イギリス爆撃機軍団出撃日誌(5)Their finest hour and the first happy time
参照: 78~79頁「バトル・オブ・ブリテン:1940年7月~9月」
爆撃機軍団出撃日誌ではフランス軍が抵抗をやめた6月26日から10月12/13日夜までが一区切りとなっています。10月12/13日夜の爆撃目標には英仏海峡の港にいる船舶への攻撃が含まれ、ドイツの上陸を妨害する意図を持った爆撃はこの日が最後であったのです。
当時のドイツ海軍総司令官であったレーダー元帥の回想によると、海軍は開戦以来、ヒトラーがイギリス本土上陸作戦を命じてきたら無理だと説明できるよう、「上陸作戦」についての検討を進めてきました。制空権さえあればできるというものでは、もちろんないのです(例えばイギリスが沿岸に配置した機雷も障害です)。ヒトラーはうんうんと納得していたように見えて、1940年7月15日~16日にかけて、「8月15日までに上陸作戦を実施するよう計画せよ」と命じてきました。
とりあえず陸軍に対し、かねて用意の説明資料を使って「無理」と言い送りましたが、7月21日に三軍首脳とヒトラーが協議したときには、まだヒトラーは9月15日までに実施せよと言っていました。しょうがないので民間船舶を大小合わせて70万トンほど徴用し、25~40個師団を上陸させたいと言ってきた陸軍を懸命に値切りました。別の本に載っている8月の計画案では9個師団になっています。7月末時点で、レーダーはしつこく、準備が整うのは9月半ば以降だとヒトラーたちに繰り返しましたが、ヒトラーがようやく今年の上陸作戦は無理だと認めたのは9月17日でした。
夜間爆撃が中心になったこともあり、1日に10機以上の損失が出ることはほとんどありませんでした。しかし8月13日、オランダの大西洋岸にあるハームステーデのドイツ戦闘機基地を(おそらく昼間に)空襲したブレニム爆撃機は、戦闘機の迎撃で一気に12機を失いました。東部戦線のドイツ空軍はMe110双発戦闘機で飛行場襲撃をした例もありますが、ボールドウィン演説に始まるイギリス空軍の近代化が、空で生き残れる地上攻撃機を……すくなくともその近代化をすっかり怠っていたのは印象的です。のちに、航空機調達「機数」を自分の手柄と考えたビーヴァーブルック航空機生産大臣は、イギリス空軍が要求してもいない急降下爆撃機を大型爆撃機の代わりにレンドリースで調達しようとして、あろうことかそれにイギリス陸軍の口添えを求めてイギリス空軍主流派のレッドラインを超え、離任を余儀なくされてゆくのですが、4発重爆撃機のプロジェクトが手厚く3つ走っている(スターリング、ハリファックス、ランカスター)のに比べて地上攻撃機への熱量の低さは際立っていますね。単発軽爆バトルはこのころからしばらく、爆撃機軍団の指揮下で近場の爆撃を手伝います。
8月25/26日夜、イギリスはベルリン空襲に踏み切りました。ハムデン3機が失われましたが、雲の厚い日であり、事情は不明です。1日に100機を超える出撃がしばしばみられますが、それらは多くの目標に散らばっており、飽和攻撃への志向は見られません。
さて、1940年夏の「Their finest hour 」の話をしたので、ついでに開戦から(特にフランス降伏後から)1941年6月までの「First happy time」の話をしておきましょう。大西洋での連合軍船団攻撃の話です。
参照:86~87頁「大西洋の戦い:1939年9月~1940年5月」
