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催涙雨  作者: キノ
4/8

第三話

 「冷静なら、取り敢えずここから離れませんか。」

 笑顔を引っ込めた猫が再びフードを目深に被り、辺りを警戒するように見回しながら言う。

 確かにそうするのが正解だ。答えが見つかるはずもない色々なことに頭を巡らせるよりも、真っ先にここを離れるべきだった。

 下手な動きをしたら秘書を殺した犯人にされかねない。

 やはり少し動揺しているのか。

 だが動揺せずにはいられないだろう。

 雨音である程度の音は消されていたとしても、あの短時間でここまで残虐な殺人ができるものなのだろうか。

 相手は相当腕が立つに違いない。しかも計画性もある。

 そいつが俺の敵なら本当に厄介だ。

 ―あぁ、おかしい。

 ここまで俺は一切秘書のことを考えなかった。今まで見てきた沢山の死体の内の一つ。

 既にそんな意識を持っていた。

 思わず眉間を抑える。頭が痛い。

 俺はここまでおかしくなってしまっていたのか。

 元は秘書だった死体の前に跪く。

 今や心臓の位置にある2つの眼球は、最期に何をうつしたのだろう。

 もしかしたら、それは俺だったかもしれない。引き裂けそうなほど大きく開いた顎は、俺の名を呼んでいたのかもしれない。投げ出されている手は、俺に伸ばされていたのかもしれない。

