第47話 失神してしまう程
月明かりが寝室を柔らかく照らす。その光を眺めるエミリアは、ベッドの上で何度も寝返りを打った。何度瞳を閉じても眠りには遠い。かといって眼を開いて上弦の月を眺めると、それがリスケルの横顔に見え、毛布を頭まで被せてしまう。
「あぁ、どうすれば。私は……」
大事な話とは何か。真面目なものだとは思うが、それでも万が一、自分を求めるようだったとしたら。そう思うだけでエミリアの胸は熱く燃え盛る。セシルの放った軽口がシッカリと効いてしまったのだ。
「世界に平和が訪れていないのに、私だけが幸せを求めるだなんて……」
彼女の脳内は大混乱だ。淡い期待と好奇心、それに反発する罪悪感や使命感、そして大いなる不安が代わる代わる押し寄せてくる。普段は理知的なエミリアも、感情の揺れるままに戸惑ってしまう。
恋愛経験は皆無。手すらまともに握った事がない。一応これまでに仲間と手を取り合うだとか、困窮する老人の手を握りしめるだとか、そういった物事はあった。だがそれらは愛撫とは全く異なる。情熱が導くのに任せて肌に触れるとは、どうすれば良いのか。
分からない。何ら正しきビジョンを描けぬまま、ただ時間だけが過ぎていく。
「はぁ……喉が渇いた。お水でも」
寝静まった廊下を1人歩く。窓から差す光、それと行き先を照らしながら輝く精霊に、どこか慰められたような気分にさせられた。
屋敷の外に出ても人の姿はない。眼に映る建物の全てが消灯しており、ただ虫の声だけが響く孤独な世界。全てから見放された様な孤独の中に、薄っすらとした解放感があり、エミリアは戸惑った。
汲み上げた水をひとすくい、口を湿らせ、そして井戸端に腰を降ろす。部屋に戻ったとしてもまだまだ眠れそうにない。物言わぬ星々と夜明かしでもしようと決め込んだのだが。
(えっ……楽器の音?)
エミリアは虫の声とは違う、美しい音色を耳にした。それなりに遠い。さしたる警戒もせず、音の鳴る方へと足を向けた。そこは光の差さぬ森の中。伐採所の近くであった。
「あれは、フィーネ王女」
拓けた森に彼女は居た。切り株に腰掛け、青い月明かりを全身に浴びながら、ハープを奏でる。細い指先が生み出す繊細な旋律は、まるで星屑が降り注ぐようであり、エミリアの心を緩やかに解してくれる。
「向かいに居るのは、確か……」
銀色の映える髪、そして半袖の皮シャツからはみ出る逞しい体毛。フアングに違いないのだが、仕草に粗暴な様子が無く、少し違和感を覚える。手にするのはリュート。獣魔王の異名を持つ男には不似合いなものが、口に当てがわれ、フィーネの音に呼応した。
――ポェェ、ピロロ。プヒィホピー。
下手である、それもかなり。この力任せに音を出そうとするあたり、フアングで間違いないと確信した。
そんな失礼すぎる評価を浮かべていると、フィーネが指を止めた。
「女性の夜歩きは危険ですよ、エミリアさん」
「……気付いていたのですか?」
「えぇもちろん。宜しければコチラに」
フィーネが切り株に手のひらで指し示す。エミリアに断る理由もなく、とりあえずは言われるがまま応じた。
「どうしたのです。まるで、愛しの殿方に強く求められたのにどう応えて良いか分からず、詳しくても勘ぐられるしどうしようという顔してますよ」
「私そんな顔してますか!?」
エミリアは驚きつつ自分の頬を叩いた。そこでフィーネがくすくすと笑った事で、からかわれた事に気付く。
「何となく察しがついたので、少し揺さぶってみましたが、まさか図星とはね」
「えぇ。何というか、お恥ずかしい限りです」
「怖いですか? それとも、待ち遠しいですか」
「……わかりません。嫌だという気持ちは無いのですが」
エミリアは自分の胸元に眼をやると、押し黙った。身につける質素なローブは戦闘向きでありつつも美しくはない。晴れ着のひとつも買っておけばと悔やむが、それも今更だ。
更に言えば体型にもコンプレックスを抱えている。眼前のフィーネもそうだが、ギーガンなどに比べて体つきが慎ましいのだ。それを衣服越しではなく、素肌をさらした上で見られたとして、リスケルがどんな反応を示すか。
自然とエミリアの視線は伏し目がちになる。
「あまり深く考えない事です。物事は、なるようにしかなりませんから」
「確かにそうかもしれません」
「フィーネの言う通りだって。あれこれ悩んでないで、真心でぶつかれば良いんだ。相手の気持ちに、まっすぐ自分の心を向き合わせる感じ。そうすりゃ何とかなる。実際、オレはフィーネをそうやって落としたからな」
「などとフアングは言いますがね。拐われた当初は恐ろしかったものですよ」
