第五話
大急ぎで車に乗り込みエンジンをかける。アクセルを踏み込もうとするとタイヤの近くに居たらしいカラスが慌てたように羽ばたいていった。
『取り敢えず家まで辿り着けるといいね。』
そう言ってハルさんは意味深な笑みを浮かべた。その真意は解らないが、とにかく家に帰れということだろう。考えてみれば、猫が俺に会うためには俺の家に来るしかないのだった。
溜息をつく。
あれのせいで俺は色々と振り回されっぱなしだ。会ったらまず土下座でもさせるか。それから聞きたいことが沢山ある。どこから来たのか。ハルさんの情報網で調べても何も出てこないのはどうしてなのか。今までどこにいたのか。どうして俺の前に現れたのか。依頼主の殺人対象は本当におまえなのか。
気になることは後を絶たない。ずっと湧き出しては消え、俺のなかを掻き乱していく。
カラスが一際大きく鳴いた。そういえば今日はいつもより数が多い。その鳴き声は不吉ななにかを思わせる。ハルさんにはそのなにかが解るのだろうか。
俺はさっきハルさんに貰ったカラスの羽を気にしながらアクセルを踏む。
丁度雨がぽつぽつと降りだした頃だった。
別段何か特別なこともなく、俺は自室のあるマンションに辿り着いた。俺の部屋はこのマンションの最上階だ。
階段で登るには少し疲れたのでエレベーターが来るのを待つことにする。
そういえば外では雨が本格的に降り出したようだ。猫は雨雲を呼ぶのだろうか。
雨の具合はどんなものかとエントランスに目を向けると、そこに一つの人影があった。マンションの住人だろうか。にしてはなかなか入ってこようとしない。俺は訝しげに思いその人影に目を凝らす。
「―!?」
それは依頼主だった。
オートロック式の自動扉の向こう側から俺を見ている。
「なんでここに…」
猫を殺すため?もしくは依頼なんて嘘でもともと俺を殺すことが目的だった?はたまた猫を人質に俺に何か取引でも持ちかけるか?
物騒な思考が脳内を支配し動けない俺を、依頼主が手招く。ゆっくりと、俺から目を離さずに。それはまるで生者を彼岸へと誘いこむ死神の様だ。
「猫を殺せ。」
依頼主が言う。
それを聞いた瞬間俺は自分が何をすべきかを悟った。
「猫を守れ。」
依頼主の言葉を覆そうと声に出す。
謎ばかり残して死なれてはたまらない。
エレベーターはまだ来ない。俺は非常階段を駆け登る。依頼主が自動扉の向こう側に抑えられている間に最上階まで辿り着かねば。きっと猫はそこに居る。
だがその考えは数秒も絶たず崩れ去る。
階段の角を曲がろうとした時だった。正面から同じく走ってきた人物と衝突してしまう。
「すみません、」
短く謝罪し足早に去ろうとするそいつの腕を掴んだ。勢いそのままに進もうとしていたそいつはカクンと体制を崩す。
「………………………」
振り返ったそいつと目が合う。するとそいつはすっと目を細め、
「……あなただったのか。」
独白のように呟くと、腕を掴んでいた俺の手を引き剥し強く握った。
あぁ、まただ。
目が合うと時が止まるのだ。
「探したぜ、猫。」
猫はふっと微笑むとすぐに前を向き直し走り出した。俺も手を引かれながら走る。
屋根がなくなると雨に打たれる。結構な雨だ。
「何処へ行くんだ。」
走りながら俺は問う。
「ここではない何処か。」
猫が言う。
「僕に付いてくるかはあなたの自由だ。」
「ならどうして手を離さない。」
「…知らない。」
拗ねたように猫が言う。
子供みたいな言い方に思わず笑みが溢れる。
「付いて来い。ハルさんの所に行こう。あの人は猫の味方だからな。」
「猫…?それは僕のことか?」
「どうだっていい。猫は猫だろう。」
「…それもそうか。」
「そういうことだ。」
言いながらちらりと後ろを振り返る。まだ依頼主の姿は見えない。駐車場まで逃げ込んで少し安心し足を緩めると、カラスがけたたましく鳴きながら飛び立った。それはしばらく俺の頭上を旋回していたが、もう一度高く鳴くと大きく羽ばたいて消えていった。
