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クストーザの戦い(前)

 クストーザ(Custoza)。クストッツァとかクストーツァとかとも呼びますが、この項ではクストーザで通します。

 ここはヴェネト地方でもなだらかな丘陵が続くぶどうの産地。ワインも質の良いものが出来ます。


 このヴェローナ郊外ビアフランカの小さな部落が世界史に二度登場します。


 一度目は1848年の第一次イタリア統一戦争。サルディニア王カルロ・アルベルトが自ら率いた軍が、オーストリアの将軍ラデツキーに敗れた場所として。

 二度目が、この普墺戦争の南部戦線・第三次イタリア統一戦争での戦いです。


 完全な余談になりますが、最初の戦いに敗れたアルベルト王の息子がこの1866年のイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世であり、勝者ラデツキー将軍はオーストリアの英雄となり、これを受けて作曲家ヨハン・シュトラウス1世が1848年に作曲したのがウィーン交響楽団がニューイヤーコンサートで必ずアンコール演奏する「ラデツキー行進曲」です。

 おや?知らない?ドコかで探して聞いて頂ければ「ああ!!」となる有名なメロディーです。


 閑話休題。


 1866年6月23日。イタリア・ミンチョ川方面軍のラ・マルモラ大将は、マントバとペスキエーラの中間、ゴーイトの周辺でミンチョ川を渡河します。

 この辺りは1848年にもサルディニア軍が渡河した因縁の場所でした。

 ここで夜を迎え野営をすることとしますが、折しも夜11時から翌24日午前2時まで豪雨が降り、視界は悪く、降りしきる雨は野営するイタリア兵を濡らし、彼らは重い装備の影でずぶ濡れとなり、なかなか寝る事が出来ませんでした。


 一方、オーストリア軍は敵がミンチョ川を渡河したとの情報で一斉に動き出し、ずぶ濡れになりながらも夜間行軍をして戦闘配置に付きました。

 この雨が後に勝敗を左右することになります。


 24日早朝、ゴーイトの町に本営を置いたマルモラ大将は、町を流れるミンチョ川を眺めながら早朝の騎兵たちの偵察報告を受けました。結果、ミンチョ川のマントバとベスキエーラの間には敵の姿はわずかで、騎兵が数騎見られただけとの報告を信じたマルモラは第1、第3二つの軍団を北東のビアフランカ方面に進ませ、一挙にヴェローナをうかがう形とします。


 夜が明けた午前6時頃、現在はヴェローナの空港があるビアフランカの郊外でイタリア第3軍団に属するフンベルト少将の師団(第16師団)の前衛がオーストリア軍の斥候騎兵(偵察隊)に遭遇、これを撃退します。これが戦闘の始まりでした。


 やがて第16師団と隣りを行く同じ第3軍団所属の第7師団本隊がビアフランカ郊外に達した時、突如、オーストリアの騎兵に奇襲されました。オーストリアの騎兵はプルツ大佐とボジャノクス大佐に率いられた騎兵二個旅団(およそ5,000騎)です。


 前日の雨で兵士は寝不足、しかも付近はぬかるんだ泥、足を取られて難渋するイタリア二個師団二万の兵は、この騎兵二個旅団の波状突撃に驚きあわてました。

 騎兵に対し有効な砲兵の砲撃はわずかでした。師団に随伴する筈の砲兵部隊は遥かミンチョの川からわずかに進んだだけ。ほんの数門が歩兵に随伴していただけでした。

 砲兵たちのほとんどは、前夜の雨で泥濘と化した道に砲の車輪が沈み、砲車を引く馬も脚を取られてなかなか前に進めないでいたのです。


 しかし、イタリア軍は不意を打たれたとはいえ猛反撃し、オーストリア騎兵は多数の負傷者を出し撤退して行きました。

 ところが、ここで驚くことが起きます。攻撃が不意打ちだった事でイタリア軍に動揺が広がり、この騎兵がやって来た方向に敵オーストリアの大軍が控えているはずだ(事実そうでしたが)等と言う勝手な憶測が乱れ飛び戦意喪失、それは指揮官たちにも伝染してしまいました。

