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異夢同床の独連邦軍


 既述通り普軍に対する独諸侯軍の対応・本気度は参戦した領邦その立場によって実に様々でした。


 これも繰り返しとなりますが(「諸侯の戦い・開戦準備」)その兵員数、実に普西・南方諸侯担当のファルケンシュタイン将軍麾下5万に対し12万と倍以上に及ぶとは言え、編成、武器装具、兵の錬成度はバラバラ、一応「独連邦第8軍団」を名乗り体裁は整えたものの、俄か合同チームでは指揮統一に問題多く、また一様に士気は低迷、普軍に比べ規律も緩いものでした。


 1866年6月27日。「ランゲンザルツァの戦い」が行われていた正に同じ日。

遥か東方墺領ベーメンと普領シュレジエンとの国境の街、ナーホト(ポーランド・ヴロツワフの南西98キロ)とトラテナウ(現・チェコのトルトノフ。ナーホトの北西25キロ)で普第二軍と墺北軍が衝突し、いよいよ普本国軍と墺主力軍が本格戦闘を始めました。

 翌6月28日。独連邦西・南方諸邦による連邦第7と第8軍団もバイエルン(以下B)軍元帥で親王のカール公爵を総帥に仰ぎ、こちらもようやく本格始動するのでした。


 実質B軍である連邦第7軍団は、6月16日の普軍によるザクセン王国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)侵攻により翌17日に行動を開始し、全軍22日までにそれまでの駐屯地や宿営地*から前進待機集合地に指定されたバンベルク(ミュンヘンからは北に200キロほど)とシュヴァインフルト(バンベルクの西北西50キロ)周辺へ集合します。その後22日になってB軍本営は「ハノーファー軍が敵の追撃を受けつつ本国から連邦諸侯軍への合同を期して南進中」との報に接し、翌23日、ハノーファー軍救援のためまずはシュヴァインフルト在のB第4師団(ヤコブ・ミヒャエル・カール・リッター・フォン・ハルトマン中将指揮)をフルダ(シュヴァインフルトからは北北西70キロ)に向けて進発させますが、追って「普軍はアイゼナハ(中立国ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国首都。同北103キロ)に集合しつつあり」との情報が入り、軍団あげてマイニンゲン(同北北東60キロ。連邦側のザクセン=マイニンゲン公国首都)を経てアイゼナハ方向へ進軍することに決するのでした。


※B軍諸隊の駐屯地と宿営地(6月17日から21日にかけて)


〇B軽騎兵第1旅団(大公ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・バイエルン少将指揮)

駐屯地/アンスバッハ(ニュルンベルクの西南西40キロ)とその周辺

宿営地/クルムバッハ(バンベルクの北東47キロ)

〇B歩兵第1師団(ヨハン・バプティスト・シュテファン少将指揮) 

駐屯地/ミュンヘンとレヒ*沿岸

宿営地/リヒテンフェルス(クルムバッハの西28キロ)


※レヒ川

水源はオーストリアのフォルマリン湖で、フュッセンで国境を越えバイエルンに入るとランツベルクからアウグスブルクへ流れマルクスハイム付近でダニューブ(ドナウ)川へ注ぐ支流。


〇B歩兵第2師団(マクシミリアン・クリスティアン・フォン・フェーダー少将指揮)

駐屯地/アウグスブルクとレヒ沿岸、一部はニュルンベルクの東、シュヴァンドルフとナプブルク

宿営地/バンベルクとエルランゲン(ニュルンベルクの北北西17キロ)までの街道沿い

〇B歩兵第3師団(オスカー・フォン・ツェラー中将指揮)

駐屯地/バンベルクとオーバーハイト(バンベルクの北西6キロ)

宿営地/バンベルク

〇B歩兵第4師団

駐屯地/シュヴァインフルトとその周辺

宿営地/シュヴァインフルトとハンメルブルク(シュヴァインフルトの北西25キロ)

〇B予備騎兵軍団(カール・テオドール・フォン・ツーン・ウント・タクシス騎兵大将指揮)

