第三話 バニラ
❀小鳥 side❀
「うあっ、すごいっ、大きいっ」
空港内のレストランに入った。
ウェイトレスさんに窓側の席、と渡海さんが言ってくれて、この席に通された。
私は窓に両手を当て、張り付くように、静かに停泊している何体もの飛行機を見た。
「あはは。子どもみたいだな」
目をすぼめて、渡海さんは笑った。
「普段、飛行機雲とか見てるけど、これが作っているのね。すごい。すごい大きい」
「うん、大きいな」
彼は細かく砕かれた氷の入ったグラスの水を飲んだ。
「すごいなぁ。こんな鉄の塊が空に浮くなんて夢みたいですよね」
「うん。だから俺、飛行機嫌い」
「渡海さん、飛行機ダメなんですか」
「うん。怖いね。小鳥ちゃんと同じ考えでさ、何で鉄の塊が……ってね。見る分には全然いいんだけど」
彼は人差し指をこめかみに当てた。
「乗ったことあるんですか?」
「うん。三度ほど。家族が旅行好きで、あちこち。だけど空中も怖いよ。よく揺れるし。離着陸のGはまるでジェットコースターだし。俺はちょっと苦手だな」
「へぇー。乗ってみたいです、私、絶叫系好きなんです」
「絶叫系ね。女の子って、好きだよねぇ、そういうの。俺はどうも苦手」
と、彼は苦笑する。
やがて、ウェイトレスさんが来て、渡海さんはあさりのパスタ、私はオムライス。そしてデザートにはそれぞれ同じ、バニラのソフトクリームをオーダーした。
「飛行機から撮った写真のポストカード見たことあるんです。雲の絨毯みたいで素敵だったなー」
「ああ、うん。そうだね。雲の上の景色はキレイだね」
「いいなぁ。乗ってみたい」
私は飛行機から目を離せないでいた。
「どこに行きたい?」
「んー。どっか、南の島かなぁ。なーんもしないで一日中浜辺にいたいですね。今の季節だと、なんだかセンチメンタルになりますよね。日本の秋だと」
「秋……ね。趣きがあっていいんだけどね。その気持ち解るよ」
手を組んで、肘をテーブルについて渡海さんは頷く。
「オープンカーって、すごく気持ちいいらしいんですよ。日本だと目立つから、南の国で乗ってみたいんです」
「ふむふむ。確かに風が気持ちよさそうだよね」
渡海さんはどこまでも優しく答えてくれる。
そこへ、料理が運ばれてきた。
私たちは声を合わせていただきますを言った。
私はオムライスをひと口。うん。デミグラスソースがおいしい。
「おいしい?」
渡海さんがまだ料理には手をつけずに、私に尋ねてきた。
「おいしい」
「良かった」
彼は笑う。
笑う目元が優しい。
そしてやっと、彼はフォークを手にしてパスタを食べはじめた。
私はオムライスを食べながらも、滑走路の飛行機から目を離せない。
「あ、飛ぶ飛ぶ。浮いた!」
すごい。吊り上げるロープも何もないところで飛行機は浮いて、やがて空へと消えていった。
「無邪気だな、ははは」
「だって、すごいじゃないですか」
「うん、すごいね」
にこにことしながら、渡海さんは飛行機の方ではなく、私を見ている。
その視線に気づいて私はどきっとしてしまう。
初対面で、私――好きになっちゃったのかな。
まさか。
私には一応、想太という彼氏がいる。一応。一応。何度も言うけど、一応の。
もう連絡を取らなくなって、どれくらい経ったかも忘れてしまった。
いくつか停泊している飛行機を、今度はぼんやりと眺めながら、とくとくとリズムを刻む胸の動悸を感じていた。
傍から見たら、私たちカップルに見えるかな、
まさか私たちを初対面だとは思わないよね。
食事を終えたあとは、しばらく空港内をフラつき、売店に入ってはご当地のストラップやらを見て回り、空港の独特の雰囲気を堪能した。
空港って、色んな方言が飛び交う。
日本だけでも、方言も、人も様々で、色んな人がいる。
その中で相思相愛になれるカップルってすごいと思う。
すごい確率だ。出会いも、お互いの気持ちが一致するのも、すごい。
私には想太がいるけれど、もう疎遠になってしまっていて。
愛を確かめあうこともなくなった。
もう別れのリミットが近づいているのかもしれない。
最近、全然連絡とってないし、このまま自然消滅か? って感じ。
だからって訳じゃないけど、渡海さんみたいな人がダーリンだったら、いいな。
なんて淡く思いながら、空港もいよいよ日暮れを迎えた。
駐車場に停めていた渡海さんの車にはほんの少し翳りが見えた。
しばらく待ちぼうけをくらって、淋しかったのかな。
私は彼のアクアをそっと撫でる。
もう、これでお別れかな?
