第九話「高2、高3」
2年生への進級時、虹夏にとって唯一の砦だった高1の担任が異動になってしまう。
深い喪失感と悲しみに暮れる虹夏だったが、救いもあった。
高1の時に授業を持ってくれていた数学の先生にだけは、少しずつ数学の質問ができるようになっていたのだ。
それは、他人に頼ることが極端に苦手な虹夏が見せた、精一杯の歩み寄りだった。
さらに、母親の紹介で校外で「動物愛護のボランティア活動」を始める。
そこにいる年配のおばさん方は、複雑な人間関係を求めず、ひたむきに動物の世話をする虹夏を「真面目でいい子ね」と純粋に可愛がってくれた。
学校とも家庭とも違うその場所は、一時的な避難所となった。
そんな折、とあるイベントをきっかけに、虹夏は地元の国立大学への憧れを抱く。
「ここに行きたい」
しかし、現実の壁は厚かった。国語と日本史の成績は優秀だったが、他の教科のレベルは圧倒的に届いていない。
高校3年になり、受験生としてのプレッシャーが容赦なく虹夏にのしかかる。
ある日、ついに体調不良で動けなくなり、虹夏は人生で初めて高校の保健室のベッドに横たわった。
限界だった。
虹夏は、少しずつ関係を築いてきたあの数学の先生の前で、生まれて初めて「辛い、苦しい」と弱音を吐いた。
ここから、学校側が動き出す。
数学の先生からの繋ぎで、初めて校内のカウンセリングを受け、精神科の初診にも通うことになった。
高3の担任、スクールカウンセラー、そして養護教諭。
大人たちが手を取り合い、虹夏を支えるための「サポート連携」の輪が完成した。
普通の子であれば、これで「救われた」はずだった。
しかし、虹夏にとっては違った。
周囲が優しくなればなるほど、受験のストレスと、母親からの「国立へ行ってね」という無言の圧力が、逃げ場のない檻のように虹夏を追い詰めていく。
耐えかねた虹夏は、ついに初めて、手元にあった薬を大量に飲み干した。
オーバードーズ(OD)。
一度その「全能感と忘却」の味を占めてしまった虹夏は、何度もそれを繰り返すようになってしまう。
辞められなかった。
異変に気づいた初診の主治医は、虹夏を診察室に呼び出した。
しかし、その口から出たのは、心配ではなく怒りを含んだ鋭い声だった。
「どうしてそんな馬鹿なことを繰り返すんだ! 治す気があるのか!」
その瞬間、目の前の医師の姿が、烈火のごとく怒鳴り散らす「アルコール依存症の父親」の影と完全に重なった。
脳内が恐怖でパニックになり、虹夏はその場で過呼吸を起こして倒れた。
医療への、大人への、かろうじて芽生えかけていた信頼が、音を立てて粉々に砕け散った瞬間だった。
結局、関係が壊れたそのクリニックを去り、12月に別の病院へ転院することになる。
しかし、傷ついた心は修復できず、転院直後に激しいオーバードーズを起こして救急搬送された。
この時点で、憧れだった地元の国立大学への受験は完全に不可能となり、断念せざるを得なくなった。
共通テストを目前に控え、ボロボロになった虹夏が下した決断は、「母親から物理的に離れられる、遠方の公立大学」への志望校変更だった。
もう、この家にはいられない。
その後も、不安に駆られるたびにオーバードーズを繰り返す自傷行為は止まらなかった。
朦朧とする意識と、激しい自己嫌悪の波に溺れながら、それでも執念だけで受験を続けた。
しかし、前期試験で合格をつかみ取ることはできなかった。
卒業式当日。
虹夏の手に渡されたのは、高校3年間を1日も休まなかった証明である「皆勤賞」、そして学業トップクラスを維持し続けた証である「成績優秀賞」の2つの賞状だった。
周囲の大人たちは「素晴らしい」「よくやり抜いた」と拍手喝采を送り、サポートチームの先生たちも涙を流して彼女の門出を祝った。
しかし、虹夏の心は、あの卒業式の中学校の廊下と同じように、凍りついたままだった。
学校が作ってくれたサポート連携も、精神科の医療も、結局は自分をオーバードーズから救ってはくれなかった。
むしろ、大人に歩み寄ろうとした結果、トラウマを抉られただけだった。
二週間後、後期入試の結果が届いた。
「私は、私の命を削って、この賞状と合格を買ったんだ」
誰も本当の自分を救ってなどくれない。
人の役に立っていなければ、完璧でなければ、またあの診察室のように怒鳴られ、見捨てられる。
ハサミで切り刻まれた手首と、薬で濁った内臓を抱えたまま、虹夏は「支援職を目指す優秀な女子大生」という、最も新しく、最も強固な仮面を被って、遠方の大学へと旅立っていくのだった。




