダ方面へ進む昨日の命令は取り消し、直ちに最短行軍路を定めマイニンゲンを経てゴータを目指せ」と命じるのです。

 B軍が動き出した後の29日朝、カール公はアレクサンダー将軍に宛て、次の命令を発しました。


1866年6月29日午前5時発令


(我が)シュヴァインフルト本営は即刻ノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)へ移転し師団を次の通り行軍させることにした。

B第1師団 29日ヒトブルクハウゼン(行軍27キロ)30日ズール(行軍29キロ)7月1日オーアドルフ(ゴータの南13キロ)

B第2師団 29日トラップシュタット(行軍29キロ)30日シュロイジンゲン(行軍29キロ)7月1日オーバーホーフ

B第3師団 29日メルリッヒシュタット(行軍31キロ)30日ヴァウンゲン(行軍30キロ)7月1日タンバッハ(現=ディータルツ。オーアドルフの西南西9キロ)

B第4師団 29日マイニンゲン(行軍25キロ)30日シュマルカルデン(行軍22キロ)7月1日ゲオルゲンタール(オーアドルフの西5キロ)

本営は6月30日マイニンゲンに至る予定。予備騎兵をフルダからヒューンフェルトを経てワッカまで進めるのでこれと連絡を通すこと。

貴殿(アレクサンダー将軍)が明日5個旅団を先発させヘルスフェルト(現バート・ヘルスフェルト。フルダの北35キロ)からベーブラ(ヘルスフェルトの北北東13キロ)にかけて行軍させるとの電信はこれを受領した。

                       バイエルン公カール(印)

                      (カッコ内筆者。筆者意訳)


 どの師団も25キロ前後を行軍し、一日30キロの行軍はそれなりの訓練を経た部隊だけが可能な行軍距離で、特に6月30日の行軍は「チューリンゲンの森」と呼ばれる標高900m級の山地を行くもので、敵の攻撃が予測されないとは言え強行軍と呼べるものでした。

 29日、先行するB第4師団から歩兵第9連隊長アルドッサー大佐率いる前衛がチューリンゲンの森山地に入り、それぞれズール、ゴータ、ヴァウンゲン方向へ斥候を派遣、大佐の斥候たちはB軍最前線(北)となって30日、ニーダー=シュマルカルデン(シュマルカルデンの西5.5キロ)~ツヴィック(ニーダー=シュマルカルデンの西隣り家屋群。現存します)~ヴェルンスハウゼン(ツヴィックの西、ヴェラ川向こうの部落)に進みます。

 B予備騎兵軍団も29日には最後尾がシュヴァインフルトに到着し、本隊はヘルスフェルト目指し行軍を続けました。30日には軽騎兵第1旅団がヒルダース(フルダの東23キロ)に、軽騎兵第2旅団はノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)に至り、重騎兵旅団もミュンナーシュタットへ、予備騎兵軍団長のカール・テオドール・フォン・ツーン・ウント・タクシス騎兵大将は本営と共にキッシンゲンに進みました。

 カール公は29日本営と共にノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)へ、30日にはマイニンゲンに入り、ここで暫く駐在することにするのでした。


 B軍はこれで7月初頭にヒルトブルクハウゼン(マイニンゲンの南東27.5キロ)~シュロイジンゲン(ヒルトブルクハウゼンの北9.5キロ)~マイニンゲン~ヴァウンゲン(マイニンゲンからは北へ11キロ)のライン上に進み、この先2日間でチューリンゲンの森北辺(アイゼナハからゴータに対面する位置)の前線に達する予定となったのです。