駐屯地/アンスバッハとその周辺

宿営地/バイロイト(バンベルクの東50キロ)とホーフ(バンベルクの北東86キロ)

〇予備砲兵団(フォン・ボートマー少将指揮)

駐屯地/バンベルクとニュルンベルクまでの街道沿い

宿営地/バンベルクとエルランゲンまでの街道沿い


※6月23日のB軍本営命令骨子


〇B軽騎兵第1旅団は予備砲兵2個中隊を付してメルリッヒシュタット(シュヴァインフルトの北42キロ)に進み、前衛をマイニンゲンへ送れ。斥候隊を組織しヴァウンゲン(マイニンゲンの北11キロ)、ザルツンゲン(現バート・ザルツンゲン。マイニンゲンの北北西30キロ)、果てはベルカ(アイゼナハの北北東8キロ)の各地へ派遣し付近の鉄道線を破壊せよ。

〇B第7旅団(第4師団傘下。フランツ・アダム・ファウスト大佐指揮)は前衛を騎兵に同道させメルリッヒシュタットへ、本隊はウンスレーベン(メルリッヒシュタットの南南西6.5キロ)まで前進。最終目標地はフルダ。

〇B第8旅団(グスタフ・ツェラ少将指揮)を主力とするB第4師団本隊はノイシュタット(現・バート・ノイシュタット・アン・デア・ザーレ。ウンスレーベンの南南西6.5キロ)に集合せよ。

〇B第1師団はケーニヒスホーフェン(現・ラウダ=ケーニヒスホーフェン。シュヴァインフルトの南西66キロ)に進みその周辺で進発準備を成し、親衛歩兵連隊長シギスムント・フォン・プランキ大佐は同連隊に騎兵1個、砲兵半中隊(2個小隊4門)を率い、先発してリヒテンフェルス(シュヴァインフルトの東60キロ)まで前進せよ。

〇B第2師団は現在地ラウリンゲン(現シュタットラウリンゲン。シュヴァインフルトの北東18キロ)周辺で進発準備を成すこと。なお1個大隊はオーバーハイトにて集合中である。

〇B第3師団はミュンナーシュタット(シュヴァインフルトの北22キロ)周辺で進発準備を成せ。

〇参謀本部参謀カール・フォン・オルフ中佐は第1と第4師団の各2個猟兵大隊より2個大隊規模を抽出し、これに砲兵1個小隊(砲2門)と工兵隊を付して支隊とし、ホーフへ前進、この地を拠点としてB王国北東国境を監視すること。

〇B予備騎兵軍団はシュライツ、プラウエン、ローベンシュタイン(すべてホーフの北東から北方)の各地に向け支隊多数を編成して派遣し、普軍をしてその方向へ我が軍が進むとの誤解を与えるべく行動を成せ(つまりはザクセン王国方面へ進むとの欺瞞)。残余の軽騎兵第2旅団と重騎兵旅団はシヴァインフルト周辺に集合せよ。

〇予備砲兵団と弾薬縦列など軍直属諸隊はシュヴァインフルト周辺に集合せよ。

〇バンベルク在の軍本営は25日を期してシュヴァインフルトにあり。


 このB軍が集合地へと急ぐ中、「その他諸侯の集団」である連邦第8軍団は16日、既述通りヘッセン=ダルムシュタット大公の弟君で墺軍中将だったアレクサンダー公子を指揮官に仰ぎますが、この時点でダルムシュタット在・アレクサンダー将軍の下にあったのは本国ヘッセンの数個連隊とナッサウ公国の旅団だけという体たらくでした。 

 この6月中は各国とも動員と編成に手間取るばかり(嫌々参戦する諸侯の遅延行為があったかもしれません)で、いらいらと待つアレクサンダー将軍の下、五月雨的に参集して来るのでした。


 この連邦第8軍団の歩兵たちは殆どが普軍ドライゼ銃の二世代前、前装式ライフルマスケットのミニエー銃を主要武器とし(墺軍旅団のみ墺軍正式小銃の前装式ローレンツ銃を使用)、野砲は比較的新しい6ポンド後装施条砲が主力になっていたものの未だ青銅製滑腔6ポンド砲と滑腔12ポンド砲も現役で多数残っており、各種野砲の口径は諸邦まちまち、互換性が少なく弾薬縦列間での融通は絶望的でした。