カラスの黒い羽に雨が叩き付ける。その黒が水に滲み、そのまま雨雲の広がる空に吸い取られていくようだ。
「…冷たい。」
猫が溜息のように言う。白い手が僅かに震えている。
「大丈夫か。風邪でも引いてるのか?」
猫は力なく首を横に振る。
どうしたのかと再度尋ねようと猫を見ると、その背景に物凄い勢いでこちらに向かってくる依頼主の姿があった。長めの白髪を振り乱して走って来る。
「待ちなさい!い、いつまで私の依頼をないがしろにするつもりだい!?き、君は詐欺師なのか!」
俺は反射的に猫の肩を抱き寄せる。
「詐欺師はあんただろう。俺の秘書を殺ったのはあんたじゃないのか。」
「な、なんの話だ!?」
「惚けるな。まぁ実際どうなのかを調べるのはサツに任せよう。それより依頼の件についてだが、」
「殺し屋!逃げよう、殺し屋。」
焦ったような猫の声。縋るように俺を見上げている。
「少し待ってくれ。大丈夫だ、あんたを殺させたりはしな、」
い、と言い終わる前に俺達と依頼主の間に割り込むようにして軽自動車が突っ込んできた。
「キタ!乗って!」
助手席から呼ぶのはナツメさんだ。となると運転席にはハルさんだろう。
俺は頷くと躊躇う猫の手を引いて車に乗り込む。 依頼主はおちくぼんだ目を見開いて、
「ま、待って!どうしてだい、猫ならすぐそこにいるじゃないか!まさか仲間だったのかい!?頼むよ、し、謝礼は弾むよ!今ここで殺してくれ!!」
などと叫んでいたがハルさんはすべて無視してアクセスを踏んだ。
車が急発進し倒れ込んできた猫の身体を受け止める。
振り返ると依頼主は途方に暮れたようにこっちを見つめていた。もう追っては来ないようだ。
ほっと息をつき背もたれに身を預ける。
「カラスが教えてくれたよ。キタがピンチだってね。」
ハルさんが言う。
「その子が猫?」
「すっごい美人ねぇ!」
ナツメさんが身体を捻って後ろを覗き込んでくる。すると猫はじっとナツメさんを睨み威嚇するように身を強ばらせる。
「あらら、怖がらせちゃった?」
「ナツメ。ちゃんと前向いててよ。俺飲酒運転してるんだからさ。道逸れてないか確認しー」
「ハル!逸れてる!早速逸れてるわよ!」
「え、本当?」
車が左右に激しく揺れる。飲酒運転ってまじかよ。
「あ、ねぇナツメ。この辺家の近くじゃない?」
「え?ちょ、そうだけど道間違えてるじゃないの!」
「いやぁさすがにワイン飲み過ぎたかな。でも丁度いいんじゃない。これから雨酷くなるよ。もうここで降りてきなよ。」
「で、でも…」
「任せときなって。ほら、見えてきたよナツメの家。あれでしょ?あの茶色い、」
「あーもう解ったわよ、降りてほしいのね?そうなのね?あなたってすごくわかりやすいんだから。」
「気を使ったんだよ。雨も降るし、どうせ俺の家に泊まることになるだろうからさ。男三人と一つ屋根の下ってのはむさ苦しいでしょう。」
「帰れないほど酷い雨になるの?」
「そ。コタローが言ってた。」
「コタロー?」
「コタロー。さぁ着いたよナツメ。」
「はいはい、お気遣いどうも。」
「怒らないでよ。」
ナツメを家まで送ってくる、とハルさんは車を降りていった。
「…男三人。」
遠ざかっていく二人を見送りながら猫が呟く。
「どうかしたか。」
聞きながら、しかし俺は感じていた。手を握ったとき。肩を抱き寄せたとき。その感触が柔らかかったのだ。つまり、
「…猫。あんた女なのか。」
ずばり問うてみる。
猫は小さく首を傾げる。
「包み隠さずに言うと、僕の体は女性です。だけど僕はずっと自分を男だと思って生きてます。つまり世でいう性同一性障害なんです。」
猫がすっと微笑む。
俺は妙に納得した。猫が纏う優艶な雰囲気はその特異性由縁だったのだ。