 この30日午後12時。予測されていたとはいえ、最悪の情報が在マイニンゲンB軍本営に届きました。


 「ハノーファー軍は28日、普軍に全面降伏した」


 この報を受けたカール公は強気に「作戦計画に変更なく全軍チューリンゲンの森に進み、普軍との接触を得てその展開を見定め、その後の状況により対処する」ことを決めますが、少時思案した後、「この先ハノーファー軍が無いとすると我が軍も既に急行軍を続けている故に将兵は疲弊し始め、給養状態も欠乏する恐れが増え、また兵員数もB軍のみではやや敵に劣るであろう」として、「ここは一時前衛をアイゼナハに対面するに留め、本隊をマイニンゲン周辺に集中し、少なくともアレクアンダー将軍の第8軍団がフルダ周辺高地に展開するまでは攻勢に出ることなく」「(第8軍団がフルダ高地に到着する予定の)7月3日から行動を開始、ヴェラ川*に沿って後方(東方)警戒のため後衛を置き、ヴェラ左岸(ここでは西側)高地上に行軍路を2本*定めて第8軍団と合流する」


※1本はマイニンゲンからヴェラ川西岸の丘陵地帯を西へ、カルテンノルトハイムからダーンバッハ、フィリップシュタールへ向かう街道。もう1本はノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)からビショフスハイム、エーレンベルク、タン、ガイサを経てヴァッカへ向かう街道です。


※ヴェラ川

 チューリンゲンの森山地南部、ズールの南西23キロ付近を水源にアイスフェルト~ヒルトブルクハウゼン~マイニンゲン~ヴァウンゲン~ザルツンゲン~フィリップシュタール~ヘーリンゲン~ヘルレスハウゼン(アイゼナハの西)~アムト・クロイツブルク~トレフフルト~エッシュヴェーゲと流れ、その先北西ハノーファーシュ・ミュンデンでフルダ川と合流しヴェーザー川となる支流。


 カール公が作戦変更に踏み切った理由は、チューリンゲンの森山地からやって来るはずの普軍を東西に狭いヴェラ渓谷で迎え撃つより、山地で行動が隠匿しやすく、形勢によって東西南北どの方向にも攻勢を仕掛けられるフルダ東方の高原地帯に入る方が得策(しかも連邦第8軍団も近い)と考えたからでした。


 30日午後8時。カール公は先の作戦変更をアレクアンダー将軍に伝えるため電信を発します。


1866年6月30日午後8時 マイニンゲン本営発令


昨日連邦第7軍団がゴータに向け行軍する旨貴殿に通報したが、ハノーファー軍が既に降伏したとの確かな報告を受け、先の作戦は無益となるばかりでなく先の行軍が無事完遂したとしても敵がアイゼナハにあるとすれば我ら第7、第8両軍団の間隙を突くことも可能となる故に、第7軍団は一時アイゼナハを前面にマイニンゲン周辺で集合することとした。

B軍予備騎兵軍団はビショフスハイムからヒルダースを経てガイサに向かい、また歩兵一個師団もこの街道へ進ませたいと考えている。

第7軍団が敵により妨害されずマイニンゲン周辺に集合出来、また一師団を左翼へ向けることが可能となった場合、貴軍団はヒルダースからフルダ、また同時にガイサからヒューンフェルト(フルダの北北東15キロ)の二本の線状に兵を展開し、第7軍団と連絡を通して頂きたい。

しかし、第7軍団が敵の攻勢により止むを得ず退却せざるを得なくなった場合、我らは緊急に貴軍団との連絡を通すため、ノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)に転向する。この緊急事態の際においては、ノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)及びシュヴァインフルトの間にて貴軍団と会合し共同作戦を行うことを期す。

これら状況に陥った場合、本官は数日前(6月26日)貴殿がシュヴァインフルトに来訪し協議した所の初期作戦案に立ち返ることとする。

その際切に貴殿に願いたいのは、貴殿の将兵は一切目の前の細事に拘ることなく第7軍団を援助することのみを優先し、半数の兵力はヒューンフェルト~フルダ~ハーナウの街道を進み、またその半数はゲミュンデン〜フランクフルト鉄道を利して急ぎ南東方向へ進め、ここよりハンメルブルクを経過してキッシンゲン(フランクフルトからは東へ100キロ)へ進まれん。またこの事態に至った場合は行軍計画並びに作戦計画を逐一期日と共に通報あらんことを。

