第六話
「昔の話をしようか、キタ。」
唐突にハルさんがそんなことを言う。
「俺と初めてあった日のことを覚えているかな。思い出したくもないことだろうけど。俺はよく覚えているよ。あの日は雨が降っていた。丁度今日みたいな。だけどおまえはその雨ではなく血を体中に浴びていた。」
ハルさんが車を駐車しながら言う。ハルさん宅に到着したようだ。
車を後退させるために振り返ったハルさんと目が合う。その目は俺を見てふっと細められた。
「…何で今そんな話するんすか。」
「俺が何を知っているのか知りたそうにしていたから。」
「まぁそうっすけど…。俺が知りたいのは俺の知らない俺のことであって、」
「ねぇキタ。どうして俺はあの日あの場所に現れたんだと思う?」
車を駐車し終えたハルさんが身を乗り出して俺の目をのぞき込んでくる。
話の脈絡が掴めない。俺が答えずにいるとハルさんの手が視界を覆った。何も見えない。ハルさんは囁くように言う。
「おまえが知らなくて俺が知っていることなんてないよ。だっておまえのことでしょう?よく言うじゃない、自分のことは自分が一番よく知っている。自分では知らないと思っていても本当は解っているんだ。見ているんだよ、おまえは全部。知っているのに解れないだけだ。俺にできるのはおまえが解れるよう手を引いてやることだけ。」
俺の目元から手を離しハルさんが口元を緩める。笑顔だが目は動かない。口元が釣り上げられただけだ。
「キタ。今、猫のこと忘れたね?」
「………え?猫……あれ?」
今まで隣に居たはずの猫の姿がない。どこへ行った?さっきまで俺の腕のなかに─
「…キタ?」
「えッ……」
俺の名を呼んだのは猫だ。
さっきまでと同じように俺の腕のなかで俺の上着にくるまった猫だ。
「あれ、え、あんた………」
「猫はずっとそこにいたよ。おまえの腕の中に確かにいた。確かに、ね。」
ハルさんが運転席に座り直しながら言う。
いいや、確かに猫はいなかった。腕にもなんの感触もなかった。
呆然と視界をさまよわせているとバックミラーに写った猫が目に入った。
長い前髪に邪魔をされ表情はよく見えないが、その唇は鬱血するほど強く噛みしめられていた。
猫は忘れられたく無いと言っていた。それなのに俺は忘れたのだ。
ただハルさんの話に気を取られ一時的に意識が逸れた、というのではない。ハルさんに指摘されてからも数秒俺は思い出せなかった。
今頃罪悪感に苛まれる。どうすることもできずに猫に触れる指に力を込めた。
「よく見るんだ、キタ。色々とおまえは見落としているようだ。おまえの場合落とし物を全部拾うには何年も昔に戻らないといけなくなるけどね。バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいに。あれはいい映画だった。」
「…待ってくださいよ。今回の件は俺の過去ともなにか関係してるんですか。」
俺の問いにハルさんは何も答えず、軽く肩をすくめると煙草に火を付けた。俺は暫く煙草から出る煙を眺めていた。揺れては消え、また揺れる煙の糸が象徴するのは俺の疑問であり猫の存在であり、ハルさんの苦悩であった。
「おっと失礼。車内での喫煙はお行儀が悪かった。」
ハルさんはわざとらしく言うと車から出て行った。あっさりと逃げられてしまった。すぐに追いかけて問いただしてもいいのだが、こういうときのハルさんには何を言っても無駄だ。
「あの人も素直じゃないな。解って欲しいのならそう言えばいい。」
猫が言う。
「解って欲しいのも想いだ。…だけど想いがあるからこそ自分からは言いたくないこともある。複数で面倒くさいですね、あなた達は。」
「…何の話だ?」
「こっちの話です。」
目元に散らばった前髪を耳に掛け猫が溜め息を漏らす。そのままハルさんに続き車を降りようとするが、
「すまなかった、猫。さっき一度あんたを忘れた。」
俺はそれを引き止め頭を下げる。
「いいんですよそんなこと。誰だって忘れ物はする、」
「あんたも素直じゃないな。」
猫は俺から目を背ける。
