第七話 白かったパジャマ
❀小鳥 side❀
秋が深まっていくにつれて、夢くんの喘息の症状は悪化して行った。
睡眠中に呼吸困難になって、私が揺り起こしてやっと目を覚まし(この頃にはもう、私の前でも堂々と)薬を服用して何とか発作を和らげていた。
食欲も落ちてきている。
出会った頃に比べて、随分と顔もこけた。
時間のほとんどをベッドの上で過ごし、学校へもぱたんと行かなくなった。
隣県に住んでいる夢くんのお母さんが、自力で行けなくなった夢くんを車で病院へ連れて行くようになった。
それでも体調のいい時は、ふたりしてトランプしたり人生ゲームをやったり、お互いの似顔絵を描きあったり、家の中での娯楽に興じた。
海やドライブや、買い物でさえ、外に出るのは色々な状況を加味して行けなくなった。
頬をよせて笑い合い、腕を絡めて抱きついたり。
肩をよせては童歌を唄い、ふたりで折り紙をしたり。大切な時間を過ごした。
零れ落ちる砂時計の砂を両手で必死に両手で受け止めようとするかのように。
――それでも指の隙間から、砂ははらはらと零れ落ちて行った。
そして――。
とうとう、夢くんは入院した。
からっぽになった、私と夢くんのお城。
それでも私は、いつも通りに学校へ行き、帰ってきてはふたり分の夕飯を作り。
ひとりでビールを飲み、眠った。そしてまた学校へ行く毎日。
淋しかった。空しかった。そして怖かった。
ただただ、夢くんが退院する日が来るのを待っていた。
また、一緒に暮らせる日を。
夢くんの寝息をBGMに、ビールに酔いしれる日を。
――入院している夢くんの元へは、行っちゃいけないような気がしてた。
これは、ただの何かの勘だけれども。
父母にも何も聞けない。夢くんのお母さんにも何も聞けない。聞けない。聞きたくない。何も。
しばらく日は流れて。浅秋から深冬へと季節が変わる頃。
ある晴れた、月曜日。
私は夢くんに会いに行こうと思い立った。
朝、窓辺にカラスがやってきて、ふと、カア、と鳴いたから。
そんなありふれた光景が、何かを告げる予兆のような気がしたから。
そんな些細なことがきっかけだった。
前もって聞いていた、夢くんのお母さんの携帯に電話した。
「あの、――夢くんに、会いに行きたいんですけど。病院に行ってもいいですか?」
『小鳥ちゃん……』
お母さんは素朴で、小柄で、可愛らしい。
全然気どった感じのない人。
私は、このお母さんが好きだった。そして、何度も夢くんの容体を聞こうとした。
――今が聞き時だ。そう思った。
夢くんに会いたい、そう申し出た私に、お母さんはしばしの無言。
それで、ああ。夢くんは。
――たぶん、いい方向には向かっていない。ということを悟った。
『小鳥ちゃん。現実を、全て受け入れる覚悟あるかしら』
低いトーンでお母さんは言った。
私は無言で首肯した。電話越しでもそれが伝わったのか、夢くんのお母さんは続けた。
『いいわ、迎えに行くわね。待ってて』
そう言って、電話は切れた。隣県に住むお母さんは、しばらく病院近くのホテルに連泊してた。所謂ビジネスホテルではない。連泊しているのに、そこそこの、ホテル。
それほど――夢くんの家は裕福だったのだ。
それほど――夢くんの病状は……だったのだ。
とっておきの服を着ていこう――。
あの日、あの海で出会った時に履いていたピンクとチョコ色のマーブルスカートに、白いセーターを合わせた。
夢くんと2人で家にいる時は、私は、トレーナーにGパンか、もしくはパジャマ姿だった時が多かったから。
ちゃんと化粧もして、夢大ママが来るのを待った。
しばらくしてスマホが震え、アパート前にお母さんが来たことを知らせた。
夢くんが入院してから会うのは初めてだ。
通院するために、夢くんのアパートでは何回かお会いしている。
目尻に笑い皺をつくって、お母さんは、
「可愛らしい服ね。やっぱり女の子はいいわね」
と、言った。
お母さんの運転で向かう。私は後部座席に乗った。