                       バイエルン公カール(印)

                      (カッコ内筆者。筆者意訳)


 この電信は山地の中にあるマイニンゲンから相当な数の中継所を経由しフランクフルトに送られますが(半日以上は掛かったと思われます)、B王国軍団本営に連邦第8軍団連絡士官として派遣されていたW軍参謀、男爵アルベルト・フォン・スコウ少佐が遅れを心配して同時に複写を受領し、翌1日フランクフルトから前進しフリートベルク(フランクフルトの北26キロ)にいたアレクアンダー将軍に手渡されました。


 これによりB軍は翌7月1日、ヴェラ沿岸に集中します。


 フォン・ツェラー中将のB第3師団は前日宿営地のマイニンゲンに留まり、ハルトマン中将のB第4師団も前日宿営地ヴァウンゲンで待機となりました。シュテファン少将のB第1師団はテマール(マイニンゲンの南東16キロ)へ進み、フォン・フェーダー少将のB第2師団はヒルトブルクハウゼン(テマールの南東12キロ)とレーミルト(ヒルトブルクハウゼンの西14キロ)に至りました。B予備騎兵軍団中ルートヴィヒ大公の軽騎兵第1旅団はタンで留まり、フォン・ロンメル少将の重騎兵旅団はビショフスハイムへ進み、ツー・パッペンハイム少将の軽騎兵第2旅団はフラドゥンゲン(マイニンゲンの西20キロ)へ進みます。騎兵軍団の本営はこの日ノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)に進みました。


☆連邦諸侯軍団の混迷


 アレクサンダー将軍率いる連邦第8軍団もこの6月下旬、真偽様々な情報と要請により振り回され続けます。


 6月27日。「普軍6,000名汽車に乗り南進を開始、バッハラッハ及びオーバーヴェセル(どちらもライン川西岸。マインツの西北西40キロ付近)に到達した」との情報が入ります。これは誤報ではなく「本物」でしたが、この「普軍」、寸前までケルン要塞とコブレンツ要塞に駐屯していた普軍守備隊の一部で、ナッサウ公国北方とラインガウ地方(バッハラッハのライン対岸周辺)で騒擾を起こし連邦軍を混乱させる目的で進んで来た欺瞞部隊でした。

 これに敏感に反応したのがマインツ周辺住民と官憲で、「マインツが襲撃されるのでは」と恐れたマインツ要塞総督は在フランクフルト・アム・マインの独連邦軍事委員に訴え、委員はアレクサンダー将軍にマインツ要塞守備隊への増員を依頼して来たのです。

 アレクサンダー将軍は渋々自軍の旅団長カール・アウグスト・フォン・シュトックハウゼン少将に命じ、ヘッセン大公国の歩兵大隊2個に墺軍ハーン旅団から第49と21両連隊の第3大隊計4個大隊を28日夜間にマインツへ送ります。しかし現地で「敵はマインツを目指してはいない」と判断したシュトックハウゼン少将は29日の午後、全部隊を軍団に引き上げさせました。しかし、この29日にも軍事委員は重ねてマインツ増強を求めたため、ヘッセン大公国の2個大隊は再びマインツに舞い戻ったのでした。


 確かに6月9日の独連邦議会議決で「マインツとラシュタット両連邦要塞は中立」と決しましたが、既に普王国はこの議決に加わっておらず、普大本営やファルケンシュタイン将軍が連邦要塞を奪取することが軍事的に有効と見れば躊躇することなく実行するであろう、との観測が連邦側にはあったのでした。このためアレクサンダー将軍にフランクフルト防衛同様の圧力が掛かったものと想像されます。


 このマインツとラシュタット要塞守備隊はこの時「有って無いような」状態で、既述通り9日に決定された配属守備隊の編成も計画倒れ、例えばヴァルデック侯国は普軍から脅しなり説得なりによって守備隊配属を拒否する者があったため派遣を見送り、アンハルトとザクセン=コーブルク=ゴータ公国は普軍と共に連邦に参戦してしまい、シュヴァルツブルクの両侯国に至っては「普軍によって行軍路が封鎖されてしまったため」という信じがたい理由で守備隊を辞退してしまったのでした。

