四話 乾隆六十年、春 湖北・房県
雪が残っていた。
北向きの斜面だけに、まだ白いものが残っていた。日当たりのいい場所はとっくに溶けていた。土が黒く、湿っていた。踏むたびに沈んだ。
劉之協は尾根道を歩いていた。
案内の男は十歩先を歩いていた。若かった。二十になっているかどうかという年頃だった。一言も喋らなかった。喋る必要がなかった。どこへ行くかは劉之協も知っていた。
秋に山へ入ってから半年が経った。
最初の二月は独りだった。川沿いを北へ歩き、農家の軒先で雨をしのぎ、野の実と沢の水で食いつないだ。十一月に入って最初の連絡が来た。教団の者が山の中で待っていた。それからは違った。一夜を過ごすごとに次の場所を教えられ、次の場所に行けばまた次を教えられた。房県に着いたのは二十日前だった。
山中の農家を転々とした。
どの家も貧しかった。しかしどの家も、劉之協を匿った。飯を出した。乾いた寝床を用意した。金は受け取らなかった。
案内の男が立ち止まった。
杉の木立の向こうに、小屋が見えた。板壁に茅葺きの屋根。窓はなかった。煙突から白い煙が細く出ていた。男が二度、間を置いて戸を叩いた。
中から同じ間隔で応答があった。
戸が開いた。
中には七人いた。土間に莚を敷き、車座に座っていた。男ばかりだった。年はまちまちだった。一番若い者は十七か十八、一番上は六十を超えていた。みな粗末な綿入れを着ていた。みな劉之協を見た。
「先生が来られた」
案内の男が言った。
誰も声を上げなかった。立ち上がった者もいなかった。ただ全員が、黙ったまま劉之協を見た。その目に、いろんなものがあった。期待と、疑いと、恐れと、縋るようなものと。それがごちゃまぜになっていた。
劉之協は土間に入り、莚の端に座った。
「寒かったろう」
六十過ぎの男が言った。この家の主らしかった。皺の深い顔だった。手が荒れていた。一生、土を触ってきた手だった。
「大丈夫だ」
「茶を出す」
「いらない」
劉之協は七人の顔を一人ずつ見た。どこから来た者たちかは聞かなかった。聞く必要がなかった。どこから来ても、ここへ来る人間の事情は同じだった。
「話してくれ」
劉之協は家の主に言った。
老人は少し間を置いた。
昨年の夏から秋にかけて、房県一帯で取り立てが厳しくなったという話だった。県の役人が人を増やし、集落を一軒ずつ回るようになった。帳面に書かれた数字はどこも実態より多かった。払えない者の農具を持っていった。家畜を連れていった。それでも足りないと言った。払えない者の息子を連行した者もいた。どこへ連行されたか、戻ってこなければわからない。
一人の男が口を開いた。
「俺の兄が連れていかれた」
若い男だった。唇が薄かった。目が固かった。
「半年になる。どこにいるかもわからない」
誰も何も言わなかった。
「先生」と別の男が言った。「弥勒さまは本当に来られるのか」
劉之協は答えなかった。すぐには答えなかった。
この問いはいつも来た。来るたびに同じように答えることもできた。しかし劉之協は毎回、少し考えてから答えるようにしていた。考えずに答えると、言葉が軽くなる。軽い言葉で人を動かすことを、劉之協は好まなかった。
「来る」
劉之協は言った。
「この世の膿が出きったとき、新しい世が来る。弥勒さまはそのとき降りてこられる。苦しんできた者が、ようやく安んじられる世が来る」
「いつだ」
「わからない」
正直に言った。
「わからないが、遠くはない。おまえたちが今ここにいることが、その証だ」
男たちは黙っていた。
火が小さく爆ぜた。煙が上がり、天井の煤けた梁のあたりを漂った。外で風が鳴った。杉の枝が揺れる音がした。
「集まっている者は今、房県だけでどれくらいいる」
劉之協は家の主に聞いた。
老人は指を折った。
「私が知っているだけで、百四十ほど」
「武器は」
「農具ならある。鍬、鎌、斧。それだけだ」
「それで足りる」
劉之協は言った。
老人が顔を上げた。若い男たちも顔を上げた。
「始まりはどこも同じだ。手元にあるものを使う。それで十分だ。そこから先は、やりながら考える」
兄を連れていかれた男が、初めて視線を上げた。唇が一文字に結ばれていた。何かを決めた者の顔だった。
「わかった」
それだけ言った。
小屋の中は静かだった。
七人の男たちが、それぞれの膝の上に目を落としていた。劉之協は彼らを見た。百四十人。房県だけで百四十人。達州にも、宜都にも、南陽にも、同じように集まっている者たちがいる。みな同じ顔をしているはずだった。疲れた顔、怒った顔、それでもまだ何かを待っている顔。
外の風が、少し強くなった。
杉林が鳴った。春の風だった。
劉之協は立ち上がった。
「また来る」
それだけ言って、戸を開けた。
冷たい空気が流れ込んだ。雪の残る斜面が、午後の光を受けて白く光っていた。劉之協は外に出た。案内の男が後ろをついてきた。
尾根道を歩きながら、劉之協は次に行く場所を頭の中で確かめた。鄖陽、竹山、竹谿。まだ回っていない集落が十ほどあった。
春が来ていた。
雪が、足元で静かに溶けていた。
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