第十一話「退学後」
オンライン診療を打ち切られ、予定のない恐怖に耐えかねた虹夏は、もはや大学に通い続ける気力を保てなかった。
出席日数は足りなくなり、あれほど執着していたサークルやボランティアへ向かう足も止まった。
これ以上「優秀な学生」を演じることができなくなった彼女は、誰にも相談せず、ただ一枚の書類を提出して大学を自主退学した。
退学の事実は、すぐに実家の母親の知るところとなる。
娘が「公立大生」という世間体の看板を自ら投げ捨てたことを知った母親から届いたのは、金切り声の怒声ではなく、冷徹な一通のメールだった。
『もうあんたには愛想が尽きた。これ以上、私の人生の邪魔をしないで。二度と連絡してこないで。仕送りも止めます』
それは、実質的な絶縁宣言だった。
かつて「産むんじゃなかった」と言われたあの言葉が、今度こそ本物の現実となって虹夏を突き放した。物理的にも精神的にも、帰るべき場所は完全に消滅した。
家賃も払えず、食べるものにも困窮した虹夏は、地域の役所の福祉課へと足を運んだ。
そこで虹夏は、生活保護という公的な支援につながることになる。
担当のケースワーカーは事務的に手続きを進め、最低限の生活費と、医療費が無料になる医療券を支給してくれた。
「これでひとまずは安心ですね。ゆっくり休んで、少しずつ自立を目指しましょう」
大人が、社会が、ようやく自分を「助けて」くれた瞬間だった。
しかし、虹夏の心に満ちていたのは、救いではなく圧倒的な「空虚」だった。
生活保護を受給する。
それは、これまで虹夏が命を削って守ってきた「誰かの役に立っている自分」「義務と責任を果たす優等生」というアイデンティティを、完全に剥ぎ取られることを意味していた。
働かず、誰のためにもならず、ただ社会の税金を使って生かされているだけの存在。
ー私は、生きていていい理由を失った。
今の私は、ただのゴミだ。
生きるための福祉が、彼女の生存戦略のすべてを全否定する。
皮肉にも、社会に「生かされた」ことで、虹夏の希死念慮は過去最高レベルにまで膨れ上がっていった。
そして迎えた、20歳の誕生日。
世間では大人の仲間入りを祝うその日、虹夏の狭いアパートの部屋には、祝ってくれる家族も、友人も、誰もいなかった。
あるのは、生活保護の支給日を書き込んだだけの真っ白なカレンダーだけ。
「もう、終わりにしよう」
深夜、虹夏はこれまで集めてきた、そして医療券を使って手に入れた大量の精神科の薬を、迷うことなくすべて飲み干した。
今度は、パニックによる衝動的な自傷ではない。
明確な殺意を自分に向けた、冷徹な自殺未遂だった。
薄れゆく意識のなかで、虹夏はこれでやっと楽になれると、心の底から安堵していた。
……しかし、世界は虹夏を死なせてさえくれなかった。
翌日、約束の連絡が取れないことを不審に思ったケースワーカーが警察とともに部屋に踏み込み、倒れている虹夏を発見。
救急搬送された病院で、虹夏は一命を取り留めてしまう。
目を覚ました虹夏を待っていたのは、見慣れない天井と、物々しい大人の気配だった。
自殺の危険性が極めて高く、自傷他害の恐れがあること。
そして何より、医療機関や警察が何度連絡を試みても、母親を含むすべての親族が「関わりたくない」と身元の引き受けを徹底的に拒否したこと。
連絡の取れる家族が一人もいない、完全な孤立無援。
その結果、行政の権限によって、虹夏は「措置入院」として、精神科病院の閉鎖病棟へ強制的に収容されることが決定した。
鍵の閉まった重い鉄の扉。
窓には格子がはめ込まれ、ベルトや紐のついた服はすべて没収された。
20歳になったばかりの虹夏は、その殺風景なベッドの上で、ただぼんやりと自分の手首を見つめていた。
ここには、彼女を傷つける父親も、なじる母親もいない。
毎日決まった時間に薬が出され、三食の食事が運ばれ、看護師や医師が代わる代わる様子を見に来てくれる。これ以上ないほど「完璧な保護」の環境だった。
けれど、虹夏は知っている。
ここにいる大人たちも、自分が「措置入院の患者」だから、法律と仕事のルールに従って監視しているだけだということを。
退院すれば、またあの誰もいない、自分の価値を証明できない荒野に放り出されるのだということを。
「根本的な解決」など、この世界のどこにもない。
虹夏は、白く冷たい病室のベッドの中で、感情の消え失せた瞳でただ天井のシミを数え続けていた。