 既に普軍はこの時(6月下旬)、連邦規約では「実戦部隊」のみ撤退するところマインツでは工兵隊や主計士官まで守備隊全員が要塞を去り、ラシュタットでも同様、普軍守備隊司令部は「もぬけのから」となっていました。せっかく「代打」でマインツ要塞に入ったザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国の連隊も、母国が中立を宣言した手前「義務で仕方がなく」感を強く漂わせており、心配した要塞総督が「普軍と戦う気はあるのか」とその連隊長フリッツ・フォン・シドウ大佐に問い正せば、大佐は「しばしお時間を」と時間稼ぎをした挙句「戦うことは出来ません」と返答、指揮官を辞任して要塞を去ってしまう、という「事件」まで発生していたのでした。


 マインツ要塞の守備隊増援に関しては、あまり褒められない事態で「解決」します。

 既述した通り、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)軍は自国が侵攻されても戦わずして連邦軍に参加しフランクフルトの東、自国領土内のハーナウに宿営します。ところがここで言を左右にして配属先の「連邦第3(ヘッセン合同)師団」に加わろうとせず、痺れを切らせたアレクサンダー将軍がヘッセン=カッセル軍司令官カール・フォン・ロスベルク中将*を審問すると「我が軍は未だ錬成が完了しておらず本格戦闘の用途に用いることは不可能です」と断言する始末。アレクアンダー将軍は仕方がなく「しっかりしていた」驃騎兵2個中隊のみ騎兵が参加していなかった連邦第4「墺軍/ナッサウ合同」師団に加え、その他のヘッセン=カッセル軍属は一時全員マインツ要塞に移され、ここで守備隊勤務と同時に錬成を急がせたのでした。


 先述通り普軍の「騒擾隊」がラインを越えてナッサウ公国領に侵入したため、ナッサウ公国国主アドルフ公は母国軍の帰還を連邦に求めました。アドルフ公は戦争勃発直後から再三再四救援軍の派遣を求めており、連邦軍事委員も声を大にしてナッサウ救援を求めたため、アレクアンダー将軍は28日午後1時、先に派遣したヘッセン大公国軍2個大隊を召還すると同時に連邦第4師団に対しナッサウ防衛を命じ、ロベルト・マクシミリアン・ロート少将のナッサウ旅団はホーフハイム(・アム・タウヌス。フランクフルトの西17キロ。当時はナッサウ領)へ、同師団の墺軍旅団はその後方ヘーヒスト(同西9.5キロ)へ進みました。


挿絵(By みてみん)

 アドルフ(ナッサウ公)


☆6月29日の連邦第8軍団


 連邦第8軍団はカール公26日発令の命令により行軍を続けます。


 連邦第1「W王国」師団は前日28日に本国からカール・アウグスト・フリードリヒ・フィッシャー少将の旅団(W第2旅団)が本隊近くまで到着したため歩兵3個旅団が揃い、シュターデン(ハーナウの北22キロ)とヴィンデッケン(ハーナウの北北西10.5キロ)そしてその周辺地に進んで宿営します。

 同じく連邦第2「バーデン(Be)」師団で先行するBe第1旅団はフランクフルト市街とその北西郊外ギンハイムで宿営に入りました。

 連邦第3「ヘッセン(He)」師団は本国内のフリートベルク(W軍のいるシュターデン西11キロ)とその周辺まで前進しました。

連邦第4師団は前進を続け、ナッサウ旅団は公国南部の主邑ヴィースバーデン(マインツの北9キロ)に至り、後続する墺軍旅団と師団本営はその南、ラインを挟んでマインツと向かい合うビーブリッヒ(現・ヴィースバーデンの南市街。北部に同名の町があるので注意)に進むのでした。


