表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/538

こぼれ話・一途な愛に生きた貴公子~アレクサンダー・バイ・ライン

 独連邦第8軍団を率いたアレクサンダー将軍は、その数奇な運命に翻弄されながらもただ一人の女性を愛した誠実な貴公子でもありました。


 正式名をアレクサンダー・ルートヴィヒ・ゲオルク・フリードリヒ・エーミール・フォン・ヘッセン・バイ・ライン。1823年7月15日にヘッセン・バイ・ライン大公国(ヘッセン=ダルムシュタット)首都ダルムシュタットで国主・大公ルートヴィヒ1世の公太子、ルートヴィヒ2世の三男として生まれます。


挿絵(By みてみん)

アレクサンダー・フォン・ヘッセン・バイ・ライン


 ルートヴィヒ2世の后ヴィルヘルミーネ妃は当時35歳(2世は46歳)ですが、夫婦仲は冷え切っており別居状態が長く、后は大公付き馬術教師で大公室騎馬厩舎監督官だったスナルクラン・ドゥ・グランシー男爵と不倫関係にあったと伝わり、アレクサンダーは不倫の子と思われています。アレクサンダー公子の2歳上の姉と2歳下の妹もグランシー男爵の子と噂されており、公太子は公然とも言われるスキャンダルから世間の目を避けるため、この3人の子供たちを嫡子として認知し(姉エリーザベトは5歳で死亡)、父大公の死によって跡を継いだルートヴィヒ2世は実子である兄たちと分け隔てることなくアレクサンダー兄妹も養育しました。

 とはいえ、兄二人がいる三男では大公国を継ぐ身になることは難しく、アレクサンダー公子は慣習に従い10歳で軍に身を投じます。


 1841年、妹マリー妃が16歳でロシア帝国皇太子アレクサンドル2世と結婚(政略ではなく恋愛結婚です)することが決まると、アレクサンダーは結婚式に出席するためロシアに向かいます。ところがアレクサンダーは式が終わりヘッセン側の側近たちが帰国してもただ一人サンクトペテルブルクに残り、今や義弟となった皇太子の側近となり、またロシア軍に少将として出仕し近衛騎兵連隊長になりました。

 まだあどけなさの残る妹を異国に独り残すのは忍びなかったのか、本国での自らの立場、「不義の子で兄二人の末弟」という「先が見えている」状態から独り立ちしようとしたのかもしれません。


挿絵(By みてみん)

ロシア皇帝アレクサンドル2世とマリア皇妃


 アレクサンダーは当時ロシアが頭痛の種としていたコーカサス地方で永遠に続くかと思えた「コーカサス戦争」にも参戦し、44年から45年にかけてコーカサス総督ヴォロンツォフ将軍の下、チェチェン討伐作戦で活躍し名声を高めました。

 ところが、ここでアレクサンダーの人生を決定付ける「事件」が起きます。

 妹で将来皇后となりロマノフ家を継続させることになったマリア(ロシア名)妃に傍仕えしていたユリア・ハウケ伯爵夫人と恋仲になり結婚を望んでしまうのでした。


 ユリア・テレーズ・サロメア・ハウケは1825年にワルシャワで、出自を辿ればヘッセンに至るポーランド(当時はロシア領)軍人、ハンス・モーリッツ・ハウケ将軍の四女として生まれますが、1830年に発生したロシアへの反乱で、ロシア側に立ったハウケ将軍は反乱軍に加わるのを拒否したため殺され、反乱鎮圧後にユリアら3人の子女はロシア皇室に保護されマリア妃の侍女となったのでした。