外車だった。
革張りのシートが、私には、やけにもぞもぞする。
「日に日に寒くなって、厭ね。冬は嫌いではないのだけれど」
「そうですね。もうお米研ぐ水とか冷たいですよね」
「洗濯物、外に干していても乾かないことあるわ」
車内では他愛のない会話が続いた。
ただの喘息なんかじゃない――うすうす気づいてはいたものの。
案の定、お母さんに連れ立って来られたのは循環器科だった。
循環器……心臓の病気――。
サーっと血の気が引いた。
病室に入る前に、廊下に備え付けてあった消毒液で手を清め、四人部屋の夢くんの元へ行く。
窓際のベッドらしく、はじめは逆光でその姿が見づらかった。
「夢大、小鳥ちゃんよ」
お母さんが優しく声をかける。
――返事はない。
「夢大ってば、眠ってるみたい。――私、下で飲み物買ってくるわね」
ふたりきりにしようと、気を利かせてくれたのか。私はそっと夢くんに近づいてみる。
元々細い腕が更に細くなった気がする。まさに、骨と皮。
そんな腕には、点滴がされていた。痛々しい。
頬は、更にこけていて、口の周りには不精ヒゲが生えていた。
――なんだか、ぐっと老けたような気がする。
私はそっと頬に触れてみた。久しぶりの夢くんの肌。
「ん――」
小さな唸り声を出して、夢くんはゆっくりと目を開けた。
「起こしちゃった? ごめん」
「――あれぇ、小鳥?」
声で解ったのだろうか。
目の悪い夢くんは、目を凝らして私を見ようとした。
「久しぶりだね」
「ん。メガネメガネっと。小鳥の顔、見たい」
久々に会っても、ドッキンとする事を言ってくる。
変わらないね。そう、さらりと言っちゃうところ。
一緒にいて安心できるところとか、心が解き放たれる感じとか。
私はベッドに横づけされていたテーブルから、彼のメガネを取って渡した。
夢くんは目をしぱしぱと瞬かせて、何とか上半身を起こす。
「ああ、小鳥だ」
――ああ、夢くんだ。同時に思った。
私たちは、しばし、ゆらゆらとお日様の光に揺られながら、黙ったまま見つめ合っていた。
瞳は以前と変わらず綺麗なセピア色をしている。
「相変わらず毎晩ビール飲んでるの?」
「うん」
「ははは。ご飯はちゃんと食べてる?」
「それはこっちのセリフだよ」
「ああ――。食事、これ。栄養点滴」
私は、夢くんの腕から伸びている管を見た。
相変わらず、食べられないのか。
――なんだか、涙が出そうになった。
「今日は、なんだ、可愛いな。服装」
「うん。最近、夢くんの前だと緩い格好ばかりしてたからね」
「海で出会った時のスカートだ」
「……」
覚えててくれたのが嬉しくて、また涙が出そうになった。
「うん――。悪い、小鳥。ベッドの足元の方、ペダルあるんだけど、それ回して。上半身、寄り掛かりたい」
「あ、はいはい」
私は言われた通りにした。――寄り掛からずに上半身起こしてるだけで、しんどいんだ、と思いながら。
「これでいい。ありがとう」
私はベッドの横のパイプ椅子に座った。
「小鳥は、白が似合うね。パジャマも白だったしね。まだ着ているの? あのパジャマ」
クリーム色に近い白に、ピンクのそれこそ小鳥を散らしたパジャマ。
私はいつもそれを着ていた。
小さな雑貨店で数千円で買ったもので、生地はとても薄いものだった。
夢くんがパジャマで寝る派だったので、私もスゥエットではなく、彼の家ではパジャマを着ていた。
「あれ、洗濯したらすり切れてボロボロになっちゃった」
予想外に夢くんはしょんぼりと肩を落とす。
「なんだ――じゃあ、もうあのパジャマを着た小鳥は見られないのか」
「今はピンクの子熊のパジャマよ」
「そうか」
「なんなら今度、着てこようか、うふふ」
「ははは。患者と間違われちゃうよ」
軽く笑って、夢くんは窓の外を見た。
晩秋の病室。
温かくて、優しいけれど、どこか切ない日の光。
私は彼の横顔に話しかける。
「ねえ、夢くん。ただの喘息なんかじゃ、ないんでしょ」
「――」
「心臓の病気なんだね」
