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「身内」の戦争

 普墺戦争とは「身内」の戦いです。世界の反対側でほぼ同時期(1861-1865)に発生したその名もズバリCivil War(内戦)「アメリカ南北戦争」と原因は違うものの、その国の主導権をどの「地方」が握るのか、という事では性質が同じものです。

 そう、これまた同時期(1868-1869)に東洋の一国で発生する「内戦」、戊辰戦争も大まかに括れば同じ種類の主導権争いです。


 内戦は同じ風土に生きる人々(同じ「民族」同士とは限りません、念のため)が仲違いした場合に行う最悪の解決法ですが、この19世紀の中頃は、新時代の考えと旧時代の考えが正面衝突する、話し合いや妥協を以てしてもお互いの立ち位置を譲れぬ、もう武力衝突で国の行く末を決めねばならないほどの大きな環境の変化、言い換えれば新旧の落差が起こっていたのでした。 


 そして内戦という悲劇は我が身(国)を削る行為ですから、対外戦争と違い出来る限り素早く、出来る限りお互いが再起不能とまで行かないようにしなければ将来禍根が残り、国が滅びたり一つにまとまる弊害となったりするものです。


 この普墺戦争では「素早く」の部分を軍が、「再起不能まで行かない」部分を政治が受け持ち、後から見ても実にうまい具合に物事が進んで行きました。

 これは現代の我々から見ると、この時のプロシア首脳部が歴史上稀に見るほど人材の組み合わせの妙に恵まれたからだと言うことが分かります。その辺を意識しながらこの戦争を眺める時、軍事は政治と切り離しては考えられないものだ、と言うこともよく分かって来ます。


 残念なことにこの後「軍事」と「政治」が切り離され、やがて「軍事」が「政治」を支配する時代がやって来ました。

 普墺戦争や普仏戦争を辿ってみると、その予兆がこれら19世紀の戦争を通じて浮き彫りになり、実に多くの「伏線」が見えて来ます。伏線はあえて言いません。それを感じ取って頂けたら本望です。


 それは今日の日本が「こうなった」原因に通じています。日本がとても「へたくそな歩み」をした第一次大戦直後から昭和の前半、第二次大戦に至る根源は実にこのプロシアにあるのです。


 先をかなり急ぎ過ぎました。そういうことですので、戦争の話を今しばらく続けさせて下さい。


 さて、この普墺戦争での「西方諸侯の戦い」はサイドストーリーだと申し上げました。

 ここからはいよいよメインストーリーを語ることになります。


 時計の針を1866年5月に戻します。最初は復習ですのでさらりと。


 戦争が避けられぬと確信したプロシア王国首脳は、まずビスマルクが外交で下準備をし、主要各国の中立とイタリアの参戦を勝ち取りました。

 国内の自由主義勢力には盛んにオーストリアはドイツ統一の敵と煽り立て、民族主義者が多かった自由主義陣営との「一時的妥協」を計ります。

 これはオーストリア国内での民族主義をも刺激する可能性も期待したもので、多民族国家オーストリアの少数民族をたいそう刺激するものでした。


 こうした外交攻勢と国内統制に政府が努めていた頃、軍部では間近に迫った対決への準備が最終段階に入っていました。


 「動員」は時間の掛かる面倒だが戦争への重要な第一歩ですが、プロシアではこの5月12日、各地方に動員令が掛かりました。同時期にオーストリアも動員が掛かり、これで戦いは必至となります。

 

 戦史を見ても、動員が掛かって戦争にならなかった例は数少ないものです。この戦争の前にイタリア統一戦争でフランスが介入した時、プロシアが動員を行いましたが、この例は既に一方が戦争状態にあって、それに対抗、威嚇する形ですから意味合いが違います。

 

 双方が「よーい、ドン!」の形で動員を行えばお互い引っ込みがつかないものです。この時代以降、動員は戦争開始と同じ意味合いを持つこととなって行き、20世紀前半に発生する第一次世界大戦では、動員は開戦初頭での作戦開始の合図となるのでした。


 そして戦争で一番大切な作戦計画は、プロシアにおいては全て参謀本部が作成しました。参謀本部総長のモルトケ大将は、既に国王に直接進言し勅令として各司令部に命令を伝えることが出来るようになっています。


 とは言うものの、未だモルトケなる人物を知らない司令官がいたくらい彼の知名度は低いものでした。やはり軍隊というものは野戦において勝利を勝ち取った者が栄光に包まれるものです。その意味でモルトケは縁の下の力持ちの感が否めず、その命令もこの段階では国王の名前が添えていなければ無視されるというものだった、と言えます。


 また、せっかく練った計画も方々からの異議で変更を余儀なくされる事もありました。


 モルトケは当時の戦争の常識から、オーストリアは初戦から最短距離でプロシアの首都ベルリンを目指すと読んでおり、その最短距離であるザクセン王国国境と、その東に延びるオーストリア国境(プロシア・シュレジエン地方とオーストリア・ボヘミア地方)に全兵力を展開しようと考えました。それも待ち受けるのでなく、積極的に打って出る作戦です。正に「主動の原則」、相手が動く前に動いて主導権を握り、早い段階で決戦に持ち込もうという作戦です。


