第三話:スフレと、六百八十円
深夜三時…それはハラペコにとっての「聖餐」の時間……なんて高尚なものじゃない。
ただの佐藤の財布と胃袋を賭けたデスマッチの時間だ。
一時間前からハラペコは、佐藤の左肩で「はやく、はやく」と貧乏揺すりのように小刻みにバウンドしていた。狙いは一つ、新発売の『特製・生キャラメルスフレ』だ。
消費期限がついにあと一時間に迫っていた。
「見よ、佐藤! あの黄金色に輝くスフレを! 我はもう、あのふわふわから溢れ出す濃厚な甘味のエッセンスを吸う準備ができておるぞ! ヨダレが出る!」
「幽霊のくせにヨダレとか汚ねえな…制服に付いたらシミになるだろ…わかった、わかったから……よし、他に客もいないし、棚から下げるぞ」
佐藤が裏に下げるべく棚に手を伸ばした、その瞬間だった。
最悪のタイミングで入店チャイムが響いた。 現れたのはクタクタのスーツを着たサラリーマン。ネクタイも緩みきった男は、限界の足取りでスイーツコーナーへ直行し迷うことなく最後の一つだった『生キャラメルスフレ』を掴み、レジへと持ってきた。
(あ、これ、死ぬやつだ)
佐藤の背筋に、氷柱を直接突き刺されたような激痛が走る。左肩が、ラグビー選手に組み付かれたかのように重い。
「……サトウ」
地を這うような、地鳴りに似た声。ハラペコの瞳から完全にハイライトが消えていた。
「おい…待て、ハラペコ?落ち着け…客だぞ、ほら、アレだ『お客様は神様』だ、これは仕事なんだ」
「……我の…我の、特製生キャラメルスフレ……それを、その男に、渡すというのか……?」
恨めしそうに、顔に影を落としながら呟く
当然その声は佐藤にしか聞こえておらず…
「い、いらっしゃいませ……三百二十円になります……」
佐藤が震える手でバーコードを読み取った瞬間、店内の蛍光灯が「ブツッ、ブツツ……」と不吉な音を立てて激しく瞬き始めた。
「……あ、あれ? 停電?」
サラリーマンが上を見上げる中、すぐ後ろの売り場からガタガタと音が響き、棚のペットボトルが雪崩のように床へ崩れ落ちる。
「佐藤……佐藤ォォォッ!! この、けちおじ!! 嘘つきおじ!! しけおじ!!」
ハラペコの咆哮とともに、レジ周りの空気が一瞬で冷凍庫の中に変わった。息が白くなる。 バックヤードの扉が勝手にガタガタと鳴り、揚げ物什器のガラスがピキピキと悲鳴を上げた。
「うわあああ! なんだこれ!? 地震!? 漏電か!?」
サラリーマンはパニックになり、スフレをレジに放り出したまま、出口へ向かってジタバタと走り出そうとする。店がめちゃくちゃになる。
「ハラペコ、やめろ! 店が壊れる! クビになったら次がないんだよ42歳は! ――わかった、わかったから! 俺が買う! 自腹で買うから!!」
佐藤の、半ば悲鳴のような叫びが店内に響くと、ピタリと全ての異変が収まった。 蛍光灯は元の退屈な白に戻り、散らばったペットボトルが床に転がっている。
「……本当か?」
耳元で、じっとりとした冷たい視線が佐藤の横顔を刺す。
「本当だよ……自腹で買って、今すぐ吸わせてやる。だから大人しくしろ……」
佐藤は財布から、残り少ない野口英世(旧千円札)を一枚、ちぎるような思いで取り出してレジに入れた。
サラリーマンは腰を抜かしたまま
「なんなんだよこの店…」
と引き攣った顔で呟き、逃げるように夜の闇へ消えていった。
無情に響く店のチャイム、店の惨状を背に佐藤は無言でスフレの蓋をパカッと開ける。
ハラペコは「ふんっ」と鼻を鳴らしながら、わちゃわちゃと両手を伸ばした。
「……はむっ……ふむ、苦労した甲斐あって、なかなかの濃密さではないか、許してやるぞ、佐藤」
「……何を苦労したんだよ、何を……て言うか散らばった商品俺が片付けるのかよ…」
佐藤の左肩は、霊障の余波と1000円札が崩れたショックで、地面に突き刺さらんばかりに深く、深く、沈み込んでいた。
(当分はもやし生活か……いや、これからは消費期限のチェックをもっと厳密にやろう。一分でも過ぎた瞬間に『御用御用』とバックヤードに回収して、ハラペコの口に「味」を放り込んでやる。使えるものは全部使って生き延びてやるからな……)
佐藤の頭の中は卑しくも廃棄弁当の事で満ちていた。




