表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/534

イタリアの戦い

 このオーストリア南部ヴェネトの戦いは、普墺戦争でも別の「サイドストーリー」です。 まあ、サイドストーリーとは言っても、それは数を見たら西部諸侯の戦いとは桁違いで、北部に匹敵する戦いではあります。


 ここではざっと見てしまいましょう。


 開戦直前、オーストリアはイタリアが置かれた立場やその軍の動員、外交状況から自分たちに向かって刃を向くのではないか、と考えていました。 

 そこで思い切った提案を行います。もしオーストリアを応援するか、最低でも中立を保てば褒美を遣わそう、と。

 まあ、「遣わそう」なんて偉そうに言ったかどうかは知りませんが、相手はイタリア統一戦争では広大なロンバルディア地方を奪われた憎き敵性国家です。交渉の端々に皮肉くらいは滲んだでしょう。


 両国の歴史も桁違い。サルディニア等という「辺境の地方」が中央ローマや南部ナポリを攻め取った訳ですから、あのローマ帝国以来の統一などとはしゃぐイタリア人を眉をひそめて見ていたオーストリアです。

 それが自分から頭を下げる形で「褒美」をあげるというのですから、オーストリアにしては最大の譲歩、逆に言えば追い込まれた形でした。


 では、肝心の褒美とは?

 それはイタリアが欲しくてタマらないもの、イタリアというジグソーパズルで最後に残った北東側にある大きなピース、ヴェネト地方です。その中心都市ヴェネチィアは中世から栄える商業海運都市。一時期はその海運力で地中海を「我らが海」とした存在は正に「アドリア海の真珠」でした。


 イタリアも困惑したことでしょう。わずか二ヶ月前にプロシアのビスマルクから提案され喜んで秘密協定を結んだ条件が「ヴェネト」だったのですから。この場合、同じ条件でも優位性が違います。


 プロシアが「一緒に戦って勝ったらあげる」、オーストリアは「最低でも中立でいたらあげる」です。しかもヴェネトは今、オーストリアが持っています。「他人が持っているヴェネトを一緒に暴力で奪おう」というのと「黙って喧嘩を見ていたらぼくのヴェネト、きみにあげるよ」とではどっちが得か五歳児でも分かります。無血でのどから手が出るほど欲しいヴェネトが手に入る可能性にイタリア王国首脳は悩みました。


 しかし、秘密とは言え国家同士の協定を破ったりしたら間違いなくあのビスマルクのことです、事を公にしてイタリアを信頼ならない野蛮な国として非難し、イタリアが二度と国家間の条約を結べなくさせることでしょう。

 それに心情的にも統一は「貰う」より「奪い返す」方が良いに決まっています。ラテン民族はこういうプライドや熱狂を重要視するから尚更です。後ろ髪を引かれながらもイタリアはオーストリアの提案を無視、プロシアの宣戦布告を待ってオーストリアに最後通牒、同時にヴェネトの有力都市ヴェローナめざし二手に分かれて国境突破、オーストリアに対し宣戦を布告しました。


 ここで両国の戦力を見ておきます。いつもより少し細かく紹介してみました。本物はもっと細かく砲が何門とか、馬が何匹、輜重(しちょう)部隊(物資や弾薬を運ぶ後方非戦闘部隊)なども書くものですが、こういうリストを軍事では「戦闘序列」と呼びます。ミリオタさんはこう言うの燃えますからね。興味のない方は総数だけ見てさっさとスクロール。


☆イタリア王国軍

総指揮官 イタリア国王

参謀長 アフォンソ・フェレーロ・ラ・マルモラ大将


○ミンチョ川方面軍(本軍) 国王直卒 120,000 13個師団

 内訳

 第1軍団 40,000(第1、2、3、5師団) デュランド大将

  軍団騎兵1800騎

 第2軍団 40,000(第4、6、10、19師団) クージャ中将

  軍団騎兵1200騎

 第3軍団 40,000(第7、8、9、16師団) デラ・ロッカ大将

  軍団騎兵1800騎

 騎兵師団 (2個騎兵旅団) 2400騎 デ・ソンナ中将

 ほか軍直轄砲兵


○ポー川方面軍(第4軍団基幹)エンリコ・シャルジーニ大将 80,000 8個師団

 (第11、12、13、14、15、17、18、20師団)