 だけど、残念だな。

 あんたの叫びは俺に届かなかった。

 「…死体、どうしますか。」

 猫が死体を嫌そうに眺めてから俺に視線を移す。

 「警察に届けるのが普通ですけど。」

 「…いや、放っておけ。こういう死体の処理は専門外だ。この辺の監視カメラはうちの事務所のしかないし、後でまた処理しておく。逃げるが勝ちだ。」

 「そうですか。」

 猫の声に感情は感じられない。

 今はその声のお陰で気持ちが楽になるようだ。何故だかは解らない。

 「行きましょう。」

 先に立って歩き出す猫の背が離れていく。少し猫背な背中。

 秘書が最期に見た俺の背も、ああして離れていったのだろうか。

 立ち上がって死体を見下ろす。

 「何で殺されたんだろうな、あんた。」

 辛うじて繋がっていた死体の首の皮が少し裂け、首が傾く。

 「解らないよなぁ。俺にも解らねぇ。」

 また皮が裂け、首は俯く。

 「なぁ、そういえば俺は泣かなかったな。あんたが死んでも。」

 長い髪がぱさりと落ち、死体の目元に張り付く。

 「済まなかった。すぐ傍にいたのに救えなかった。」

 残りの皮が裂け、首がことりと落ちた。その勢いで俺の足元まで転がってくる。

 眼球のない目と、目が合った。

 「‥‥‥‥」

 屈んで目を閉じさせようとする。が、指紋が残ると厄介そうなのでやめた。

 秘書が死ぬことは、仕事柄常に想定はしていた。別にだいそれたことではない。

 今はただ、この場を収めることだけを考えろ。

 秘書とはもうここで終わりだ。何を想ってもきっぱり切り捨てなければ。

 想いは時に己に枷をかける。

 断ち切らなければならない。

 「じゃあな。秘書の仕事、それなりに助かっていた。」

 伝えたかったのはそれだけだ。死体に聞こえていようといまいと同じこと。ただの独白だ。

 俺は死体の首をまたぎ、猫の背を追った。

 数メートル先の雨の中で猫は何も言わず俺を待っていた。

 すまないな、と片手をあげる。

 猫は小さく頷くとまた俺に背を向けて歩き出す。俺は小走りでその横に並ぶ。

 「どこへ行くんだ?」

 「別に。どこにも。」

 「あてがないなら家にくるか?」

 「そんな不用心でいいんですか。」

 「あんたは俺の敵じゃないんだろ。」

 「誰もそんなこと言ってない。」

 「俺がそう思うんだ。」

 「…そうですか。」

 「俺の家に来い。聞きたいことが沢山ある。それに、濡れたままだと風邪を引く。」

 「……そうですか。」 

 猫の声には感情がない。何を考えているのか全く解らない。そんな奴は珍しい。

 あれだけ無残な死体を見た反応が顔をしかめるだけなのも普通ではない。

 しかも見たとこ俺より年下の、恐らくまだ子供だ。小柄なのもあるだろうが、成人以上には見えない。

 普段どんな生活を送っているのだろう。

 何だか心配になってくる。

 口振りから察するに、帰る場所も無いようだ。文字通り、野良猫ってことか。

 雨の日に野良猫を拾うなんてよく聞く話だ。それとこれとは話が別、かもしれないがどうでもいい。

 猫を拾う拾わないなんて俺の自由だ。

 そんなことを思っていると、猫が何か言いたげにこちらを見上げていた。そういえば、と口中で呟く。

 「どうやって僕を殺すんですか?痛いのは嫌だ。」

 「は?殺す?」

 …あぁ、思い出した。猫の殺人依頼が出ていたんだった。

 だけどそれはまた別の猫かもしれない。

 「僕であってる。」

 俺の考えを見透かしたような台詞だった。

 「痛いのは嫌だ。」

 淡々とした口調に僅かに感情がこもる。

 「痛いのは嫌だ。」

 猫が俺を見上げている。

 怯えたような表情は、やっと猫の歳(俺の予想による。)相応のそれだった。人間らしい表情に何故だか安心してしまう。

 「殺さねぇよ。」

 猫の瞳が揺れる。

 「さっき言ってたよな。僕は持ってる。」

 ―さっきの男を信じてみて、それが正しいという答えは誰が持ってる?僕は持ってる。

 「なぁ、俺の秘書を死体にしたのは依頼主だろう。」

 「どうしてそう思う?」

 「勘だ。」

 出会った時から思っていた。人殺しにはそれ特有の雰囲気がある。あの依頼主にはそれがあった。

 だがそれだけで依頼主を人殺しにするわけにはいかない。

 「だから、それが正しいのか間違いなのか、はっきりと分かるまで殺さない。もし依頼主が人殺しでなかった場合には通常通り猫を殺す、んだけど、」

 猫は目を伏せ、唇を噛み締める。

 「…痛いのは、嫌だ。」

 その声はついに泣き出しそうだった。

 参ったな、と思わず眉間に手をあてる。

 「待てよ。まだ続きがある。いや、それより否定しろよ。多分、あんたは悪くないんだろ?」

 「…どうせ、信じてもらえない。」

 そう言う声は、また感情のない冷めたものに戻っていた。

 「…まぁ、安心しろ。痛くしない殺し方だってあるにはある。それ以前に、そもそも俺は子供は殺さない。だから初めからあんたを殺すつもりなんてなかったんだ。」

 それを聞いた猫はしばらく驚いたように俺を見つめていたが、小さく息をつきふふっと笑う。

 「お人好し。」

 「五月蠅いな。」

 泣くかと思えば今では笑顔を見せる。だがそのどの表情もすぐに引っ込んでしまう。

 感情を無理に削ぎ落としたような無表情も、先程から繰り返される『痛いのは嫌だ。』という言葉も、彼の中にある何か暗く深いものを匂わせる。

 虐待?監禁?育児放棄?

 …考えたって仕方ないか。俺には関係のないことだ。

 「…ありがとう。」

 猫が俺を見上げて言う。目が合うとふわりと笑った。

 殺しはしないと言って礼を言われたのは初めてだ。大抵は、そんなの当たり前だと気を悪くされる。

 何と返したらいいか解らないので、猫の肩を軽く叩いた。

 その肩は細すぎた。

 はやく暖めてやらないと肺炎になるかもしれない、とまだ雨の止みそうにない空を見上げて思った。

 猫が隣で小さくくしゃみをする。

 取り敢えず風邪を引かせないようにしないと、と俺なりに気合をいれた。

 

 歩いて帰るのは疲れるので、結局タクシーを使うことにした。

 運転手は濡れに濡れた男二人を乗せるのを頑なに拒絶していたが、半ば強制的に運転させた。仕事しろ。

 タクシーに乗っている時間があまり長かったので、猫にずっと気になっていたことを聞いてみた。

 「痛いのが随分と嫌みたいだな。訳ありか?」

 「別に、なにも。」と猫は言った。

 その後はお互い、雨で視界の悪い車窓からの景色を眺めていた。何も話さなかった。

 やっと俺の家についた頃には雨も小降りになっていた。ついでに言うとタクシーのシーツは水を吸いすぎてふやけていた。それを見て涙目になる運転手には俺が缶珈琲を奢ってやった。