「…僕が居なくなったあと、あなたは僕のことを捜してくれた。それでいいんです。それだけでいいんだ。」
「…どうしてそれを知っているんだ。」
「見ていたから。満月の下で。」
「だったらなんで出てこなかったんだ。見ていたらなら声くらいかけろ。心配してたんだぞ、」
「見ていたけどそれだけしかできなかったんだ。」
猫が俯く。
「だけど僕はずっとあなたの近くに居た。」
「俺はどうして気がつかなかった?」
「知りたいのなら、それがどうしてか僕は知っている。」
「いい。言わないでくれよ。」
俺が言うと猫は可笑しそうに微笑った。普通に無邪気な笑顔だった。
猫がそんな風に笑うとは思わなかった。いつも仏頂面で大人びた表情しかしないと思っていた。
「……嫌だなァ、もう。そんな顔もできるのかよあんた。」
溜め息まじりに言うと猫が少し焦ったような顔になる。
「何か不愉快でしたか。ごめんなさい、」
何故か突然誤り出すので俺は噴き出してしまう。
「ははっ、本当だよ全く。あんたがもっと無愛想な奴なら別に居なくなっても何とも思わないだろうに。」
「………?」
猫は首を傾げる。
その仕草だけを見るとどこにでも居そうな普通の子供だ。もっとも猫が実際いくつなのか俺は知らないが。
何だか可笑しくてまだ笑っていると猫が不思議そうに俺を眺めていた。
こいつが変にまだ子供だから俺はこいつを放っておけないのだ。
こう見えて俺は子供に弱い。別に子供が好きだからではない。むしろ子供は面倒だから嫌いだ。そうではない。
─思い出したくないことを思い出した。喉の奥がぐっと詰まる。
「キタ?」
突然笑顔が消えた俺を訝しんでか猫が顔をのぞき込んでくる。
「…おっと、悪い悪い。俺はよく考え事をして意識がどっかいくってハルさんに前いわれたっけな。そんなわけだから気にしないでくれ。」
「……………………」
「なぁ、猫。」
「なんですか。」
「もし今度あんたが俺の前から居なくなっても、この前みたいに必死で捜してやるよ。あれ、我ながら必死だったんだぜ。」
「…突然どうしたんです。」
「日本中でも日本の外でもあんたが見つかるまでめちゃくちゃ捜すさ。あんたがそれを俺の近くで見ていたとしても俺があんたを見つけるまで捜す。」
「…………………………………」
「そんで無事見つかったとしてそれからまた居なくなっても何度でも捜そう。何度でも何度でも死ぬ気で捜す。筋肉もげても走り回って声帯ぶっ壊れてもあんたのこと呼んでやる。…それ端から見たら飼い猫に逃げられたのに必死で捜してる可哀想面白い奴だろうなぁ。」
ここまで言って猫を見ると呆れたように髪を掻きあげくつくつと笑っていた。
「なかなかに馬鹿げたジョークだ。どうしました、疲れすぎましたか。」
「全くだ。あんたを捜すのにはなかなか骨が折れそうだ。まぁ金ならあるしな。猫捜しの世界一周旅行とでもいきますかね。」
「……まさかとは思うけど、本気で言っているのか?」
「なんで俺が冗談言わなきゃならないんだ。割といつも真面目だぞ俺。」
「ギャンブルで負けては浴びるようにワインを飲みまだ懲りずに競馬、そこでも負けまたワインを飲み終いに道路で寝るような人が真面目だとは思えない。」
「おいおい…そんなことまで知ってるのかよ。」
「知ってますよ。どうしてだと思う。」
「………解んね。」
お手上げだ、と両手を上げてみせると猫は愉快そうに笑った。
「いずれ解りますよ。今はまだ、知るべきではないから。」
その言葉に俺はむっとする。
「知るべきってなんだ。俺のことなんだから知る権利ぐらいあるだろう。」
「ええ。だけどそれは今じゃない。」
猫の目がどこか遠くを見るように細められる。その瞳は何を映したのだろう。
猫が見る景色を、俺も見たいと思った。さっきからずっと俺の知らない何かを語る猫。それと同じ景色を俺も見たい。
「…まだ追いつけねぇのか。」
俺は何も知らないんだ。俺のことですら何も知らない。
─猫が俺を見て何かを言った。
その言葉は俺に届かず、猫が伸ばした手も俺には届かなかった。