「オレだって緊張してたんだよ」
ここでもフィーネは心底愉快そうに笑うと、優しい視線をエミリアに投げかけた。月を背に受けた微笑みに、邪気は一切感じられない。
「怖い気持ちもあるでしょうが、そこは試練だと割り切って乗り越えなさい。そうすれば、今のような笑い話の1つになるだけですから」
「笑い話……ですか」
「えぇ、そうです。2人だけに許された、特別なものよ」
そこまで聞くと、エミリアは不思議にも肩の荷が軽くなるのを感じた。フィーネとフアングの健やかな関係性が、下手な理屈よりも説得力を持つせいだ。
それからエミリアは腰を上げ、噛み合わない合奏を背中で聞きつつ、部屋へと戻った。今度は十分な眠気が感じられ、やがて深い眠りへと落ちていった。
迎えた翌日。朝になるとエマが朝食を運んできてくれた。すり潰して焼き固めた小麦に山羊乳をかけたもの、そして一欠片のチーズ。もう味など分からなかったが、喉は通る。全てを完食したなら、後はその瞬間を待つだけだ。
そして、大した時間をかける事無く、彼女のもとに訪れた。
「エミリア。昨日の件だけど、良いかな?」
「は、はい! すぐ参ります!」
現れたリスケルはいつも通りだった。それでもエミリアは直視できない。銀に輝く鎧に視線を向けるのがやっとであった。
2人はすぐに移動した。向かうは森の中。伐採所を通り過ぎ、更なる奥を目指して歩いていく。すると、彼らは湖畔に辿り着いた。
(辺りに人の気配は……ありませんね)
目に映るのは小鳥や小動物ばかりだ。それめもエミリアは、入念に邪魔者が居ないことを確かめた。そしていよいよ覚悟する。木々の隙間の草むらに腰を降ろし、2人の肩が並んだ。
少し眩しいのは湖面のせいだ。朝の日差しを照り返して、その端がエミリアの顔へと向けられたのだ。どこか発奮させるようであり、彼女の決意も一層固くなる。
(大丈夫。リスケル様なら、絶対に酷いことしない)
無言で座る間、エミリアの鼓動は早鐘を打った。自分でも脈がうるさく感じるほどだ。それがリスケルにも聞こえていそうで、やはり恥ずかしく思う。
そうして互いに押し黙っていたのだが、リスケルは「よし」と声を出すと、いきなりエミリアの両肩を掴んだ。リスケルの熱意が瞳から、そして手のひらから伝わってくるようである。
(い、いよいよだ……。覚悟を!)
すでにエミリアの意識は途切れ途切れだ。脳内が時々白く染まり、目眩にも似た揺れを感じるが、それでも気力で持ちこたえた。
「エミリア、驚かないで聞いて欲しい」
「は、はい! なんなりと」
「聖剣の事なんだけどさ」
「聖剣……オレルヤンですか?」
「うん、それなんだけど、根本からポッキリ折れちゃった」
「……へ?」
「だから、完璧に折れちゃったの。聖剣が」
勘違いに気付いたエミリアは思わず吹き出してしまった。別に愛を語らうとか、そういった話では無かったのだ。自分の浅はかさ、そそっかしさを自嘲するように、長い鼻息を漏らした。
「なぁんだ、そんな話ですか。てっきりもっと別の用事かと……って、えぇーーッ!?」
エミリアはようやく全てを理解し、そして心理的負荷の限界を越えた。次の瞬間には白目を剥いて、完全に意識を手放してしまう。
「あぁ、やっぱりか。エミリアの信仰心は筋金入りだもんな」
リスケルはそう呟きながら、エミリアの身体を抱きかかえた。そして来た道を戻る。何かうわごとが溢れるたびに、何とも言えない罪悪感を覚えた。
ひとまずは部屋に戻ろう。そう思って森を進むうち、向かいから声をかけられた。フアング夫妻である。
「おうリスケル。その様子を見ると、上手くいったようだな」
「うん? 何の話だよ」
「それにしても気絶させるだなんて。いくら自制が利かなかったとはいえ、もう少し優しく接するべきでは?」
「訳わからん事言うな。オレはただ、エミリアに聖剣をだな……」
「聖剣!?」
思いもよらない言葉に、夫妻は眼の色を変えて詰め寄った。
「お前、リスケル馬鹿野郎。一体どんな変態プレイをやらかしたんだ!」
「ハァ?」
「歪んだ性癖を真っ直ぐにぶつけるだなんて。アナタは節度や恥という言葉を知らないのですか!」
「だから何の話をしてんだ、さっきから!」
それからしばらくの間、散々に言い争いが続けられた。最終的には誤解が解けたのだが、リスケルに小さくない徒労感が積み上げられてしまう。
だがそれもエミリアに比べれば些細なものだ。長々と緊張を強いられた身体的疲労と、聖剣守護が潰えた心労により、彼女の復活には丸一日の睡眠を必要とした。




