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トラテナウの戦い

 イタリアで国王エマヌエーレ2世が、ラ・マルモラ大将(せっかく戦闘直前まで勤めていた首相の職を辞任してまで軍に復帰して主力の指揮までしたのに肝心の勝利が……この戦争後左遷されてしまいます)から次男の負傷とミンチョ川方面軍の敗退の顛末を聞いて落胆していた頃。


 1866年6月27日。

 北方ボヘミアの戦線東側で二つの戦いが行われました。この戦い自体は今となっては普墺戦争中の小さなエピソードに過ぎなくなっていますが、二つの点で興味深い戦闘です。


 一つは、ガブレンツとシュタインメッツというふたりの将軍が「英雄」として文字通り「歌われる」存在となったこと。

 もう一つは、この一週間後に行われる大会戦の予兆として。

 

 この「トラテナウの戦い」と「ナーホトの戦い」はいずれもプロシア第二軍の部隊がオーストリア軍と戦った小戦闘でした。


 プロシア王国皇太子フリードリヒ3世率いる第二軍は、12万の兵員を抱えるプロシア最大の野戦軍(砦などに籠もらず敵を求めて行軍する実戦部隊)でした。

 フリードリヒ王子はあのイギリス王女エリザベスを妻に持つ「開明派」の王子様で、自由主義者たちに嘱望された方ですが、そこは強軍国プロシア皇太子、軍事知識や帝王学は物心付いたときから叩き込まれています。


 フリードリヒ王子は父親ヴィルヘルム1世と妃アウグスタの長男として1831年に生まれます。 

 両親は、父が王権神授説(字の通り「王は神からその地位を授かった絶対支配者」という説)の絶対信者でバリバリの軍人気質、母が優雅で教養と芸術を重んじる貴族気質と相反する性格、その下で育った王子は器用な人で、王と妃両方に「いい顔」が出来ました。


 父には、ローンやモルトケからよく学んで見せ、軍人としての素養を身につけて安心させ、母には、歴史や法、文学などを学んで見せて安心させました。

 そのどちらも付け焼き刃ではなく本物の知識を得て、将来国を背負って立つにふさわしい人物に成長します。


 一方で、海外にも目を向け、時代の流れに敏感で、父の信じる王権神授を否定、将来王となれば立憲君主として立つのではないかと自由主義派に期待され、妃に立憲君主国の本流、イギリス王女を迎えたことでその期待はいやが上にも盛り上がりました。


 しかし、ビスマルクやローンの活動で王は持ち直し、フリードリヒへの譲位は阻止されます。こうなれば父との確執が気になりますが、この王子様は実に如才のない方で、父とも義理の父とウマが合わない妃ともうまくやって行きました。

 軍の指揮官としても王の長男として何度か出陣し、その任を難なくこなしていました。


 私は個人的にこの人が好きで、もし10年ほど遅く生まれていたらドイツの歴史は大きく変わっただろうに、と残念に思います。その理由はこの先プロシアの四半世紀を見ればお分かりになるでしょう。

挿絵(By みてみん)

フリードリヒ皇太子


 さて、このような王子を指揮官に頂くプロシア第二軍は、シュレジエン地方中部のナイセ(現ポーランドのニシュ)からブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)にかけて、ナイセ川流域に展開、開戦を待ちました。

 そして6月15日の宣戦布告を待って進軍開始、目の前に横たわるボヘミア国境地帯のリーゼン(現チェコ・クルコノシェ)山脈へ挑みます。


 この山脈はカール王子のプロシア第一軍が通り抜けたフリードラント付近の山地とは格が違うズデーテン山岳地帯でも一番の山脈で、当然ながら周囲の山道は細く、開戦前にがんばったものの鉄道は間に合わず、11万もの大軍が固まって移動するのは無理がありました。


 そこで参謀本部のモルトケとフリードリヒ王子は第二軍の根幹をなす第一軍団、近衛軍団、第五軍団、第六軍団の四つの軍団を二つに分け、山間部を突破します。

 第一軍団はヴァルデンブルク(現ポーランドのヴァウブジフ)からリーゼン山脈南端リバウ(同じくルパフカ)の山間部を抜けるルート、第五、第六軍団と近衛軍団はプロシア領がボヘミアに突き出したグラーツ(現ポーランドのクウォツコ)を抜けて西進、ナーホトの山間部を抜けるルートです。