 顔を真っ赤にして手を振り上げて追いかけて来る運転手を撒いて俺の家に付いた頃には、太陽はもう沈みはじめていた。


 「まぁ上がれよ。」

 俺は濡れた上着を脱ぎ捨てながら家の中に入る。下に着ていたカッターシャツも脱ぎ捨ててしまう。脱衣場から適当にタオルを掴んで、玄関で立ち尽くしている猫に投げる。

 「家が濡れるとか気にしなくていいぞ。人を殺した金で買った家だ。」

 「…でも、」

 「いいから上がれって。あんたはまず風呂に入れ。風邪でも引かれたら面倒だ、ほら。」

 猫を無理矢理風呂の脱衣場まで連れて行く。

 「シャワーとか自由に使っていい。着替えは俺のを貸してやる。さ、ごゆっくり。」

 有無を言わせず脱衣場の扉を一方的に閉める。

 猫は随分と迷っていたようだが、しばらくしてからシャワーの音がしてきた。俺はほっと安堵の溜息をつく。

 なんだか急に疲れが押し寄せてきた。今日は本当に色々あった。だが疲れの理由はそれだけではない。恐らくこれからも“色々と”あるだろうから。柄にもなく深い溜息をつく。今度は憂いの溜息だ。

 濡れた服が身体に張り付いて気持ち悪い。全て脱いで乾燥機に投げ入れる。換えの服に着替えてから、猫の服も乾燥機に入れておこうと思い、脱衣場の扉を開ける。猫の服は丁寧に畳んで床に置いてあった。

 「…生真面目な奴。」

 一応猫に断っておこうと扉の前から声をかける。

 「猫。服、乾燥機に放り込んどいていいか?」

 「え?あ、服。お願いします。濡れたままだと家を汚してしまうだろうし。」

 猫が風呂場から返事を返す。

 「あぁ解った。家のことは気にしなくていいんだけどな。あんた真面目だな。」

 俺は猫の服も乾燥機に投げ入れてからリビングに戻りソファに倒れ込む。途端に眠気に襲われた。

 急激に重くなる瞼に耐え切れず目を閉じる。

 そのまま俺はしばらく眠りについた。


 


 髪に誰かが触れている。誰かに撫でられている。ゆっくりと、優しい。

 頬を撫でる風が気持ちいい。ここはどこだ?

 俺は目を開ける。

 「目が覚めたかい。」

 「…お父さん。」

 お父さんは俺の髪をもう一度撫でると、辺りを見回して言う。

 「良い所だろう?風を遮るものがなくて、気持ちいいとおもわないか。」

 「うん。」

 俺は起き上がる。そこは広大な大地だった。一面の芝生が果てしなく広がっている。その緑の上でお父さんが笑顔で俺を見つめている。その後ろにはお母さんがいて、同じように笑顔だ。

 「ここにおまえを連れてきたのには訳があってね。」

 お父さんが俺の頬に手をあてる。

 「すまないな、いつもこちらの事情で振り回して。」

 お父さんが笑顔のままで言う。

 「いいんだ、俺のことなんて。」

 俺もまた笑顔で言った。




 髪に誰かが触れている。誰かに撫でられている。ゆっくりと、優しい。

 頬を撫でる風が冷たい。

 俺はすぐに目を開ける。

 「目が覚めましたか。」

 「…なんだ、あんたか。」

 猫の顔が間近にあった。猫は俺の髪に手を触れている。

 「…おい、何のつもりだ。手を離せ。」

 「すみません。随分とうなされていたようだから。夢見でも悪かったのかな。」

 言いながら手を引っ込める。

 「夢?…何かみていたような気もするが、もう思い出せないな。」

 さっきから頬に落ちてくる水滴を拭う。猫の毛先から滴り落ちたものだった。風呂に入れたまま寝てしまったんだった。

 猫が俺の目をじっと見つめてくる。思わずそのの目を見返す。深く静かな瞳だ。安直な表現だが、これ以外にどう表現したらいいのか解らない。

 そういえば猫の顔をちゃんと見るのは初めてだ。前は雨に邪魔をされてはっきりとは見えなかった。男なのか女なのか判断し辛い、端正な顔立ちをしている。賢く真面目な猫の性格が一目で解るような。文学的で、そして上品だ。全体的に影を含んだような落ち着きがある。