「引きますか。」
「いや別に。」
「そう言ってくれると思っていました。」
微笑む猫に見詰められる。
今になってこの前色々と世話になったことが恥ずかしくなってきた。猫から目を逸らす。
「そういえば、どうして黙って居なくなったんだ、昨日。」
「…猫ですから。」
微妙な間が気になったがなんとなく触れないことにした。
「じゃあ何かあったとかじゃないんだな?」
「別になにも。」
「そうか。…全く。心配したんだぞ。ともかく無事で良かった。」
言いながら猫の頭をぽんと撫でる。
撫でたつもりだった。
だが俺の手は何も捉えなかった。たしかに猫に触れたのに、その手は宙を掻くような感覚を覚えた。
「……どうかしましたか。」
猫が自分の手を見詰めて硬直する俺を訝しげに覗き込む。
その頬に恐る恐る手を伸ばす。
「……………………………………」
触れられた。
当たり前だ。
「……………………ははっ、」
何を焦ったんだ。俺が疲れているんだ。また目眩でも起こしたに違いない。
「………?」
不審そうにしている猫の頬を誤魔化すように撫でる。
「あんた肌が冷たいな。本当に風邪でも引いたんじゃないのか?さっきも寒そうにしてたしな。温めてやるよ。」
羽織っていたコートを猫の肩にかけその身体を引き寄せる。
「………あの、」
「少しはマシになったか?」
「……………………………」
余計不審がられているみたいだ。違いないが。自分でも何がしたいのかよく解らない。
猫の柔らかそうな唇から細い息が漏れる。
「……マシどころか、」
何か言いかけたが止めたらしい。前髪をかきあげ長い睫毛を伏せると俺の腕に身を寄せた。前髪をかきあげるのは癖らしい。猫が戻ってきたと実感する。安心する。
両腕に確かな感触がある。猫が居る。俺の腕の中で瞬きをし、呼吸をし、心臓を鳴らす。確かなことが一瞬で消えてしまうような。そんな不確定な、どこか恐怖めいた感情を俺はずっと抱いている。
猫に出会ったあの雨の日から。
「やぁごめんごめん。ナツメが何だかご機嫌斜めで。」
気がつくとハルさんが戻ってきていたようだ。
ハルさんは俺と、俺のコートに包まれ俺の腕に収まる猫を交互に見ると、
「ずるい。俺にはそんなことしてくれたこと無いのに。」
拗ねた。
「あんたもう大人じゃないすか。」
「大人だって甘やかされたい!!」
「じゃあナツメさんにしてもらえばいいじゃないすか、」
ナツメ、という単語を聞いたハルさんの表情が一瞬曇る。だがそれは見間違いだったと思うほど跡形もなく削ぎ落とされる。
喧嘩でもしたのだろうか。
「彼女にしてもらうのとは違うでしょ。それともなに、君らそういう関係?」
いつもの不気味な作り笑いを貼り付けたハルさんが言う。
「馬鹿言わないでくださいよ。男同士っすよ。ハルさんも男相手に甘やかされたいだなんて疑わしい。」
「俺はそういうんじゃ無いから!ただキタに甘やかされたいだけ!そう、キタにね!!」
「何なんですかそれは。」
「兄だもの。弟が愛おしいのは当然だよね。」
「真顔で愛おしいとか言うのやめてください不気味っす。」
「酷いな!」
なにやら文句を言いながらハルさんが車を動かす。さっきまでの蛇行運転が嘘のような安全運転だ。いや、実際嘘だったのだろうが。
ハルさんはどんな意図があってナツメさんを家に帰らせたのだろう。
危険な目に遭わせたくないという男気か。大方そんなもんか。
「キタって、あなたの名前ですか。」
猫が俺を見上げて言う。
「いや、通り名みたいな感じかな。あんたも好きに呼んでいいぜ。」
猫がこくりと頷く。
「この人は、お兄さんですか。」
今度はハルさんに目線を向けながら言う。
「いや、本当の家族ってわけじゃない。けど俺はハルさんのことを実の兄くらいに思ってる。ですよね、ハルさん。」
「…そうだよ。キタは俺の弟だからね。」