フランス・ベルギーと言った邪魔な存在が経路から消えたので、ドイツ海空軍の大西洋への出口は一気に広がりました。ドイツ海軍がUボート基地として選んだロリアンは、ルイ14世がフランス東インド会社のために整備を始めた地域にあります。ドイツ空軍もKG40(第40爆撃航空団)を中心に、大西洋の哨戒と艦戦攻撃にあたる部隊をボルドー=メリニャック基地に集めました。この基地と、ノルウェーのオスロ基地、スタヴァンゲル(ゾラ)基地は、ドイツ空軍が長距離哨戒機作戦に使えるように整備して、そのまま国際空港として使われています。
1940年夏から1941年6月にかけて、イギリスとその協力者たちの船舶は激しく攻撃を受け、ドイツ海空軍のスコアは積み重なりました。この時期は「First happy time」と呼ばれています。Uboat.netという有名なミリタリーサイトがありますが、撃沈船舶のトン数でみて、Uボートが出撃して帰投するまでの「哨戒(patrol/Unternehmung)」ごとに、第2次大戦の戦果30傑を挙げています。じつはそのうち、1940年(以前)に出発した哨戒は3回しかありません。
最初のUボートは、有名なプリーン艦長のU47(6月~7月)です。まだ出撃地はドイツ本国で、主にブリテン島から見て西、アイルランド南西でほとんどの獲物を狩りました。7月2日に沈めた客船アランドラ・スター号などは、ドイツ軍捕虜、ドイツ人とイタリア人の収容者たちをイギリスからカナダに運ぶ途中で、全滅ではないものの数百人の犠牲者が出ました。
9月に出撃したのは輝かしくも短命なシェプケ艦長のU100で、もっぱらアイルランドの北西、カナダ=イギリス航路に網を張りました。既にロリアンから出撃し、ここに帰投しています。
10月に出撃したフォン・シュトックハウゼン艦長は、より大型の9B(IXB)型に乗っていて、1941年1月まで帰ってきませんでした。彼はイギリスとケープタウンを結ぶ航路に向かい、ほとんどの戦果をアフリカの西側、特に英領シエラレオネのフリータウン港沖合で挙げました。1回で5万6千トン余りを撃沈したフォン・シュトックハウゼンは直ちに騎士十字章を得ました。
米英間でこのころ結ばれたのが、「Destroyers-for-bases deal(駆逐艦・基地協定)」です。この名前で英語版Wikipediaに(日本語版にも直訳っぽい内容で)項目が立っています。アバロンヒル「第三帝国」のオプションルールで取り上げられた、アメリカの旧式駆逐艦50隻と、カナダ東岸とカリブ海にあるイギリス領の基地利用権を等価交換するという触れ込みの協定です。アメリカ議会にはそう説明しても、カリブ海のイギリス基地管理を引き受けて遊兵をイギリス本国に戻すのは一種の援助ですし、カナダ東岸に新設する基地はアメリカが大西洋航路防衛に参加する根拠地となるのですから、前大戦の旧式駆逐艦がすぐに使える状態ではないとしても、(ルーズベルト政権としては)イギリスに好意的な協定ではありました。とはいえ余裕のないイギリスをなだめようと思ったのか、アメリカは1941年になって、戦間期に作られた1500排水トンの沿岸警備艇を10隻余計に貸与し、イギリスはバンフ級スルーブとして船団護衛に投じました。
この旧式駆逐艦で何といっても有名なのはHMSキャンベルタウンで、映画『封鎖作戦』をご記憶の方も多いでしょう。映画同様にサン・ナゼール港封鎖作戦に使われ、自沈してドックをふさぎましたが、艦長ビーティ―中佐は映画と違って、作戦直前にクルー丸ごと入れ替わったひとりでした。ユトランド沖海戦で活躍したビーティ―元帥とは綴りが違うので赤の他人です。
後日のイギリスの戦況を想えば、最も重要な基地はアルジェンシャ(Argentia)でした。更地であるどころか、住民400世帯を立ち退かせて作りだしたこの空間はニューファンドランド植民地(当時はまだカナダの一部ではありません)にあり、次第に修理ドックも整備されて、カナダ東岸の不凍港ハリファックスとイギリスを結ぶ船団の護衛艦隊拠点として働きました。




