序 乾隆五十九年、秋
山道は、静かだった。
風だけが吹いていた。枯れた葉が宙を舞い、足元の石を転がって、谷へ落ちていった。
劉之協は歩いていた。
両手首に縄が巻かれていた。縄のもう一端を、前を行く兵卒が無造作に握っていた。男は振り返りもしない。歩くたびに背中の刀がゆれた。
後ろにも二人いた。
五人の一行だった。護送の役人が一人、緑営の兵卒が三人。そして劉之協。
山は湖北と四川の境にあった。道と呼べるものではなかった。獣道に石を並べただけのものが、尾根沿いにどこまでも続いていた。
劉之協は五十二歳だった。
綿布を売って歩いた男だった。安徽から湖北へ、湖北から四川へ、山を越え川を渡り、四半世紀を行商で生きた。足腰は丈夫だった。縄があっても、歩くことには困らなかった。
困るのは別のことだ、と彼は思った。
三日前、宜昌の獄舎を出た。省都の武昌まで連行される。それだけのことだった。しかし武昌に着けば、次は北京だ。北京に着けば、生きては戻れまい。
前を行く兵卒が、唾を吐いた。
「遅い」
劉之協は黙って歩いた。
道が折れ、崖の縁に出た。眼下に川が光っていた。細い川だった。名も知らない川が、岩と岩の間を縫って流れていた。
役人が立ち止まった。
「休む」
誰に言うともなく言って、岩に腰を下ろした。水筒を取り出し、傾けた。三人の兵卒がそれぞれ座った。誰も劉之協を見ていなかった。
劉之協も座った。
縄は緩かった。最初からそうだった。兵卒たちは金をもらっていた。宜昌の牢番が渡したものだ。どこの金かは知っていた。劉之協の弟子たちが工面したものだ。だから縄は緩く、歩みは遅く、休憩は多かった。
しかしそれで逃がしてもらえるわけではなかった。金はそこまでの値段だった。
劉之協は崖の下を見た。
川までの高さを測った。飛び降りれば死ぬ。では川に沿って下れば。北へ向かえば、漢水に出る。漢水を遡れば、山に入れる。山には人がいる。自分を待っている人間が。
役人が水筒を岩に置いた。
目を閉じた。
劉之協は立ち上がった。
「座っておれ」
後ろの兵卒が言った。劉之協は振り返らなかった。崖の縁に立った。眼下の川を見下ろした。
「おい」
兵卒が立ち上がる気配がした。
劉之協は崖を降り始めた。
走ることはしなかった。縄のついた手で岩を掴み、足場を確かめながら降りた。後ろで声がした。怒鳴り声ではなかった。驚いたような、間の抜けた声だった。
「あ」
それだけだった。
兵卒たちは追ってこなかった。この道を外れれば、自分たちも迷う。金をもらった手前、大声では騒げない。役人を起こせば、自分たちの不始末になる。
劉之協はそこまで読んでいた。
川に着いた。
水は冷たかった。膝まで浸かり、川を渡った。対岸の草むらに入り、振り返った。崖の上に人影はなかった。
彼は歩き始めた。
川沿いに、北へ。
山は静かだった。風だけが、枯れ葉を転がしていた。
縄は、歩きながらほどいた。
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