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一話 乾隆六十年、秋

漢水は灰色だった。


川幅は広く、対岸の木立は霞んで見えた。水面を風が渡るたびに、舟が揺れた。渡し場の木桟橋に立った男が、煙管を口から離し、川に唾を吐いた。


「今日はもう終いだ」


男は渡し守だった。日が傾きかけていた。


「もう一度だけ」


女が言った。


渡し守は女を見た。旅装だった。背に荷を負い、手に竹竿を持っていた。顔に埃がついていた。遠くから歩いてきた人間の顔だった。


「金はあるか」


「ある」


「いくらだ」


女は懐から銭を出した。渡し守が数えた。顔つきが変わった。相場の三倍あった。


舟は出た。


女は舳先に立った。竹竿は持ったままだった。川の中ほどで風が出た。舟が傾いだ。渡し守が棹を操ろうとした瞬間、女が動いた。竹竿を低く構え、重心を落とし、舟の揺れに逆らわず、揺れと一緒に体を沈めた。舟が安定した。


渡し守は何も言わなかった。


対岸に着いた。女は桟橋に上がり、振り返らずに歩いた。


王聡児は二十二だった。


湖北と河南の境を旅芸人の一座とともに育った。父は武術師範だった。剣を使い、棒を使い、綱を渡り、客の前で演じた。王聡児は物心ついたころから父の後ろで型を覚えた。十になるころには一座で一番身が軽かった。十五になるころには父でも打ち負かすことがあった。


父は五年前に死んだ。


病ではなかった。役人に打たれた。


一座が宿賃を払えなかった。宿の主人が役所に訴えた。役人が来た。話をつけようとした父を、役人が杖で打った。何度も打った。父は三日後に死んだ。


王聡児は一座を出た。


それから五年、一人で旅をした。用心棒の仕事をした。荷物持ちの仕事をした。道場で教える仕事もした。金になることなら何でもした。


今は使いの仕事をしていた。


荷の中身は知らなかった。知らないほうがいい荷というものがある。届け先と道順だけを教えられた。届け先は襄陽の城下、油屋の裏手にある小さな茶館だった。


王聡児は日暮れ前に城下に入った。


襄陽は大きな町だった。漢水と唐白河が合流する要衝で、古くから軍事の地として知られていた。城壁は厚く、城門は四つあった。人の往来は絶えなかった。


茶館は城壁の内側、油の匂いが染みついた路地の奥にあった。


暖簾をくぐると、中は薄暗かった。卓が六つ。客は三人。老人が一人で茶を飲んでいた。中年の男二人が小声で話していた。


奥の卓に男が座っていた。


三十過ぎだった。体格がよかった。手が大きかった。卓の上に茶碗があったが、減っていなかった。


「姚さんか」


王聡児は卓の前に立った。男は顔を上げた。


「そうだ」


「預かり物だ」


荷を卓に置いた。男は中を確かめた。何も言わなかった。懐から布包みを出し、卓に置いた。


「手間賃だ」


「多い」


「遠くから来ただろう」


王聡児は布包みを受け取った。男、姚之富は茶碗を持ち上げ、初めて口をつけた。


「座れ」


「急ぎだ」


「どこへ行く」


「南陽だ」


姚之富は茶碗を置いた。王聡児を見た。値踏みするような目ではなかった。何かを確かめようとしている目だった。


「一人でここまで来たのか」


「そうだ」


「道中、何もなかったか」


「なかった」


嘘だった。鄧州の手前で三人組に絡まれた。荷を狙った盗賊だった。三人を棒で打ち、荷を守った。一人は肋骨が折れたはずだ。それだけのことだった。


姚之富は少し笑った。


「そうか」


茶館の奥から、店の主人が茶を運んできた。無言で卓に置き、戻った。王聡児は座った。急ぎというのは嘘だった。南陽への次の仕事は三日後だった。


茶は温かかった。


「白蓮を知っているか」


姚之富が言った。


王聡児は茶碗を持ったままだった。


「名前は聞いたことがある」


「名前だけか」


「それだけだ」


姚之富はしばらく黙った。外で風の音がした。路地を誰かが足早に通り過ぎた。


「弥勒仏が、この世に降りてくる」


姚之富は静かな声で言った。説くような調子ではなかった。事実を述べるような声だった。


「降りてくる前に、今の世は終わる。腐ったものは全部、燃える。その後に新しい世が来る。苦しむ者が報われる世が」


王聡児は何も言わなかった。


「馬鹿げていると思うか」


「わからない」


正直に言った。


「ただ」と王聡児は続けた。「腐っているのは本当だろう」


父を打った役人の顔を思い出した。杖を振り上げた腕を。振り下ろすたびに飛び散った血を。


「そうだ」と姚之富は言った。「腐っている」


外が暗くなっていた。茶館の主人が灯りをつけた。炎が揺れた。老人はまだ一人で茶を飲んでいた。中年の男二人はいつの間にか消えていた。


王聡児は立ち上がった。


「また仕事があれば声をかけろ」


「そうする」


姚之富は答えた。


王聡児は暖簾をくぐり、路地に出た。風が冷たかった。漢水の方角から吹いてくる風だった。


彼女は南の方向に歩き始めた。


今夜の宿を探さなければならなかった。それだけを考えた。姚之富の言葉は、考えないようにした。考え始めると、止まらなくなる気がした。


腐っているのは本当だ。


それは知っていた。ずっと知っていた。


灯りのない路地を、王聡児は足音を立てずに歩いた。

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