その動きは当然オーストリア側も察知しており、それぞれ相応の軍団を山からの出口付近に待機させました。

 これにより、二つの集団がそれぞれボヘミアのオーストリア領に入った辺りで戦いが発生するのは必然でした。


 「トラテナウの戦い」はオーストリア北軍が勝利を収めた普墺戦争中唯一と言ってもよい戦いです。


 プロシア第1軍団を率いるアドルフ・フォン・ボーニン大将はボヘミアとシュレジエン国境をリバウ付近の峠越えで突破、南西方向にあるピルニーコフを目標に進みました。

 ボーニンの先遣隊は6月27日朝10時に、山地を抜けた場所にあるトラテナウ(現チェコのトルトノフ)へと入ります。


 そのころ、山脈を抜けてプロシア軍がボヘミアに入ったとの偵察報告を受け、オーストリア第10軍団は8時に野営地を撤収、トラテナウ目指して急進しました。

 この第10軍団を率いるのはルートヴィヒ・フォン・ガブレンツ中将です。「あれ?どこかで聞いた名前の気が……」と言う人は良く読んで頂いている方ですね。


 そう、ガブレンツ将軍は遙か北、ホルシュタインで総督を務め、開戦前の6月7日にプロシアのシュレースヴィヒ総督マントイフェル将軍に追い出され、開戦の直接原因の当事者となった人でした。

 彼はハノーファーを経て一目散にボヘミアへ撤退、自分が率いていた一個旅団と他の三個旅団を合わせた第10軍団を任されたのでした。

 ちなみにガブレンツは、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でオーストリア側指揮官となり、オーストリア第6軍団(2万人)を率いプロシア軍と肩を並べて戦った後、ホルシュタイン総督を務めたのでした。偶然ですが相手のボーニン将軍も第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(第二次出兵の後半)でプロシア軍を率いてデンマーク軍と戦っています。

挿絵(By みてみん)

ガブレンツ

 さて、その第10軍の内、同僚より一足先に出発していたフリードリヒ・モンデール大佐の旅団が8時少し前、トラテナウの南面にある山に到着します。モンデールはガブレンツから「先行し、軍団主力が到着するまで本格戦闘を避けながら敵情を探れ」と命じられていたのです。

 モンデール将軍は旅団の精鋭であるオーストリア第12猟兵(イェーガー)大隊に対し、一個中隊(300名ほど)を出して眼下の町を探るように命じました。

 

 ところが、この部隊が町の広場で小休止していたボーニンの先遣隊(第2師団の前衛)と鉢合わせしてしまいます。激しい撃ち合いとなりますが、オーストリア猟兵はモンデールの命令ですぐに戦闘を切り上げ、山に引き返しました。

 プロシア軍はこれを追って、山で戦闘が開始されます。モンデール旅団はこの攻撃を凌いで、どうにかこうにか昼まで持ちこたえました。


 正午頃、ボーニンは第1師団(グロースマン中将)主力を投入し、この部隊の攻撃によりモンデール旅団はついに退却へと移りました。モンデールはトラテナウの南四キロにあるノイ・ログニッツ(現チェコ・ノヴィーロキトニーク)の町まで後退します。続いてボーニン軍団の第2師団(クラウゼヴィッツ中将)がトラテナウを通って南東のアルト・ログニッツ(同スタリーロキトニーク)の町に移動し、モンデールを包囲攻撃しようとしました。

 この間、ボーニンはモンデールががんばっていたトラテナウの山へ守備隊を上げさせます。


 一方のガブレンツ将軍は、軍団がトラテナウの前面へ続々と到着するにつれ、次々と部隊を展開させます。ゲオルグ・グリヴィック大佐の旅団にはプロシア軍を左翼から攻撃するよう命じ、アドルフ・ウィンプフェン・ツー・モルベルク少将の旅団は迂回してモンデール旅団と交代、右翼へ向かうよう命じました。

 これらの攻撃の下地を作るためガブレンツ将軍は軍団直轄砲兵隊(五個中隊・砲40門)に、プロシア軍によって占拠された例の山に向け一斉砲撃を命じます。

 40門の一斉砲撃はかなり激しいものになり、被害が出るに及んでボーニン将軍は、自分たちより強力な部隊の攻撃にさらされていると勘違いしてしまいます。あわてた彼は山の部隊に退却を命じました。


 このプロシア軍の退却を見て、グリヴィックとウィンプフェンの両旅団は攻撃を開始しました。


 しかし、オーストリアの攻撃はしっかり統制されたものでなく、大隊毎に銃剣突撃を行うもので、プロシア軍は押されつつも自慢のドライゼ銃の連射で敵の突撃を迎え撃ちます。


 やはり射撃間隔が短く、後ろ込めなので伏せたまま弾を装填出来(前込めだと銃身を立てなければならないので、どうしても身を起こさなくては装填出来ない)正確な射撃が可能なドライゼ銃は画期的な銃でした。