 6月16日、普軍が普墺戦争の口火を切ると独連邦議会は連邦第8軍団に対し、普軍が目標の一つとするはずの連邦側主邑フランクフルト=アム=マイン防衛を要請し、軍団長アレクサンダー将軍はナッサウとヘッセンに囲まれた飛地の普領ヴェッツラーに集合していた普バイヤー混成師団がフランクフルトに進撃する可能性大(ヴェッツラーはフランクフルトの北51キロ、2日間の行程)と見て、ヘッセン大公国首都ダルムシュタット(フランクフルトからは南へ26.5キロ、行程1日)に集合していたヘッセン大公国歩兵3個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊をフランクフルトへ先発させます。

 続いて連邦第4師団のナッサウ公国旅団を同16日中にホーホハイム(・アム・マイン。フランクフルトの西南西26キロ)へ進ませ、翌17日フランクフルト近郊まで送りました。同時にアレクサンダー公子は本国から行軍中のヴュルテンベルク王国(以下W)軍(連邦第1師団)を急がせ、ハルデック師団長は第3旅団に騎兵1個連隊(W軍騎兵連隊は5個中隊)、砲兵2個中隊(16門)を加え、旅団長のヘーゲルマイヤー少将に対し輜重を待たず最低限の装備のみ携行させて先行するよう命じ、旅団は急行軍で17日中にフランクフルトへ入城しました。


 フォン・ファルケンシュタイン将軍率いる普軍3個師団の急進撃は連邦議会に動揺を与え、議会はフランクフルトの民衆を安心させるため、アレクサンダー将軍に連邦第8軍団の本営をダルムシュタットからフランクフルトへ移すよう要請し、16日夕刻、アレクサンダー将軍は幕僚と共にフランクフルトに入城します。ここで墺本国から派遣されて来た墺軍のフリードリヒ・パッケンジ・フォン・キルシュッテン大佐にフランクフルト防衛の指揮権を一時預け、アレクサンダー将軍たち本営幕僚たちはダルムシュタットへトンボ帰りすると、遅延が甚だしい麾下諸邦軍の督促に奔走するのでした。


 ところが。

 17日夕刻、ヴェッツラーから行動を開始した敵バイヤー師団が進撃方向を南ではなく東、ヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル)領内へ入り北東カッセル方向に向かったことが判明し、連邦側としてはフランクフルト防衛網構築が先かヘッセン=カッセル防衛を優先すべきか判断に迷うこととなりました。

しかし、ダルムシュタット目指し行軍する諸侯各軍もフランクフルトに達した軍勢いずれもカッセルに迫ったバイヤー師団と会敵するには相当な期日を要すること明白であり、同じく南進するハノーファー軍を追う敵マントイフェル師団に対抗するにしても距離的・情況的に無理があると言うことで、アレクサンダー将軍は「ここで情理を通して敵の動きに合わせるより第8軍団の完全編成を急ぐことが先」であり「更に騎兵と砲兵の予備部隊を編成し給養関連の諸縦列を整えてフランクフルトで敵を待つ」ことに決し、翌18日、改めてフランクフルト防衛司令官に連邦第3「ヘッセン合同」師団長・ヘッセン大公国軍中将男爵カール・ペルグラー・フォン・ペルグラス将軍を任命し、諸侯各軍にダルムシュタットとフランクフルトへ急ぐよう命じたのでした。


 6月20日。連邦軍(第7、第8軍団)総司令、B軍元帥親王カール公からアレクサンダー将軍宛に電信が届き、「我がハルトマン(B第4)師団をフルダに向けて進ませることに決したので、連邦第8軍団も同様フルダに向けて行軍を請う」とのことでした。