それとも、また会えるかな?
「はははっ、何撫でてるの?」
車に乗り込もうとしていた彼は、私の行動を見ていたらしく、笑った。
「いや、――なんか可愛いなって」
「ああ、うん。そうだね。人格持ってるよね」
「そうですね」
私たちはそう話をしながら、車に乗り込んだ。
「俺、よくレンタカーでも、車に向かって話しかけるよ」
シートベルトを締めながら彼は言った。
「どんなことですか?」
「んー。雨降ってるなー。事故んないようにしよーなー、とか。ま、独り言に近いけど」
「私も独り言、多いですよ。ひとりで歩いてても。あと、鼻歌とか」
「鼻歌出るねー。俺、鼻歌っつーかマジ歌唄っちゃう」
私たちは声を立てて、笑った。
抱けど心の内は、影がじわりじわりと広まっていた。
不安の影。
もう少しで、渡海さんと、お別れの時間が近づいている。
楽しい、夢のようなデートはもうお終い?
「小鳥ちゃん、家どこ?」
――来た。この質問。
終わりの合図。
「泉区です。――渡海さんは?」
「俺、青葉区。大丈夫だよ、ちゃんと送ってあげるからね」
「――ありがとうございます」
「よし。じゃあ行くか」
もう帰るのか……淋しいな。
渡海さんがサイドブレーキを倒した。
車は静かに発進。
私の気持ちは、まだこの飛行場に残っているというのに。
いよいよ夜が侵食してきている時間。
「良かったなー空港。なんか心に爽やかな風が吹いたよ」
「そうですね」
相変わらず渡海さんが言うと、クサイ科白も寒く感じられない。
ピュアな人なんだな。
だから、彼の口から零れる言葉は、真っ直ぐ私の心へ届いて花が咲くんだ。
いいな、渡海さん。素敵だな。
彼女――いるんだろうな。こんなに素敵なんだもん。
私はふぅーと長いため息をついた。
「何? 疲れた?」
夕闇に翳った渡海さんの顔。
何だか切ない。
「それとも、お腹空いた?」
私ははっとして彼を見た。
そして、大きく、こくん、と首を縦に振った。
「――プッ」
すると彼は私を見て吹き出した。
「な、なんで笑うんですか」
「解り易いね、小鳥ちゃんって」
「……」
私は顔が赤くなるのを感じた。
全部お見通しだ。
さっきオムライスにソフトクリームまで食べたのに、お腹空いてるなんて聞かれて、首肯しちゃって。
恥ずかしい。だけど、嬉しい。
そんな私の心情まで知っているかのような渡海さんは、ズルい。
私の一歩先を歩いている感じがする。
「少し、回り道して帰ろうか。もう少しで一番星が見られるね」
すっかり帳が落ちた町。秋の夕暮れはすぐに去ってしまう。
渡海さんは赤信号で止まり、フロントガラスを見上げた。
「流れ星、見たことあります?」
「流れ星? ないなぁ。小鳥ちゃんはあるの?」
「去年の夏かな。ドライブついでの山の麓で、友だちと見ましたよ」
「どうだった?」
「一瞬。もう一瞬。願い事3回もとなえる暇なんてなかったですよ」
「ふーん」
「でも何か、神秘的でした。なんていうか――代々色んな人から賞賛されているような絵画から、一部がポロッ……とはがれる瞬間を見たというか……」
「それを彼氏と見て、盛り上がっちゃったんだ?」
私はその言葉を受けて、俯き、唇を尖らせる。
「誰も彼氏と一緒だったなんて言ってませんよ」
「そうなの?」
「~~彼氏と一緒でしたが、何か?」
「いや、別に。……彼氏いるんだ?」
「……います。でも、いないようなもんです」
「ふーん」
渡海さんの前では、想太の話などしたくなかった。
そんな私を、ズルいと思った。
ズルくても、それでいいと思っていた。
❀小鳥❀ × ☆想太☆
あくる日、小鳥は彼氏である想太の一人暮らしのアパートの前にいた。
今、午前10時。
想太は、コンビニのバイトをしているから、今は夜勤明けで寝てるかも……。
小鳥はそう思いながらも、玄関脇にある、チャイムを押した。
ぴんぽーん、と部屋の中にベルが響くのが聞こえた。
――出てこない。
いないのかな? 眠いながらも珍しく学校に行ってるのかもしれない。
それでも、また小鳥はチャイムを押した。
そして、しばし、待った。
合鍵を使おうかな、と思っていたところ。
ややあって玄関のドアが開いた。
「――ことり」
寝ぼけ眼で、寝癖で逆立っている想太が出てきた。
童顔の想太。
寝起きの顔だと、無防備でますます幼稚に見える。