 軍団騎兵3600騎

 ほか軍直轄砲兵


☆オーストリア帝国軍


○オーストリア南軍 140,000

司令官 アルブレヒト親王

参謀長 ポーン少将

内訳

第5軍団 20,800  ロディッヒ中将

 (バウエン旅団、メーリング旅団、ピレー旅団)

 ほか軍団砲兵

第7軍団 20,100 マローシッチ中将

 (テプリー旅団、スクデール旅団、ヴェッセルハイム旅団)

 ほか軍団砲兵

第9軍団 19,500 ハーツィング中将

 (キルヒベルク旅団、ウェックベッケル旅団、ボック旅団)

 ほか軍団砲兵

歩兵予備師団 11,300 ルプレヒト少将

 (ワイマール旅団、ベッコー旅団)

プルツ騎兵旅団 2,500騎

ボジャノクス騎兵旅団 3,600騎

チャスタコウニック独立旅団 6,600


○チロル兵団 13,000 クーン少将

 (トール軽旅団、ヘッフェン軽旅団、アルベッチーニ軽旅団、メンツ軽旅団、カイム旅団、ロース軽旅団、モントルイス軽旅団)

※軽旅団とは連隊(1,200名前後)規模の部隊。

※他は沿岸守備、要塞守備など約70,000



 この数だけ見たら圧倒的にイタリア優位です。しかもオーストリアを降伏に追い込まねばならないプロシアと違い、欲しいヴェネト地方とあわよくばチロル地方を占領してしまえば、後はプロシア軍にがんばって貰えばいい訳です。

 オーストリアとすれば北のプロシアに少しでも集中したいところですから、15万もの兵員を割かれたのは痛かったことでしょう。


 しかも北の戦いと違って、南の戦場には陸だけでなく海もあります。

ここではアドリア海という、ちょうど日本海によく似た国家間の争いの焦点になりやすい海があります。

 海軍力ではさすが元が島と沿岸の王国サルディニア王国と、シチリア王国が主体のイタリアが優勢、新生国家の海軍は新式鉄張りの装甲艦12隻を筆頭に後ろ込めの大砲、新型エンジン搭載の動力艦などを多数配備、新時代の艦隊でした。

 対するオーストリア海軍は木造船で大砲も砲口から弾を込める前込め式、帆船が主体の旧時代の海軍。装甲艦の数は7隻と敵の6割。これではイタリアが圧勝か、と思われましたが、いざ開戦となるとイタリア海軍は次から次へとボロが出てしまいます。

 

 6月22日。出航しオーストリア艦隊を探し攻撃せよ、との命令でボイラー(エンジンの動力機関)を炊いたら新式エンジンは故障続出、エンジンがかかっても水兵の訓練が間に合っていなかったのでまともに進めない艦が続出、やっと半数以下で海に出ても戦う自信のない艦長たちや提督らは「さあ、どうやって戦おう」と話し合うばかりでアドリア海に漂っているだけ。

 対するオーストリアもアドリア海に出たものの、イタリア艦隊がやって来ないので、不利を承知の艦隊指揮官は無理をせず、これ幸いと港に引っ込みました。


 何ともしまらない海の戦いの序盤ですが、この後、戦争の最後期に海軍の歴史に残る海戦が発生します。その海戦の話は後日。


 一方、北のプロシアとの約束通り積極的に打って出たイタリア軍は、やはりモルトケばりの分進合撃を図るかのように、本軍とポー川軍が並進してヴェローナを目指しました。


 とはいうものの、これは偶然に分進合撃の格好になっただけで、その理由は国王から実質的に本軍の指揮を任されていた参謀長のマルモラと、ポー川方面軍指揮官ジャルジーニ将軍が攻撃方法を巡って意見が合わず、統一した行動が取れなかったことが原因です。

 この遠因は、未だイタリアが真に一つとなっていなかった事が挙げられます。日本でも明治維新後に廃藩置県を行い、武士の反乱が相次ぐ中、西南戦争を経てようやく一つにまとまったように、イタリアもまた、数年前まで違う国だった者同士が手を組んで軍隊を作っていたのでした。