 しかしアレクサンダー将軍は既にフランクフルトとダルムシュタット集合を各軍勢に命じた後であり、また前日19日にウィーンの墺軍大本営に「敵に追われるハノーファー軍に援軍を送る緊急性は重々承知しているが、軍団は編成途中でハノーファー軍の位置は遠隔の地でもあるので実行するのは不可能」との主旨で電信を送った手前、「軍団は正に編成途上にあって未だ攻勢に出る状態にあらず」と、この要請を断るのです。

 カール公は諸侯軍が動かないことを知ると、B軍団をニッダ川*に沿って展開させて普軍を迎え撃つことに決し、まずはその手前のマイン川*に軍橋を架けて本国とB軍団との連絡線を確保するため、まずはフランクフルト近郊のヘーヒスト(フランクフルトの西郊外)に架橋、更にオーバーラート(フランクフルトの東郊外)にも架橋させます。続いてフランクフルト目指して行軍中のW軍師団から歩兵1個大隊と騎兵1個中隊、砲兵1個小隊(砲2門)を抽出し、これをライヘンバッハ少佐に預けて鉄道輸送でギーセンに送り込み、少佐には「彼の地において欺瞞行動で敵の注意を引かせ、さも大軍がカッセル目指し行軍しており間もなく到着するような雰囲気を作り出せ」と命じたのでした。しかし、少佐たちがギーセンに到着しても敵バイヤー師団は遠くカッセルに進んでおり、欺瞞行動を起こしても情報が敵に伝わるには時間が掛り、また他の普軍諸隊も所在が不明で、敵中孤立を恐れた少佐は22日夜、一旦支隊をニッダ河畔のフィルベル(現バート・フィルベル。フランクフルトの北北東8キロ)まで下げるのでした。


※ニッダ川

ヘッセン大公国の東部、フォーゲルスベルク山地を水源にショッテン~ニッダ~フロールシュタット~ニダダール~カルベン~フィルベルと南西方へ流れ、フランクフルトの北郊を西へ進むとその西郊でマイン川にそそぐ支流。

※マイン川

音楽祭で有名なバイエルン王国バイロイトの北10キロ余りを水源とする「赤マイン川」と同北東20キロ付近を水源とする「白マイン川」がクルムバッハ(バイロイトの北北西20キロ)の西で合流しマイン川となります。マイン川はバンベルク~シュヴァインフルト~オクゼンフルト~ヴュルツブルク~ゲミュンデンへ、その先100キロほどはフランクフルト東側のシュペッサルト山地を回り込むように流れアシャッフェンブルク~ハーナウ~フランクフルトへ達し、ニッダ川を加えると西へマインツ要塞対岸でライン川に注ぐドイツ有数の一級河川です。


挿絵(By みてみん)

ヘッセン大公国北部(1866年)


挿絵(By みてみん)

ヘッセン大公国南部(1866年)


 この22日辺りから連邦第8軍団の集合に拍車が掛かります。

 連邦のラシュタットとマインツ両要塞に駐屯していた墺軍兵士を集合させたアレクサンダー・フォン・ハーン墺軍少将の旅団およそ7,000名は21日に前衛をノイ=イーゼンブルク(フランクフルトの南6キロ)へ、続いてマイン川に達してこれを渡河し前進します。ヘッセン大公国軍本隊もヘッセン本国各地から指定各所へ集合し、連邦第2「バーデン大公国(Ba)軍」師団のうちラ・ロッシ少将率いる第1旅団が先行し25日にダルムシュタットへ入城しました。

 兵力が充実し始めたことでアレクサンダー将軍もフランクフルト防衛網の本格構築を25日から開始し、軍団前衛をフリートベルク(フランクフルトの北26キロ)からブーツバッハ(フリートベルクの北北西12キロ)に掛けて展開させ、翌26日にはここまで集合していた軍団主力をマイン~ニッダ両河川間の高原地帯とフランクフルト市内とその郊外、そしてダルムシュタットとその周辺に集合待機させるのでした。


 この6月26日時点でアレクサンダー将軍が掌握していた兵力は、歩兵41個大隊、騎兵19個中隊で歩騎合わせ約39,000名、野砲は施条砲72門、滑腔砲35門、馬匹は騎馬曳馬合わせ約5,800頭というまずまずの軍団となっていたのです。