 「……………………」

 猫が長い瞼を伏せる。

 「僕の顔に何か付いてますか。」

 「え?あ、あぁいや何も。すまない、ぼーっとしてた。」

 つい見惚れていた。男の顔に見惚れるなんて、俺はどうかしている。疲れているんだな。きっとそうだ。

 気を取り直して起き上がる。開け放していた窓から夜風が吹き込んできていた。すっかり陽が暮れている。

 「悪い、寝過ぎたか。俺はどれくらい寝ていた?」

 「僕がシャワーを浴びて出てきてから一時間程。そんなに時間は経ってません。」

 一時間も寝てたのか。

 「シャワー、浴びてきますか。もう冷めてしまっていると思うけど…すみません、もっと早く出てくるべきでした。」

 猫が長い前髪を掻き上げながら申し訳なさそうに言う。

 「いや、それはいいんだけど…まず髪を乾かせ。折角風呂に入ったのにそれだと結局風邪をひく。あぁそうか、場所が解らないんだな、すまん。」

 ドライヤーを取りに行こうと立ち上がると、ひどく目眩がした。足元がふらつき立っていられない。平衡感覚がめちゃめちゃになる。

 「大丈夫ですか。」

 目眩が収まると俺は猫の腕の中にいた。倒れそうになったのを受け止めてもらったらしい。猫の細い髪が首筋をくすぐる。

 「あぁ…大丈夫だ。おかしいな、いつもはこんなことないんだけど。」

 ありがとな、と言いながらふと違和感を感じる。が、それが具体的に何なのかは解らない。気にしないことにした。

 「熱でもあるんじゃないですか。僕は平気だからはやく温まってください。」

 お湯をもう一度温めてくる、と猫は風呂場に入っていった。全く情けない。心配される側になってしまった。ソファに腰を下ろし溜息をつく。

 「溜息を付いたら魔が入り込んでくる。」

 風呂場から戻ってきた猫が言う。手に大きめのバスタオルを持っている。

 「勝手に持ってきてすみません。毛布の変わり…にはならないかもしれないけれど。ないよりはマシだ。お湯が温まるまでこれで我慢してください。」

 そう言ってバスタオルを俺の肩にかけ俺の隣に座った。

 「…やけに面倒見がいいな。」

 「いえ。…しんどい時には手伝ってくれる人が居た方がいい。やっぱり。」

 「あんたには居るのか。」

 「さぁ。」

 「全く、俺はあんたについて知らないことばかりだな。」

 「それは僕も同じだ。」

 「それもそうか。」

 「それに僕だって僕のことなんてよく解らない。」

 「あんたいくつだ。」

 「知りません。」

 「やっぱりな。あんたは情報不足なだけだ。自分の内面的なことはよく解ってるんじゃないのか。」

 「内面?…さぁ、どうだろう。」

 猫が俯く。毛先からは未だに水滴が滴っている。ぽた、ぽた、と。それは開け放したカーテンから差し込む月光を浴びて不安定に輝く。

 水滴に見惚れていると、こちらを向いた猫と目があった。

 「風呂、沸いたみたいですよ。」

 「…………え?あぁ…そうか、風呂ね。入ってくる。」

 ふらりと立ち上がる。さっきから頭がふわふわしているような妙な感じだ。猫のせいなのだろうか。一緒に居るとペースを持っていかれる。目が合うと時が止まってしまう。そう、支配されるのだ。視界も脳内も聴覚も、五感の全てが猫に持っていかれる。そしてその機能が停止し、時が止まる。

 頭痛がした。とにかく早く温まろう。考え事は、湯船に浸かってからでいい。一刻も早く温かくなりたい。

 脱衣場の扉を閉める時、ソファに座った猫の姿が見えた。疲れたように前髪を掻き上げ首を背もたれに預けている。陶器のように白い首筋に濡れた髪が張り付く。そういえば、結局ドライヤーのことを忘れていた。今になって思い出す。

 水を含んだ猫の髪が月光を浴びている。

 猫が目を閉じる。

 その細い唇から短く息が漏れる。

 俺はそれらから意識的に目を逸らした。

 視界を引き裂くように扉を閉め、何も考えないようにしてすぐにシャワーを浴びる。温かい。ようやく落ち着く。やはり疲れた後のシャワーはいいものだ。そうだ俺は疲れているのだ。ただそれだけのことだ。

 十分ほどシャワーを浴びて気持ちも落ち着いた。さっきまで着ていた服を再び身に付け脱衣場の扉を開ける。

 そこから見えるソファに、さっきまで居たはずの猫の姿はなかった。

 「猫?」

 何気なく呼びながらソファの近くまで行く。俺の家はさほど広くない。ソファの位置からは家の中がほとんど見える。

 だがその視界のどこにも猫の影はない。

 心臓の鼓動が大きくなる。

 それから家の中を探しまわったがどこにも猫は居ない。

 慌てて外に出てこの近辺を走り回る。

 「猫!どこへ行った!」

 「あら、猫に逃げられちゃったの?残念ねぇ。はやく見つかるといいわねぇ。」

 近所のおばさんが言う。

 「おばさん、男を見なかったか。小柄で、顔は…」

 ―あれ?

 あいつは、どんな顔をしてた?

 眉間を抑える。胸がざわつく。

 思い出せない。あれだけ近くで見ていたのに。記憶の中の猫の姿はどれも靄がかかったようにぼやけて不明瞭で。

 あぁ、とうめき声が漏れる。

 どこへ行ったんだ。

 立ち尽くす俺を満月が照らす。

 猫もどこかでこの満月を見ているのだろうか。

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