 結局、「お互い分かれてヴェローナをゴールにして進もう」ということになったのです。その進路上にある北イタリアの代表的な大河ポー川は6月の雨で増水し、渡河はなかなか難しいと思われました。

 どちらかと言えば先行する12万のミンチョ川方面軍は、ポー川を渡河しなくてはならないポー川方面軍を引き離して先に進むのではないか、と思われました。


 分進合撃は綿密な計画とそれを実行する指揮官の臨機応変と機知によるタイミング調整で初めて成功する難しい戦法です。モルトケと鉄道があるプロシアはそれを一生懸命訓練して来ました。ぽっと出のイタリア軍には難し過ぎます。そして、分進合撃は「戦いの原則」が程良く織り込まれなければ大変危険な行動なのです。


 モルトケ流の分進合撃は、「主動の原則」「機動の原則」「警戒の原則」「戦力節約の原則」などを複合して守り、そしてなにより「目的の原則」と「指揮統一の原則」が底辺にしっかりと根を張らなくては成立しない作戦なのです。

 本家のプロシアですら、この後で分進合撃に失敗します。それは「指揮統一の原則」にほころびが生じたためで、その後の戦いにおいてもモルトケ流の分進合撃を図る軍隊は、強固な一本の指揮系統でオーケストラの様な一体感を作れないと失敗しています。

 

 その点でこの普墺戦争のイタリア軍をみたら、ほころびだらけで逆に最初から危険な状態だった、と言わざるを得ません。


 特に危険なのは分進時の各部隊の連絡調整で、プロシアでは電信線を引きながら進み、相互の連絡と調整は参謀本部が責任を持って行っていました。モルトケという世界有数の「名コンダクター」だからこそ複雑な進軍とタイミングを合わせた合撃が可能なのです。


 イタリア軍のコンダクターは国王です。しかし統一の象徴として尊敬はされるものの実際の指揮采配は信頼する部下である元サルディニア軍総司令官ラ・マルモラ将軍が執り、そのマルモラの部下である元サルディニア軍の士官たちが、我が物顔で元は敵同士だった部下を率いて行くのです。


 意気揚々と最後の「約束の地」を解放しようと進んで行くイタリア軍の行く先には、暗雲が立ち込めていたのでした。

挿絵(By みてみん)

アルフォンソ・マルモラ

こぼれ話


編成と編制


 さて本編の「戦闘序列」を見て何か気付かないでしょうか?

 イタリア軍は「師団」4つを組み合わせ「軍団」を作っていて、オーストリア軍は「旅団」を3つ組んで「軍団」を作っています。


 これはミリオタさんにとっては好物な展開で、正に新旧「編制」の違いがぶつかり合う戦いなのでした。数だけでなく、部隊の編制においても優位に立つイタリア。正に新時代の軍隊のはずでしたが……

 

 旧日本軍では天皇の勅令で定められた軍隊の組織・構造のことを「編制」と言いました。例として一番分かりやすいのが「定数」でしょう。分隊は10名、小隊は三個分隊30名、中隊は四個小隊120名、大隊は四個中隊480名、と言った具合です。そして編制は兵員数だけでなく、その兵士の質や将校の階級、銃火器の数や馬匹(ばひつ/ウマのこと)の頭数、輸送車両や戦車等の質や数を定めます。


 このように軍隊での「編制」は軍事組織の決まりごとのことです。


一方で、旅団や師団といった部隊の一単位を組み合わせ、目的に応じた組織に組み上げることを「編成」と言います。

例とすれば、部隊を抽出して出動させる「派遣軍」が分かりやすいかと思います。「編成」は状況に応じて変える事が出来るもので、これは勝手に変更が出来ない「編制」との違いでもあります。


「編成」とは軍事組織を組み立てることです。


 「へんせい」という読みが一緒なため、昔の人は「編成」を「ヘンナリ」、「編制」を「ヘンダテ」と言って区別していました。

 ナリは、まあ、ナリタの成りだから分かるけど、「ダテ」?

 はい、これは制の字の部首「りっとう(立刀)」から来ているのでした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