※1866年6月26日における独連邦第8軍団の展開と兵力


〇連邦第1「W軍」師団・第3「ヘーゲルマイヤー」旅団

・兵力 歩兵5個大隊、騎兵5個中隊、砲兵2個中隊(16門)

    人員5,200名、馬匹1,100頭

・展開集合地 フィルベル

〇連邦第2「Ba軍」師団・第1「ラ・ロッシ」旅団

・兵力 歩兵5個大隊、砲兵1個中隊(施条砲6門)

    人員4,500名、馬匹240頭

・展開集合地 ダルムシュタット、ランゲン(ダルムシュタットの北13キロ)

〇連邦第3「ヘッセン合同軍」師団

・兵力 歩兵9個大隊と2個中隊、騎兵8個中隊、砲兵4個中隊(施条砲14門滑腔砲10門)

    人員10,000名、馬匹2600頭

・展開集合地 フランクフルト南方と北方郊外

〇連邦第4「墺帝国・ナッサウ合同」師団

・兵力 歩兵12個大隊、砲兵4個中隊(施条砲24門滑腔砲8門)

    人員13,000名、馬匹1,000頭

・展開集合地 墺旅団はフランクフルト市街と周辺郊外・ナッサウ旅団はホーフハイム(・アン・タウヌス。フランクフルトの西17キロ)とその周辺

〇独立ヘッセン=カッセル旅団(フォン・ロスベルク中将指揮)*

・兵力 歩兵10個大隊(但し実際は定数800名の大隊が5,6個程度集合しただけの規模と言われます)、砲兵4個中隊と2個小隊(施条砲12門滑腔砲17門)

    人員6,000名、馬匹879頭

・展開集合地 ハーナウ(フランクフルトの東17.5キロ)とその周辺

〇軍団本営 26日ダルムシュタットからフランクフルトへ移動

※ヘッセン=カッセル(ヘッセン選帝侯国)軍は連邦第8軍団に参加するため、普軍バイヤー師団により首都カッセルが占領されようとしても戦うことなく南下し、宿営地ハーナウに至ります。これはハノーファー軍同様本土を死守しようにも精悍な普軍と単独で戦うよりは諸侯軍と合流し「リベンジ」したほうが得策と考えたのではないかと思われます。

 しかし本来連邦第3師団の構成軍隊なのに何故か騎兵のみ師団に参加し、歩兵はヘッセン大公国軍と合同せず独自に行動していた様子です。


※その他連邦第8軍団の集合・合流

〇W第2旅団・6月28日、W第1旅団・7月5日から8日にかけて

〇バーデン(Ba)大公国軍残り7月1日から8日にかけて


 さて、遡ること20日前の6月9日。

 普墺両国が戦争状態に陥る可能性が増したことで連邦議会は、普墺両軍から守備兵が派遣されていたマインツとラシュタットの両連邦要塞守備隊を解散させ、新たな守備隊を置くことに決します。


※6月9日における独連邦マインツ要塞守備隊(計画)

〇歩兵(6,900名)

・ヘッセン大公国1個旅団(3個大隊)と猟兵大隊1個/3,500名

・ザクセン=マイニンゲン公国2個大隊(各4個中隊)/800名

・ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国3個大隊(各4個中隊)/1,200名

・シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国大隊(4個中隊)/400名

・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国大隊(4個中隊)/400名

・リッペ侯国大隊(4個中隊)/400名

・シヤウムブルク=リッペ侯国3個中隊/200名

〇騎兵

・ヘッセン=カッセル騎兵/250名

〇砲兵

・ヘッセン=カッセル砲兵/400名

〇砲兵

・ヘッセン=カッセル工兵/100名


※6月9日における独連邦ラシュタット要塞守備隊(計画)

〇歩兵(5,000名)

