第十話「大学進学」
遠方の公立大学へ進学した虹夏を待っていたのは、静かで、あまりにも広すぎる「自由」という名の空白だった。
母親の監視の目から逃れ、一人暮らしを始めた虹夏は、その空白を恐れるようにして自分の生活を過密なタスクで埋め尽くしていく。
複数のサークル活動を掛け持ちし、学外では新たなボランティア活動に身を投じ、さらにアルバイトも始めた。
「誰かの役に立っていないと、ここにいてはいけない」
「動いていないと、あの過去の記憶に追いつかれて殺される」
予定表を真っ黒に塗り潰すことだけが、虹夏が正気を保つための唯一の手段だった。
周囲からは「バイタリティのある、優秀で面倒見のいい学生」に見えていた。
しかしその実態は、限界を超えて走り続けることでしか息ができない自転車操業そのものだった。
しかし、進学した大学の周辺は、驚くほどの田舎だった。
周囲に適切な精神科の医療機関はなく、虹夏は高校3年の12月からお世話になっている、あの転院先の主治医によるオンライン診療に頼るしかなかった。月に一度、画面越しに先生の顔を見て、処方箋を郵送してもらう。
同時に、大学の学生相談室にも足を運び、カウンセリングを受け始めた。
カウンセラーは虹夏の過酷なスケジュールを心配し、「もう少し休む時間を盛り込みましょう」「自分を労ってあげて」と、これまで出会ってきた支援者たちと同じように優しい言葉をかけた。
虹夏は画面の向こうの主治医にも、目の前のカウンセラーにも、従順で、自分の状況を客観的に分析できる「扱いやすい患者」として振る舞った。
「大丈夫です。少し忙しいですが、充実していますから」
虹夏にとって、支援者に頼ることは「これ以上、相手に踏み込ませないための儀式」に過ぎなかった。
本当の孤独も、夜中に襲ってくるフラッシュバックや解離、パニック発作の恐怖も、すべてはカメラの画角の外、相談室のドアの外に置いてきていた。
恐れていた事態は、たまたま訪れた。
大学の長期休暇中、サークルも、ボランティアも、バイトも、奇跡的なほどに綺麗に「予定が全くない1日」がぽつりと生まれてしまったのだ。
朝、目が覚めた瞬間から、部屋の中を不気味な静寂が支配していた。
いつもなら次のタスクへ向かうために戦闘モードに切り替わる脳が、行き先を失って空回りし始める。
途端に、鍵をかけて閉じ込めていた記憶の箱がこじ開けられた。
父親の怒鳴り声。
母親の「産むんじゃなかった」という冷たい拒絶。
小学校の体育の授業で浴びた陰口。
診察室で医師からぶつけられた怒声。
過去のあらゆる暴力と絶望が、津波となって一人暮らしの小さな部屋に押し寄せてくる。
ー息ができない。
どうしよう、私は今、誰の役にも立っていない。
誰にも必要とされていない。
私は、何のためにここにいるの?
存在理由を失った恐怖と、激しいパニック。
気がついたときには、手元にあった薬のシートを、貪るようにして次々と口に放り込んでいた。
高校3年の12月、あの救急搬送された夜と全く同じ、衝動的で、破滅的なオーバードーズ(OD)だった。
薄れゆく意識の中で、虹夏はかろうじて大学の支援ラインや医療機関につながったが、その代償は大きかった。
後日のオンライン診療。
画面の向こうの主治医の表情は、いつになく険しく、そして沈痛だった。
「虹夏さん。あなたが遠方の環境で一人で必死に頑張ってきたことはよく分かっています。でもね……これだけ重い自傷行為が、誰もいない部屋で再発してしまった以上、これ以上のオンライン診療での対応は無理です」
主治医の言葉は、冷酷な突き放しではなく、医療従事者としての限界を見据えた「倫理的な判断」だった。
画面越しでは、虹夏が薬を大量に飲み干すのを止めることも、倒れた彼女の身体をすぐに救うこともできない。
「近くの地域で、対面で頻繁に通院できる環境を探すか、さもなければ……一度実家に戻って治療に専念することを考えなさい」
その宣告を聴きながら、虹夏の心はしんと冷え切っていった。
実家に戻る?
あの地獄へ?
冗談じゃない。
でも、この田舎には私を受け入れてくれる医療機関なんてない。
主治医も、大学のカウンセラーも、みんな私を心配してくれている。
それは分かる。
だけど、彼らが「正しい選択」を提示すればするほど、虹夏は自分が社会のシステムから、安全なレールの外側へと弾き飛ばされていくのを感じていた。
誰も悪くない。
先生も、カウンセラーも、みんな正しい。
それなのに、どうして私はこんなに苦しくて、誰にも救ってもらえないのだろう。
虹夏は、静かにノートパソコンの画面を閉じた。
人の役に立つことでしか自分を保てない女子大生は、頼みの綱だった医療からも「対応不可能」のレッテルを貼られ、より深い、底のない孤独の霧の中へと迷い込んでいくのだった。




