イギリス爆撃機軍団出撃日誌(16)曇ってるから仕方ないんや
ブレスト港のドイツ軍は9月に降伏しましたが、フランス東インド会社のために整備されたロリアン港はUボート基地を擁し、1945年5月まで粘り抜きました。少し後になると、燃料油のための海底パイプライン敷設が試みられ、ブーローニュ港付近を通るものは10月から終戦まで稼働しました。
Operation Pluto(海底パイプラインプロジェクト全体の呼称)
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Pluto
連合軍の鉄道破壊と機雷敷設は自分の補給にとっては障害でした。最も期待のかかるアントワープ港は、細長い群島が防波堤のように守る反面、そのどこかに立てこもられると港の利用は妨げられました。ドイツ軍の黒パンに耐えられない胃病患者は後方警備の保安大隊に集められていたのですが、それらをかき集めて作られた第70歩兵師団はWeißbrotdivision(白パン師団)、あるいはもっと直接的にMagendivision(胃病師団)と呼ばれ戦力的な微妙さがありながら、群島内のワルヘレン島(戦後の干拓と堤防建設で大陸と地続きに)にこもって11月9日まで粘りました。
これらを背景として、とっととクリスマスまでに欧州の戦争を終わらせたい各国の思惑が、つい冒険的なマーケット=ガーデン作戦の採用につながってしまいました。
参照: 140~141頁「マーケット・ガーデン作戦:1944年9月」
ドイツ軍を守り、米英連合軍を阻む天然の要害といえばライン川(その分岐した下流であるオランダのワール川)です。これを一気にわたってしまえば迅速な進撃が可能になるというのが、この作戦の魅力でした。おそらくアイゼンハワーたち最高位の指揮官たちの脳裏には、非常に高価につく空挺部隊が、まだ市民たちに示しやすい、目立った戦果を挙げていないことも頭をよぎったでしょう。
後から見ればこの作戦は齟齬の連続でした。ただしその相当部分は「天候」でしたから、予測できたはずとも言いづらいものがあります。もうひとつ連合軍の軽視した要素を挙げると、それは敗走したドイツ軍の再戦力化のスピードでした。重火器や後方部隊を失ってちりぢりになった部隊がまとめられ、戦える者たちだけで戦闘群を構成して、それをまた束にされて歴戦の指揮官に預けられるサイクルが、無数に回ったのです。ドイツ軍は東部戦線で、この作業にすっかり慣れていました。それらが時間を稼ぐ一方で、消耗しきって後方で再編していたSS2個装甲師団がイギリス空挺師団を圧迫し、米英機甲部隊の到着前に降伏に追い込んでしまったのでした。ライン川を渡れないのでは、肝心の迅速な進撃ができませんから、モントゴメリー軍集団は陰気な海岸残存部隊の掃討に手を付けるしかなくなり、ブラッドレー軍集団はドイツ国境のあちこちに取りついて穴を開けようとしましたが、どちらにも時間がかかりました。
イギリス爆撃機軍団も、オランダ方面の対空砲陣地やドイツ軍飛行場を爆撃していくらか協力しました。おそらくマーケット=ガーデン作戦のせいだと思いますが、陸上部隊の燃料不足を受けて、ハリファックス爆撃機による緊急燃料空輸が9月下旬の1週間ほど行われました。1機のハリファックスでジェリカンを使って2.8キロリットルほどの燃料を運ぶことができ、あわせて1500キロリットル足らずが運ばれましたが、ハリファックス自身が消費した燃料もその程度の量でした。
※イギリス軍は北アフリカで出会ったドイツ軍のジェリカンをコピー生産していました。イギリス軍は昔から、日本の石油缶によく似た直方体の缶を使っていましたが、積み上げると下積みの缶が破損しやすく、取っ手が取れて使えなくなることもありました。プラモデルのジェリカンは左右を貼り合わせる部品分割になっていることが多いのですが、実物も左右別々にプレスして溶接したものです。後に登場したアメリカ軍のジェリカンは上下分割です。
陸上での短期決着が望めなくなったので、爆撃機軍団はまた自分の目標を決めねばならなくなりました。ドイツの士気を折る都市爆撃というコンセプトは、爆撃そのものには成功するようになったのに一向にドイツの心が折れず、支持者を減らしていました。これまでの回でもお分かりのように、代わりに増えていたのは(V1号基地攻撃を除けば)アメリカ第8空軍のスパーツが推進する燃料工場・製油所攻撃と、連合軍大陸派遣空軍(AEAF)司令官として地上支援部隊(イギリス第2戦術空軍と、アメリカ第9空軍)を指揮するリー=マロリー大将が主唱した鉄道網攻撃でした。ポータル空軍参謀総長とイギリス航空省(が意見を徴する専門家たち)は前者に傾いていました。アイゼンハワーの副司令官を務め、空軍問題におけるアイゼンハワーの代理者であるテッダー大将は、地上支援部隊関係者の空気を代表して、後者の支持者でした。そして年末にかけて、ハリスの爆撃機軍団が示した実績は、そのどちらでもありませんでした。
