イギリス爆撃機軍団出撃日誌(3)1940年初からノルウェー戦役まで
ずっとあとになって、イギリスは本国から送る電波の助けで自分の位置を知り、夜間や雲の厚い日にも精密爆撃ができるようになりましたが、このころはまだ無理でした。12月の大損害を受けて、夜間か雲の厚い日でないとドイツ本土に侵入できなくなったので、爆撃は試みられたものの効果は薄く、だいいち効果測定方法が未確立でした。フランスに進出した一部の爆撃機軍団機は、プラハやウィーンにもビラをまきました。ポーランドにすらビラはまかれましたが航続力の限界が試され、未帰還機や帰還時の不時着損傷機もわずかながら出ました。
雪など冬季の悪天候から回復した2月14日以降、4月1日までにブレニムが延べ250機昼間出撃し、わずかな写真偵察任務を除けば、北海でドイツ艦を探しました。この間の喪失は4機で、不運にもドイツ戦闘機の迎撃が間に合ってしまったケースと思われます。3月11日にドイツ近海で試運転中のU-31(前大戦を戦った初代に続く二代目)を爆撃し沈めたのが唯一の確実な戦果でした。浅瀬であったのか、U-31はのちに引き揚げ修理され、リバプールから大西洋に向かうOB237船団を狙いましたが、11月にアイルランド北西の大西洋で爆雷攻撃を受け、再び戦没しました。
3月19/20日、ヘルゴランド・バイトにあるシルト島のヘルナム(Hörnum)は、ホイットレイ30機とハムデン20機による夜間爆撃を受けました。2日前にスカパ・フロー軍港を爆撃したドイツ機が、近隣の村に流れ弾を落として死傷者を出したことに対する報復で、民家に近い水上機基地が目標となったのです。炸薬20トン、焼夷弾1200発が投じられ、イギリスのメディアはこれを英雄的に報じ、庶民院の質疑でも話題とされました。快晴の夜で、多くのクルーが「命令通りの場所に投弾した」と報告したことを受けた扱いで、少し後に損害の跡がない写真偵察結果が出ても、ドイツが懸命な復旧をしたのだろうと受け取られました。こうした爆撃効果判定の問題が暴かれ、激震が走るのはもう少し後のことです。
参照: 72~73頁「デンマークとノルウェー」
ドイツのノルウェー・デンマーク侵攻作戦は4月9日に発起されました。イギリス軍は陸海空軍を挙げてドイツの侵攻阻止に乗り出しましたが、爆撃機軍団は「ついに昼間の[緊密な]自衛編隊という理論を捨てた」とミドルブルックらに評されています。係争中のノルウェー南部、大西洋に面したスタバンゲル付近へ昼間船団攻撃に出た総計83機のウェリントン、ハムデン、ホイットレイはドイツ戦闘機の迎撃と対空砲の抵抗を受け、ハムデン6機とウェリントン3機を失いました。イギリス戦闘機は順次ノルウェー南部に進出していましたが、このときは護衛なしでした。ドイツも少なくとも戦闘機5機を失ったことをラジオニュースで発表しました。とはいえ、ノルウェー作戦のあいだ、爆撃機軍団はじりじりと損失を重ねつつ、船団やドイツ支配下飛行場を叩き続けました。
4月13/14日には、イギリス側がデンマークの港をノルウェーへの輸送に利用させないため、夜間に航空機雷敷設作戦を初めて行いました。以後、夜間機雷敷設は主にハムデンの仕事になりました。
ドイツのIV.(N)/JG2[第2戦闘航空団第IV飛行隊(夜間)]は2月から新編された夜間飛行隊で、Me109D戦闘機を駆るHermann Förster空曹長は4月25/26日夜、機雷敷設にやってきたハムデン爆撃機を撃墜しました。この飛行隊はNJG1[第1夜間戦闘航空団]に移されましたが、そのあとフェルスター空曹長はJG27に移籍し、1941年に北アフリカで戦死しました(生涯スコア13機)。まだレーダーやサーチライトの助けを借りる手段がシステム化されておらず、ドイツの迎撃戦闘も手探りでした。
爆撃機軍団はイギリスから終始作戦していて、ノルウェーからの撤退戦は起きませんでした。ドイツのノルウェー/デンマーク侵攻からドイツのフランス侵攻前夜(5月9/10日)までに、昼間17機、夜間19機が失われました。出撃延べ回数で喪失機数を割ると、夜間喪失率は2.9%で、昼間の6.3%に比べれば半分以下でした。




