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アルブレヒト親王の深謀

 この「第三次イタリア統一戦争」とも呼ばれる普墺戦争の南部戦線で戦場となり、また、その領有が問題になっていたヴェネトという地域。少しだけ説明します。


 ヴェネト地域は元々、ヴェネツィア共和国という八世紀頃から存在していた歴史上もっとも長く続いた(現在もタイトルホルダー)共和国の本土でした。

 この国が「ヨーロッパ中世の破壊者」ナポレオンにより占領され滅ぼされた頃(1797年)、ナポレオンが強引にオーストリアと交渉、当時オーストリア領だったベルギーと交換状態でオーストリア領となった場所です(カンポ・フォルミオ条約)。

 ネポレオンが敗れ去った後のウィーン会議(1815年)は、基本を「ナポレオン以前に戻そう」と言う事でしたが、ヴェネトを戻すべきヴェネツィア共和国は既に無く、ベルギーもオランダと合同しネーデルランド王国(のちベルギー王国として分離)になってしまい、ヴェネトはそのまま隣のロンバルディア地域とともにオーストリア領となってしまいました。


 イタリア人が、フランス人とドイツ人によって「奪われた」この北イタリア、ポー川流域の肥沃な平原を「取り返すべき場所」と意識したのは当然だったことでしょう。


 余談になりますが、このウィーン会議でプロシアはザクセン王国のほぼ半分、ラインラント(ヴェストファリア領)、ルクセンブルク領の一部、オランダ王室が持っていたドイツ領などを獲得し、オーストリアと肩を並べる王国に成長しています。


 さて、その後のイタリア統一戦争でヴェネト隣のロンバルディアやシチリア、ナポリ地域などを合同させた北西部イタリア人たち。

 南部シチリア、ナポリの制圧に大活躍したガルバルディたちの、イタリアを一つにして自由主義の共和国を造ろうと言う共和派と、サルディニア王国をそのまま拡大してイタリア王国としたい王国派が激突、と思われますが、「イタリアの坂本竜馬」(と勝手に呼びます)ガルバルディがサルディニア王の手を取って「ここにイタリア国王がいらっしゃる!」と大見得を切り、共和派も従わざるを得なくして更なる内戦を防いだという「テアーノの握手」でイタリア王国が誕生します。

 

 しかし、オーストリアはヴェネトに居座り、ローマは教皇領ですが実質フランス(またまた敵役ナポレオン三世!)が支配していました。

 これらを「回収」しなければイタリアというジグソーパズルは完成しません。

 

 小ドイツ主義(オーストリア抜き)でドイツを完成しようとするプロシア王国と、「完全な」イタリアを完成したいイタリア王国が同じ敵オーストリアと戦うために共同(同盟ではありません。念のため)するのは必然だったのかも知れませんね。


 では、イタリアがどうオーストリアと戦ったのか見てみましょう。


オーストリア軍は既に5月、イタリアがポー川の下流に集合し、更にそれが二つの軍に分裂したことを確認していました。

 一つは北イタリアを東西に流れる大河、ポー川の下流南岸に集結しつつある軍。もう一つはヴェネトの西側国境、ロンバルディアを縦(南北)に流れてポー川に合流するオグリオ川に沿って集結する軍。


 情報によれば、合わせればオーストリア南軍が動かせる7万人を三倍する20万を数えると言うイタリア軍を見て、オーストリア南軍を任されたアルブレヒト親王は首を傾げます。

「どうして奴らは分かれて攻めて来るのだろう?一つにまとまってゴリ押しされたら我々は要塞に閉じ籠って避けたい消耗戦に入るしかなくなるのに」


 このアルブレヒト親王、本名はアルブレヒト・フリードリヒ・ルドルフ・フォン・エスターライヒ=テシェンという長い名前。今ではチェコとポーランドに分割されたテシェン(チェシン)公国の王様で、お父様はナポレオンと戦ったカール大公という人です。


