クストーザの戦い(後)
この午前遅くの時点で、マルモラも対するアルブレヒト親王もお互いに戦況は不利と感じていました。
こうなればもう我慢比べです。
このままでは負け戦で、退却せざるを得ない、と司令官が感じた時、彼が取り得る最善の方法は、戦線が完全に崩壊する前に部隊を効率よく動かし、敵の攻撃を防いで戦線を安定させ、ひとまず膠着状態を作ることです。
しかし、言葉で言うのは簡単ですがこれはとても難しく、指揮官自身の素早い決断と統率力が求められます。
マルモラとアルブレヒト。果たしてどちらがそれに優れていたのでしょうか?
午後一時。マルモラ大将は、このままではせっかく四角要塞地帯に確保したミンチョ川の橋頭堡(川や海岸に確保した攻撃の足掛かりとなる土地)が失われてしまう、と危惧し攻撃中止・部隊の後退を命じました。
ここに忘れられていた師団が登場します。
ゴボーネ少将の指揮するイタリア第9師団。第3軍団に属する彼らは、それまで大した敵に遭遇戦せずにゆっくりと戦場を東へ移動していましたが、偶然にもオーストリア第7軍団の間をすり抜け、ブリゴーネが負傷した王子様を抱えて降りたベルヴェデーレの丘にやって来ると、再びここをオーストリア軍から奪い返します。ここに残っていたオーストリア兵は激戦の直後だったこともあり疲れていて、丘を追い落とされてしまいました。
一方、サンタ・ルチアで丘を追い落とされたシルトーリ率いるイタリア第5師団は近郊で体制を整え、ここまでよく踏み留まっていました。
午後2時頃になると、オーストリア第5軍団のロディッヒ中将はこのサンタ・ルチア周辺に居座るイタリア第5師団に対する攻撃を始めました。
ここまでがんばった第5師団司令官シルトーリ少将ですが、マルモラから撤退命令が届いたこともあって後退を決意、師団は戦いながら退却に移りました。
ところが、これでイタリアの戦線に空隙が生じました。先ほどのオーストリア軍の「穴」にイタリア軍首脳は気付きませんでしたが、オーストリア軍は違います。
このサンタ・ルチアに開いた無防備な穴からロディッヒ司令官は、部下の旅団を前進させます。その南には何も知らないイタリア第9師団がベルヴェデーレの丘にがんばっています。そして更に南ではオーストリア第9軍団が残りのイタリア師団を戦いながら西へ、ミンチョ川へと押し返して行きました。
ロディッヒ
ベルヴェデーレのゴボーネ将軍は、この丘から見えるのどかな田園風景や、その先にうっすらと見えるヴェローナの街を見て、ついにオーストリア軍の戦線を突破した、と確信します。このまま丘から進撃し、ビアフランカを落とせば進み過ぎたオーストリア軍は敗走するに違いない。自分がその先頭に立って、この戦争で名を残せるかも知れない。
しかしそんな甘い考えもすぐに吹き飛びます。偵察隊からの報告に彼は冷水を浴びせられたような衝撃を受けてしまったのでした。
なんと、敵に取り残されているのはオーストリアではなく自分だ、と。丘の周囲はオーストリア兵だらけで、イタリア軍は、あの亀のように閉じ籠もっていた二個師団すらとっくに後退してしまった後でした。
オーストリア第7軍団司令官マローシッチ中将は予備として後ろに控えていましたが、この決定的な瞬間に戦場に登場します。ここからアルブレヒト親王が投入した第7軍団の残り二個旅団(テプリー大佐旅団とヴェセルスハイム大佐旅団)の猛攻が始まりました。親王の決断は実に冴えていたのです。
午後4時30分。勇躍戦場にやって来たマローシッチ司令官は手始めにベルヴェデーレの丘へこの二個旅団を全力投入、イタリア第9師団は、一気に丘を駆け上った敵旅団の銃剣突撃を受けてしまいました。こうしてマルモラの下した撤退命令を知らなかったゴボーネの第9師団はたまらず敗走に移りました。
ジョセフ・F・マローシッチ
