イギリス爆撃機軍団出撃日誌(4)フランス戦役~軽爆エレジー~
参照: 74~77頁「フランス侵攻:1940年5月」「フランス陥落とヴィシー政権樹立:1940年6月~7月」
1940年5月14日のロッテルダム爆撃は、都市守備隊への降伏交渉が始まる前に命令され、交渉が始まったので中断命令が出たものの伝わり切らず、800~900人の民間人死者を出したものでした。これは明確に、オランダを降伏に向けて脅迫するテラー爆撃であったでしょう。イギリスはこの後、空軍に爆撃を認める対象を拡大し、都市爆撃を認容しました。
もちろんイギリス軍全体としては、当面それどころではありませんでした。フランスに展開するイギリス空軍の指揮系統は二重構造になっていました。イギリス大陸派遣軍の「Air Component」は集団司令官を務めていたブロウント空軍少将が指揮し、わずかなブレニム爆撃機を除けば戦闘機と偵察機から成り、指揮下の中隊数から言えば増強集団級といった規模でした。その上にバラット空軍中将の在仏イギリス空軍司令部(BAFF)がありました。BAFF直属の前進航空攻撃隊にはハリケーン3個中隊、ブレニム2個中隊、バトル8個中隊、若干の偵察機がいました。
単発軽爆バトルはスピットファイアと同じマーリンエンジンを搭載し……つまりスピットファイアの胴体内に乗員3名と爆弾450kgを詰め込んだような(あっお客様!! 雑すぎる説明に石を投げないで!!)飛行機で、空での生残性に問題がありました。護衛をつければいいというものでもないのは皆様ご存じの通り。
ドイツの攻勢が始まると、爆撃機軍団はブレニム爆撃機を持つ第2集団を丸ごとBAFFの戦術的指揮下に差し出しました。出撃基地はイギリス本土にとどめたものの、すぐに敗勢が明らかになったフランス戦線に、戦闘機の増援はほとんど送られませんでした。フランス航空戦の全体像を伝える資料は手元にありません。私の手元にあるのは、残酷なまでに激増するブレニム喪失数のログだけです。バラット中将の司令部は地上支援指揮に奮闘し、イギリスにおける近代的な地上支援システムの源流となりました。
ブレニムは後方の車列、ドイツ軍陣地などを攻撃し、他の爆撃機も操車場など交通設備を含めてドイツの部隊移動妨害に重点を置きました。製油施設など軍需生産関連の目標も時折狙われています。さすがに戦果報告の不正確さでイギリス空軍も悪い予感がしたのか、夜間爆撃の戦果報告が生じた火災の数で行われるようになっています。イタリア参戦後、まだドイツ軍が渡ってきていないチャネル諸島を給油地に使い、ジェノバ空襲も敢行されました。
5月10日から、フランス軍との休戦が発効した6月25日夜までに、イギリス爆撃機軍団は145機を失い、そのうち86機はブレニムでした。バトルの英語版Wikipediaによると、同じ期間にバトルは200機近く失われました。
追記 戦略爆撃は(通商破壊戦なども同じ側面がありますが)ボトルネックを探して攻めるものです。全般に広く浅く嫌がらせをするようでは、投入に見合う戦局好転はないのです。「〇〇を攻撃したら相手は嫌なのではないか」という候補リストは第2次大戦ともなるとすっかり完成していて、一番狭いボトルネックは何なのかこれから手探りが始まるわけですが、お互い「どちらにしても現在、相手を締め上げるほどのリソースがない」ので、いろんなことを少しずつ試しているわけですね。