 父がロシア皇帝より伯爵位を授かっていたため「伯爵夫人」を名乗ることを許されていたユリアでしたが、非嫡子を疑われる身であっても一国が正式な嫡男と認めるヘッセン大公の弟・しかもロシア皇帝の義兄でもあるアレクサンダーと、ロシア皇帝に仕えた亡き伯爵の娘とでは身分が違い貴賤結婚に相当するため、皇太子アレクサンドル2世は「義理の兄が后の侍女と婚姻するとは何事か」と猛反対し二人の仲を認めようとしません。皇帝ニコライ1世も近い将来アレクサンダーを皇帝の姪と結婚させようと考えており、二人に別れるよう命じました。

 しかし本気でユリアを愛していたアレクサンダーは、将来を静かに考えるため(それとも頭を冷やすため?)許可なく軍を離れてイギリスに渡り、ためにロシア軍は彼を降格の上不名誉除隊としてしまいます。この時(1851年)ユリアは既にアレクサンダーの子を身籠っており、ロシアに帰ったアレクサンダーは監視の目を掻い潜りユリアを連れ出すと駆け落ち同然でロシアから出奔、プロシア王国シュレジェンのブレスラウ(現・ポーランドのヴロツワフ)へ落ち延びます。二人はここで結婚(同年10月末)しました。


挿絵(By みてみん)

 ハウケ伯爵夫人


 貴賤結婚でロシア皇室に「ミソを付けてしまった」アレクサンダーは、大公となっていた兄に許しを請うため身重のユリアを伴いダルムシュタットに帰ります。兄のルートヴィヒ3世は二人の帰国こそ許したもののロシア皇帝の手前、アレクサンダー夫妻を正式に大公公室に迎える訳にいかず、ユリアに「バッテンベルク伯爵」との称号を与え「ヘッセン・バイ・ライン公爵」の称号を棄てていない夫との差別化を図りました(バッテンベルクは大公国の北西部にある小さな町。普墺戦争の結果普領になってしまいます。ギーセンの北47.5キロ)。この52年春、ユリアは第一子で長女のマリーを出産しました。


 一応、兄大公の許しを得たアレクサンダーですが、国内では肩身の狭い思いをする妻のこともあってか、活躍の場を「南の大国」に求めます。

 アレクサンダーは血筋と軍歴を活かしてオーストリア軍に志願、翌53年、名誉少将の肩書で正式に軍に迎えられます。しばらくは墺本国グラーツに駐留していた槍騎兵を指揮していたアレクサンダーですが、59年、第二次イタリア統一戦争が発生するとフィリップ・フランツ・フォン・シュタディオン・ウント・タン・ハウゼン元帥率いる第5軍団の一旅団を与えられて参戦、初戦のモンテベッロの戦いで防戦一方の中、部隊を効果的に指揮して無事撤退に導き称賛されます。戦時昇進で中将となったアレクサンダーは続く戦いでも精力的に行動し、ソルフェリーノの戦いではフリードリヒ・ツォーベル元帥の第7軍団第1師団を率いて戦線南方のカヴリアーナで奮戦、墺軍不利に傾き総退却となる中、自身の指揮下にない2個大隊も独断で指揮下に加え墺軍の退却路を出来る限り支え、多くの兵士を救うのでした。

 戦後、彼は正式に墺軍中将となり墺帝国最高勲章の一つマリア・テレジア軍事勲章騎士十字章を受勲、活躍を知ったプロシア王国からもプール・ル・メリットを贈られ、また追放状態にあったロシア皇室からも聖ゲオルギオス勲章第3級が、ヘッセン選帝侯国からも軍事勲功章が贈られるのでした。


 墺帝国で優秀な軍人として認知されたアレクアンダー将軍が、普墺戦争で連邦側軍団の指揮を託されたのは必然だったことでしょう。

 様々な「温度差」がある諸侯の軍勢を率いるにあたって、連邦は「座りのいい」総指揮官を探し、一時はバーデン大公国の公太子とヴュルテンベルク王国の王太子が立候補しますが、墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、自国軍人でヘッセン大公国公子のアレクサンダーを強く望み、バーデン大公国の「墺帝国軍人の指揮下では連邦として戦えない」との抗議を受けると、アレクサンダーは墺軍を辞任し、正式に独連邦第8軍団長として出征したのでした。