「久しぶり。元気してた?」
これが恋人の会話かと、小鳥は一瞬思った。
恋人同士なのに、お互いの近況を知らない。
別れたカップルの久々の再会のやりとりのようだ。
「元気だよ。どうした? 急に押しかけてきて」
想太は目をこすりながら言う。
まだ眠そうだ。
「また、夜勤明け?」
「ああ、5時に帰ってきた」
「ごめんね。寝てるとこ」
「いいよ。ま、上がって。合鍵使えばよかったのに」
大きくドアを開いて、想太は小鳥を招き入れてくれる。
「ん~ん、いいの。上がらない」
すると、想太は目をこする手を止め、私を見た。
「どうした?」
「ちょっと、話があって」
想太が怪訝な顔をする。
「話? なら上がれよ。玄関先じゃ、なんだろ」
「ううん。上がらない」
小鳥はこれから別れを告げようとしているのに、部屋へ上がってしまうのはちょっと違う気がした。
想太はボサボサの頭を掻く。
「じゃあ、外、出るか」
「うん。ごめんね」
「いいよ。ちょっと着替えてくる」
彼はそう言って、一旦ドアを閉めた。
“話がある”って、別れ話だって、きっと想太も気づいているはずだ。
ずっと会ってなかったし、連絡もとってなかった。
こんなの、恋人同士だって云わないと、小鳥は何かを決意するように、ぎゅっと拳を握った。
自然消滅してしまう前に、ちゃんと区切りをつけたかった。
渡海さんと、“関係”を始めるために、想太とはきっちり別れておきたかった。
お互いがお互いを必要としていないのだ。
想太、私が“別れよう”って云っても、傷つかないよね。きっと。
元々、お友だちから始まった、私と想太の関係。
また、いいお友だちに戻ればいいよね――。
小鳥は、玄関のドアの向こうの彼に向かって、心の中でひとりごちた。
ジャージに着替えた想太がやがて出てきて、
「そこの、公園にでも行くか」
と、彼女を誘う。
想太のアパートの前には、小さな公園があった。
鉄棒と、ジャングルジムと、ブランコだけの遊具で、狭い公園。
夕方になるといつも、学校帰りの子どもたちの声で溢れかえる。
小鳥は、想太とベッドの中で、何回も耳にしていたことを思い出す。
肩を並べるでなく、先に歩いて行ってしまう彼の後を追いかけた。
いつもそうだった。
想太は、手を繋ぐこともしないで、先を歩いて行く。
小鳥には、それが淋しくもあったりしたけれど、今はそうは思わない。
――私のベクトルは、渡海さんに傾いている。
彼なら、きっと優しく手を差し伸べて、一緒に歩いてくれる――。
今日もよく晴れていて、公園の木製のベンチはからっと乾いていた。
二人は、そこに腰を下ろした。
肩を寄せ合うでもなく、ひと一人分のスペースを空けて座った。
これが、いつもの彼らののスタイルだった。
「なに、話って」
「うん……。最近、どうしてたかなって」
いきなり本題に入るのは躊躇われた小鳥は、何でもない話で、事を進める。
「いつも通りだよ。できるだけ学校は行って、バイトして」
彼は苦学生だった。
シングルマザーの家庭に育ったという。
大学から奨学金をもらっているらしいけれど、それでも足りなくて、バイト三昧だ。
できるだけ、学校には行っている――サボり癖のある、小鳥や帆乃香や鈴には、耳の痛い話だ。
苦労しなくても大学に行けて、それなのに極力サボっている。
想太とは反対のことをしている。
彼を思うと、のうのうとしている自分がちょっと恥ずかしくなる小鳥だった。
「バイト、きつくない?」
「大丈夫だよ」
ふあああ、と想太はそこで大あくびをした。
小鳥は、寝ていたところ、申し訳なかったな、とちらっと思う。
午前中の公園は、静かだった。
子どもたちは、学校や幼稚園に行っているのだろう、姿が見えなかった。
ベビーカーを押したお母さんたちが談笑しているのが、遠くに見えた。
公園の遊具は所在なげだった。
早く子どもたちが来るのを、今か今かと待っているようだった。
すずめたちが地上に降りて、砂を突いている。
餌でも探しているのか。
ぴぃぴぃと皆一様に鳴いていて、それが耳に心地よかった。
「何、話って」
今度は想太が切り出した。
小鳥は思いを伝えることにした。
「ね、私たちって、つきあってるの?」
前屈みに座っていた想太が、小鳥を見る。
「つきあってるだろ。別れ話なんて、してないだろ」