 その他、予備騎兵団の諸隊はフランクフルト、オッフェンバッハ(フランクフルトの東6キロ)、ランゲン(同南13.5キロ)それぞれの市街と周辺地で宿営待機に入ります。

 この日、曖昧になっていた予備騎兵、予備砲兵の配属部隊が決定し、予備騎兵団はW軍のハインリヒ・フォン・エントラス・フュルステネック中将が指揮官となり、W軍騎兵第3連隊、Ba親衛竜騎兵第1連隊、He騎兵第2連隊そしてワグナー少佐率いるW軍4ポンド前装施条砲第2中隊(砲8門)がその隷下となりました。

 また、予備砲兵団は連邦第8軍団本営付きのBa軍フィリップ・フォン・ファーバー中将が直接指揮しフランクフルトで編成、He軍6ポンド滑腔砲第1中隊(砲6門)、He軍騎砲中隊(砲6門)、ナッサウ軍6ポンド滑腔砲中隊(砲8門)、墺軍の8ポンド砲中隊*、そしてHe軍弾薬縦列1個が所属となりました。

 ※墺軍砲兵については墺軍の記録にしか存在がなく、部隊名・砲数・砲員数も不詳です。


☆6月30日の連邦第8軍団

 

 この日He師団は軍団先鋒となって大公国内を北上しベルシュタット(ハーナウの北33キロ)へ、前衛はフンゲン(ベルシュタットの北北東6キロ)に至りました。

 W師団は前日He師団が宿営していたフリートベルクへ、遅れていた一支隊(歩兵1個連隊、騎兵1個中隊、砲兵1個小隊2門)は右翼(東側)警戒となってシュターデンに進みます。

 ラ・ロッシ将軍率いるBa第1旅団はフランクフルトより徴用した列車に乗車、バート・ナウハイム(フリートベルクの北隣3.5キロ)で小休止すると午後にはブーツバッハ(ナウハイムの北北西9キロ)で下車、この街を起点にギーセン(ブーツバッハからは北へ17キロ)からヴェッツラー(同北西18キロ)にかけて斥候を送り普軍の情報を得ようとしました。

 予備騎兵団に属するW軍騎兵第3連隊はホンブルク(現バート・ホンブルク・フォン・デア・ヘーエ。フランクフルトの北14キロ)とオーバーウルゼル(ホンブルクの南西4キロ)に進みウージンゲン(ホンブルクの北北西13キロ)まで斥候を出し、ギーセン方面に進むBa軍旅団と連絡を通しました。

同じ予備騎兵団のBa親衛竜騎兵第1連隊はランゲンからフランクフルトを抜け北郊のフィルベルへ進み、前衛をドルテルヴァイル(フィルベルの北3.5キロ)へ置きます。

 予備砲兵団はフランクフルトで編成を進め、アレクサンダー将軍は本営をフリートベルクへ前進させました。


 28日にコブレンツ方面から進んでライン左岸(西)からナッサウ公国へ侵入する普軍の支隊を殲滅する目的を与えられ、同時にフランクフルトとマインツの連絡を確保し、普軍と遭遇したらマインツ守備隊と協力してこれを撃退する任務を受けていたナイペルグ中将(第4師団長)はこの30日、マインツを望むヴィースバーデンから行軍方向を東に変更(即ち引き返し)、オーバーウルゼルからウージンゲン、更にヴェッツラーからギーセンと北へ向かって行軍するよう命じられます。

 これは前日29日にカール公から「B軍はフルダから更に北東ゴータ方面へ向かう」との命令変更を受けたアレクサンダー将軍が、連邦第8軍団も東側フルダに向けて進みB軍の左翼を守ることに決したからでした。


☆7月1日の連邦第8軍団


 この日、ラ・ロッシ将軍のBa旅団は先鋒をヴェッツラーとギーセンへ進ませるよう命令されてこれを実行、He師団はグリューンベルク(ギーセンの東20キロ)、W師団はフンゲン(ギーセンの南西20キロ。グリューンベルクからは南へ13.5キロ)、軍団本営もW師団に続いてフンゲンに至りました。この時、He師団の左翼支隊はリッヒまで進んでBa旅団及びW師団と連絡し、W師団の右翼支隊はショッテン(フンゲンの東16キロ)に至りました。

