第七話「登校再開」
中学2年の春休み、虹夏はすがりつくような思いで、かつて辞めてしまった塾に再び籍を置いた。
遅れた勉強を取り戻さなければ、本当に社会から消えてしまう。
焦燥感だけが、動かない体を無理やり突き動かす燃料だった。
そして、中学3年の始業式。
虹夏は、実に1年以上ぶりに「学校」という名の戦場に足を踏み入れた。
周囲の好奇の目、腫れ物に触るような教師たちの態度。
呼吸が浅くなるのを必死に堪えながら、虹夏は初日を耐え抜いた。
放課後、担任に促されて立ち寄った保健室で、養護教諭の先生が穏やかな笑顔で温かいお茶を出してくれた。
「虹夏さん、よく頑張って学校に来たね。辛くなったら、いつでもここに来て休んでいいのよ。私はいつでもあなたの味方だからね」
その言葉を聴いた瞬間、虹夏の脳裏に浮かんだのは、ただ純粋な困惑だった。
「…この人は、一体何を言っているんだろう?」
感動も、反発すらなかった。
ただ、自分とは全く違う言語を話す宇宙人を目の前にしているような、圧倒的なディスコミュニケーション。
彼女にとって学校は「必死にしがみつかなければ振り落とされる崖」であり、保健室に逃げ込むことは「脱落」を意味していた。
「休んでいい」という言葉は、崖から手を離せと言われているのと同じだった。
「ありがとうございます」とマニュアル通りの笑顔を返し、二度と保健室の敷居はまたがないと心に決めた。
虹夏が学校へ戻り始めたことで、最も目に見える変化を見せたのは母だった。
かつては「産むんじゃなかった」と罵り、精神科の通院すら放り出した母だったが、さすがに娘が「中卒」のまま社会に放り出されることには恐怖を覚えたらしい。
「虹夏、今日のテストどうだった?」「夜食、何がいい?」
急に「協力的な母親」を演じ始めた彼女を見て、虹夏は安堵するどころか、背筋が凍るような気味悪さを感じていた。
ーお母さんは、私が学校に行っているから優しくしてくれるんだ。
私がまた行けなくなったら、あの地獄に戻るんだ。
母の愛には、常に「条件」がついている。その条件を満たし続けなければ、自分は見捨てられる。
プレッシャーは肥大化し、虹夏の自傷行為は形を変えて悪化していった。
夜中、静まり返った洗面台の鏡の前で、虹夏は自分の髪の毛を一本、また一本と引き抜いた。
頭皮に走る鋭い痛みが、母の期待に応えなければならないという呪縛を、一瞬だけ忘れさせてくれた。
髪を抜き、肌を傷つけながらも、虹夏は執念で学校に通い続けた。
ほとんど休むことなく登校し、塾のテキストを血眼になって解き進めた結果、秋を迎える頃には、学力は平均的なレベルにまで追いついていた。
しかし、現実のシステムは残酷だった。
三者面談の席で、担任は申し訳なさそうに成績表を提示した。
「勉強は本当によく追いついた。模試の点数も良い。でもね、虹夏さん……中1、中2の頃の不登校の期間の評定(内申点)は、どうしても書き直すことができないんだ」
全日制の進学校への道は、そのシステムによって閉ざされていた。
どれだけ今頑張っても、過去の「汚点」は消えない。
やっぱり、大人の作った社会は私を受け入れてくれない。
絶望の淵で、虹夏は自ら定時制高校への進学を決めた。
そこなら内申点の比重が低く、自分のような「訳あり」の人間でも受け入れてもらえる。
母は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、これ以上贅沢は言えないと自分に言い聞かせるように、その選択を容認した。
受験当日のことは、緊張と解離が混ざり合い、ほとんど覚えていない。
ただ、定時制高校の合格通知書を両手で受け取った時、虹夏が感じたのは「喜び」ではなく、深い「安堵」だった。
これでひとまず、世間一般の「レール」の端っこに、指先だけでも引っかかることができた。
母を失望させずに済んだ。
あの保健室の先生や、自分を好奇の目で見ていた同級生たちに、「私は大丈夫です」という証明書を突きつけることができた。
ー頑張れば、学校に通い続ければ、自分の居場所をかろうじて守れる。
晴天の中に卒業式当日があった。
卒業式の喧騒から逃れるようにして、すべてが終わった後の静かな中学校へ、虹夏は荷物の引き取りのために足を運んだ。
廊下ですれ違った授業担当の教師が、どこか気まずそうに。
けれど精一杯の笑みを浮かべて「虹夏さん、卒業おめでとう」と声をかけてきた。
その言葉を受け取りながら、虹夏の内心は「どうでもいい」という冷めた感情で満たされていた。
ーおめでとうって、何が?
私があなたの学年の『不登校の未解決案件』じゃなくなって、せいせいしたっていう意味?
大人が口にする祝祭の言葉は、すべて薄っぺらいプラスチックの玩具のように思えた。
誰も私の本当の地獄を見ていなかったし、見ようともしなかった。
そんな場所からようやく足が洗える。
それ以上の感慨は何もなかった。