「――」
「……もう……残ってる時間は、少ないんだね」
今までちらちらと気になっていたことを、一気に口にした。
最後にぶつけた質問から、しばし――いや、たっぷりと時間があり。
夢くんは、窓の外に目を向けて、言った。
「――そうだよ」
目の前が真っ暗になるとは、こういうことなんだ。
「……、……、それは――……具体的にいつ?」
今まで知らなかった、知ろうとしなかったことを、全部知りたい。
そんな思いが一気に噴き出した。
「発症したのが高校二年。それから、五年以内には、って」
「五年――」
「今、五年目」
「今、五年……」
口から食べ物を入れて、お腹で消化するまで時間がかかるように、心がついていかない。頭で理解しても、心にまではまだ伝達していない。
「ねえ、夢くん、本当に死んじゃうの?」
「――たぶんね」
私は膝の上に無造作に置かれていた、骨と皮ばかりでゴツゴツしている手にそっと触れた。
「それを言われたのは、いつ?」
「発症した時」
「高二で、自分のリミットを知らされたの?」
私が、そう尋ねると、窓の外を見ていた夢くんはこっちを向いた。
ドキドキドキドキ……こんな胸の高まりを、初めて味わう。
恋のときめきとは全く違う、嫌な動悸。
「そうだよ」
夢くんは、切なげな笑顔で言った。
「何で笑えるの?」
「真顔で言ったら、悲しいじゃない」
「――」
しばしの沈黙があった。その間、私たちは、見つめ合っていた。
瞬きもせず。まるでお互いの顔を目に焼き付けるかのように。
やがて夢くんが口を開く。
「昔から――身体は弱かった。それこそ喘息の発作でよく学校を休んだり、入院したり。でも、中学に入る頃にはすっかり丈夫になっちゃってさ。好きにやらせてもらってきた。――今の病気、発症してからは、もっと自由にしてた。大学だって、入れてもらった」
天井のある一点を見、夢くんはぽつりぽつりと呟く。
「折角、喘息は寛解したのに――また――。……こんな体、壊れてしまえばいい、って。何度も何度も走った。あと五年だろうが一日だろうが、結局、終わりが来るもんは来るんだろって。だから、走った。走っている間は、何も考えなくていい。風になれたんだ」
うん、と私は小さく相槌を打つ。
「だけど、君と出会ってから――。なんで終わりがきてしまうんだろうって。もっと君といたいって。もっと君のこと、見ていたいって。女性になって、おばさんになって、おばあさんになるまで」
「嫌だよ。死なないでよ。私のこと見ててよ。生きてよ」
「――君のこと見つけてから、ずっと気にかけてたんだ。だけど、こんな未来のない僕と関わったら、淋しくさせることは目に見えてた。だけど、僕は我慢できなくて。結局、同棲にまで持ちこんで、わずか数カ月でこれだ。とんだドタバタ劇だよ」
「そんな……」
「ずっと探してた。ずっと探してたんだよ。君を遠い昔から」
「何で?」
「愛してるからだよ」
その“愛してる”は、どういう意味?
「みんなして、私に何か隠してる。何なの? 何を隠してるの? 私だって夢くんのこと好きよ。愛してる。ずっと私を探してたって何? それが、どうして周りがついてくるの? 夢くんはうちの両親と何かあるの? みんな何か変だよ――解らないこと、たくさんある……!」
今まで溜めていた感情が。言葉が。噴出した。爆発した。
すると、夢くんはぽんぽん、と私の頭を叩いて顔を覗き込む。
「雑多なことは、俺がいなくなったら誰かに聞いて。俺は小鳥のことを愛してる。――それで、いいだろ」
大きな手。頭に乗せられているだけでで胸がきゅんとなる。
そう、胸がきゅんとなって、
泣きそうになる。
「うん――」
窓からは病院の庭の木々が、北風に揺れているのが見えた。
はらはらと、落ちる葉は、私が落とすとことできない涙だ。
「……小鳥、っていい名前だよな。俺、名前で君のこと、見つけたんだ」
✱夢大 side✱
記憶の中に、コトリ、とね。
胸の中に、小鳥、とね。




