第43話 あの頃と同じ景色
夜半の執務室に拳を叩きつける音が響き渡る。木窓は閉じているので、室内を照らすのはランプのか細い灯りだけだ。
「なぜだ、一体何が起きている……!」
キリツネックは、煮えたぎる腹の中を隠そうともせず、自問し続けた。
この半月足らずの間で国内の様子は一変した。あちこちの街で自由を求めるデモが頻発するようになり、参加者は日増しに増えている。取り締まるべき兵士達ですら行進に加わるので、もはや止める事さえ難しかった。
極めつけは、各地の村や街を治める議員らの変節だ。キリツネックに表立って反発し、痛烈な批判を公言するようになったのだ。
――貴方には休暇が必要でしょう、議長キリツネック。
そんな風に引退を迫る場面すらあった。議長の座を引きずり降ろされるのも時間の問題である。
キリツネックの手元にはクシャクシャに潰された羊皮紙がある。議題としていた新法で、いつものようにスンナリと通過させるつもりでいたが、結果は真逆だった。苛立ち紛れに部屋の角へ投げ捨てる。この粗暴な振る舞いも極めて珍しいものだ。
「規律を引き締めねば。軍を総動員してでも、この流れを潰さねばならぬ」
酒が欲しくなる。しかし今しがた、本日45度目の鐘を聞いたばかりだ。自らが法を破る訳にもいかず、眉間に深いシワを刻みながら、ベッドに潜り込もうとした。怒りが渦巻くせいで簡単には寝付けない。寝返りを散々打ったところで睡魔など訪れはしなかった。
そんな最中の事。静まりかえる城内に居るのだが、かすかな喧騒を聞いた。耳を澄ましてみれば人の声だと分かる。
(一体何が起きた!)
飛び起きて木窓を開け放ってみれば、遠くの商業地区、そこで煌々とした灯りを見た。それと同時に、乱痴気騒ぎを思わせる声までも耳に伝わってくる。
「衛兵! 報告せよ、衛兵ッ!」
キリツネックの怒気は限界を超えた。呼び声は完全に叱責である。馳せ参じた兵士は、顔を真っ青にしてしまう。
「ほ、報告致します。街の者共は法を破り、夜遊びに耽っている模様です」
「なぜ取り締まらぬ。それがお前たちの仕事であろう!」
「それが、下級兵の全てが眠りこけておりまして、動けるのは士官のみです。こうなっては取り締まることもできません」
何かがおかしい。普段のキリツネックであれば勘付いた事だろう。しかし、今は頭に血が上っており、対処も極めて短絡的なものとなった。
「ならば起きている者だけを集めよ、急ぎ商業地区に向かう!」
キリツネックは刺繍入りのローブを締め直すと、足早で城下町へと向かった。背後には10名ばかりの部下が続く。馬を用意すら待てず、自らの足で歩いていく。
その選択肢が最悪の結果を招いた。後に続く僅かな兵さえも、1人また1人と何者かに連れ去られ、夜闇の向こうに消えた。
このようにして、気付けば彼1人だけが取り残された形になる。
「何事だ。これはもしや、魔族の襲撃か!」
キリツネックは今更の事を叫んだ。その声に応じるようにして、暗闇から1人の男が姿を見せた。
「貴殿は、リスケル殿ですか」
「おうキリツネック。夜の散歩かい?」
「この騒ぎ、もしや貴殿が?」
「そうだよ。みんな楽しそうにしてるぞ」
「何だと! 即刻やめさせよ、今すぐだ!」
キリツネックは腰の剣を抜き放ち、リスケルの喉元に突きつけた。
「そう怒るなよ。アンタには特別な店を用意してんだ」
「要らぬ、無用な気遣いだ。もはや聖者だからと眼をつぶる訳にはいかん。全ての悪行を法に則り、厳罰を……」
「まぁまぁ。そうカッカすんじゃないよ」
「うわっ、離せ!」
キリツネックはリスケルに抱えられ、そのまま夜空へ。人智を超えた大跳躍は、足元の景色を遠ざけ、ボンヤリと光る街灯りを抽象化する。
それから再度地面が近づくと、リスケルの着地に併せてキリツネックも土を踏んだ。
「私を……どこへ連れ去ったのだ!」
「さぁてね。自分の眼で確かめてみれば?」
リスケルが、これ見よがしに道を避ければ、目の当たりになる一張のテント。入り口の隙間から垣間見える赤い髪、そして熱気。眼を見開いたキリツネックは、操られるようにして歩いていく。「ごゆっくり」と見送るリスケルに返事も無いままに。
(これは。この光景は……!)