1944年9月25日の指令は、上陸準備以来アイゼンハワーの司令部(SHAEF)に与えられていた爆撃機軍団やアメリカ第8空軍への(限定的な)指揮権を解くものでしたが、燃料工場・製油所攻撃に最高の優先順位を与えるものでもありました。ただ工場爆撃はとくに小さな目標への精密爆撃であり、「天候の許す限りで」という便利な留保が付けられていました。秋から年末にかけてハリスと爆撃機軍団がもっぱら都市爆撃を続け、燃料工場・製油所攻撃と鉄道網攻撃への出動比率が低かったことが後世批判されていますが、たしかに西欧の秋から冬はそういう悪天候続きなのです。ハリスは戦後になっても、こうした「万病に効く爆撃目標(panacea targets)」への冷笑と、内側からドイツの……もはや心とは言わぬにしても、継戦能力を折る都市爆撃への支持を表明し続けたので、やはりあいつの不服従のせいだと言われても仕方のないところはあるのですが。
参考:
Reaping the Whirlwind - Bomber Command's War
Sebastian Cox
Air Power Review Vol.21 No 1 (2018年、現在は改題してAir and Space Power Review)
https://www.raf.mod.uk/what-we-do/centre-for-air-and-space-power-studies/aspr/apr-vol21-iss1-9-pdf/
コックス氏はDespatch on War Operations: 23rd February 1942 to 8th May 1945( Routledge/Frank Cass、1995)の編者であり、空軍博物館やイギリス空軍の戦史部門で爆撃機軍団への諸指令とそれを巡る論争を研究してきた人のようです。
ルアーブルはヒトラーが要塞都市に指定し、退却を禁じたので、8月26日から集中的な空爆を受けました。さいわい指揮官は文字通りには死守命令を実行せず、9月12日の降伏を迎えました。9月5日から11日までの短期間に爆撃機軍団は繰り返し出撃し、降伏によって11日の最後の波は爆撃中止を命じられました。
Operation Astonia(9月12日の降伏に至る、連合軍の攻略作戦)
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Astonia
カレー市の攻略は9月25日から始まり、遅くとも10月1日には市街は確保されました。戦力節約のために終戦まで包囲にとどめられたダンケルク市のような例もありましたが、カレー方面が概ね掃討されると、イギリス本土まで届くV1号発射基地はなくなりました。連合軍の手に落ちたアントワープ港などを狙うV1号攻撃はまだあったので、爆撃目標として消滅するのは1945年春になったのですが。代わって8月31日から、V2号の発射・貯蔵施設が爆撃され始めました。
9月11日昼間のルール地方石炭液化工場爆撃には、26個飛行中隊の護衛戦闘機が尽き、うち20個中隊はスピットファイアでした。もちろん大戦中盤までのスピットファイアとは同名異人の新型機とはいえ、航空基地が前進して全てが様変わりしていました。
9月15日には、ノルウェー北部のフィヨルドにいた戦艦ティルビッツが、例のコンクリート破砕用爆弾トールボーイで狙われ、外洋行動ができるほどの修理が断念される重い損傷を受けました。
10月14日、イギリスとアメリカの重爆撃機がデュイスブルクとケルン周辺を相次いで襲い、「我が圧倒的優勢を見せつける」ために両軍合わせて1万トン余り(10050ロングトン)の爆弾を落としました。Operation Hurricaneという勇ましい名前ももらった作戦でしたが、ドイツ人たちは黙々と対応するばかりでした。
おそらく、期待された「政治的な動き」が全くなかったので、その後の歴史ではなかったことにされているのでしょう。