 師団の指揮官たちは直ちに進軍を止め、隊を整理して防御の態勢を取らせました。それは24日丸一日続いて、イタリア第3軍団の半数はこの日殆ど役に立たないことになってしまったのです。

挿絵(By みてみん)

墺驃騎兵の突撃(クストーザ)


 午前9時。ぺスキエーラ南東五キロのオリオシという村近郊でイタリア第1軍団所属第1師団と、オーストリアの予備歩兵師団が激突します。

 セラーレ少将率いるイタリア第1師団は一時、オリオシ北方の丘陵を占領、高台から見下ろされ小銃を撃ちかけられるオーストリア軍が不利となりますが、ここで予備歩兵師団に属する槍騎兵隊のうち100騎ほどが丘を掛け上がってイタリア軍を襲撃しました。

 槍騎兵はイタリア兵の射撃を受け、17騎を残して倒れるという大損害を受けますが、この豪胆な騎兵の襲撃に驚いたイタリア兵は、大砲などの武器を捨て丘から退却する羽目になってしまいます。

 これで形成が逆転、イタリア第1師団はミンチョ川に向かって退却、ここでタイミングよくオーストリア第5軍団所属のピレー少将旅団が駆け付けて第1師団を追撃、イタリア軍は師団長セラーレ少将が瀕死の重傷を負うという損害を受けて完全に敗走に移ってしまいました。


 一方、同じイタリア第1軍団所属シルトーリ少将率いる第5師団は孤軍奮闘、午前8時にはビビった同僚第7と第16師団が停滞している北方三キロのサンタ・ルチアでオーストリア第5軍団と激闘を繰り広げます。


 軍団戦力の三割にあたるピレー旅団を北のオリオシで戦う予備師団の増援に送った第5軍団指揮官ロディッヒ中将は、残った二個旅団で丘陵に構えるイタリア軍に対し「ミニ合撃」を仕掛け丘を二方向から攻撃します。 鍛え上げたオーストリア兵の銃剣突撃を迎えた丘の上のイタリア第5師団は大損害を受け、結局丘から追い出されてしまいました。

 たった三キロという至近距離には二万近くの友軍二個師団がいましたが、彼らは友軍の苦戦にも甲羅に籠って動かない亀のようでした。


 午前8時30分。イタリア第1軍団所属ブリゴーネ少将指揮のイタリア第3師団は、オーストリア軍がシルトーリ少将の第5師団を攻めている隙に間を抜けて前進、ビアフランカ北西4キロのクストーザ近郊に達し、ここでオーストリア軍ハーツィング中将の第9軍団の一部と戦いながらクストーザ郊外のベルヴェデーレ丘を奪取します。

 午前9時となり、ブリゴーネ師団の動きに気づいたハーツィングはイタリア軍を丘から追い落とそうと、部下に攻撃を命じます。しかし、波状攻撃を掛ける第9軍団は丘の上の第5師団をなかなか駆逐出来ません。攻撃は一時間以上も続きました。

挿絵(By みてみん)

エルンスト ハートゥング

 この第3師団の連隊の内の一つをイアリア国王エマヌエーレ2世の次男であるアメディオ王子が率いていました。

 この血気盛んな王子様が持ち場から離れ、部下を引き連れ反撃を企てて失敗、負傷してしまいます。ブリゴーネ師団長は王の息子を手をこまねいて戦死させる訳にもいかず、丘を捨て退却しなくてはなりませんでした。


 同じ頃、戦況不利との報告を受けたイタリア軍司令官、ラ・マルモラ大将はマントバ要塞方面を警戒していたクージャ中将の第2軍団から部隊を抽出して、ブリゴーネ第3師団への増援とするため前進を命じます。


 オーストリア軍司令官アルブレヒト親王は、南からやって来るこの新たな脅威に対しても対抗せざるを得なくなり、第9軍団からボック大佐旅団を引き抜き、また虎の子の予備部隊、第7軍団からスクデール少将旅団などを向かわせます。

 しかしこれによって、オーストリアの戦線に大きな「穴」が開きました。こんなチャンスは滅多にありません。が、それに気付くイタリア軍指揮官はいませんでした。



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