「でも、ずっと会ってない」
「忙しいんだって。ごめん」
「忙しいのは解ってるけど……」
生活するのに一生懸命な想太。
そこに、私が存在する意味などあるのだろうか。
「俺がまめな性格じゃないのは、解ってるだろ。ごめんって。淋しい思いさせてるかもしれないけど、解ってよ」
小鳥は首を横に振る。
「淋しかったよ。でも、想太の生活の足枷にはなりたくない」
「え?」
「想太が、バイトと、学校と、私を掛け持ちするの、大変でしょう」
想太は小鳥を凝視した。
口を開けて、何か言いたそうにしている。
けれど、言葉は出てこないみたいだ。
小鳥は捲くし立てる。
「想太がいなくても、女友だちと仲良くやってるし、毎日楽しいし、想太からの連絡がなくても、淋しいなんて思わなくなったな」
「……」
「私たちの関係、自然消滅するかと思ってた」
「俺は、連絡とらなくても、心は通じ合ってると思ってた。自然消滅なんて、考えもしなかった」
想太が、強い口調で言った。
彼がそう思っていただなんて、思いもよらなかった。
てっきり、私のことなど忘れてると思ってた。
小鳥は、ちくり、と少し胸が痛む。
用意していた言葉を、これから告げると思うと。
「そう……」
「なに、別れたいの?」
彼の言葉が、ずん、とこころに響いた。
“別れよう”言われるのって、こういう感じなんだ……。
「だって、私たち、恋人同士じゃないみたいでしょ」
「どこが」
「連絡もとらないし、好きだ、とかもないし」
「じゃあ、毎日こまめに連絡とって、毎日好きだ好きだを連発してればいいのか」
「……そんなの、想太じゃない」
「だろ。そんなの、俺じゃない。それを承知でつきあってきたろ」
想太の瞳が、小鳥を突き刺す。
「だけど、もう、私……」
「小鳥がそんなこという女だなんて、知らなかったよ」
「私ね、好きなひとができたの!」
声を振り絞るように小鳥は言った。
想太は大きく目を見開いた。
「だから、想太とは終わりにしたいの。その人と、つきあっていきたいの」
「……!」
想太は、小鳥の手首をとって、無理矢理キスしようとした。
「いやっ!」
彼女は思い切り、顔をそむける。
すると、想太は小鳥の手首を掴む力を緩めた。
そして、うな垂れた。
無理矢理に、そして人前でキスしようとするなんて。
「……想太、こんなことするひとだなんて、思わなかった」
「俺は、お前とは別れたくは、ない」
「私は、好きな人ができた。ずっと寄り添っていたいと思う人」
「……俺が……悪いんだよな」
「……友だちに戻ろうよ。ムシのいい話かもしれないけど。友だちとしてなら、私、想太の傍にいる」
「……」
想太は下を向いたまま、黙っていた。
やがて、彼女の手首も、離してくれた。
こんなに喧嘩になるなんて、思ってもみなかった。
想太は、想太なりに小鳥を愛していたのだ。
それを思うと、彼女はやるせない気分になってしまった。
あの日、あの場所で、私が渡海さんとと出会わなければ、こうして想太を傷つけることにはならなかった。
けれど、私たちは出会ってしまった。
もう、時間を後戻りすることは、できない。
小鳥は真っ直ぐに想太の目を見つめる。
「ごめんね、想太。もう、私、その人と生きていきたいの」
「……ない」
想太が小さく呟いた。
「え?」
「俺は、別れない」
「そんなこと言われたって、困るよ」
「連れてこい。その、好きな奴っての。俺がそれで納得の行く相手だったら、別れてやる」
こんな熱い言葉を言うひとなか。
別れ話で、そのひとの本性が出るっていうけど、本当だ。
小鳥はそう思いながら、尋ねた。
「……でも、納得の行かない相手だったら……?」
「俺がかっさらう」
そんな科白を言われても、ぐっとくることはなかった。
彼女はもう、彼氏に対してなんの気持ちもないと、自覚した。
「……解った。じゃあ、そのうち」
「……ああ」
想太は頷くと、隙をついて、小鳥に無理矢理キスをした。
「……!」
「じゃあ、俺は行く」
すっと立ち上がると、想太は走って行ってしまった。
小鳥は何故か、涙を流していた。
服の袖で、口許を何回も拭った。
溢れる涙が、とってもしょっぱかった。
流れる涙の本意は、彼女自身でも解らなかった。
だけど、それは、多分。
彼女が彼女なりに、彼を愛していた証だ。