 その威力はすさまじく、士気を鼓舞するため軍楽隊が繰り返し演奏する「ラデツキー行進曲」をBGMにしたオーストリアの恐ろしい集団突撃もたちまち制圧され、兵士たちは射的の駒のようにバタバタと倒れていきました。


 こうしてドライゼ銃の威力によって敵の二個旅団の攻撃を防いでいる内に、ボーニンは予備隊の四個大隊を投入、オーストリア軍は逆に追い立てられ退却してしまいました。


 しかしボーニンにも、もうこれ以上使える兵力は残されていません。まだ余裕がありそうな敵と状況の見えない夜戦になるのは危険、と感じたボーニン将軍は全軍に退却を命じました。


 既に夕方5時になり、日が西に傾く戦場にガブレンツの最後の部隊、アルベルト・リッター・フォン・クネーベル少将の旅団がやって来ました。ボーニンの予感通りガブレンツの「余裕」が到着したのです。

 クネーベル将軍は到着するやグリヴィックとウィンプフェンの両旅団が苦戦中との報告を受け、直ちに独断で戦闘に参加します。


 退却中の軍を守るため、プロシアの後衛たちは奮戦します。新たなクネーベル旅団を加えたオーストリアの攻撃でもドライゼ銃は威力を発揮、オーストリア軍はおよそ一個大隊に及ぶ900人の犠牲を出してしまいます。それでもクネーベルはウィンプフェンと共同してトラテナウの南にある山を占拠するのでした。

 既に9時。陽は沈んで久しく、この辺りで闇が迫り、戦いはボーニン軍団がトラテナウから完全に撤退することで自然に終わりを告げたのです。


 この戦いは、これまでの戦争の経過の中で、ほとんど唯一のオーストリア軍の勝利です。景気のいいニュースが民衆に好まれるのはどこの世界も一緒です。

 ガブレンツはたちまち「英雄」と称えられました。後日トラテナウの名前を冠した行進曲まで作られたほどです。

 

 が、喜んでばかりはいられませんでした。

 

 勝利は高いものにつきます。

 プロシアのボーニン軍団が士官56名・下士官と兵1,282名を失ったのに対し、ガブレンツの軍団は士官191名・下士官と兵4,596名と、およそ一個旅団の八割を失うという大打撃を受けました。


 確かにボーニンのプロシア第1軍団は退却しましたが、ガブレンツのオーストリア第10軍団もトラテナウを保持することは難しくなっています。

 

 なぜならば同日、トラテナウの南東二十五キロ、ナーホトの町周辺での戦闘で味方第6軍団が敗れ、ガブレンツの左側(東)が敵に押さえられて、彼の痛めつけられた第10軍団は敵という「海」に突き出す「半島」のような格好になっていたからでした。


 翌28日、ガブレンツは、ボーニンの「後始末」にやって来た泣く子も黙るプロシアのエリート、フォン・ヴィルテンベルグ親王大将が指揮する近衛軍団を迎え撃たねばならなくなります。


 ガブレンツは包囲を計る近衛部隊に対し、昨日奮戦したグリヴィック大佐の旅団を使います。既に定員割れを起こしている疲れ果てた部隊は、味方が退却する時間を稼ぐため必死で防戦に努めました。

 オーストリア第10軍団(の残兵)は、この後衛が全滅することによってかろうじてトラテナウから脱出して行ったのでした(これを「ノイ=ログニッツ(別名ブルケルスドルフ)の戦い」と言います)。

挿絵(By みてみん)

オーストリア軍歩兵

トラテナウの戦いに参加した部隊


☆オーストリア北軍


○第10軍団 戦闘員26,000名(以下同じ) 指揮官;ガブレンツ中将


 モンデール大佐旅団 6,700 砲8門

 グリヴィック大佐旅団 5,700 砲8

 クネーベル少将旅団 6,700 砲8

 ウィンプフェン少将旅団 6,600 砲8

 槍騎兵3個中隊 500騎

 軍団砲兵 900 砲40(全体で72)


☆プロシア第二軍


○第1軍団 32,700  フォン・ボーニン大将


 第1師団 14,700 グロスマン中将

  第1旅団 パーペ少将 6,100

  第2旅団 バルニコウ少将 6,100

  猟兵第1大隊 1,000

  騎兵 780

  砲兵 580 砲24

  他


 第2師団 14,400 クラウゼヴィッツ中将

  第3旅団 トルゼビアトゥスキー少将 6,100

  第4旅団 ブッデンブロック少将 6,100

  騎兵 600

  砲兵 580 砲24

  他


 騎兵予備旅団 1,250騎 ブレドウ大佐 

 予備砲兵 980 砲42


 因みに、プロシア第2師団の指揮官クラウゼヴィッツ中将は、あの「戦争論」を書いた人ではなく、その甥っ子です。


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