・バーデン大公国2個大隊/1,800名

・ザクセン=アルテンブルク公国2個大隊(各4個中隊)/800名

・ザクセン=コーブルク=ゴータ公国2個大隊(各4個中隊)/800名

・アンハルト公国2個大隊(各4個中隊)/800名

・ヴァルデック侯国大隊(各4個中隊)/400名

・兄系・弟系ロイス侯国大隊(各4個中隊)/400名

〇騎兵

・バーデン大公国騎兵/150名

〇砲兵

・バーデン大公国砲兵/150名

〇砲兵

・バーデン大公国工兵/80から100名


※フランクフルト=アム=マイン守備隊(計画)

・自由都市フランクフルトの歩兵

・B王国軍1個大隊


 しかし、この配備計画も実際の普墺開戦により諸侯が敵味方に分かれてしまったため瓦解し、仮想敵国(ここでは仏)への「にらみを効かせる」役目の要塞に到着する新守備兵の数は相当に少なく、実際に到着したのはマインツ要塞にB軍歩兵2個大隊・ザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国3個大隊・ザクセン=マイニンゲン公国1個大隊・リッペ侯国の若干名、合わせて4,520名、ラシュタット要塞にはバーデン大公国2個大隊、ロイス=ゲーラ(弟系)侯国大隊合わせて2,200名と、ライン西岸領有の機会を狙うナポレオン3世が誘惑に負けそうな、何とも心許ない員数となったのでした。


 再びアレクサンダー将軍とB軍の動きに戻りましょう。

 アレクサンダー将軍は6月20日にB軍カール親王元帥の「フルダ行き命令」を拒絶した手前、その釈明のため軍団参謀長のW軍フィデル・カール・フリードリヒ・フォン・バウア=ブライテンフェルト中将をバンベルク在のB軍本営へ派遣しました。ここでカール公の計画を聞かされ戻ったバウア将軍の説明を受けた後の23日、アレクサンダー将軍は自らバンベルクに赴き、墺帝国から派遣されていた伯爵ヨハン・カール・アウグスト・フィン中将と会談、今後の共同作戦を協議しました。一旦作戦計画を持ち帰ったアレクサンダー将軍は26日、シュヴァインフルトに移動していたB軍本営へ向かい、この夜と翌朝に掛けて断続的に行われた軍議で「連邦第8軍団を挙げてヘルスフェルト(現バート・ヘルスフェルト。フランクフルトの北東111キロ)方面に進み、ここでニーダーアウラ(同北東100キロ。ヘルスフェルトとは約10キロの距離)に進む連邦第7(B軍)軍団と並び、その時点での情勢如何でカッセルへ向かうかアイゼナハに向かうかを決する」とするのです。

 

 この共同作戦案は、アイゼナハ方面に集合しつつあった普ファルケンシュタイン軍をチューリンゲン地方から退け、普軍が本国とライン=ヴェストファーレン地方との東西連絡に重用しているチューリンゲン鉄道*を支配下に収めてこれを防衛することを主目的に挙げていました。また、占領されたヘッセン=カッセルを解放し連邦と合流しようと南進するハノーファー軍を救援することも目的の内、とするのでした。

 両軍団は7月4日にB軍がアルスフェルト(ニーダーアウラの西24キロ)、連邦第8軍団がヒューンフェルト(同南東18キロ)に至り翌5日を休養日に充てるとしましたが、カール公率いる連邦本営は「この5日に至れば普ファルケンシュタイン軍の進撃目標がはっきりするであろう」と考えており、アレクサンダー将軍も「5日には連邦第8軍団を計画通りヒューンフェルトからヘルスフェルトに向かわせるか、カッセル救援に向わせるかの決定を下せるだろう」と考えていたのです。

 

 ※チューリンゲン鉄道

 普ザクセン州ハレからナウムブルクの西でチューリンゲン地方に入り、各諸侯の主邑ヴァイマル~エルフルト~ゴータ~アイゼナハに至り、その先ヘッセンに入るとベーブラ~ローテンブルク~メンズンゲンを経てカッセルへ至る鉄道線。実際、ファルケンシュタイン将軍は対ハノーファー作戦で重用していました。




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