 普墺戦争の結果、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)、ナッサウ公国などがプロシア王国に併合され、ヘッセン大公国も領地を削られ南北に分断(北は新生北ドイツ連邦に加入)されてしまいますが、大公がロシア皇帝の義兄という立場だったからか、大公国はその存在を許されました。

 戦後の1867年にアレクサンダーは普墺戦争中の日記を出版し、あまり褒められたものではない軍団の戦いを擁護しています。終戦後墺軍に再入隊すると、軍は彼を「騎兵将軍」(中将以上大将以下の格)で迎え、普仏戦争の結果成立したドイツ帝国の下、ヘッセン大公国でも騎兵将軍(名誉職)を与えられています。

 

 1870年代からアレクサンダーとユリア夫妻は冬季にダルムシュタットの大公宮殿で過ごし、夏には60年代から居城としていたゼーハイム=ユーゲンハイムのハイリゲンベルク城館(ダルムシュタットの南13.5キロ)で暮らしました。その暮らし振りは決して華美なものではなかったようですが、交友関係は豊かで、忌避されたはずのロシアからも妹である皇后と共に有力な貴族や大臣なども度々来訪し、また兄大公とも非常に仲が良く、夫妻の日常は常に暖かく高貴な方々との交友に満ちていたように思えます。


挿絵(By みてみん)

 妹ロシア皇后マリア


 既にユリアは1858年、大公から大公家に属するものとして「バッテンベルクの高貴なる殿下(公女)」の名称を許されていました。これは夫婦の子供たちに受け継がれますが、同時に彼らの子供たちは「ヘッセン・バイ・ライン」を名乗る権利がない(即ちヘッセン大公国の大公位を継承する権利がない)ことを示すものでした。

 アレクサンダー自身は亡くなるまでヘッセン大公国の継承権が残る「ヘッセン・バイ・ライン」の姓を棄てず、1888年12月15日、癌でその生涯を閉じます。65歳でした。

 ユリア妃は1895年9月19日に思い出深いハイゲリンベルク城館で亡くなります。享年69歳。


 挿絵(By みてみん)

  アレクサンダー夫妻


 アレクサンダーの子供たち(四男一女)はヘッセン大公国の後ろ盾を経て、新興貴族家とはいえ強力な閨閥を形成し、長女マリーはヘッセン大公国の大貴族と結婚し、次男アレクサンダーは初代ブルガリア公(オスマン=トルコの衛星国)、三男ハインリヒは英女王ヴィクトリアの五女と結婚して英国貴族になると長女がスペイン王妃となり、四男フランツはモンテネグロ王の子女と結婚、そして長男ルートヴィヒは父のように「閉ざされた道を自らの手で切り開くため」に英国に渡り海軍に入隊、ここで後の国王、王太子のアルバートと親友となったこともあり出世の階段を昇り始め、やがて第一海軍卿にまで昇り詰めます。

 ルートヴィヒは名を英国風のルイスに改め、ヘッセン大公の娘ヴィクトリア(母君は英女王ヴィクトリアの次女アリス)と結婚、王家に連なる英国貴族として第一次大戦の開戦後、敵方であるドイツ姓を忌避しマウントバッテン(バッテンベルクの英語変換)を名乗り、王家からミルフォード・ヘイブン侯爵を授けられるのでした。


挿絵(By みてみん)

 ルイス・バッテンベルクとヴィクトリア妃


 時を経て。ルイス・マウントバッテン・ミルフォード・ヘイブン侯爵の長女アリスはギリシャ王国の王子と結婚し、その子フィリップは紆余曲折の果てイギリス王女エリザベスと結婚します。

 そう、現英国王チャールズ3世の父親、エディンバラ侯爵フィリップ王配(2021年薨去)その人でした。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