さてそのころ地上では
アメリカのウェストポイント士官学校が教材用に整理した膨大な古今の戦史地図は、無料公開されています。今回はそれを利用させてもらうことにします。あちこちのWikipedia記事に、似たようなフォントの地図が使われていることに、皆さんも思い当たるかもしれません。ウェストポイントの地図帳のような電話帳のような戦史教科書は市販されていますから、そっちをお持ちの方もおられるでしょう。
United States Military Academy (USMA) at West Point
Digital History Center / Department of History & War Studies (HWS)
https://dhc.westpoint.edu/atlases/
この中で、6月13日のヴィレル=ポカージュ遭遇戦を理解するには、次の地図が好適でしょう。
Invasion of Normandy and Operations, 6-12 June 1944
https://dhc.westpoint.edu/atlases/#gallery-592
一部を切り抜いたものがこれです。赤で示されたのが1944年6月12日ごろの戦線で、まだ連合軍は海岸沿いを薄く確保しているだけです。赤線の外、中央やや右にカーン市(Caen)、中央やや左にサン=ロー市(St.Lô)があるのがお判りでしょうか。どちらも道路が集まった地域の要衝、司馬遼太郎なら衢地と評するでしょう。
さらにカーン市の西だけ切り取ります。ヴィレル=ボカージュ(Villers Bocage)はカーンの西です。カーンの守りが硬いので、イギリス機甲部隊はその西を回り込んで突破しようと試して、軍団予備だったヴィットマン中尉の第101SS重戦車大隊第2中隊に接近しました。独断で、おそらく1両だけで襲撃に出たヴィットマンは乗車を破壊され脱出するまでに13~14両のイギリス戦車と、同じくらいの各種車両、対戦車砲2門を撃破して出鼻をくじきました。6月13日のことでした。
もう1枚だけ見ておきましょう。7月末までに、グッドウッド作戦などカーンの西や東で突破を図るイギリス軍の攻勢が何度も繰り返され、消耗したドイツ軍は突破は防いだもののカーンそのものを明け渡し、装甲部隊の多くをイギリス軍戦区(の背後)に置かざるを得なくなりました。すでに7月15日ごろからサン=ロー市での市街戦は始まっていましたが、7月25日からアメリカ機械化部隊がサン=ロー市を越えて道路沿いに進み、南へ大突破を始めました。赤線は7月末ごろの戦線を示します。主に南西へアメリカ軍が突破しているのがわかります。
St. Lo, the Breakthrough, 25-31 July 1944
https://dhc.westpoint.edu/atlases/#gallery-600
サン=ロー市の西側、青く網掛けしてある四角は、ドイツ軍の一切の防御をくじく「絨毯爆撃」が行われた場所です。アメリカ軍の戦闘はアブランシェ(Avranches)市にまで達していますが、その少し右にモンタン(Mortain)という街があります。ここが8月に入って、アブランシェ奪還と連合軍再封鎖を目指すリュティヒ作戦の目標となりましたが、すでに数的劣勢は覆うべくもなく、かえって逆包囲のきっかけになっただけでした。よく見ると地図東端にファレーズとアルジャンタンの街があるのがわかります。8月の逆包囲から相当な部隊が脱出したのは、味方撃ちを懸念してのこととも言われます。
ちなみにこれが7月30日付のOKW作戦地図です。
アブランシェには赤い矢印が太く伸び、しかし守るべき部隊は書かれず、ドイツ風の「?」マークが書かれているだけです。すっかり取り残されたドイツ第84軍団(LXXXIV.armeekorps)の旗がむなしく翻ります。6月15日から7月30日まで、軍団長は例のコルティッツ中将で、8月になると大将昇進のうえパリ防衛司令官となって、もう自分も一緒に燃える特別進級先渡しみたいなものですね。なお後任軍団長はファレーズ包囲網で捕虜になりました。