 一方ライン河畔で180度転向命令を受けた第4「墺/ナッサウ」師団は、墺軍旅団と本営がエルベンハイム、ロート将軍のナッサウ旅団はイヒシュタットへ進みました。しかし、師団本隊(墺軍)が前日宿営地ビーブリッヒからわずか5キロ東へ進み、ナッサウ軍もヴィースバーデンから東へ6キロと、非常にゆっくりした行軍だったのは「ナッサウ公国を見捨てるのでは」と恐れる公国民とナッサウ公を不安にさせない配慮だったのかもしれません。


 この日の夜。

 連邦第7「B王国」軍団本営に連絡士官として派遣されていたW軍参謀、男爵アルベルト・フォン・スコウ少佐が本営に現れ、連邦軍総司令でB軍司令官カール公の命令電文を届けます。

 既述通りこの命令は「アイゼナハ~ゴータにいる普軍と対決するためマイニンゲン周辺に集合するB軍団の援護として第8軍団を使う」と言うものでしたが、アレクサンダー将軍はこれに反対し「ハノーファー軍が降伏した今、普軍はアイゼナハ方面から南下するのではなくカッセル方面に西行するはず」と断じ、カール公とB軍本営に対し「ハノーファー軍が降伏し消滅したのであれば、私は公の軍団がまずヘルスフェルトを目指し、この地とアルスフェルトからカッセル方面に進むことを希望いたします」(逆にB軍団がこちらに来るように、との意見具申)と返信を送ったのでした。


☆7月2日の連邦第8軍団と第7「B王国」軍団


 翌2日、He師団本隊はルッパーテンロード(グリューンベルクの東北東9.5キロ)に至り、W師団はHe師団と1日行軍遅れたグリューンベルクへ、同師団から右翼へ離れて行軍した支隊はラウターバッハ(グリューンベルクの東31キロ)へ進みました。

 Ba師団はこの日遅れていた第2旅団(男爵ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・ノイブロン・フォン・アイゼンブルク大佐指揮)が本隊に追い付き合流、ギーセンに入り別働支隊がヴェッツラー(普王国の飛び地)を占領しました。

 ゆっくりとナッサウ領を東へ進んだ墺/ナッサウ師団は両旅団が合流しフランクフルトの北、オーバーウルゼルまで戻り野営に入ります。


 一方、軍団本営はW師団に同行しグリューンベルクに入りました。

 アレクサンダー将軍がグリューンベルクに到着すると、前日カール公30日の命令(フルダからヒューンヘルト方面への展開)を届けた連絡士官、フォン・スコウ少佐が後を追うように到着し、カール公の返信「命令に変更なし」を渡すと共に「カール公は連邦軍が先の命令実行を厳守するようにと申しております」と諭すのでした。

 アレクサンダー将軍は内心「カール公は普軍が南下を選んだ場合B王国本土が侵されるため、ヘッセン両国より祖国防衛を優先したいのだろう」と考えたに違いありませんが、逆に言えば将軍も普軍が西へ進めば祖国が侵される、と心配していた訳で、このやり取りは互いに祖国優先を心に秘めた「せめぎ合い」だったと言えます。

 しかしここではカール公の方が指揮権限が上のためアレクサンダー将軍も諦め、「最短経路を以てフルダに行軍する」との返信をカール公に送り、翌3日の命令を隷下に伝えるのです。


 連邦第7「B王国」軍団は「この日一日かけてマイニンゲン周辺地域に集合するよう、この集合の援護を先行しチューリンゲンの森山地に展開しているB第4師団が行い、万が一普軍が来襲した場合はヴェラ川の渡河点を死守するよう」命じられました。