 このカール大公はナポレオンに敗れる事が多くありましたが、それは軍が旧弊だったためで、作戦は鋭く、ナポレオンの部下たちを度々破っていますし、一度はナポレオン自身にも勝っていて、初めてナポレオンを破った男として有名でした。

 軍事思想家としても有名なこのお父様の息子がアルブレヒト親王です。その血統を受け継いで軍事能力の優れた人だった様です。

 テシェンはプロシア領シュレジエンの南東にあり、アルブレヒト親王は自分の領地がプロシアとの戦場となるのを気にしていたと思います。しかし、親戚筋であるフランツ・ヨーゼフ一世皇帝から帝国の南側を一手に任され、しかも三倍の敵を防がなくてはなりませんから責任重大だったのです。

挿絵(By みてみん)

アルブレヒト親王

 アルブレヒト親王はイタリア軍の分進合撃の形成を見て、考えます。

 南側の敵はおよそ8万人、西側は1.5倍の12万。南側(ポー方面軍)はポー川下流を渡って北上し、ヴェネツィアを目指すか、北西に回ってヴェローナを背後から襲うかを狙うはず。

 一方、西側の敵はそのままミンチョ川へ突進し、ヴェローナを狙うだろう。


 アルブレヒト親王は決断します。南を置いて最初に西と戦う、と。

 分進合撃を散々破って来たあのナポレオンの「各個撃破」(二つの敵を一つずつ順番に撃破)の再現を狙おうと言うのです。


 親王の決断には理由が二つあります。

 一つは、今まで拙作を読んで頂いた方には明白な理由、イタリア軍の指揮統一が出来ていない事。そしてイタリア・ポー川方面軍が直面する増水したポー川渡河という難問。ここは少ない守備隊でも川岸に陣取られれば、イタリア軍の渡河作戦は大変な出血と遅延が予想されました。

 一方が手間取る隙に片側を叩くと言う作戦は、正に「内戦作戦」の王道です。


 そして親王の決断の理由その二が「四角要塞地帯」の存在でした。


 オーストリアはヴェネトに一大要塞地帯を構えていました。これは当時「四角要塞地帯(クアドロデッラ)」として世界的に有名で、レニャーゴ、マントバ、ヴェローナ、ペスキエーラ・デル・ガルダ(ガルダ湖南端・ミンチョ川の始点)の四つの要塞を結んだ四角形地域で、要塞の間に保塁や陣地を設けた近代的な防衛地域でした。

 これがヴェネトと西方ロンバルディアの間に存在していたのです。


 いざとなればオーストリア軍はこの「四角形」の中に逃げ込み、耐久が可能です。親王はこの四角形の西側の辺、ペスキエーラとマントバを結ぶ線に野戦軍の殆ど全部6万余りを配置するのです。


 当然、イタリア側も「四角要塞地帯」の事は良く知っていました。知っていたからこそ、イタリア軍は本軍をロンバルディアに置き、要塞地帯を「抜いて」ヴェローナの攻略を目指したのです。


 本軍のマルモラ大将は、この要塞地帯を突破しないことにはヴェネトは手に入らない、と考え、ポー川方面軍のシャルジーニ大将は、この要塞地帯を避けて南から要塞の縁に沿ってヴェローナを攻めるべき、と考えたのでした。


 この考えの相違の果てに「分進」となった事はイタリアの悲劇でした、が、今考えると果たして合同していてもこの要塞を抜けたかどうか……


 そして6月15日を迎えます。

 パルマとボローニャの線に展開した「ポー川方面軍」は北上を始めました。目指すはポー川です。

 ロンバルディアのブレシアから南のポー川にかけて展開していた「ミンチョ川方面軍」はその名を冠するミンチョ川へ東へと進撃を開始するのでした。


 6月24日。ミンチョ川に達したイタリア「ミンチョ川方面軍」は、「四角形」南西のマントバを第2軍団で囲み、第1と第3の2個軍団はミンチョ川を渡河、要塞地帯の都市、ビアフランカを目指します。

 そしてここでいくつかの戦いが同時進行で始まります。これが「クストーザの戦い」と呼ばれるイタリア軍対オーストリア軍の決戦となるのです。



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