テントに足を踏み入れたキリツネックは再び困惑した。眼前に広がる光景が、かつて眼にしたものと寸分すら違わないからだ。激しくかき鳴らされるギター、椅子に腰掛けながら声援を送る人々、鼻をつく酒と調理肉の香り。
そして、ステージで情熱をほとばしらせる美しい踊り子の姿。全てが数十年前と完全に一致したのだ。
「待ってたぜヒルダ!」
「やっぱアンタが最高だ!」
「パンツ見せて、いっぱいパンツ見せて!」
前座の舞だけで観客のボルテージは最高潮を迎えてしまう。鳴り止まない声援、拍手は喝采。それらを鎮めたのは伴奏者だ。突如鳴らされるギター、強めのストロークが生み出す野太い音が、観衆の口を閉じていく。ヒルダの舞はここからが本番だった。
愛に魅せられ滾る身体は、やがて嫉妬に悩み、苦しんでいく。愛とは何か。夢とは何か。傷つき、彷徨いながら揺さぶられる激情。遂には、相手を焼き尽くさんほどに燃え上がり、自身も獄炎に取り込まれてしまう。
それらを滑らかに、あるいは激しく演じてみせた。観衆から自我が消える。ヒルダが舞で求める相手になりきっているのだ。それは入り口で呆然と立ち尽くすキリツネックとて同じだった。
「ちょいとお客さん。立ち見なんて無粋な真似はやめろですの。いい子だからお座りですのよ」
「椅子持ってきた。座って」
セシルとギーガンの誘導に全く抵抗をみせない。されるがままに座るのは、どこか老人介護にも似た光景だが、キリツネックの胸にははち切れんばかりの情熱が渦巻いていた。
やがて舞が終わる。すると辺りは万雷の拍手が轟いた。
「すげぇ、やっぱアンタ最高だよ!」
「もう1回パンツ見せて、次は尻の方から!」
鳴り止まない称賛の嵐。それを背に受けつつ、ヒルダは舞台袖に立ち去ろうとした。どこか勿体ぶるような、ゆっくりとした足取りで。
その姿にキリツネックは強烈な痛みを覚える。両手は自然と前に突き出し、遠ざかるヒルダを捕まえたいかのようだ。
(待ってくれ、私は……!)
激情と羞恥、憧れと恐れ。数々の感情がせめぎ合う中、彼は無意識に一歩踏み出した。そうなるともう止めることなど出来やしない。情熱の昂ぶるままに叫ぶばかり。
「私と踊ってくれ!」
辺りが水を打ったように静まり返る。次いで冷ややかな視線がキリツネックに突き刺さるのだが、上気した顔を冷ますには程遠い。
「なんだい。アンタみたいな生っ白い身体で、アタシを満足させられるの?」
「出来るかどうかは、実際に試してみれば良い!」
キリツネックは刺繍入りのローブを脱ぎ捨てて、麻の服だけになると、ステージに登った。それからヒルダと対峙するような位置に立つ。その様子に併せて鳴り響くギター。最初はか細いメロディ、徐々に音数は増し、テンポも速められていく。
ヒルダは敢えて艶めかしく踊った。広げた掌で顔を隠し、首をなぞって胸元に落ちていく。対するキリツネックの動きは機敏だ。両手を鋭く動かし、跳躍してはヒルダと位置を変える。直情的かつ直線的な動きは、今日という日を心待ちにしていたかのようだ。
「へぇ。意外とやるじゃないさ。堅苦しい男だと思ったけどね」
「社交界で慣らした。これくらいであれば」
「ふぅん。だったら遠慮は要らないね」
ヒルダが風のようなしなやかさでキリツネックに寄り付き、身体を預けてきた。重なる腕に腰骨。次の瞬間には離れ、また戻ろうとする。誘導するヒルダの動きに、どうにか追いつこうとするキリツネックは、やがて息を切らし始めた。
「どうしたの。アンタの熱意はこんなもんかい?」
「まだだ。私はこんなものではない!」
ステップは早く、回転する身体も早い。そしてギターもクライマックスを報せるかのように、激しく、激しく掻き鳴らされる。キリツネックは全力で食らいついた。振り落とされる訳にはいかない。彼の全身全霊がこの刹那に叩き込まれていく。
やがてヒルダはキリツネックと密着し、そこで背中を大きく反らした。するとギターはフォルテッシモで鳴り止み、アンコールの終わりを告げた。
「おおスゲェ! やるじゃねぇか!」
「羨ましすぎるぞお前この野郎!」
先程に劣らない歓声に多少の嫉妬を乗せて、熱気は再び噴き上がった。キリツネックは長年秘めた願望と、初めての脚光により、どこか酔った様な足取りになる。追って目眩まで伴うのは、酸欠のせいなのか。自分の事であるのに理解が及ばなかった。
「やるじゃん。あの時も、今みたいな勇気を出してくれたらね」
「私を知っているのか?」
「まぁね。顔馴染みみたいなもんさ」
ヒルダは最後に両目を妖しく輝かせた。するとキリツネックの背中からは巨大な霧が吐き出し、円を描くように渦巻いた。人のものとは思えない程膨大な欲望だ。ただし黒々としてはいるが、たまに色味を変えており、一色の感情でない事まで見て取れた。
それをヒルダは口から一気に吸い込み、余すこと無く腹のうちに収めた。
「ふぅ。数十年越しの欲望は稀に見る珍味だったよ、ごちそうさま」
次の瞬間、キリツネックは膝から崩れ落ち、本当の夢の世界へと落ちていった。全てを手放した様に、あるいは許したかのように、両手を投げ出して眠る。
これにて標的への工作は終わった。だが宴はまだまだ終わらない。厳格な法の支配する街は、夜通しで享楽さに包まれていくのだった。