 この日、アダム・ファウスト大佐のB第7旅団(第4師団所属)は前日と同じヴァウンゲンでヴェラ川下流域を警戒し、グスタフ・ツェラ少将のB第8旅団(同)本隊はツィルバッハ(ヴァウンゲンの北西7キロ)とエッカートツ(ツィルバッハの西南西3キロ)の山間小部落に展開、同旅団後衛となった2個大隊はシュヴァルンゲンに残留し部落北3.5キロのヴェラ川渡河点ヴェルンスハウゼンまでの鉄道線(北上すればアイゼナハに至ります)を破壊するのでした。

 その他、男爵オスカー・フォン・ツェラー中将のB第3師団がマイニンゲンからオーバーカッツ(マイニンゲンの西北西14キロ)へ、ヨハン・バプティスト・シュテファン少将のB第1師団はテマールからマイニンゲンへ、マクシミリアン・クリスティアン・フォン・フェーダー少将のB第2師団はヒルトブルクハウゼンとレーミルトからヘンネベルク(マイニンゲンの南南西9キロ)へ、予備砲兵団はノイシュタット(・アン・デア・ザーレ)からオストハイム(・フォア・デア・レーン。ノイシュタットの北15キロ)に進みました。

 カール公と本営はマイニンゲンに留まります。


 なお、B予備騎兵軍団はこの日ダーンバッハ(マイニンゲンの北西26.5キロ)周辺に進んでヴェラ川とその北方アイゼナハ方面を警戒する命令が下っていましたが、この命令は通達が遅れて騎兵を束ねるタクシス騎兵大将に伝わらず、このため6月30日発令の「ビショフスハイムからヒルダースを経てガイサへ向かえ」が活きたままとなり、重騎兵旅団はゲルスフェルト(ビショフスハイムの北西8.5キロ)へ進み、軽騎兵第1旅団はタンで駐留を続け、軽騎兵第2旅団はヒルダース(タンの南8キロ)へ進みました。これは同じ「北上せよ」との命令でも、山地を挟んで12キロ程度西側を進むという事で、この誤算は後に重大な支障となってしまうのです。


 この7月2日。

 B軍騎兵は北方に斥候多数を送り出し、タンに居残った軽騎兵第1旅団の槍騎兵達は東に進んでB第4師団の歩兵と連絡を通しました。

 しかし騎兵達は北方に敵を見なかったものの、B第4師団の歩兵たちは遂に普軍と遭遇するのです。




※こぼれ話

「黒いロスベルク」


カール・ヴィルヘルム・イェレミアス・フォン・ロスベルク(1804~1885)


 ヘッセン=カッセル軍を率いたカール・フォン・ロスベルク中将(2歳上の兄も選帝侯国軍中将だったため髪の色から「黒いロスベルク」と呼ばれます)は当時62歳。ロスベルク家は選帝侯に長年使える貴族で父もカッセル軍人(最終階級・少佐)でした。

 カールは17歳で選帝侯国士官学校に入り1828年、中尉でカッセル軍近衛連隊に正式入隊します。その後は順調に昇進し、1848年のドイツ革命時、選帝侯になったばかりのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の副官となって侯を支え、その甲斐もあってか51年、47歳で少将昇進、56年、第1旅団長となります。ところが、ここで思いがけないスキャンダルが発生、娘のアンナが選帝侯の貴賤結婚の果てに生まれた子供モーリッツ・フォン・ハーナウ公と恋愛関係となり、モーリッツ公は父選帝侯と仲が悪かったこともあって結婚を望む二人に選帝侯が激怒、破談を迫ると共に父カールも63年、とばっちり?で左遷の憂き目にあうのでした。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)


 しかし時代はカールを歴史の表舞台に連れ戻します。


 普墺開戦直後の66年6月19日、選帝侯はロスベルク将軍をヘッセン=カッセル軍の総司令官に「臨時で」任命し、カールは当時の赴任地フルダからハーナウ(両市共に当時は選帝侯国領)に移り、ここに軍を集合させます。この「侵攻した普軍から国や選帝侯を見捨てて逃げるように国の中心部から去った」姿や「その後も戦う気概を見せず安全なマインツ要塞で戦争が終わるのを待つような行動を取っていた」など、戦後選帝侯国が普王国に併合されてしまったこともあり、カッセル軍とロスベルク将軍は臆病で無能の烙印を押されてしまいました。