そう言うハルさんの声は暗い。
「ハルさん?…すみません、調子乗ったこと言いましたか、」
「違う!」
ハルさんにしては珍しい、取り乱したような声。
「は、ハルさん?」
ハルさんは俺の声にはっと我を取り戻したのか、今の声を恥じるように一度咳払いをする。
「……違うよ。別のこと考えてただけ。」
そう言ってにこりと笑う。普段より目に見えて力のない笑顔だった。
「…ハルさん、なんか今日おかしいっすよ。ナツメさんと喧嘩でもしたんすか?それとも具合が悪いとか、」
「何でもないんだよ。」
ハルさんは赤信号を無視して車を進める。
「ねぇキタ。今日のところは俺の家に泊まってもらうけど、いい?猫ちゃんも。男二人と布団並べることになるけど。」
明らかに話題を逸らされた感じがするが、深く追求しないことにした。
ていうか、猫の性別のことも知っていたのか。さすが情報屋である。うっすら恐怖さえ覚える。だが性別のことなんてどこから調べてくるのだろうか。
猫もそのことに疑問を抱いたらしい。
「僕のことを知っているのか。」
ハルさんを警戒するような姿勢をみせる。
「情報屋だからね。何でも知っているよ。」
ハルさんはひらひらと手をふりながらいう。片手運転危ないっす。面倒だから口には出さない。
「どこからそんな情報持ってくるんだ。」
軽率な片手運転は猫の警戒を強めたらしい。
「教えてくれるんだよ。猫とカラスがね。」
「猫とカラス…?」
ハルさんの言葉を繰り返し、猫は怪訝そうに顔を傾ける。無理もない反応だ。
これは俺も詳しくは知らないことなのだが、ハルさんはどうやら動物と話ができるらしいのだ。ただし猫とカラスに限る。それがどういう基準なのかは解らないが、ともかく空と地上という二つのルートから誰よりも速く正確な情報を得ることが出来るらしい。
「そんなこと本当に可能なんですか。」
猫がハルさんに問いかけるが、当の本人は鼻歌を口ずさみながらもう一度手をひらりと振って軽くかわす。
変わりに俺が答えろ、ということだろう。
「ハルさんの情報網は確かだ。俺も実際この人が猫と会話してるのを見たことがあるしな。」
もっとも俺にはハルさんが一方的に猫に話しかけているだけのように見えたのだが。
「確実さとスピードは他のどの情報屋よりも安定してるんじゃないか。」
「珍しいな、キタが誉めた。」
「事実を言っただけです。」
「そう、事実だ。だけどそんな俺の情報網をもってしても君のことは呆れるほど何も出てこないんだよ、猫。」
ハルさんがバックミラー越しに猫を見る。その目は猫を値踏みするようにすっと細められる。
「君はいったい何者なんだ。」
猫がびくりと身体を震わせる。大きな目を更に見開き、唇が震えている。明らかに様子がおかしい。どうしたものかとハルさんを見ると、苦しむ猫をバックミラー越しにただただ見ていた。
「僕は……」
小刻みに震える猫の体が未だに状況を把握できてない俺から離れていく、と思えば今度は勢いよく肩を掴まれる。
「僕は、ただ…キタを助けたいだけ…忘れられたく無いだけ、なのか…?」
消え入るような声で言う。
忘れられたくない、という台詞に俺の心臓はどくりと痛む。
俺は一度猫の存在を忘れたではないか。
意識せず、あまりに自然に俺の中から猫の存在は消されようとした。
「………どういうことだ……?」
ハルさんが溜め息をつく。
「解ったよ、猫。安心しな、キタはもうおまえを忘れるようなことはしないよ。」
─もう?
俺の心臓はもう一度どくりと脈打つ。だがそれは痛みからではない。不安である。
ミラー越しに俺と目が合うとハルさんは困ったような笑みを浮かべた。
「…あんたは、何を知っているんだ。ハルさん。」
ハルさんは笑みを引っ込めると、いつものように無理矢理笑顔を貼り付けた。
「知っているよ。おまえの知らない、いろんなこと。」