 それはオーストリアが未だ侮れぬ多民族の大帝国であり、ドイツ地域ばかりでなくハンガリーやチェコ、ポーランド、クロアチアといった広大な地域に兵力のバックボーンを持っているからで、戦争が長引けば長引くほどプロシアは不利になって行くという予想から導き出したものでした。もちろん、長引けばいつものように漁夫の利を狙う諸外国、特にフランスが介入するからでもあります。


 しかしさすがに全兵力を東側に展開すれば、集合すれば10万以上になる西方諸侯に背後を突かれるかも知れません。しかもビスマルク外交で釘を差したとはいえ、その向こうにフランスが構えています。注意を怠ればどさくさ紛れにライン川に沿ったドイツ領域をカッサラって行きかねません。


 これを恐れたビスマルクや陸相ローンは参謀本部の作戦に介入し、一個軍団(4万人前後の兵力)を西方領土ヴェストファリアやライン川方面の要塞に残したい、と考えます。

 モルトケはこの軍団は絶対東に必要と譲らず、国王に進言し、ここはモルトケに軍配が上がりました。


 モルトケは更に、西方の要塞守備隊やシュレースヴィヒのマントイフェル部隊、ヴェストファリアの駐在部隊も根こそぎボヘミア方面に投入したいと訴えます。西方諸侯は半月位なら向こうから攻めることはせず、プロシア対オーストリアの「横綱相撲」を観戦しどちらが勝つか見極めるはずだ、と読んだのでしょう。西側は放っておいて東に全力投入、素早く勝利を収め、返す刃を西に向ければ、無血でハノーファーやバイエルンなどはひれ伏すはずだ。


 このモルトケの自信は、ドライゼ銃や配備が始まったクルップ砲(今までの青銅製から鋼鉄製になり射程や発射速度、精度が格段に違う新式の大砲)などの最新兵器や鉄道、電信を利用した素早い移動展開力を信じていたからですが、政府首脳や国王はそこまで軍部を信用出来ません。この「大バクチ」のチップは自分たち、即ちプロシアそのものなのです。


 この「西側がら空き」案はビスマルクやローンの進言で国王が認めませんでした。結果、あの西方諸侯の戦いがあったというわけです。


 さて、こうして大わらわで準備が進められ、軍隊は国境に集結します。そこでは物資が次々にやってきては積み重なり、集積され、動員で軍に戻って来た予備役兵たちは、運悪く?正規兵として勤務していた同僚から皮肉な歓迎を受け、鬼のような下士官から濃縮された再訓練(即ちシゴキ)を受けます。プロシア軍は小国の兵を加え32万余りに膨れ上がりました。


 先述の通り、西からエルベ軍、第一軍、第二軍と円弧を描いて東部国境に集結しました。

 しかし、対するオーストリアも負けていません。

 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から信頼されたベネデック元帥と参謀長ヘニックシュタイン中将の下、オーストリア軍24万、同盟諸侯16万、総計40万を集め対抗します。


 それぞれの動員は、この両国国境地帯への兵力配置で完了しました。6月10日前後の、プロシアとザクセン、ボヘミア国境付近の両軍は、

☆プロシア軍

第一軍 93,000人 司令官;フリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン親王大将 参謀長;コンスタンチン・ベルンハルト・フォン・フォイツ=レッツ中将

第二軍 115,000人 司令官;フリードリヒ3世王太子 参謀長;レオナルド・フォン・ブルーメンタール少将

エルベ軍 46,000人 司令官;カール・エーベルハルト・ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト大将 参謀長;ラディック・フォン・シュロートハイム大佐


☆ドイツ連邦

○オーストリア帝国軍 215,000人 司令官;ラディック・リッター・フォン・ベネディク元帥 参謀長;アルフレッド・フォン・ヘニックシュタイン中将

○ザクセン王国軍 25,000人 司令官;アルベルト・フォン・ザクセン王太子


 という西部諸侯の戦いとは桁が違う戦いでした。


 この時、プロシア軍は今までとは違う命令系統を作り上げていました。それはグナイゼナウが夢見てモルトケが完成させた参謀本部の上意下達の形です。

各軍の参謀長は参謀本部から派遣された本部所属の参謀で、階級が自分より上の指揮官に対し(例え王族でも)対等に接し、本部からの作戦を伝達して、戦闘に際しては助言を行うというものでした。

 既に参謀本部は国王ヴィルヘルム1世と共にあり、参謀総長モルトケは首相ビスマルクや陸相ローンの許可を得ることもなく国王と作戦を話し合えます。


 この世界各国どこにもない全く新しい戦争のスタイルは、やがて世界を変えて行くことになるのです。

 


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