 しかし事情は少々複雑です。

 カールは任命時に選帝侯から書面で「追って命令が届くまで軍を掌握せよ」とだけ命じられており、具体的な作戦なり行動計画も示されないままでいましたが、直後(翌20日)に選帝侯が殆ど形式的な抵抗だけで侵攻した普軍によって身柄を拘束されたことで「この先命令が届くことがない」事態となりました。

 カッセル軍の命運はカールの判断に掛ることとなりますが、問題はカールがこの状況をどう「解釈」していたか、ということです。

 筆者は、選帝侯の真意を「軍を戦わせず温存(普王国と戦うな)」と受け取ったカールが「避戦」を貫いた、またはカール自身が「精悍な普軍の前では殲滅されかねないカッセル軍」を「無駄に消耗させず戦後を待つ」ことにしたのではないか、と想像します。これはマインツ要塞で「普軍とは戦えません」と辞任したザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国軍のフリッツ・フォン・シドウ大佐同様(ただしこちらは母国の中立を文字通り厳守した行動)「国軍を延命させる」対応だったのではないか、と筆者は思うのです。


 「怯懦と罵られても未来のため誇りを捨て避戦を選んだ」軍人たちは「無駄死にと分かっていても尊厳のため部下と共に潔く散る」軍人たちに比べ劣っているのでしょうか?


 「カッセル軍」はその後普軍に吸収され、4年後の普仏戦争では独第11軍団麾下3つの連隊(フュージリア第80、歩兵第81、歩兵第82)に分かれヴルト、セダン、メッス、パリ包囲など激戦地で奮戦し、独の勝利に貢献すると共に怯懦の汚名を払拭しているのです。

 普軍上層部はカッセル軍を干戈を交えず無傷で普軍に編入することが出来たことで内心カールに感謝していたことでしょう。

 

 「黒いロスベルク」として兄「金のロスベルク」と共に選帝侯国軍を支えたカールの物語はこのマインツ要塞で終わります。カールはその後再び歴史の表舞台から去り、ただ1885年6月にカッセルで死去したことだけが分かっています。享年81歳でした。


 感傷的な筆者の想像でしかありませんが...

 戦争直後に滅んだ国を前にして新たに普王国の一部となった「ヘッセン=ナッサウ州」から差し出された名誉職含め官職一切を辞し、後半世、言い訳せず何一つ語らず隠棲するも「守り抜いた満足感」を胸に穏やかに暮らす彼の姿が浮かぶのです。


※ヘッセン選帝侯国軍(1866年7月11日付。兵員数は実数)


親衛歩兵連隊(2個大隊)/士官36名・下士官106名・兵1,534名

歩兵第1連隊(2個大隊)/士官36名・下士官106名・兵1,295名

歩兵第2連隊(2個大隊)/士官34名・下士官109名・兵1,496名

歩兵第3連隊(2個大隊)/士官38名・下士官106名・兵1,605名

猟兵大隊/士官17名・下士官54名・兵532名

フュージリア(散兵)大隊/士官17名・下士官54名・兵664名

工兵中隊/士官11名・下士官24名・兵120名

親衛騎兵中隊/士官4名・下士官20名・兵235名

驃騎兵中隊(2個)/計331名

騎砲兵中隊/士官4名・下士官20名・兵114名

施条砲中隊/士官4名・下士官22名・兵114名

12ポンド滑腔砲中隊/士官4名・下士官21名・兵122名

6ポンド滑腔砲中隊/士官4名・下士官13名・兵103名

輜重・職工部隊/士官4名・下士官22名・兵167名


野砲29門

馬匹843頭(曳馬含む)


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