同じ頃クストーザの南では、オーストリア第9軍団ハーツィング司令官が部隊を二つに分け、一つは南から来るであろうイタリア第2軍団への対処のために残すと、もう一つの部隊でクストーザ南方に残っていたイタリア第3軍団所属の第8師団を攻撃し、多くの捕虜を得ます。既にこのイタリア軍部隊は戦意を失っていました。
更に北のサンタ・ルチアを片付けたオーストリア第5軍団も駆け付け、イタリア軍は雪崩を打ってミンチョ川へと退却して行きます。
午後5時。早朝、この戦いの最初に突撃を敢行したプルツ大佐らの騎兵たちがイタリア軍を追撃し更なる出血を強いて、長かった一日を締め括りました。
マルモラが待ちわびていたクージャ中将の第二軍団は、昨夜の雨で泥沼と化したミンチョ河畔の沼地で渋滞し、結局決戦には間に合わなかったのです。
「戦いの後、クストーザの惨状は思わず目を伏せるもので、田園の一軒家は炎を上げ、その周りには死体が積み重なり、また、部落の至るところに重傷で死にかけた兵士や、手足を失って動けなくなった者が溢れていた」(普墺戦史・オーストリア参謀本部編/意訳)
クストーザの戦い
この戦いでのオーストリア軍の損失は7,956人(内捕虜は1,500人)、イタリア軍は8,145人(内捕虜は4,000人)。
勝ったオーストリア軍の死傷者が多かったのは、イタリア側が丘陵などの上に陣取って防戦一方だったのに対し、丘を登りながらの銃剣突撃が多かった事が理由として上げられます。
そして、この勝った側のオーストリアの死傷者が多かったという事実、銃剣突撃の多用が、十日ほど後に重大な結果を招くことになるのです。
さて、この戦いは大きな波紋を呼びます。
ヴェネト南側で、ようやくポー川を越え、更に北のアディジェ川(上流に行けばヴェローナ)を目指していたエンリコ・シャルジーニ大将の「ポー川方面軍」は「クストーザの戦い」に本軍のミンチョ川方面軍が敗れたことを知ると、前進を止めます。
合撃のパートナーが敗退すれば、次は一対一の戦いです。しかも敵は12万の味方を半分ほどの兵力で破ったのです。ポー川方面軍はおよそ8万人。将兵の間にこの「本軍破れる」のニュースが駆け抜けると、彼らはたちまち戦意喪失。どうもイタリア人は後々まで(第二次世界大戦)もこのパターン「熱しやすく冷めやすい」が続きます。
結局、シャルジーニ大将は反転を決意、イタリア軍はヴェネトを去って行きました。
エンリコ・シャルジーニ
オーストリア軍のアルブレヒト親王は悩みます。普通、会戦の勝者はその戦果を拡大するため敵が負け戦に憔悴している内に敵を追撃し、支配地を拡大するものです。この場合、つい7年前にフランス経由でイタリアに引き渡したヴェネト西方のロンバルディア地方まで進撃するのが常識と言うものでした。
しかし、彼には足かせがありました。それはフランスです。
フランス皇帝ナポレオン3世は、プロシアだけでなくオーストリアとも抜け目なく密談していました。そして、中立を守る代わりにオーストリアが防御だけで侵略はしないと約束させたのです。つまり、ロンバルディアにオーストリア軍が入れば、フランスは介入するという事です。
仕方なくアルブレヒト親王は部隊を国境沿いで止め、イタリアの次の動きに備えることにしました。
ところが、その直後、とんでもないニュースが飛び込んで来ます。
そしてニュースを追いかけ皇帝から「直ちにヴェネトを離れて部隊と共に首都ウィーンへ急行せよ」との命令が届きました。
アルブレヒト親王は第5、第9の二個軍団を率い、第7軍団と要塞部隊を残しただけで7月13日頃からヴェネトを離れオーストリア本国に去りました。
親王を急遽イタリアから去らせたニュース。それは西方諸侯の戦いでバイエルン国王ルートヴィヒ2世を驚愕させ、軍を置いてアタフタとフランクフルトへ逃走させたニュースと同じものでした。
「7月3日。オーストリア北軍はボヘミアのケーニヒグレーツ要塞付近でプロシア軍に大敗を喫す。現在北軍は退却中」




