イギリス爆撃機軍団出撃日誌(15)優勢とは勝利のことではない
6月16/17日以降、V1号基地(発射場と格納庫)に対する爆撃が頻繁に行われました。6月だけで大小16回。7月7日までにさらに6回。7月7日には苦戦するイギリス連邦軍のため、カーン市近郊を447機の四発重爆と20機のモスキートが夕刻に襲いました。さらに7月17日までに11回。V1号の制圧は当時の政治案件であり優先度が高かったのでした。
7月18日払暁、イギリス連邦軍のグッドウッド作戦に先立ち、払暁にカーン市の東を927機の四発重爆と15機のモスキートが襲いました。目標はドイツ軍の陣地となった5つの村でした。イギリス爆撃機軍団が少なくとも5000トン、攻撃に加わったアメリカ機を合わせて6800トンが叩き込まれました。陸上の物量も相当なものであったのに、ついに突破が成らなかったことは皆様ご存じの通り。前回に触れたように少なくとも、この動きはドイツ軍装甲予備をイギリス軍戦区に引き付けることにはなりました。
鉄道関係とV1号基地に混じり、石炭塩化工場や製油所もいくらか目標リストに戻り、23/24日には久しぶりにフランスやルール地方ではなく、キールの潜水艦基地施設が被害を受けました。7月下旬に3回あったシュチュットガルト空襲の3回目は明るい月夜で、496機の出動機から39機が失われ、ドイツ夜間戦闘機はまだときには猛威を振るう存在でした。
前回の地図で示したように、7月末はアメリカ軍がアブランシェを突破した時期でしたが、この地域への絨毯爆撃は主にアメリカ陸軍航空隊が担いました。
8月7/8日夜の四発爆撃機1006機、モスキート13機による爆撃は、ようやくカーンからの突破を成し遂げるイギリス連邦軍のトータライズ作戦に先立つものであり、夜の航空優勢も圧倒的で、喪失は1019機中10機にとどまりました。これはいわゆるファレーズ包囲戦の、北側からの包囲の腕になります。続いて包囲環を閉じるトラクタブル作戦が8月14日から始まり、その直前にイギリス爆撃機軍団は805機を投じて陣地爆撃をしましたが、相当規模の誤爆が出てしまいました。翌日15日には、オランダやベルギーのドイツ夜間戦闘機出撃基地が1004機による9ヶ所同時爆撃を受けました。
パリ解放は8月24日でした。南フランスのドイツ軍も壊走し、あれほど執拗にフランスの鉄道網をずたずたにした連合軍は、行動の自由を得た半面で補給の困難を抱えることになりました。シェルブール港やゴールド・ビーチ上陸地点の人工港マルベリーから上がった物資をトラックで届ける"レッドボール・エクスプレス"という仕組みが急ごしらえで組織されました。
※人工港マルベリーのうち、オマハ・ビーチに設置されたものは数十年来最悪の嵐を受け、早々に使用不能になりましたが、ゴールド・ビーチの通称ポート・ウィンストンは1945年春まで役目を果たし続けました。
第12軍集団(主にアメリカ軍)のうちホッジスのアメリカ第1軍はアーヘン付近でドイツ国境に取りつき、パットンの第3軍はもっと南のコースで突破口を探しました。そしてオランダ方面を目指した第21軍集団(主にイギリス連邦軍)のモントゴメリーは、戦争を短期間で終わらせる投機的な作戦を提案するのですが……




